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第七章 認め合う絆
共犯という選択
しおりを挟むsideルアルク
教会を出てからというもの、街の空気がこんなにも柔らかいものだということを、ルアルクは忘れかけていた。
石畳の通りに家々が並び、雨上がりの空には虹がかかる。
行き交う人々は笑顔で声をかけてくる。
「おめでとうございます!」
「まあ、なんて愛らしい……お父様にそっくりですね!」
リシェリアがユリカの手をぎゅっと握り、もう片方の手でルアルクの指を掴む。
小さな掌の温もりが伝わり、胸の奥が熱くなる。
――もう、誰にも彼女を“父のいない子”とは呼ばせない。
その事実が、これほど心を軽くするとは思わなかった。
「ねぇねぇ!パフェ!パフェ食べたい!」
無邪気な声に、さらに笑いが広がる。
ユリカが「今日は特別だから」と頷くと、ルアルクは穏やかに提案した。
「僕はリシェリアと一つを分け合います。ユリカは好きなものを」
運ばれてきたパフェを前に、シェイの碧い瞳がふっと輝く。
普段は滅多に見せない表情に、ルアルクは思わず口元を緩めた。
「パパ、嬉しそう!」
リシェリアが笑い、シェイは小さく咳払いで誤魔化す。
「色合いが綺麗ですね。芸術品のようだ」
ユリカはその様子を見て頬を赤らめる。
横顔を視界の端に捉えるたび、ルアルクの胸がちくりと痛んだ。
だが、娘が彼の腕を引き「お父様、こっちの苺も食べて!」と差し出す。
彼は素直に頷き、娘とひと口を分け合った。
甘酸っぱい果汁が舌に広がる。
いつもなら一口で十分な甘さも、いまは不思議と心地よい。
――どうか、この日々が長く続きますように。
そう願いながら、ルアルクはもう一度小さなスプーンを手に取った。
◇
門をくぐった瞬間、外の明るさが背後に遠のき、足元の空気が一気に冷えた。
石造りの回廊に響く靴音。
そのたび、周囲からの視線が突き刺さる。
「……やはり、あの子を囲っていたのだな」
「直系の名を汚して……」
「どれほどの顔で認められたものか」
抑えた声が、壁を伝って耳に届く。
ルアルクは歩みを止めず、ただまっすぐに前だけを見据えた。
冷笑は確かに冷たい。
だが――父として与えられるものなら、受け入れてみせる。
あの子の傍らに立てるのなら、それだけで誇らしい。
胸の奥がひりつくように痛む。
それを表に出すことなく、唇の端をわずかに引き上げ、静かに息を吐く。
シェイさんの言葉どおり、先に動いたのは正しかった。
だが――これからが本当の戦いだ、とルアルクは思う。
その時、回廊の奥から足音が近づき、従者が深く頭を垂れた。
「ルアルク様。上より、お呼びがございます」
冷気がさらに濃くなる。
祝福の余韻は遠い。
今、待っているのは――新たな試練だった。
◇
通されたのは、こぢんまりとした応接室だった。
扉を開けた瞬間、意表を突く光景に足が止まる。
「んー!美味しい!」
卓にずらりと並んだ皿。
肉も魚も甘味も、ごちゃ混ぜに手を伸ばしている娘がひとり。
口いっぱいに詰め込み、はむはむと頬張る姿は、貴族の娘とも神官の候補とも到底思えない。
こちらに気づいた少女が、パンを片手に振った。
「ふーん?あんたが今日のお相手?いいんじゃない?」
野生児のような笑顔。
あまりに拍子抜けして、思わず言葉を失った。
パンを頬張ったままの彼女は、悪びれる様子もなく笑っている。
マナーなど一切なく、貴族の令嬢に求められる優雅さからはほど遠い。
けれど、その無邪気な笑顔に妙な清々しさがあった。
こういう人もいるのだと気づき、肩の力が少し抜ける。
教会から突きつけられる圧力や、直系という重荷とはまるで無縁のように見える少女。
だが同時に――なぜ彼女のような娘が、縁談に担ぎ出されたのか、その意図を考えずにはいられなかった。
「……あなたは、ここでの暮らしに、不満はないのですか」
気づけば問いかけていた。
「ん?別にー。美味しいもの食べられるし。
けど、結婚できなかったら困るんだって。
あたし、後ろ盾ないから」
あっけらかんとした声。
しかし、その言葉に潜む現実の重さに、胸がざらりとした。
(……後ろ盾がない?だから押し付けられた……?)
ふと彼女の瞳がこちらを見上げた。
笑っているはずなのに、奥底に影が差している気がした。
「だからまぁ、よろしくね。――ルアルクさん、だっけ?」
にっと笑った少女が、屈託なくそう呼んだ。
その瞬間、背負わされた重さを少しも見せない彼女の強さに、わずかに心を揺さぶられた。
けれど同時に、胸の奥でざわめきが広がる。
この娘の立場を理解しきったとき――自分はきっと、選ばされるのだろう。
◇
応接室を出ると、さっきまでの奇妙に明るい空気が、扉の向こうに閉じ込められていく。
回廊を歩くうち、再びあの冷たい気配が肌にまとわりついた。
ふと、脇の扉の隙間から人の声が漏れてきた。
足を止めるつもりはなかった。だが、耳に入った言葉が、思わず彼を立ちすくませた。
「……やはり、あやつはまた断ったか」
「ええ。ですが問題ありません。次がある」
「次が駄目なら、あの娘を連れてこよう。
あやつがどうしても“あの女”を忘れられぬなら、いっそ――」
続く言葉に、血が凍った。
「純白を産んだ女を囲い込み、複数の相手をあてがう。
あの子も、将来は聖母となる器だ」
「ええ。リリとやらも、混ざらぬ魔力を持つなら利用価値はある。
後ろ盾がない分、いくらでもやりようがあろう」
乾いた笑い声が交じる。
胃の奥が締めつけられ、吐き気がこみ上げる。
それが教会の本心なのだと、ルアルクは冷たく痛感した。
ユリカもリシェリアも、ただ「道具」としか見られていない。
自分の選択が導く未来が、こんな冷たい計略へ繋がってしまうのか――吐き気がこみ上げる。
その時、気配に振り向くと、壁際にさきほどの少女――リリが立っていた。
先ほどの無邪気さは消え、瞳だけが真剣に細められている。
彼女もまた、この声を聞いていたのだ。
誰もいない石の廊下に、しばし沈黙が落ちた。
リリは壁にもたれかかり、さっきまでの陽気さをすっかり消していた。
大きな瞳が暗がりの奥で光り、真っ直ぐにこちらを射抜く。
「……聞こえちゃったね」
声は軽いのに、底はひどく静かだった。
ルアルクは言葉を探す。
だが喉の奥には、さきほどの言葉の棘がまだ刺さっている。
リリは肩をすくめ、つと口を開いた。
「どうせあたしなんか、混ざらない魔力だから。
白を増やすために、どっかに閉じ込められて“使われる”んでしょ」
無邪気に笑っていた少女の口から放たれるには、あまりにも残酷な現実。
その受け止め方が、あまりにも達観していて胸が痛む。
「……そんなのは、いくら理由を並べ立てても人権侵害だ。
君は、それでいいのですか」
「よくないよ。でも、どうしようもないじゃん」
彼女はわざとらしく大げさに息を吐き、ふと視線を戻してきた。
「ねぇ、あんたの子ども、可愛い?」
唐突な問いに、戸惑う間もなく答えていた。
「ええ。……もちろん」
「そっか」
リリの口元に、再び笑みが戻る。
「いいね。気に入った。
――じゃあさ、あんたと結婚してあげてもいいよ」
「……は?」
「契約結婚。あたしは絶対、あんたに恋しない。
あたしは自由でいたいし、掴まるのは嫌。
でも、あんたは子どもを守りたいんでしょ?
だったら利害は一致してるじゃん」
小さく首をかしげ、楽しげに笑う。
けれど、その瞳の奥にかすかな諦念が見えたのを、彼は見逃さなかった。
「……共犯、というわけですか」
「そう、それ!」
ぱんと手を打つ音が響く。
差し出された手はひどく軽やかで、同時にどこまでも重い。
ルアルクは静かにその手を握り返した。
この手を取った瞬間から、もう戻れない――そう悟る。
胸の奥が痛んだ。だが、それでもいい。
ユリカとリシェリアを守るためなら、この役目も引き受けよう。
◇
リリとの契約を交わしたその日から、彼の胸には一つの決意が芽生えていた。
彼女を迎え入れる前に、どうしても果たさなければならないことがある。
――ユリカと、リシェリアに会わせること。
ルアルクにとっての大切な人々と、リリがどう向き合うのか。
それを見ずして、この共犯関係を進めるわけにはいかない。
シェイさんには、その決意だけを伝えた。
彼は少しだけ眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
「……そうですか」
ただ、それだけ。
けれどその声音の奥に、心配と、そして彼を信じている気配が確かにあった。
sideルアルク
その日、ルアルクはリリを伴ってシェイの屋敷を訪れていた。
教会の壁に囲まれた自室では、もはや彼女たちを迎えることはできない。
あの場所は――安全ではないからだ。
ここまで追い込まれて、彼は初めて教会の危うさを正しく理解した。
静かな応接間に、薪のはぜる音が響いていた。
ルアルクは椅子に座るユリカと、その隣にちょこんと腰かけるリシェリアを見やり、小さく息を整える。
ここでの顔合わせが――すべての鍵になる。
「ねぇ、ルアルク。今日、会わせたい人って……」
ユリカが問いかけた瞬間、扉が勢いよく開いた。
「やっほー!」
飛び込んできたのは、金の髪を揺らす小柄な娘。
ルアルクの隣に立ったかと思えば、すぐに視線を少女へ向ける。
「わぁぁっ!めっちゃ可愛いじゃん!!ルーそっくり!!」
叫ぶなり、リシェリアをひょいと抱き上げてしまった。
「えへへ……でも、強いです……!」
戸惑う声と共に、リシェリアのお気に入りの赤いリボンが揺れる。
だがすぐに、藍色の瞳が嬉しそうに細められた。
「ねぇねぇ!今日からあたしのこと、“リリママ”って呼んで!!」
「リリママ……?」
小首をかしげ、少女は言葉を繰り返す。やがてぱっと笑顔を弾けさせた。
「うん!リリママ!」
無邪気な声に、部屋の空気がふっと和らぐ。
ユリカも思わず微笑んだ――まるで張りつめた糸がほどけるように。
すると今度は、リリが彼女へ向き直る。
「わぁぁ、ユリカちゃん!可愛い~!
ルー、めっちゃ見る目あるじゃん!
こんな可愛い人と可愛い娘がついてくるとか最高!!」
勢いのままに両手を広げ、ユリカへ抱きつく。
突然のスキンシップにユリカが驚いたように目を瞬かせたが、やがて苦笑しながらその腕を受け入れた。
「……本当に、あなたって……」
「でしょ~?あたし、ユリカちゃんのこともリシェリアちゃんのことも、めっちゃ気に入った!」
その笑顔に、ルアルクは胸の奥の緊張が少し解けていくのを感じた。
利害の一致だけではない。
彼女は――きっと本気で、大切に思おうとしてくれている。
「……こういう人です」
静かに言葉を添えると、リリは振り返り、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、よろしくね。今日から“共犯”なんだから!」
sideルアルク
夜更けの記録庫前は、蝋と古紙の匂いが濃かった。
廊下の端、鉄扉の脇に「文書取次」と刻まれた無人の投函口がある。
外から差しこむだけで、内側の刻印盤が自動で受領印を落とす仕組み――人を介さない、それだけが今の救いだった。
机代わりの細い腰壁に、二枚の紙を並べる。
上は教会の婚姻届。下は二人だけの覚書。
「最終確認ね」
リリが身を寄せ、指で覚書の条文をとんとんと叩いた。
「寝室は別。恋愛はしない。『そういう意味の接触』は――指先ひとつでもしない」
「……加えて」ルアルクは末尾に小さく書き足す。
「教会改革が進み安全が確保され次第、君を自由にする。逃がす段取りは僕が負う」
リリは笑って、しかし目は真剣だった。
「了解、推し夫婦の護衛任務。ユリカちゃんが笑ってくれたら満点。
ルーが隣で胸張れてたら花丸」
「シェイさんになり替わろうなんて思ってないんだけどな」
苦笑いしつつ、書面を睨むように見据えた。
ペンを握る。普段なら整った書体で書くはずの名を――今日は、違う。
ガリ――。
紙が鳴くほどの筆圧で、名前を殴り書く。
滲んだインクが夜気で冷え、黒く固まった。
隣でリリが「じゃ、合わせるね」と悪戯っぽく口角を上げる。
ガリ、ガリッ。
見事なやけくその署名。
最後の一画でハートを描きそうになって、ぴたりと止めた。
「セーフ。私情は覚書だけにしとく」
婚姻届を二つ折りにし、紅糸でひと結び。
覚書は革の書類箱へ――鍵をかけて、胸の内ポケットに押し込む。
「行くよ、相棒」
リリが拳を差し出す。
ルアルクは短く息を吐き、拳をそっと合わせた。
二人で投函口の蓋を持ち上げ、婚姻届を落とす。
カシャン、と小さな金属音。内部の刻印盤が降り、受領の印が押された合図だ。
人の手は、要らない。
「……これで、戻れない」
「戻らないよ」リリは肩をすくめる。
「前だけ見よっ」
蝋燭の炎が細く揺れ、廊下の石に二人の影が並ぶ。
革箱の中で覚書が静かに眠る――約束の重みといっしょに。
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