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結局、愛される未来しかなくて、社長の腕の中にいます

(A)

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 夕方の色が過ぎてしまう時刻が早い季節。少しばかりのだんを用意したぐらいでは、部屋に満ちている空気から冷たさを取り去る事はできない。
 このまま本格的な夜に向かうと、窓の外にある、すっかり鮮やかさを失った樹木たちは、容赦なく凍えさせられてしまうのだろう。
 だけど、私と社長の身体は、ひどく汗ばんでいた。
 美しい並木路を今すぐ見せたいと言ってくれた社長のひたいから、一片ひとひらの花びらのように、汗が舞った。

「うぁ……あ……ああっ! しゃ、社長……お、奥……奥に、着いたんですか……あ、あはぁ」

 文章では、何度も見た事があった。太くてかたいもので、私のひだがはだけさせられていく至極の心地により、うっすら開いた唇が潤ったままになった。熱い息の塊が漏れてばかりだし、時には、よだれが皮膚を伝っていく。
 だらしなくなっていく私に、社長は、「つぼみ開く時を迎えた花のようでうるわしい」と声をかけてくれた。社長のその様子は、穏やかなものではない。かといって、聞く者を脅かそうとするようなものでもない。
 並木路に到着し、私を誘ってくれた社長自身も、思い描きを超えた美しさに心が震えたのだろう。それが、声が揺らぐ事で外に表れているけど、私を愛する気持ちがぐらついているとは思えない。

「そ、そうだよ……アリス姉さんの奥……僕は、君の一番深いところに辿たどり着けたんだ……いつになったら、君と二人でこの感動を分け合えるのだろうと不安になった事は、もちろんある……だが、必ず、この時が来ると信じていた……はあ、はあ……すごい……温かい……心地いいよ、アリス姉さん……はあ、はあ……僕の握った手を離さずに、共に目指してくれた事、感謝したい……ありがとう……ああっ! も、もう駄目だっ! はあ、はあ……早く、君と一緒に歩きたい……二人の為の路を……どこまでも続く、この並木路を……心を合わせながら、を進める事で、美しい花が咲き始めて二人を満たしてくれるだろう……はあ、はあ……ぼ、ぼくに、ついてきて……てをはなさず、さいごまで……」

 社長が入り込む感覚は、記憶を頼りに描かれたものではない。出ようとして、また奥に入り、出ようとして、また奥に入り――今、この時に繰り返されている。
 突きあげる社長に応じ、私も身体を揺らす。
 二人で満たされるその時に向けて、を進めていく。
 腰の動きを止めずに身体を少し落として、社長は、私の唇に触れてくれた。
 並木路に連れてきてくれた感謝の気持ちを言葉で述べる代わりに、感じている心地を、抑えず喘ぐ事で伝えていた私の口からよだれがあふれる。みだりがわしいはずなのに、嫌になってこない。もっと多く、思い描きの中の樹木に美しい花が咲いてほしくて、社長の舌に自分から絡み、唇を閉じてくわえ、さらに、私が求めている気持ちを告げる為に吸い込んだ。
 じゅるっ、と、乱れを極めたよだれが垂れた。

「……あ、ああっ! ア、アリス姉さん、僕は……もう、こらえられないっ!」

 社長は顔をあげ、一度、まぶたを強く閉じてから腰の動きを激しくする。先ほどとは比べものにならないぐらいに勢いがついて、私の身体はシーツに打ちつけられる。

「あ、あ、あ、あ、あっ! しゃ、しゃちょう、社長っ! あ、あうっ! あうっ! あうっ!」

「そ、そんなに可愛らしい君を見せられて、たえられるはずがないだろ……はあ、はあ……僕の方が、君を待たせていたと、認めるしかないじゃないか……い、いこう……これからも、ふたりは、おなじものをかんじて、いけるんだ……」

「あうっ、あうっ! い、いきます……しゃちょうと、いかせて、くださ……いっ……あうぅっ!」

「ね……ねえさん……アリス……ねえさんと、これからも、いきたい……」

「い、いき……あうっ! あう……あ、あ、ああっ!」

 社長が目を閉じ、身体を震わせる瞬間を見た記憶はあるけど、次に私が言葉を発しようとするまでに、どれほどのがあったのか分からない。

「……ああ……しゃ、社長……出したんですね……」

 共に、真っ白の虚空こくうに投げ出されたのだろうか?
 肩で息をするほどになっている社長は、まぶたを開ける事ができないようだ。
 二人が繋がる奥の流れは、まだ絶えていないのかもしれない。

「ああ……出したよ。アリス姉さんを、僕のものにしたんだ。他の誰も知らないその場所に、注ぎ込まれてしまった気分はどう?」

 ほんの少し悪の顔をするつもりだったのだろうか。再び、青い瞳の美しさを見せた社長は、言葉に含みを持たせたのに、誇り高さを保つ事ができずに、私の上に身体を預けてきた。
 素肌と素肌が密着する。
 私が潰れないように、背に力を入れてくれたけど、果てた直後の身体が思い通りに動かなかったみたいだ。
 社長が身体を斜めにした時、私も腰を少し揺らしてしまい、二人は、そのまま繋がりを失った。

「外に流れてますよね。中で出された時よりも、今、社長のものにされてしまったんだって実感が強くなってきました。そして、社長に出してもらったものに、噂の……散った純潔の花びらがまじっている」

「痛い? 大丈夫、アリス姉さんっ!」

 そのまま深く眠り込んでしまいそうなぐらい疲れた顔をしているのに、社長は、乱れた黒髪を揺らしながら、心配を強く含んでいると思われる表情で、私の顔の前に近づいてきた。

「嘘を言ったら、あとでお仕置きされそうなので正直になります。最初はすごく痛かったですけど、途中から、その痛みの扱い方が分かってきました。今も、少し痛いです。でも、嫌じゃない。ほら、お花の話をしたじゃないですか。えっと……散るっていうのは、枯れるのとは違いますよね。だから、社長とお花を楽しめる時がまた来るんだって思ったら、痛いよりも嬉しい気持ちが強くなっていったんです」

 社長は、肩を揺らして大きく息をした。やつれているはずなのに、色気が放たれている。情欲をそそる。そういう存在として、社長を目に入れている。痛みを感じるのを二の次にしてしまうような興奮が、私の中にまだあるのだろう。
 今すぐき放ちたい欲望ではない。二人で花を楽しむ次の機会に向けて、ゆっくりと期待を高めていこうと、心が高鳴っているのかもしれない。

「心配しないでください。大丈夫。それに赤ちゃんがほしいと言い出したのは、私の方ですよ?」

 心配し過ぎる社長のお心づかいがしばらく続いたけど、「様子が変わるようなら、すぐに社長を頼ります」と伝えた事で、ようやく冷静さを取り戻してくれた。
 私よりも早く、社長は身体が落ち着き始めていたようで、冷蔵庫と食器棚を開けてよいのならと断ってくれた上で、私の喉が強く求めていた冷たいお茶をベッドまで運んでくれた。
 押し問答を続けるのではなく、行動で、初めてを終えてすぐの私の身体をいたわってくれた事に感謝したい。

「君から、子種がほしいと言ってもらえて嬉しかったよ。それ故、もう身重みおもかもしれないアリス姉さんの事がとても心配になってしまったんだ……ああ……しかし、君と僕が出逢ったあの場所が、生まれ変わっていたとは考えもしなかった。現代日本で活動を始めてすぐ、あの場所を見つけようと調査させたんだ。すでに建物自体が取り壊されていると知り、土地に近づく事すら躊躇ためらってしまった」

「社長ががっかりしちゃった気持ちはよく分かりますよ。私は、地元なので帰省時に自然と足を運んだ感じで……というか、古い病院があった横の土地も含めてなので、普通のショッピングセンターを三つぐらいくっつけた広さで、映画も観えるし、アウトレットショッピングも楽しめる施設に生まれ変わったんです! 大人同士のデートはもちろん、お子さまが遊べるところが何か所もあって、お洒落なカフェが併設されているので、パパママになっても満喫できる事間違いなしです! 社長、行きましょう! これからも、何度も何度も、二人が出逢ったあの場所に行きましょう!」

「ああ。連れて行ってくれ。すぐにでも行きたいが、次の週末に、君のご両親への挨拶を済ませたのちに行くか。中途半端なままではいけないからな――」

 ……って、さっき、帰宅してすぐに、婚姻届にサインしようとして驚いたけど、証人の欄に、うちの両親の署名捺印があるのはどうしてっ!
 背中に、脈打つ、社長の大切なものを押しあてられながら「サインして」と言われ、疑問を封印してボールペンを動かしてしまったけど……たくさん抱きしめられたあとだったので、社長に言われるがままに婚姻届にサイン完了。
 らすなんて言葉すら忘れていたぐらい、簡単に、結婚を了承してしまった。
 今すぐ両親を問い詰めたい気持ちはあるけど、区役所に行ってからも、できれば社長と時間を過ごしたい。
 社長に聞いても、ニコニコしながら、「さあ? どうしてかな?」とおっしゃるだけだった。
 その他、提出に必要なものも準備済み。
 決意をくつがえすつもりはまったくなかったけど、外堀を埋められ過ぎだ。

「アリス姉さん」

 心を平静に戻し、「はい」と小さく返事をする。真剣そのものという様子を青い瞳に込めた社長に見つめられたので、の置きどころを整える事をおろそかにしてしまっていた。自分の居場所をしっかりと認識してみれば、私は、社長の腕の中にいた。

「君の初めてを奪ってしまった僕を、名前で呼んでほしい」

「ファーストネーム……ですよね?」

 異世界の実在を知らなかった頃から、心にかけてはいた。互いに素直な気持ちで、裸で抱き合える仲の彼からのお願いが、はっきりと言葉になって表れた。

「そうだよ。僕の顔を思い浮かべて、僕の名を呼んでほしい。現代日本では上司と部下の立場になってしまったが、君の方がお姉さまだから天王寺先輩と呼ばせてもらう事にした。うやまいの気持ちは込めたかったし、可能な限り、現代日本のルールにのっとった方が、君の緊張がほぐれるのが早いと判断したからね。だが、心の中の呼び方は違った。ファウンテの地で再会した時、僕は、君の名を呼んだだろ?」

 うっ。
 私は、心の中でも、社長は社長だったから……いや、フルネームで呼んだ事は何度もあるけど、あれはどちらかと言うと敵対相手に向かってだったし……えっと……えっと。
 あの場所が連想させたのか、ふと出逢った頃の社長っぽいのが頭に浮かぶ。
 あの時は、「あなたの青い瞳は綺麗ね」とかだった。社会人になり、会社概要の代表者欄で見たのが最初かな?

「アリス姉さん、呼んで。僕の名を呼んで」

 社長の鼓動が激しくなった気がする。素肌と素肌が触れ合っているせいなのか、私の鼓動も激しくなってきたせいなのか、漂う外気まで含めて、先ほどよりも熱をびてきている気がする。

 フィクション妄想などせず、代表者欄で見た方を言うんだぞ、私!

「エ……エリオット社長」

 口走ったあとで、これはセーフなのか、アウト判定なのか……恐る恐る社長の顔を見上げてみる。目と目が合った頃、社長の口から「ん……うん?」という声が漏れた。

「あの、その……会社概要に……会社設立日とか、資本金とか載ってるアレに、代表取締役社長エリオット・ジールゲンって書いてあったのを見たのが、私が社長のお名前を知った運命の瞬間だったなって思いながら口を動かしたので……その、あの……」

 しばらく目を丸くしていた社長は、長いまつ毛を添えたその目を吊りあげた。

「駄目だ。認めない。リテイクを要求する。アリス姉さん、僕を上司だと認めてくれているのは嬉しく感じたが、許しを与える訳にはいかない。部下であるというのなら、すぐに言いなおしてくれ。これはお願いではない、業務命令だ」

 お姉ちゃんを困らせるような事は絶対にしない、だからお嫁さんになってほしい、と言われた気がするな。ん……あれ?

「あれ? でも、社長も、私の事をアリス姉さんって呼びますよね? 私が社長を『社長』という人だと思って愛を育てていったみたいに、社長は、別の世界にいる私を、『お姉ちゃん』という人だと思って恋心を育てていったのではないですか?」

「……た、たしかにそうだ。行事など、公式の場では呼び捨てさせてもらう事があると思うが、二人きりの時はアリス姉さんと呼びたい」

「だったら、私も、エリオット社長と呼びます。いいですか?」

「……社長でいい。愛を育てる相手としての『社長』であったというのなら、僕の事を、これからも社長と呼ぶ許可を与えよう」

「はーい。役職が変わっても、定年退職しても、『社長』って呼びますね! 私が『お姉ちゃん』だった頃、社長の事を『あなた』と呼んでいたので、これからは積極的に『あなた』とも呼びますね!」

「あなた……か」

 社長は、まんざらでもないという顔つきをする。私から『あなた』と呼ばれるのは、それはそれでよいようだ。
 大人な駆け引きなどできない冴えない私だが、少しだけ意地悪な恋人を演じてみる。

「あなたと出逢えて、あなたと愛し合って、あなたと結ばれる事になって、私、今、幸せで満たされています。あっ! たまにでいいので、天王寺先輩って呼んでください。あなたへの愛を育てる間に呼んでもらっていたので、そっちで呼ばれるのもドキドキしますよ。いろいろと、これからもドキドキをくださいね。ドキドキポイントがたまったら、特典として、あなたのお名前を呼ぶサービスをプレゼントしようかな? ふふ。あの日があってよかった。忘れられそうにない、社長室での出来事。あなたと幸せいっぱいのキスをした思い出――」


* * * * *


 品が、漂っている。ベルガモットの香りが鼻先まで伸びてきた。
 私が応接部屋で事務服に着替えている間に、社長は、いつものシトラス系オーデコロンの香りをまとったようだ。
 コックピットに座ったあとのビジネス仕様のスーツは、そこかしこに皺が寄っている。
 深い黒色の髪が少し乱れているけど、気になるほどではないし、社長の美貌と相まって、その様子は、むしろ妙な色気を放つやくになっていた。

「社長の衣裳箱、こちらにお持ちしましょうか?」

 デスクにひじをつき、身体を休めるように座っている社長のそばに寄る。

「……いや、いい。もうしばらくしたら、自分で取りに行くよ」

 業務で資料をひろげている事はあるけど、ノートパソコンすらもデスクの引き出しに入れ、クリーンデスクを心掛けている社長にしては珍しく、オーデコロンの瓶が置かれたままだった。

 私が勝利してから、まだわずかな時間しか経っていない。

 眠りからさめてすぐ、ソファで膝枕をして、社長の目が開くのを待ちわびていた私に最初にかけてくれた言葉は、「大丈夫……僕は、もう君の敵方の者になる事はない」だった。
 自分が蟻であれば即誘惑に負けそうな、上質な砂糖菓子のようではあるけど、甘過ぎる匂い故に避けたいと思った香りが、着替えに行く前はまだ少しだけ漂っていた。だけど、社長の肌が持つ、本来のかぐわしさを感じられるように戻り始めていた。
 いじられていない匂い心地は、紅茶の着香にも使われるベルガモットを加えられた事によって、ふんわりと温かい雰囲気を生み出し、社長室全体に行き渡っていた。

「いい香り。私、その匂い好きです。ベルガモットの実が目の前にありそうだと感じる香水をまとっている社長が大好きなんです。今日はもう夕方が近くなっちゃいましたけど、爽やかさ漂う社長と、デートに行きたくなってしまいました」

 社長は、話に反応するように目に力を入れてから口をゆっくりと開く。

「アリス姉さん、僕は、君に敗れた。そんな男の伴侶になりたいと、君は言ってくれるのかい?」

 迷いは、一つもなかった。

「はい。社長の妻になりたいです。この前まで、私なんかが社長のお嫁さんになったら迷惑かなと考えていましたけど、どうしても社長と結婚したくなってしまって――私の方から押し倒してしまいました。えっと……はしたなかったと思っています……女の私の方から、男性にあんな事をしてしまったのは……えっと……あの、その」

 し、しまった!
 私、社長にかなり大胆な事を言ってしまったんだった!
 目をさましてくれるか心配で、目をさましてからも元気のない社長を気にかけてばかりで、自分がコックピット内で叫んでいた内容など忘れていた。
 ど、どうしよう。自分で思い出しても恥ずかしい! あわわ……

「人柱に立ちたいと言ってくれたね。それが、ファウンテのしんの悪に等しい、ジェネの総帥をこの世界に封印したいからではなく、僕を支える揺るぎない柱になりたいという意味であれば、僕の横に立つ人としてこれからもそばにいてくれ。いや……月並みな表現で余計な事を言った……目ざめてすぐから、気持ちが抑えられなかったよ。愛する君と、敵同士ではない時間と場所に戻ってこられたんだ……アリス姉さん、改めて伝えたい。僕と結婚してください」

「はい。社長の妻にしてください。私、幸せになる事を誓うので人柱にしてくださいと言ったじゃないですか。心の底では想いがまとまっていたのに、言葉にしたら変を口にしてしまって……ええ。愛する人を支える揺るぎない柱として、社長の横に立つ人になりたいです」

「僕のプロポーズを受け取ってくれてありがとう。必ず君を幸せにするよ。君が生まれ育った、この世界でね。それにしても……ふふ……君の、とても大胆な一面を知ってしまったな。この本を読んだ時以上にね」

 そうおっしゃって、社長は、ジャケットの内ポケットから取り出した例の文庫本をご自分のデスクの上に静かに置く……えっと、えっと、えっとっ!

「ファウンテにおいて、世界の敵であるこの僕、エリオット・ジールゲンを鎮める人柱になったんだ。夫婦の営みに関しては、何も心配しないでくれ。必ず、アリス姉さんを満たしてあげるよ」

 おそらく、青ざめて引きつった顔をしているであろう私は、できるだけ可愛らしい表情を作ろうと努力する。

「しゃ、社長ぉ、わ、話題を変えましょう……ね? 社長の野望を阻止してしまいましたが、復讐開始はだめですよ……ね?」

「――蜃気楼しんきろうと呼ばれる現象が、ファウンテではよく起こるだろ。ジェネを率いる立場になった頃、イアリーの丘近くの海上に浮かぶ幻のアリストメモリーを見た。本当の建造目的は隠蔽いんぺいされ、手掛かりを得る為の資料もほとんどが破棄され、過去に情報が取り残されてしまったが、あの場所が、アリスト以外の英霊も祀ったびょうではないかという口承こうしょうを聞く機会があった。びょうと聞いたせいなのか、アリストが人柱になったのが明らかだと知っていたせいなのか――存在を認識していても、触れられないというのが、ひどく悲しい事だと改めて考えた。僕の心と身体がここにある事すら幻のように感じてきて、魂が震えるほどおかしな気分になったんだ」

 話題がまったく変わり、思いの外だったので聞くがわとして意識が向いたのもあるけど、口を挟まず、静かに続きを待った。
 話題を変えたというよりは、戦闘後の緊張がけ、社長の心にめぐっていた思いがやっと吐き出されてきたのかもしれない。

「人柱に立たされたも同然のアリストとて、自分を駆逐した世界に対し復讐をしたいはずだ。だから、彼女の心と身体はジェネと共にあるべきだと考えた。魂を引き継いだアリス姉さんと一つにとけ合う事で、彼女は、無念を晴らすべきだと……魂が、そう叫んでいるような感覚をおぼえた。君が阻止した僕の野望とは、そんなものだ。アリストと君が手をたずさえ妨げてきた事に対し、どのようにを唱えればよいというのだ……ふふ」

 社長の魂が、何かを叫んだという事を心に刻んだ。
 だけど、私の口は動かないでいてくれた。たしかではない事を質問する必要はない。幻だったのだろうと思い込んで諦めるしかなかった青い瞳の美しい人は、今、私の前にいて、手を伸ばせば触れる事ができる。触れる事が許されている。それが、たしかな事だから。
 私が、冴えない発言をせずに済んだのは、アリストが、世界を隔てた遠い向こうから手助けをしてくれたからだろうか。おバカな妄想好きと思われてもいいので、アリストに感謝し、幸せそうに過ごす彼女を心の中に思い描く。

「その時は、アリストと彼女の愛する人が離れていたからかもしれませんね。蜃気楼しんきろうを見ただけの社長に伝わってしまうほど、恋人たちは悲しんでいたのかも。でも、私、強く願いました。アリストが愛する人のところに帰れるようにって」

「――故郷を離れるのは、不幸な事じゃない。ただ、愛する人と離れなければならないのは、きっと不幸だ。僕も、そう思うよ」

「それ、私が落ち込んでいた時に、社長が慰めてくれた言葉ですよね? 遠くの国に行く事になってしまったよりも、愛する人と一緒でない方が悲しいんだよって教えてくれた」

「僕じゃない。母の言葉なんだ。父と出逢った時、すでに在方ざいかたには縁深い者がいなかったようだが、僕が生まれる前までは、父と二人で旅人としてそこを訪れる事があったらしい。我が家が世界の敵になってからは、一度も生まれ故郷に足を運ぶ事がなかった……母は、誰よりも父を愛していたよ。父は、血も涙もない悪魔のような人間だと言われていたのにね……母の日記には、父への愛があふれていた……ふふ……ただの昔話だ」

 社長の青い瞳は、わずかに潤んでいた。

いくさの事も、まつりごとの事も、生まれの故で学びの機会を多く得られなかった人だが、家族団らんの食卓で、何気ない会話をする事につとめてくれる母を、父は一番頼りにしていた。ファウンテの英雄になりたいと言った君に、そう伝えておくよ」

「勝つ為の本当の理由がないのに戦ったり、誰かをおとしいれて地位を築いたりしようなんて、私にはできません。生まれの故で、諦めた方がいいぐらい冴えないんです。何気なく冴えないモードを発動してしまうのが普通なんです。社長に、そう伝えておきます」

 社長は、何も言わなかったけど、デスクの上に投げ出された指が少しだけ動いた。

「私の冴えないモードは、これからも続くのでご覚悟を。私と一緒にいると、家族団らんの食卓で、何気ない爆弾発言を聞くのが日常茶飯事だと思ってください。気を抜いたら、宣戦布告もなく、いきなり爆弾発言ドカーンです……あ。そうだ。社長、一つお願いしてもいいですか?」

「アリス姉さんから願いがあると申し出てきてくれるなんて嬉しいな。もちろん、何でも叶えてあげるつもりだ」

「本当ですかっ! 私、赤ちゃんがほしいんです!」

 ……ん? ちょ、わ、私の口……く、詳しい説明せずに、本題を口走っているぞ! き、気が抜け過ぎだ! 宣戦布告もなく、いきなり爆弾発言ドカーンじゃないか!

「……ん、うん。もちろん、だ。僕も、君との間に、早く子がほしいと考えている」

 身体を寄せて迫るとか、そういう順序を踏むような行動もなく、ストレートに、そしていかにも理由を説明し忘れた感じで言い放った私を前に、さすがの社長も困惑している。少し時間が経って、嬉しそうな雰囲気を漂わせてきてくれているけど……また、頭空っぽと思われるような冴えない行動をしてしまったぞ!
 英雄気取りをするつもりはなかったけど、前よりも少しだけしっかりした大人の女になれたと思っていたのに、全然ダメダメじゃないか……あうっ!
 う……ぎゃあああああっ!
 しゃ、社長が、私をお姫さま抱っこしていやがる……ソファにポイって落とされたでございます。お疲れの社長は、無理しなくていいですから、って……ちょ、ちょっと待ってください、社長……ストップっ! ストップぅぅ!

「理由を言い忘れて、いきなり本題を言ってしまった、いわゆる冴えないモードが発動して爆弾発言をしただけなので待ってほしいと顔に書いてあるようだが、子種を与えたのち、ゆっくりと君の話を聞こう。アリス姉さん、僕はすぐにでも大丈夫だ。君の願いを叶えてあげよう」

 あわわ……心臓が早鐘を打つって、こういう時に使えばよろしい言葉なんでしょうか? でも、嬉しくてドキドキしているというより、オオカミさんの餌になる直前のウサギさんのように腹をくくった状態で、ダメだぁ、やられる~という感情から心臓の動きが速いだけじゃないのかっ。
 アリストの意識は浮かんでこないし、彼女の身体も借りられない。だが、だが、だが、心身共に超人だった彼女の魂が、次は、冴えない妄想おバカになろうとしたのには意味があるはずだ! 私には、きっと隠された大いなる力があるし、アリストが異世界からパワーを送って助けてくれるはず……いや、すべておバカな妄想でした。
 うっ。ジェネの総帥だった頃と同じ邪悪な笑みを浮かべている社長の魔の手からのがれるには、天王寺有栖という名で育った私がどうにかこうにかするしかない状況という事だ。
 オタクだと思われてもいい。というか、すでにすべてを知られている。
 言え、言うんだっ、天王寺有栖!

「社長っ! ま、待ってください! わ、私、あの作品のエンディングの再現をしたいんです! だ、だから、待って……そ、そこの、社長のデスクの上の文庫本のやつ、再現……」

 フィクションを現実のものにしたい。ははっ……自分で聞いてもオタクのイタイ発言だ。社長が、再現に付き合ってくれたら嬉しいと考えた事は何度もあったけど。

「ふむ。分かった。では、すぐにあの部屋に移動しよう。ふふふ。たっぷりと可愛がられてから子種がほしいのだな。あの設備で満足できなくなったら、いつでも言ってくれ。ファウンテの僕の屋敷なら、もっと、もっと、アリス姉さんをでてあげられる。子種を注ぎ込まれたら、もう僕の手から逃げられないだろ? ましてや子をなせば、ジェネの総帥の妻としての地位を拒む事ができなくなるはず。僕が支配する世界で、母子共々幸せにしてやろう」

「ちょ、ちょっ……早々と返り咲くつもりにならないでください! ち、違います! あの部屋じゃないです! あそこじゃないし、ファウンテでもないです……わ、私が支配する世界で、初めての時を迎えたいんです!」

「アリス姉さんが支配する世界?」

 移動しようと言っているのに、ベストだけでなく、ブラウスのボタンをすでにいくつか外してきた社長の動きが止まった。

「……私の家です。アパートの部屋。普段、一人で過ごしているベッドの上で、社長に処女を捧げたいです……え……あっ!」

 胸の谷間の上の方に、社長の唇が落ちてきて、強めに吸われた。

「君に、結婚を申し込んでから、いったいどれほどの時が経ったと思っているんだ。ずっと待たされていたんだぞ。それぐらいは先にもらってもいいだろ? 胸のキスマークは、独占のあかし。君は、もう僕のものだと分からせてやったまでだ」

 社長の唇の形、あざになるんだろうけど、つけてもらえて嬉しく感じる。私の心の準備も整っているようだ。

「ヒロインのお部屋で婚姻届にサインするシーンが感動的で、そのままヒーローと抱きしめ合うんです。それが素敵だなと思って、憧れてしまって……まあ、再現したいなんてオタク丸出しですが……そこに置いてある文庫本のシーンで、ヒーローの過去の孤独を知ってからだと印象が変わるんです。ヒロインが、そんな彼を説得して悪の道から救った上で、あのエンディングがあるんだって考えると、乙女心がときめくほどだったんです……あっ。その文庫本のシーンを見てからだと、ヒロインのお部屋エンディングのあとにシークレットな一枚絵が表示されるようになるんですよ! それが、とても微笑ましくて……そうだっ! 社長っ! 赤ちゃんがほしいと言った理由なんですけど――」

 二人の出逢いの場所が今どうなっているのかという話を伝えると、社長は、悪役のめんを完全に捨て、相好そうごうを崩した。

「僕が、みずから現代日本に留まりたいと言い出すような切り札を握っていたのだな。敗北が決したよ。ふ。ポケットに、現代日本の婚姻届が入っている。サインしないか? だが、ボールペンは持ち歩いていない。君が管理する事務用品棚から、持ってきてくれるね?」

「はい。事務用品棚の整理整頓は、今日も行いました。すぐにボールペンをお持ちしますね」

 ソファの上から解放された私は、扉を目指した。だけど、社長に呼び止められる。

「来年の手帳、届いているかな? それも持ってきてくれ。ブランドは問わない。他社のノベルティでもいい。婚姻届を提出してすぐに、君の目の前で予定を書き込みたいんだ。来年のスペースに、結婚一周年とね。アリス姉さん、君が管理する事務用品棚から、ボールペンと手帳を持ってきてほしい」

「分かりました。社長、事務用品棚係は、その業務命令を今すぐ遂行します!」

 どうにも器用に振る舞えない心と身体しか持っていないけど、小さな事でもいいから、これからもこの人に求めてもらえるのなら、魂宿り生まれ落ちた事にきっと大きな価値がある。私が、この人に恋心をいだかせる事は、のちまで含め、世間に顔向けできると誇れるものなんだ。
 気を引き締め、この時ばかりは冴えない事件を起こさず業務をこなした。
 社長室に戻った私を待っていたのは、情熱的な抱擁ほうようと「僕の一族が、悪を貫かなくてもよいこの世界で、子を産んでくれ」というお言葉と幸せいっぱいのキスだった。

 二人が結ばれた事も嬉しいけど、幼い頃に出逢った、幼馴染だった『あのヒーローとヒロイン』みたいに、二つの世界を渡って苦難を乗り越えたあと、愛の結晶として生まれた子供に温かい視線を送る一枚絵を、私たちもたくさん得られたら、もっと嬉しい。

 誰かと結婚するって、生まれ育った世界の外に出る事なのかもしれないけど、愛する人と共に、新世界に向けて旅立ち、冒険を楽しもうと思う。
 しんの大魔王が突然現れるような、大変な旅路になるかもしれませんが、私が護ってあげますから、社長も私を護ってくださいね。
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