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〜2章〜

幸運のピエロと心臓喰らいの悪魔

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「ルーフェ。ねぇ、ルーフェったら!」

 お菓子屋さんの朝は早いものです。まだ野良犬が我が物顔で街を闊歩している頃、お菓子屋さんの一日はスタートするのです。

 閑古鳥と仲の良いこのお菓子屋さんでさえも、一日のスタートは早いものでした。

 冷蔵庫の影から顔を覗かせたエイマは、真剣な表情を浮かべるルーフェのことなどお構いなし、といった調子で話を続けます。

「ねぇ、聞いた?ワッフリアに幸運のピエロが来たんですって!」

 グラム単位までぴったし!

 計量をするルーフェの表情は真剣そのものです。

 よし、と呟き、呆れた様子でため息をつくと大声の主、エイマの方へと視線を投げかけました。

「ねぇ、エイマ。あなたこそ普段私の話を聞いてる?仕込み中にそんな大声でまくし立てないでよ。こっちは真剣なんだから」

 ツン、と鼻を高く上げ、ちょっとそこどいて、と冷蔵庫を開きます。卵を十四個ほど取り出し作業台の上へと並べていきます。

 店内に差し込むまだ幼い太陽の光に照らされた卵たちは、つるりんと輝いています。

「ごめんごめん。気をつけるわ。でね・・・」

 ルーフェは高い位置にあるグラニュー糖をなんとか取り出すと、ブスッとした表情でマドレーヌ作りを再開しました。そんなことはつゆ知らず、まるでラジオのようにエイマは一方的に話を続けます。

 おしゃべり好きはなかなか治らないようで、また、まるで焼きたてのアップルパイのように熱々なプライベートを送っているエイマは周りのことなどお構いなし、といった様子です。

「いいわよねぇ。幸運のピエロ。私も一度でもいいからお目にかかりたいわ。私にも幸運が必要だものね。ほら、私たち付き合ってまだ半年だけど、まぁすこぶる順調ではあるけれど、まだ先のことはわからないじゃない?」

 グラニュー糖もよし!

 ルーフェは慣れた手つきで非常に手際よく仕込みを進めていきます。

 そして、エイマはというと、まだまだ熱のこもった演説の最中のようです。

 はぁ。さぁて、お次は。

「乙女でいられる時間なんて、まばたきをほんの数回もしたら終わってしまうものね。彼は将来のこときちんと考えているのかしら?ねぇ、どう思う?あぁ、幸運のピエロ、デシデリオに会って、そして・・・」

 美しい卵の黄身のように目を輝かせているエイマは、どこか別のところへと行ってしまっているようです。

 まったくもう、とルーフェはグラニュー糖の山の中に落とした卵の黄身をグシャリと潰し、勢いよくかき混ぜていきます。

 幸運のピエロですって?そんなもの本当に存在するなら、ぜひうちにケーキでも買いに来て欲しいものだわ。

 大きなボウルの中では、マドレーヌに生まれ変わろうと食材たちが必死になって走り回っています。少しだけ、いつもよりも急かされているのは気のせいでしょうか。

 エイマの話はまだまだ続きます。

 ・・・はぁ。

「それにしても珍しいわよね。街には滅多に寄り付かないって話なのに。何か特別な理由でもあるのかしら」

 エイマは冷蔵庫に肩を預け、ん~と深く考え込んでいる様子です。その表情はとても真剣でまるでどこかの社長さんのようです。

 グラム単位で測っておいた先ほどの小麦粉たちをふるい入れ、さらによく練り混ぜていきます。新たな仲間の登場に食材たちは喜んでいるようです。だって、さっきよりもガッチリと手を取り合ってボウルの中を走り回っていますもの。

「恋人でも探しに来たんじゃないの?」

 手に握るホイッパーの馴染み具合に変化が現れました。ゆっくりと生地を持ち上げると、トロトロと艶を輝かせながら落ちていき、リボンの山を作っていきます。

「まぁ、素敵!」

 大きなボウルを抱え妄想に暮れるエイマをなんとかやり過ごしたルーフェは、作業台に並べられたマドレーヌの型を見てため息をついた。

「ねぇ、これバター塗ってないじゃない。やっとくって言ったじゃない」

 乱暴にボウルを置くと、中の生地たちは目をまん丸にして驚いています。

 エイマはハッとした様子で、忘れてたわ、と呟き、謝罪の言葉を口にしました。

 まるでいたずらがバレて怒られている子供のようにしゅんとしています。マドレーヌになる生地たちもどこか大人しくしているようです。

「オープンも近いしやることもたくさんなんだから早く準備しちゃいましょ」

 ルーフェはすぐに気を取り直した様子で、生地たちを優しく型の中へと移してあげます。生地たちはホッと一安心の様子。

「ほんとだ、大変!表の準備してくる!」

 エイマは時計の長針に背中をせっつかれ慌ただしくキッチンを飛び出していきました。

 そんな背中を見てルーフェはくすりと笑います。

 エイマは悪い子ではないのです。ただ、好奇心旺盛で飽きっぽく、少しだけ夢見がちなだけなのです。

 そして、恋事情が少しばかり多いタイプ。そんな女性なのです。

 ルーフェとエイマは幼馴染で、大人になった今は一緒にお菓子屋さんを営んでいます。

 お菓子屋さんの名前は『マジディクラ』。意味は『色の魔法』です。

 可愛いものが大好きな二人は、大好きな焼き菓子をカラフルに可愛く作りたい、と二人でせっせとお金を貯めてついにこのお店をオープンしたのです。

 お金を数えることが苦手なルーフェにとって、エイマの存在は誕生日ケーキのように大きく、また反対にお菓子作りの繊細な作業が苦手なエイマにとっては、ルーフェは小麦粉のようになくてはならない存在なのです。

 さて、そうこうしているうちにマドレーヌが焼けたようです。美味しそうな香りが鼻をつきます。甘い香りをたっぷりと吸い込んだルーフェはその出来栄えに満足げです。

 よし、と腕まくりをしたルーフェはすぐさま最後の仕上げに取り掛かりました。

 何をするかって?

 それは『マジディクラ』です。

 どうやってやるか?

 ふふ、それは企業秘密ってやつです。

 鼻歌を歌うルーフェはまるで魔法を唱える魔女のよう。

 ホールの方から軽快な音楽が流れ始めます。どうやらお店をオープンしたようです。

 もうそんな時間?と慌てた様子で後片付けを始めるルーフェ。

 さて、今日はお客さんが来るのでしょうか。それともまた閑古鳥に餌をあげることになるのでしょうか。

 カランコロン。

 嬉しいことに今日はすぐにお客さんが来てくれたようです。

 なんと幸先の良いことでしょうか。

 ベルの鳴る音に気がついたルーフェはキッチンから顔だけを覗かせます。

「いらっしゃいませ。あら、ブジャルドさん。ごきげんよう」

 エイマが嬉しそうに笑います。来てくれたのは常連さんのようです。

「やぁ、どうも。今日もまた、何か赤ワインに合うスイーツをいただけるかな」

 濃いめのルビー色をしたスーツに身を包み、ぷっくりと膨らんだお腹をベルトで締め上げているその常連は、陽気な様子でそう注文をしました。

「ごきげんよう。奥様はお元気ですか?」

 エイマが注文を見繕っている間、ルーフェは常連さんと他愛もない話をしていました。

 心地の良い接客も大切な仕事の一つなのです。

「えぇ、おかげさまで。先日いただいたゴールドベリーのミルフィーユは絶品だった。妻も喜んでいましたよ。おんなじようなネイルにしようか、だなんて喜んじゃって」

 血色の良いまん丸とした顔にくしゃっと皺を寄せ笑った常連さんはとてもご機嫌のようです。

 甘い焼き菓子は本当に人を幸せにしてくれます。

 心を込めてお礼を伝え、その常連さんを見送った二人は満足げに頷き合いました。

「今日はいい一日になりそうね」

 ふふ、と笑い合った二人はシュークリームのように期待に胸を膨らませながら、次のお客さんが来るのを待ちました。

 今日は天気が良く、人通りも多い様子です。

 ガラス越しにラティリアの通りを行ったり来たり、人々が行き交います。

「・・・来ないね」

 苦笑いを浮かべた二人は、ついにどちらともなく口を開きました。

「はぁ、退屈だなぁ」

 ルーフェは、んんーっと背中を伸ばし腰を左右に捻りました。

 朝の早い時間から働き詰めです。疲れてしまうのも仕方がないことでしょう。

「エイマ。退屈すぎて眠ってしまいそうだから、なんか面白い話でもして」

 ぼーっと遠くを見つめながらルーフェが子供のようにそうお願いしました。

 さぁ、エイマの出番です。

 面白い話かぁ。と細長い顎に手を当て考え込んでいます。

 あ、とすぐに何かを思い出したかのように、人差し指をピンっと立てエイマは話し始めます。

「最近、レタシモン卿が現れたって噂、聞いたわ」

 綺麗に整えられた眉を顰め、珍しく小声で喋るエイマ。

「レタシモンって、あの?」

 自然とルーフェもヒソヒソ声になります。

 あの、と言われるぐらいですからさぞ名高いお方なのでしょう。

 さて、レタシモン卿とは一体どんな人なんでしょうか。気になります。

「そう。『心臓喰らいの悪魔』レタシモン卿がシュガトンに現れたらしいのよ」

 シュガトンと言えば首都ラティリアのすぐ隣ではないですか。

 しかも『心臓喰らいの悪魔』だなんて、なんて恐ろしい異名なんでしょう。

「シュガトンで誰か食べられちゃったのかしら」

 エイマは小声で話しながら身を震わせています。

「美しい人のハートを食べちゃうってやつでしょ?怖いわね」

 ルーフェはカウンターに顎を乗せ、ぼんやりと外を眺めています。

 レタシモン卿の話はルーフェの睡魔を撃退するのには、ほとんど効果がなかったようです。

 ただの噂話でそもそものところ信じていない、といったところでしょうか。ルーフェらしい。

 エイマはというと、鏡に映り込む自分の顔を撫で深いため息をついています。

「本当に怖いわ。私なんて特に気をつけないと」

 呆れた様子でため息をついたルーフェは、店の前に馬車が停まるのを発見しました。

 その馬車は明らかに高級なものでした。乗っている方はさぞお金持ちなのでしょう。

 お付きの方が優雅に扉を開け放つと、中から背の高いスラッとした紳士が現れました。端正な顔つきでなんとも気品に溢れていらっしゃいます。

 ルーフェとエイマは呆然とその方に目を取られています。

 ふと、レタシモン卿ってこの人のこと?と、ルーフェは突飛なことを思いました。

『ハートを食べる』というのは恋に落とす、ということなのかしら。

 ぼーっとその方を眺めていると、なんとその方はゆっくりとこちらに向かってくるではないですか。

 カランコロン。

 その方は、優しげな表情を浮かべたまま二人の前へと佇むと、優雅にお辞儀をしました。

「ごきげんよう」

 ポーッとその方に見惚れていた乙女二人は、ハッと慌てた様子で頭を下げます。

「い、いらっしゃいませ」

 エイマの声は上ずり、か細くなっています。いつもの威勢はどこに行ってしまったのでしょうか。

「こちらで素敵な焼き菓子がいただけると聞いて。何かおすすめは?」

 その方はどちらに頼んだら良いのか困った様子で、曖昧に二人の間にそう投げかけました。

 エイマがその方のご要望を聞いている間、ルーフェは好みに合いそうな焼き菓子を適当に見繕いました。

 とびきり上手に焼けているやつにしよう。

 ルーフェは少しだけ背伸びをしたように、自慢の焼き菓子の中から厳選し差し出しました。

 差し出された袋の中を覗き込むと、その方は満足げに頷き店を後にしました。

「素敵な方だったわね」

 素敵な紳士を見送った二人は、なんとも不思議な安堵のため息をつきました。

 それ以降は閑古鳥に餌をやるばかりで、なんとも退屈な時間を過ごしたのでした。

 まだまだ頑張らないといけないようです。

 お店の鍵を閉めたルーフェはエイマと別れ帰路につきました。

 月明かりが照らす街並みは美しく、どこからか聞こえてくるフクロウの歌声がひっそりと鳴り響いていました。
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