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第四章 選んだ道
導きの名を持つ子
しおりを挟むsideユリカ
「そろそろ、ベビー用品を揃えておきたいですね」
シェイの言葉に、ユリカはそっと頷いた。
市場は新年の活気と、湯気をまとった温かな匂いで満ちている。
行き交う人々の声は、どこまでも続く幸福のさざ波のように耳に届いた。
背の方で衣擦れの気配がして、誰かの視線が一拍だけとどまった。
振り返ると、ただ人波が流れていくだけ。
(考えすぎ――そう言い聞かせても、鼓動は少しだけ早かった。)
店先には、小さな靴や柔らかな毛布、色とりどりの産着が並んでいる。
ユリカは、藍色に金糸で星を散らしたおくるみや、白地に三日月模様のスタイを見つけるたび、吸い寄せられるように手を伸ばした。
(もし、この子が……)
想像するだけで胸が熱くなる。
その様子に気づいたシェイが、静かに隣に立つ。
「それもいいですが……こちらはどうです?」
澄んだ空を思わせるスカイブルーの産着を手に取って、ユリカに見せる。
「さっきから、男の子向けのものが多くないですか?」
「……つい」
(朝方の夢の色を、まだどこかで引きずっているのかもしれない)
苦笑するユリカに、シェイは穏やかに目を細めた。
「両方、買いましょう」
その言葉に嘘はなく、二人は男の子用も女の子用も、気に入ったものをいくつも包んでいった。
ふと、ユリカは抱えた包みを見下ろし、少しだけ間を置いて口を開く。
「……男の子だったら、『シエル』って名前にしようと思ってるんです」
「もしかしなくても、僕由来ですよね……?」
少し驚いたような声。それにユリカは小さく笑みを浮かべた。
「だめですか?」
「いえ、光栄です。……女の子なら?」
「シェイさんが言っていた、リシェリアです」
その答えに、シェイの表情がふわりと和らぐ。
冬の光を映したような笑顔は、静かに、けれど確かに温かかった。
店をいくつか回り、両手いっぱいの包みを抱えて帰り道を歩いていたときだった。
「まあ……ユリカ。元気そうでよかったわ」
通りの向こうから、懐かしい声が響いた。
振り向くと、教会のシスターが食材の入った紙袋を抱えて立っていた。
「しばらく町で見かけなくなっていたから、心配していたの」
ユリカが答えようとしたその瞬間、店先からシェイが姿を現す。
「妻がお世話になりました」
名乗ることはしなかったが、その穏やかな声音には礼の気持ちがこもっていた。
「もうすぐなのですね」
シスターの視線がお腹に落ちる。
「はい、楽しみです」
シェイが笑顔で返すと、シスターは「元気な赤ちゃんを」と手を振って去っていった。
sideルアルク
数日後、別の街で。
ルアルクは偶然、そのシスターと顔を合わせた。
「そういえばユリカに会ったんですよ。
結婚したみたいで、優しそうな旦那さんが一緒でした。
赤ちゃんも、もうすぐ生まれるみたいでしたよ」
ルアルクは短く息をつき、微笑んだ。
「そうですか……よかった」
胸の奥に鈍い痛みが走った。
祝福したい気持ちと同じだけ、胸をかき乱す衝動がある。
――その隣に立ちたかったのは、自分だったのに。
子どもの話題に、どうしても「もし自分の子だったら」と考えてしまう。
それが許されない願いだとわかっていても、想像を止められない。
必死で平静を装いながら、果たして僕はきちんと笑えていたのだろうか――と、心の中で独り言ちた。
手を伸ばせば、もう届かない場所にいる。
それでも、彼女の幸せを壊すことだけはしたくない――そう思う自分と、
「ただ好きでいたい」と願う自分が拮抗して、胸はざわつき続けた。
……勝手に好きでいるくらい、許してくれるだろうか。
sideユリカ
あの日の買い物で揃えた小物や衣類が、少しずつ部屋を彩っていく。
産着は柔らかく洗い上げられ、棚には毛布やおくるみがきれいに畳まれて並んでいた。
ミーナもよく顔を出してくれ、そのたびに「もうすぐですね」と笑顔を向けてくれる。
ある日、ユリカが出産に備えて赤ちゃんの荷物を整理していると、
廊下からふんわりと甘い香りが漂ってきた。
「ココアですか?」
「ええ。冷えるでしょう」
シェイが両手にペアのマグカップを持って現れ、ひとつをユリカの前に置いた。
薄ピンクのうさぎのカップは甘さ控えめ、薄青のクマの方は――上にふわふわのクリームが乗った、見るからに甘そうな一杯。
「……すごく甘そうですね」
「でも美味しいですよ?飲んでみます?」
差し出された薄青のマグカップを、つい受け取って口をつける。
とろりとした甘さが広がり、気づけば半分ほど飲んでしまっていた。
「ね、美味しいでしょ?」
シェイが楽しそうに笑う。その笑顔に、胸の奥がじんわりと温まった。
sideユリカ
――眠れない。
横向きになるたび、おなかの重みがゆっくり形を変えて、息が浅くなる。
毛布の端を指でつまんだ。
窓の外で、雨の気配だけが薄く揺れている。
廊下の気配に気づく。
扉の向こうで、そっと足音が止まった。
「――温かいもの、いる?」
「うん。ありがとう、ちょっと眠れなくて」
「ミルクに蜂蜜を落とすね。扉は閉じたままでいい?」
「うん、今日はこのままで」
少しして、扉のそばの小机に湯気の匂い。
白いミルクの甘い香りが、ゆっくり部屋に満ちる。
「ここに置いておくね」
「ありがとう」
いつものマグカップを両手で包む。
温度が手首から胸へ、胸からおなかへ降りていく。
「呼吸、合わせようか。四つ吸って、六つ吐く。僕が数える」
扉一枚隔てた向こうで、やわらかな声が数を刻む。
四、六。四、六。数字のあいだに、雨の音が溶けていった。
少しだけ呼吸が深くなる。
「大丈夫?」
「うん。こうして話してたら安心してきたみたい。今はだいぶ楽。ありがとう」
「よかった。無理はしないで、今夜はここまで」
扉は開かない。
内鍵はそのまま。
けれど、向こう側に座っている気配がある。
背中合わせみたいに、同じ壁に寄りかかっているのがわかる。
「転んだら危ないから、明かりは一つ残して寝よう」
「うん」
数える声が遠のいていく。
マグカップが空になって、毛布の端から指が離れた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
内鍵をそっと確かめる“かちり”の音が、子守唄みたいに小さく響く。
目を閉じた。
扉は閉じたまま、安心だけが開く。
今夜は、それで十分だった。
sideユリカ
夜半、ふいに体の奥で波が押し寄せた。
ユリカは浅く息を吸い、眉を寄せる。
ベッド脇の椅子に座っていたシェイが、すぐにその変化を察した。
「……来ましたね」
低い声でそう告げ、彼は迷いなく立ち上がる。
事前の取り決め通り、使いの者を走らせ、クラリッサ先生を呼びに行かせた。
やがて先生とミーナが駆けつけ、手際よく準備が進む。
陣痛の間隔はまだ長い。
その合間に、シェイは濡らした布で額の汗をそっと拭った。
「……そばに、いても?」
「……ええ」
小さく頷くと、その手は離れず、次の波が来るまでしっかりと握られていた。
――そして、幾度かの波を越えて。
産声が部屋に広がった瞬間、空気が震える。
「おめでとうございます。女の子ですよ」
包まれた小さな体がユリカの腕に渡される。
そっと顔を覗き込むと、かすかに開かれた瞳は、透き通るような藍色だった。
――星空のような、藍色の目。
胸が、締めつけられる。
(――ほんの一瞬、もう一度“あなた”に会えた気がした)
でも、腕の中で息づいているのは、いまここに生まれた藍だ。
幸せで、どうしようもなく切ない。
視界が滲み、ユリカは小さな星空を落とさないように抱き寄せた。
胸の奥で、紙に書いたひとつの音がほどけて形になる。
「……リシェリア」
その横顔を、シェイは静かに見つめていた。
その視線は静かで、揺るぎない決意の色が宿っていた。
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