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2.優しさ
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・
控えめなアラームの音だった。
耳に届いて、目を覚ましてしばらく。
驚いた。
一度も目を覚まさなかった。
怖い夢を見た記憶もない。
こんなにゆっくり眠ることができたのはいつぶりだろう。
この人の傍で眠ると、俺はこんなにもゆっくり眠れるのか。
たまたまか?いや、こんなに毎日欠かさず魘されて、今日だけたまたま夢を見ないなら、それはもう吉野さんの力といったって過言ではないだろう。
未だ鳴り止まないアラームの音に、吉野さんが目を覚ます様子はない。
長いまつげ。整った眉。高い鼻筋。綺麗な顔。
未だ俺の腹の上に置かれている腕は、この夜の間、ずっと俺を守ってくれていたのだろうか。
寝ているからか、かなり重たい腕から抜けようとして、断念した。
仕方なしと左腕を伸ばし、つんつんと吉野さんの肩を叩く。
「吉野さん、朝ですよ。アラーム鳴ってる」
声をかけても、刺激を与えても簡単には起きない吉野さんに、この人そんなに寝起き良くないなと察する。
それにしても、この腕をどかさない限りここから抜け出すことはできないわけで、そうなると2人とも学校にいけないわけだ。
一生懸命吉野さんの腕を引いたり、揺すったり、叩いたりを繰り返し、ようやくもそりと吉野さんが動く。
今しかないと本能が叫んだ俺は、近所迷惑にならない程度の声で吉野さんを呼んだ。
綺麗に閉じていた瞼がぐっと寄せられて、薄く開いた瞳が軽く俺をとらえる。
ぼやけた視界を取り払うように何度か瞬きをして見せて、吉野さんはようやく覚醒し始める。
「はざいます」
「…律く、アラームうるせ…」
いつもよりどことなく目つきの悪い吉野さんが枕の下をごそごそと漁ってスマートフォンを取り出す。しっかり見てピンポイントに押せばいいものを、まだ少し寝ぼけている吉野さんは、何度か画面に指を立てて、ようやくアラームの音が止んだ。
鳥の鳴く声や、少しずつ増えた人通り、車のエンジン音で、静寂は訪れなかった。
「おはよお律くん」
「はざいます」
ぐるりと寝返りを打った吉野さんを見てから、ようやく吉野さんの腕を抜け出した俺は、お手洗いを借りるとベッドを抜け出した。
用を足して吉野さんの元へ戻れば、右腕を瞼に乗せた状態で微動だにしない。
「…寝ました?」
返事はない。
寝たな、と察するが、まだ寝ていてもさほど問題ない時間だろう。
こんな時間にアラームをかけているのは、そこまで考えて二度目のアラームが響いた。起きれないタイプだから、何個もアラームをかけるタイプだと結論付けた。
俺は学校に行く準備をしておこう。
少しはねた髪を直すために、一瞬だけ水道から水を出す。指先がひんやりとして、自身の体が冷たくないことに気が付いた。
いつもはもっと冷たいのに。指先に関してはこの水道より冷たいのではないかと感じる程、人らしからぬ表面温度のはずだ。そもそも冷え性なのもあると思うが、不摂生な生活をしているときはより顕著な気もする。
ゆっくり眠ると、体も温まるのか?
不思議だ。
ここに来てから、自分の体が自分のものじゃないみたい。この時期じゃなくても別に元気じゃない体が、ゆっくり、普通の型にはまっていくような感覚。
覚えちゃいけないそれをなんとか拒みながら、気づかないふり。
それとなく髪をまとめて、吉野さんが乾かしてくれた制服を身に着ける。
兄ちゃんのお古のセーターは、袖が少しほつれてきている。
着替え終わったころ、もう4回目くらいのアラームを止めて、再度吉野さんを揺する。
「吉野さん、起きないと、遅刻っすよ」
「…ん゛」
今度は返事があった。
少しどすの効いた返事。機嫌は良くなさそうだ。
それでもようやく少しずつ動いた体がむくりと起き上がる。そのままもう一度倒れこもうとする吉野さんをキャッチして、起きてくださいともう一度声をかける。
「律くん、朝から元気だね」
「吉野さん朝弱いんすね」
「んー」
もぞもぞとしっかり自立して座り、欠伸を1つ。
軽く目をこする吉野さんに、痛くなりますよ、と一言。
「あえ、もう着替えたの」
「はい。別にすることもなかったんで」
「つれないなぁ。待っててくれてもよかったのに」
「そんなグダグダしてたら普通に遅刻しますよ」
「…今何時?」
ハッとした吉野さんの言葉に、静かにスマートフォンの画面を見せてあげれば、分かりやすく絶望顔になる。
やばいじゃん!なんて大きな声を出すもんだから、思わずしー!なんて言ってしまった。
「もっと早く起こしてくれてもよかったのに!ごめんねぇ。支度1人でできた?」
「一体俺をいくつだと思ってんすか。てか、何回も起こしたっす!」
「だよねぇだと思った。まじで起きられないんだよね」
「らしいっすね」
洗面所、キッチン、リビング、ベッドの上、吉野さんはあわただしく動き回る。
俺はすることもなく、そんな吉野さんを目で追った。
何しようとしてたんだっけなんて独り言を零しながら、慌ただしく動く吉野さんが、いつものかっこよくて優しくて、なんでもできちゃう吉野さんと少し違っていて、なんだかおかしい。
チンッと軽快な音が鳴って、トイレから慌てて出てきた吉野さんが手を拭きながらキッチンに向かう。
何か作業をして、俺の前に現れた吉野さんの手には、白く平べったいお皿と、こんがり焼けたトースト。
「ごめん、こんなもんしか用意できない!バター自分で塗ってね」
当たり前のように2つ用意されたそれは、1人で2枚食べるためでなく、俺のためのもののようだった。
はい、と、バターの容器とトーストの乗った白いお皿が目の前に置かれて、正面に吉野さんが座った。
ようやく準部が終わったのかと思えば、トーストをかじりながらアイロンをするらしい。
慣れた手つきで温まったヘアアイロンを左手に持って、咀嚼しながら軽く髪をセットしていく。
そんななんてことない仕草が、少し格好良かった。
「食べないの?あ、食べれない?!1枚全部じゃなくていいから、ちょっとでも食べよ?」
ね?って、アイロンをかける手を止めて、まっすぐに俺を見つめる。
食べれないのかと聞かれて、今日はかなり体調がいいことに気が付いた。
トースト1枚だって、いつもの俺には重い量なのに、今日はそれがおいしそうに見えた。
朝ごはんなんて何年ぶりだろう。
兄ちゃんがいなくなってからだから、2年ぶりくらいだろうか。
食べるまで目を逸らしてくれなさそうな吉野さんをちらりと見てから、一口、トーストをかじった。
美味しかった。
ただ焼いたパンだ。
気が引けてバターすら塗っていない、ただの食パン。
だけど、吉野さんが焼いてくれた、特別な食パン。
トーストって、こんなにおいしかったっけ?
泣きそうになった。最近の俺は涙もろい。
異常においしいトーストも、一口かじった俺を見てふわりと微笑む吉野さんも、俺には優しすぎて、俺にはもったいなくて、それなのにあまりに幸せで、泣きそうになった。
「まだ食べれる?いけるならバター付けな?嫌いじゃなければ絶対美味いから」
吉野さんに促されるまま、トーストにバターを塗る。
サリサリと音が鳴って、シュワリとバターがトーストに浸み込んだ。おいしそうだった。
おいしそうなのだから、口に運んだそれがとてもおいしいのは当たり前だろう。
止まることなく、齧っては咀嚼し飲み込んだ。
苦しさも、気持ち悪さもなかった。
食べている間、吉野さんはアイロンをかけ終えて、俺より先にトーストを食べて、お茶を用意して、なんともないような顔をしながら、俺を待っていた。
結局、胃の小さくなった俺が、寝起きからトースト1枚食べるのは難しくて、四分の一を残し手が止まった。
そんな俺に気づいた吉野さんは、嫌な顔一つせず、お粗末さまでしたと笑って、残ったそれを口に運んだ。
お皿は帰ってから洗うとシンクで水につけて、急ぐぞ、と吉野さんの家を2人で出た。
叔母さんの家以外から登校するのはかなり不思議な感じがした。
気を遣ってくれた吉野さんが、少しだけ迂回して、叔母さんの家の前を通らないようにしてくれる。
他はいつもと変わらない、見慣れた道。
その優しさが、気遣いが、暖かい。
「律くん今日もバイト?」
「そ、っす」
「そっかそっか、了解」
了解とは?なんて思いながら、さらっと流れていく話に耳を傾ける。
吉野さんが猫派だってこと、好き嫌いはほとんどないけどあえていうならシメジは得意じゃないこと、中学生まで空手をしていたこと、チョコレートは苦めが好きな事。
他にもいろいろ。
吉野さんは吉野さんのことをたくさん教えてくれた。知っていることも、知らなかったことも。
楽しそうに、俺の反応や返事を待ちながら、ゆったりと話し続けてくれた。
吉野さんを頼ってしまったことに申し訳なく思う暇なんてないくらい、吉野さんは楽しそうに話してくれた。
学校に着いてしまえば、俺たちは学年の違う他人に戻っていく。
名前のない、ただ俺が寄りかかってしまった関係が、他人以外の何物でもないことは分かっているのに、ほんの少しだけ寂しい。
「それじゃあ、授業頑張ろうね」
「っす…あの、」
「ん?」
「ほんとに、ありがとうございました」
はっきりと言えてなかった心からのお礼。校門を過ぎてすぐ、あと数歩で正面玄関に入ってしまうそこで、今更声が出た。
心からの感謝と、ほんの少しの引き留め。
俺の言葉に、吉野さんは一瞬目を見開いて、柔らかく、でも華やかに笑った。
あ、その顔。父さんや兄ちゃんと雰囲気が似ている吉野さんの、2人とは違う、クシャっとした笑顔。昨日初めて向けられたその瞬間から、俺はその笑顔がとても好きなことに気が付いた。
父さんや兄ちゃんと似ているから気になるんじゃない。俺は多分、この人だから気にかけてしまっていたのだと思う。
にっこりと笑った吉野さんは、ポンと俺の頭の上に手を乗せて、少しだけくしゃりと撫でた。
「こちらこそ、頼ってくれてありがとう。ほんとに、いつでもおいで」
1人は寂しいからさ。吉野さんはそう言って、それじゃあと俺から離れていった。
1人は寂しい。一人暮らしをしている吉野さんの心情を表すその言葉が、酷く自分に刺さって、だからいつでもおいでと言われたことが嬉しくて、なんだか少し胸が痛かった。
吉野さんと離れてすぐ、内履きに履き替えて教室に向かえば、既に小森は俺の席にいた。
「お、律おはよー!…なんか今日機嫌いい?つか体調いい?」
「はよ…別にいつも通りだろ」
「いーや。だてに毎日お前の顔見てねぇ」
「あんま見えてないだろ」
「お前前髪長いもんな!切ったら?」
「…面倒くさい」
前髪を伸ばしているわけではない。
ただ、長ければ顔色がバレることもないし、まっすぐ目を見られることもない。何より、自分の視界が悪くなることで周りから隠れられているような、そんな気になった。
これは別に、あってもなくても変わらない、自己防衛の1つなのだ。
「切ってやろうか?」
「外出られなくなりそうだから遠慮しとく」
「俺上手いよ?」
「…それ自分でやってんの?」
「いや、やったことない。…おいそんな顔すんなって!いけそうな気ぃするんだって」
「頼むから被害者一号にはしないでくれ」
「被害者て」
俺が教室に入ってきたことに気が付いてすぐ、俺の前の席に座りケタケタ笑う小森と会話をしつつ鞄を片付けた。
こいつは自分のペースに巻き込む天才なのだと思う。
別に人と話したくないときだって、こいつが現れると思わず会話を楽しんでしまう。それを苦に思わないのだから、小森はすごいやつだ。
そう思うと、吉野さんは俺のペースを待って合わせてくれるタイプだ。沢山話すことや、会話のキャッチボールをすることを求めてこない。俺のペースで、俺のタイミングで、を重視していてくれる。
話さないことが多い俺といても気まずい雰囲気がないのは、彼が適度に自分から話をしてくれるからだろう。
真逆なのに、どちらの隣も嫌いじゃないのは、2人とも、俺に優しく笑ってくれるからだろうか。
「いやでもほんとに体調よさそうだな」
「変わんないって」
「いーや、絶対に!なんかあった??彼女できた?」
「できねーよ」
「恋しちゃった?!」
「恋愛脳すぎる」
「まぁ理由はなんだっていいけどさ、お前が楽そうだと、俺も嬉しい」
そんなことを当たり前に言ってしまうのだから、こいつは本当にすごいやつだ。
予冷が鳴って、後でなと自分の席へ戻っていく小森を目で追いながら、恋という言葉を思い出す。
俺の体調がよさそうで、その本当の理由は吉野さんで。
ん?吉野さんに恋?
なんて、そんなところまで思考がいってから、何考えているんだと冷静になった。
俺たちは男だし、他人だ。
ただ可哀想な俺に同情してくれているだけで、俺はそんな吉野さんに嘘を吐きながら甘えているだけ。
あの優しい人の隣が居心地いいのは、あの人が優しいからで、甘やかしてくれるから。
そんな不純な考えを持つ俺が、あんな優しい人に恋だなんて、烏滸がましいにもほどがある。
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控えめなアラームの音だった。
耳に届いて、目を覚ましてしばらく。
驚いた。
一度も目を覚まさなかった。
怖い夢を見た記憶もない。
こんなにゆっくり眠ることができたのはいつぶりだろう。
この人の傍で眠ると、俺はこんなにもゆっくり眠れるのか。
たまたまか?いや、こんなに毎日欠かさず魘されて、今日だけたまたま夢を見ないなら、それはもう吉野さんの力といったって過言ではないだろう。
未だ鳴り止まないアラームの音に、吉野さんが目を覚ます様子はない。
長いまつげ。整った眉。高い鼻筋。綺麗な顔。
未だ俺の腹の上に置かれている腕は、この夜の間、ずっと俺を守ってくれていたのだろうか。
寝ているからか、かなり重たい腕から抜けようとして、断念した。
仕方なしと左腕を伸ばし、つんつんと吉野さんの肩を叩く。
「吉野さん、朝ですよ。アラーム鳴ってる」
声をかけても、刺激を与えても簡単には起きない吉野さんに、この人そんなに寝起き良くないなと察する。
それにしても、この腕をどかさない限りここから抜け出すことはできないわけで、そうなると2人とも学校にいけないわけだ。
一生懸命吉野さんの腕を引いたり、揺すったり、叩いたりを繰り返し、ようやくもそりと吉野さんが動く。
今しかないと本能が叫んだ俺は、近所迷惑にならない程度の声で吉野さんを呼んだ。
綺麗に閉じていた瞼がぐっと寄せられて、薄く開いた瞳が軽く俺をとらえる。
ぼやけた視界を取り払うように何度か瞬きをして見せて、吉野さんはようやく覚醒し始める。
「はざいます」
「…律く、アラームうるせ…」
いつもよりどことなく目つきの悪い吉野さんが枕の下をごそごそと漁ってスマートフォンを取り出す。しっかり見てピンポイントに押せばいいものを、まだ少し寝ぼけている吉野さんは、何度か画面に指を立てて、ようやくアラームの音が止んだ。
鳥の鳴く声や、少しずつ増えた人通り、車のエンジン音で、静寂は訪れなかった。
「おはよお律くん」
「はざいます」
ぐるりと寝返りを打った吉野さんを見てから、ようやく吉野さんの腕を抜け出した俺は、お手洗いを借りるとベッドを抜け出した。
用を足して吉野さんの元へ戻れば、右腕を瞼に乗せた状態で微動だにしない。
「…寝ました?」
返事はない。
寝たな、と察するが、まだ寝ていてもさほど問題ない時間だろう。
こんな時間にアラームをかけているのは、そこまで考えて二度目のアラームが響いた。起きれないタイプだから、何個もアラームをかけるタイプだと結論付けた。
俺は学校に行く準備をしておこう。
少しはねた髪を直すために、一瞬だけ水道から水を出す。指先がひんやりとして、自身の体が冷たくないことに気が付いた。
いつもはもっと冷たいのに。指先に関してはこの水道より冷たいのではないかと感じる程、人らしからぬ表面温度のはずだ。そもそも冷え性なのもあると思うが、不摂生な生活をしているときはより顕著な気もする。
ゆっくり眠ると、体も温まるのか?
不思議だ。
ここに来てから、自分の体が自分のものじゃないみたい。この時期じゃなくても別に元気じゃない体が、ゆっくり、普通の型にはまっていくような感覚。
覚えちゃいけないそれをなんとか拒みながら、気づかないふり。
それとなく髪をまとめて、吉野さんが乾かしてくれた制服を身に着ける。
兄ちゃんのお古のセーターは、袖が少しほつれてきている。
着替え終わったころ、もう4回目くらいのアラームを止めて、再度吉野さんを揺する。
「吉野さん、起きないと、遅刻っすよ」
「…ん゛」
今度は返事があった。
少しどすの効いた返事。機嫌は良くなさそうだ。
それでもようやく少しずつ動いた体がむくりと起き上がる。そのままもう一度倒れこもうとする吉野さんをキャッチして、起きてくださいともう一度声をかける。
「律くん、朝から元気だね」
「吉野さん朝弱いんすね」
「んー」
もぞもぞとしっかり自立して座り、欠伸を1つ。
軽く目をこする吉野さんに、痛くなりますよ、と一言。
「あえ、もう着替えたの」
「はい。別にすることもなかったんで」
「つれないなぁ。待っててくれてもよかったのに」
「そんなグダグダしてたら普通に遅刻しますよ」
「…今何時?」
ハッとした吉野さんの言葉に、静かにスマートフォンの画面を見せてあげれば、分かりやすく絶望顔になる。
やばいじゃん!なんて大きな声を出すもんだから、思わずしー!なんて言ってしまった。
「もっと早く起こしてくれてもよかったのに!ごめんねぇ。支度1人でできた?」
「一体俺をいくつだと思ってんすか。てか、何回も起こしたっす!」
「だよねぇだと思った。まじで起きられないんだよね」
「らしいっすね」
洗面所、キッチン、リビング、ベッドの上、吉野さんはあわただしく動き回る。
俺はすることもなく、そんな吉野さんを目で追った。
何しようとしてたんだっけなんて独り言を零しながら、慌ただしく動く吉野さんが、いつものかっこよくて優しくて、なんでもできちゃう吉野さんと少し違っていて、なんだかおかしい。
チンッと軽快な音が鳴って、トイレから慌てて出てきた吉野さんが手を拭きながらキッチンに向かう。
何か作業をして、俺の前に現れた吉野さんの手には、白く平べったいお皿と、こんがり焼けたトースト。
「ごめん、こんなもんしか用意できない!バター自分で塗ってね」
当たり前のように2つ用意されたそれは、1人で2枚食べるためでなく、俺のためのもののようだった。
はい、と、バターの容器とトーストの乗った白いお皿が目の前に置かれて、正面に吉野さんが座った。
ようやく準部が終わったのかと思えば、トーストをかじりながらアイロンをするらしい。
慣れた手つきで温まったヘアアイロンを左手に持って、咀嚼しながら軽く髪をセットしていく。
そんななんてことない仕草が、少し格好良かった。
「食べないの?あ、食べれない?!1枚全部じゃなくていいから、ちょっとでも食べよ?」
ね?って、アイロンをかける手を止めて、まっすぐに俺を見つめる。
食べれないのかと聞かれて、今日はかなり体調がいいことに気が付いた。
トースト1枚だって、いつもの俺には重い量なのに、今日はそれがおいしそうに見えた。
朝ごはんなんて何年ぶりだろう。
兄ちゃんがいなくなってからだから、2年ぶりくらいだろうか。
食べるまで目を逸らしてくれなさそうな吉野さんをちらりと見てから、一口、トーストをかじった。
美味しかった。
ただ焼いたパンだ。
気が引けてバターすら塗っていない、ただの食パン。
だけど、吉野さんが焼いてくれた、特別な食パン。
トーストって、こんなにおいしかったっけ?
泣きそうになった。最近の俺は涙もろい。
異常においしいトーストも、一口かじった俺を見てふわりと微笑む吉野さんも、俺には優しすぎて、俺にはもったいなくて、それなのにあまりに幸せで、泣きそうになった。
「まだ食べれる?いけるならバター付けな?嫌いじゃなければ絶対美味いから」
吉野さんに促されるまま、トーストにバターを塗る。
サリサリと音が鳴って、シュワリとバターがトーストに浸み込んだ。おいしそうだった。
おいしそうなのだから、口に運んだそれがとてもおいしいのは当たり前だろう。
止まることなく、齧っては咀嚼し飲み込んだ。
苦しさも、気持ち悪さもなかった。
食べている間、吉野さんはアイロンをかけ終えて、俺より先にトーストを食べて、お茶を用意して、なんともないような顔をしながら、俺を待っていた。
結局、胃の小さくなった俺が、寝起きからトースト1枚食べるのは難しくて、四分の一を残し手が止まった。
そんな俺に気づいた吉野さんは、嫌な顔一つせず、お粗末さまでしたと笑って、残ったそれを口に運んだ。
お皿は帰ってから洗うとシンクで水につけて、急ぐぞ、と吉野さんの家を2人で出た。
叔母さんの家以外から登校するのはかなり不思議な感じがした。
気を遣ってくれた吉野さんが、少しだけ迂回して、叔母さんの家の前を通らないようにしてくれる。
他はいつもと変わらない、見慣れた道。
その優しさが、気遣いが、暖かい。
「律くん今日もバイト?」
「そ、っす」
「そっかそっか、了解」
了解とは?なんて思いながら、さらっと流れていく話に耳を傾ける。
吉野さんが猫派だってこと、好き嫌いはほとんどないけどあえていうならシメジは得意じゃないこと、中学生まで空手をしていたこと、チョコレートは苦めが好きな事。
他にもいろいろ。
吉野さんは吉野さんのことをたくさん教えてくれた。知っていることも、知らなかったことも。
楽しそうに、俺の反応や返事を待ちながら、ゆったりと話し続けてくれた。
吉野さんを頼ってしまったことに申し訳なく思う暇なんてないくらい、吉野さんは楽しそうに話してくれた。
学校に着いてしまえば、俺たちは学年の違う他人に戻っていく。
名前のない、ただ俺が寄りかかってしまった関係が、他人以外の何物でもないことは分かっているのに、ほんの少しだけ寂しい。
「それじゃあ、授業頑張ろうね」
「っす…あの、」
「ん?」
「ほんとに、ありがとうございました」
はっきりと言えてなかった心からのお礼。校門を過ぎてすぐ、あと数歩で正面玄関に入ってしまうそこで、今更声が出た。
心からの感謝と、ほんの少しの引き留め。
俺の言葉に、吉野さんは一瞬目を見開いて、柔らかく、でも華やかに笑った。
あ、その顔。父さんや兄ちゃんと雰囲気が似ている吉野さんの、2人とは違う、クシャっとした笑顔。昨日初めて向けられたその瞬間から、俺はその笑顔がとても好きなことに気が付いた。
父さんや兄ちゃんと似ているから気になるんじゃない。俺は多分、この人だから気にかけてしまっていたのだと思う。
にっこりと笑った吉野さんは、ポンと俺の頭の上に手を乗せて、少しだけくしゃりと撫でた。
「こちらこそ、頼ってくれてありがとう。ほんとに、いつでもおいで」
1人は寂しいからさ。吉野さんはそう言って、それじゃあと俺から離れていった。
1人は寂しい。一人暮らしをしている吉野さんの心情を表すその言葉が、酷く自分に刺さって、だからいつでもおいでと言われたことが嬉しくて、なんだか少し胸が痛かった。
吉野さんと離れてすぐ、内履きに履き替えて教室に向かえば、既に小森は俺の席にいた。
「お、律おはよー!…なんか今日機嫌いい?つか体調いい?」
「はよ…別にいつも通りだろ」
「いーや。だてに毎日お前の顔見てねぇ」
「あんま見えてないだろ」
「お前前髪長いもんな!切ったら?」
「…面倒くさい」
前髪を伸ばしているわけではない。
ただ、長ければ顔色がバレることもないし、まっすぐ目を見られることもない。何より、自分の視界が悪くなることで周りから隠れられているような、そんな気になった。
これは別に、あってもなくても変わらない、自己防衛の1つなのだ。
「切ってやろうか?」
「外出られなくなりそうだから遠慮しとく」
「俺上手いよ?」
「…それ自分でやってんの?」
「いや、やったことない。…おいそんな顔すんなって!いけそうな気ぃするんだって」
「頼むから被害者一号にはしないでくれ」
「被害者て」
俺が教室に入ってきたことに気が付いてすぐ、俺の前の席に座りケタケタ笑う小森と会話をしつつ鞄を片付けた。
こいつは自分のペースに巻き込む天才なのだと思う。
別に人と話したくないときだって、こいつが現れると思わず会話を楽しんでしまう。それを苦に思わないのだから、小森はすごいやつだ。
そう思うと、吉野さんは俺のペースを待って合わせてくれるタイプだ。沢山話すことや、会話のキャッチボールをすることを求めてこない。俺のペースで、俺のタイミングで、を重視していてくれる。
話さないことが多い俺といても気まずい雰囲気がないのは、彼が適度に自分から話をしてくれるからだろう。
真逆なのに、どちらの隣も嫌いじゃないのは、2人とも、俺に優しく笑ってくれるからだろうか。
「いやでもほんとに体調よさそうだな」
「変わんないって」
「いーや、絶対に!なんかあった??彼女できた?」
「できねーよ」
「恋しちゃった?!」
「恋愛脳すぎる」
「まぁ理由はなんだっていいけどさ、お前が楽そうだと、俺も嬉しい」
そんなことを当たり前に言ってしまうのだから、こいつは本当にすごいやつだ。
予冷が鳴って、後でなと自分の席へ戻っていく小森を目で追いながら、恋という言葉を思い出す。
俺の体調がよさそうで、その本当の理由は吉野さんで。
ん?吉野さんに恋?
なんて、そんなところまで思考がいってから、何考えているんだと冷静になった。
俺たちは男だし、他人だ。
ただ可哀想な俺に同情してくれているだけで、俺はそんな吉野さんに嘘を吐きながら甘えているだけ。
あの優しい人の隣が居心地いいのは、あの人が優しいからで、甘やかしてくれるから。
そんな不純な考えを持つ俺が、あんな優しい人に恋だなんて、烏滸がましいにもほどがある。
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はじめまして!
私もこういうお話が大好きなので、大切に読ませていただきました!ありがとうございます!これからもめちゃめちゃ続き気になりますし、応援させていただきます!
はじめまして!
感想、ありがとうございます。とても嬉しいです!
続き、待っていてくださる方がいると思うととても励みになります。ありがとうございます♡
ぜひ、また読みに来てくださると幸いです!
今更なんですが、面白くて読んじゃいました!
こういう話大好物で試験勉強しなきゃいけないのにそっちのけで読みました💕
応援していますので、無理のない範囲で更新していただけたら嬉しいです😊
はじめまして!
感想、ありがとうございます。とても嬉しいです♡
お返事が遅くなってしまい申し訳ありません💦
試験勉強の方はその後どうだったでしょうか?思った通りの結果でしたら私も嬉しいです♡
優しいお言葉ありがとうございます。ぜひたまにふらっと読みに来てやってください♡