IRREGULAR~異世界人しか出てこねえ異世界モノ~

陸一 潤

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1:Diver

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  新しい出会いの予感に、その日も幸一はウキウキと炎天下の街へと自転車を走らせた。
   毎年のように最高気温を更新しようとする太陽も、うるさいセミたちの求愛の声も、素晴らしい一日の演出としか感じない。
   今日も夕刻まで外出する息子のことを、家族はなかば諦めをもって送り出してくれた。
   毎日の外出でほどよく日焼けした顔の中に、黒々と好奇心に輝く瞳がある。中学生になって十五センチ伸びた身長は、まだまだ同級の平均身長より頭ひとつ小さい。
   まだまだランドセルが似合う容貌は、一年以上経っても指定制服である黒い学生服に馴染まなかったが、夏休みに入った十日前からその服装制限も無くなった。
   今日から幸一は『学年一童顔の13才』から『童顔の14才』として、どこからどう見ても夏に浮かれる小学過程履修生のスタイルで、大切な誕生日を満喫している。

  高架下を抜けると、小学校沿いの桜並木。葉桜の木陰を踏んで、水道局の前を通り過ぎ、大通りを左折。幸一の自転車が滑り込んだのは、夏空を窓ガラスに反射させた大きなビルの駐輪場。自動ドアの先にあるエントランス。スーツ姿のビジネスマンと親子連れや主婦、夏休みの学生を横目に、足取りは勝手に、ビル内の目的の施設へ向かう。

  その場所へは目をつむっても行ける自信がある。そんな息子に、専業主婦の母親はとくに呆れ顔だ。息子がこうなった原因となったのは、あきらかに自分だからして。
  きっかけは、当事者の幸一も覚えていない。記憶しているのは、もはや母親だけ。
  地域の児童を対象として招かれた朗読会で、満二歳だった幸一ははじめての出会いを経験した。
  何度も自分を招き入れた自動ドアの内側から漂う独特のにおいに、恍惚とした息を吐く。

  ……ああ、ここは楽園だ。

   幸一は本が好きだ。文字という発明を崇拝している。
   紙の質感が好きだ。インクと接着剤の匂いに安心を覚える。

  背表紙に添えた手のひらで、ページをめくる指先で、文字をなぞる視線で、単語の連なりを索引し処理する脳で、佐藤 幸一は数えきれない物語を慈しみ、愛してきた。
  繰り返し、繰り返し、文法ルールに倣ならった文字の列を解読するだけの行為が、幸一にとっては食事・睡眠と同等の価値を持つ。
  とびきりの最後の一口を飲み込んだ瞬間と同じように……柔らかな寝床に心地よく体が沈んだときのように……ひとつの物語を味わい尽くしたその瞬間に、彼は自分の生と、たった十四年の人生でこの一冊に出会えた幸運に、手を合わせ、言葉にならない感謝を捧げる。

  それを眺めるとき、読者とは鳥瞰よりも高い視点を持つことになるが、幸一はさらに書き手の視点すら空想して、文章を通し、時も場所も年齢、性別、人種も越えた読者と作者というコミュニケーションに試みる。
  彼は登場人物のみならず、書き手にも恋をする。
  彼が愛したひとは数えきれない。

   将来は、司書か学者か。古文書の修復なども、楽しいかもしれない。
   グルメが塩にこだわるように。
  スポーツ選手が枕にこだわるように。
  恋を人生と言った誰かのように。
  宗教家にとっての神話のように。

  文字を崇拝する幸一にとって、タダで、空調が完備された空間で、どこでも好きなだけ本を読んで良いというその場所は、当たり前に聖地といっても相違なく、さらに夏休みという学生に与えられた自由の義務は、彼に約1ヶ月間もの文字世界への切符を与えられたと同義であった。

  開館は9時半。
  まずは、顔見知りの司書が座る返却カウンターで鞄を軽くする。
  手始めに児童書の棚をグルリと一巡し、そのまま壁沿いに文芸書のコーナーをたっぷりと時間をかけて散策する。のち、文庫コーナーを物色し、最後に余力があれば各専門書へも足を延ばすのが決まったコースだ。だいたい昼食は、その日のルーチンが終わった15時過ぎ。家で握った握り飯を、エントランスまで出て自動販売機前のベンチで齧る。


  市役所施設であるビル内には、正午を告げる音楽が鳴るようになっていた。
  意識の外郭がいかくでオルゴール風にアレンジされた『恋はみずいろ』を耳にした幸一は、ふと、潜っていた文字の海から顔を上げた。
 (……あれ? )
  瞬きを繰り返す幸一の視界には、見慣れているのに見慣れないという、不思議な光景が広がっていた。どうやら知らずにひどく息を詰めていたようで、ふーっ……と、長い息をつく。そして今しがた読んでいたものが、手のひらのなかに無いことに気が付いた。この手のひらはまだ背表紙を支え、もう片方の指先はページをめくろうとしていた感覚が残っている。小脇に抱えていたハードカバーも消えている。
  そこは一見、いつもの図書館『では、なかった』。

  自分の呼吸の数が増えていることに気が付いた。
  何も聞こえない。
  窓越しに微かにしたセミの声も、エアコンの駆動音も、他の利用者たちの足音も。
  斜陽を思わせるオレンジ色の明かりは、どこから差しているのだろう。黄昏時のように影は濃く、粘着質に輪郭を飲み込んでいる。

  幸一は、本棚の色味、木目、手触りを覚えていた。赤みが強いニス、波打ちながら波紋型に連なる木目が黒く浮き上がった質感、高さ。そこの収まっていたはずの背表紙たちの記憶とともに、幸一の身体はそれがどこにあったものかが分かった。そこに、慣れ親しんだ背表紙たちはいない。見慣れぬ色の、見慣れぬ言語の、見慣れぬ背表紙が、我が物顔で詰まっていた。

  じゅくりと靴底が沈んで、スニーカーの履き口から水分が侵入してくる。
  絨毯は、苔類の蔓延る湿地に変わって、ところどころツタ系の植物が本棚を支えに天井まで浸食を進め、紅葉した葉をみっしりと垂らす。
  背筋を濡らす汗の冷たさに身震いする。

  一陣の風が吹いた。
  ぬるく湿った風だった。
  本棚の森の奥は、ぬめった闇が満ちている。
  ドクドクと血潮の音がする。

  ぴちゃり……。

  音がした。

  斜めに差した闇のとばりを裂いて、白い手が現れる。
  幼い手だ。短い爪に節の目立たない関節、つるりとした手の甲。手招くように伸ばされた手は、白衣の袖を纏っていた。
  やがてその仕草は、目の見えないひとがそうするように、行く手の先を探っているのだと気が付いた。今にもその肩から先が現れようとしている。

  これほど自身の無意識を呪ったことは無い。
  後ずさったかかとが跳ね上げた水は、微かに水面を叩いて音を立てた。


 


  自分のものではない呼気の音。
  白衣の腕は下ろされ、その手と同じ白い肌の相貌がこちらを『見て』いる。
  その貌かおには何の感情も浮かんでいない。しみのない白い肌に色素の薄い瞳の色。目蓋は重たげで、血の気の無い薄い唇のあわいが僅かに開いて、寝息のように規則的な呼吸をしている。
  その姿を一目見て、幸一はこう思った。
 『まるで嬰児のようだ』と。

  無垢で無防備。生まれたての赤ん坊のような顔をした『それ』は幸一を視界に収めると、ぴしゃぴしゃと水音を立て、裸足でまっすぐにこちらへと歩み寄った。
  不思議と恐怖は失せている。黙ってじっと、『その人』を待つのが当然のような気さえした。
  金髪だと思った頭髪は、よく見ると黄昏で染まった『白』であった。淡色の瞳も、よく見ると両眼で色が違う。
  襟の詰まった仕立ては、何かの民族衣装に見える。体を沿ってひらひらと落ちる布地は、ベトナムのアオザイや、中国のチャイナ服に似ているように思う。

 『それ』は言った。
 「ぼくがあなたに出会うのは、本来はあってはならないこと……」
 『それ』は、訂正するように付け足す。「……ありえないこと」

 「この出会いは、ぼくにとって困難を切り拓くための未来。あなたにとっては、困難に立ち向かうきっかけの過去。あなたはもう、戻れない。ぼくと出会ってしまったから、筋書きの先へ進むしかない」
  指先が汗で湿ったシャツの上をなぞるように触れた。

 「あなたの行く先の困難、悲劇、苦悩………知識としてぼくは知っている。それでももう、ぼくには手段を選ぶ時間も選択肢もありません。謝ることはしない。それは、ぼくの知るあなたの行いへの冒涜だから」

  まっすぐな視線と目が合った。無いと思った感情を、その色違いの瞳の中に見つける。小さく薄い手が、幸一の手を取って厚紙のようなものを握らせた。

 「ふたたびぼくと出会うとき、あなたはぼくとの邂逅を忘れていることでしょう。これから起こる長い長い時の流れが、あなたの記憶を摩耗させる。もし覚えていたとしても、『そのぼくは』あなたのことを知らないのです。混乱しないで。今のぼくに仔細を説明することはできません。ぼくはイレギュラー。いるはずがないもの。あなたと出会うことは本来ありえない。冷静に、あなたの思うがままに選択し、意思を勝ち取ってください。後悔無きよう」
  子供の手には、容貌に似合わない、いくつもの固い肉刺まめがあった。
  冷たい手だった。

  幸一は何かを言おうと口を開いたが、その瞬間に肝心の話題を忘れてしまう。何か言わなければならないことがあったような。そんな気がしてならない。

 「せめて、すべてを知るものとして、彼女の代わりに願います。……あなたの人生に幸あらんことを」

  幸一は握らされたものを見る。
  それは、ごく薄い銀製のしおり。レース状の花の透かしが入ったしおりは、見た目よりも少し重く、紫紺色のリボンの金具には小さな紫色の宝石がついていた。
  シトシトと、ごく薄い霧雨が降り出す。
  薄闇の垂れこめるオレンジ色の視界を、黒いベールのように闇を孕んで、雨は視界を遮った。
  いくつものざらついた黒いすじの奥で、色違いの瞳の奥が金色の円輪を描いて輝く。伸ばした手は指先から闇の雨の境に消えていく。
  雨の隙間で、唯一の光源となった輝く金眼が静かに瞼を閉じ、世界は塗りこめたようなほんとうの真っ暗闇になった。

  『ぼく』の記憶は、そこで真っ黒に途切れる。
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