天井人は気象にて

羽上帆樽

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第1部 言い、付ける

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 閉鎖された教室は、今日も鬱々としていた。「鬱々」という言葉は、さっき読んだ本から覚えたばかりのもので、俺にとっては全然馴染みのないものだ。でも、たぶんこういうのをそう表現するのだろうと分かるくらいには、教室は今日も鬱々とした状態にあった。

 教師が何か訳の分からないことを喋っている。分数、少数、割合……。こんなことを勉強したところで、一体何の役に立つのだろうと思う。そう思って、そのとおりに教師に質問をぶつけたことがあるが、教師は「その内分かります」と答えただけで、ほかには何も答えてくれなかった。たぶん、子ども達のことを舐めているのだと思う。でも、そんな結論に至ると、決まって、本当にそうなのだろうかと、頭の中にいるもう一人の俺が俺に向かって囁いてくる。黒板の前に立っている教師は、少なくとも俺よりは数年分の人生を経験しているわけで、それはつまり、教師は「その内分かります」と言った、その「分かった」状態にある可能性も充分考えられるわけで、そうなると、それに対して反発を抱く自分の態度は必ずしも妥当性があるとは言えないわけで……。

 頭の中のもう一人の俺が鬱陶しい。

 こんな奴さえいなければ、余計なことを考えなくても済むのに……。

 そんなことを思いながら机に肘をついて授業を受けていると、隣の席の、その隣の席の、さらにその隣の席に座る、あいつ、と目が合った。

 肘をついた手が切れ目になって、その向こう側にあいつの姿が見える。

 俺と目が合うと、あいつは少しだけ笑った。あいつはいつも少しだけ笑う。快活に笑ったり、寂しげに笑ったりしたところを、俺は見たことがない。国語の授業で教師に当てられて教科書を読むときも、数学の授業でそろばんを弾いて思い通りの答えが出たときも、あいつは決まって少しだけ笑うのだ。そして、体育の授業でペアになる相手が見つからないときも、床に転がって黒くなった給食の残りかすのパンを投げつけられたときも、少しだけ。

 俺も何度か、その、床に転がって黒くなった給食の残りかすのパンを、あいつに投げつけたことがあった。周りの連中が笑い声を上げながら楽しそうに投げつけていたから、俺も一緒になって、重い口角を無理矢理持ち上げて、もともと狭くて声の出にくい喉を引き絞って、あいつ目がけてパンを千切って投げつけた。あいつは、持っていた箒の柄を握る力を少し強めて、けれど黙ってその場に立ったまま、大人しくパンを投げつけられていた。やがてパンの襲撃が終わると、それまで下に向けていた顔を上げて、やはり、少しだけ笑った。それを見て、周りの連中は、笑っている、気持ち悪いと言って、今度は床に転がって黒くなった誰かの落とし物の消しゴムを投げつけ始めたが、俺はもうどうでも良くなって、その場から立ち去った。

 授業が次々と進んでも、床に転がって黒くなった給食の残りかすのパンや、誰かの落とし物の消しゴムを人に投げつけたくなる理由や、そういうことをする人間がいつでもどこでも一定数必ず存在する理由を、教師は教えてくれない。そんなふうに今目の前で生じていることの理由も分からないまま、一方で、何の役に立つのか分からない、分数や、少数や、割合のことを教えられる鬱々とした毎日を、俺はこの教室の中で過ごしている。

 あいつはどう思っているのだろう、とふと思う。

 俺と同じように、やはり鬱々とした毎日を過ごしているのだと、そう思っているのだろうか。

 そんなことを思って、目だけであいつの方を見ると、あいつもまた、俺の方を見た。

 たまたま同じタイミングでこちらを見たのか、それとも、ずっと見ていたのか……。

 あいつはまた、少しだけ笑う。

 授業が終わり、ホームルームも終わり、掃除も終わって、俺達はやっと解放された。帰る前に図書室に寄ったから、校門を出た頃には空はすでに赤く染まっていた。

 校門の前にある横断歩道が青になるのを待っているとき、宿題をやるのに必要なそろばんを教室に忘れてきたことを思い出した。俺は一度舌を鳴らして、ちょうど青になった横断歩道に背を向けて校舎がある方に戻る。

 外履きから上履きに履き替え、静まり返ったリノリウムの空間を進む。

 教室の扉に手をかけたとき、それを開くのを俺は躊躇した。

 中に誰かがいる。

 気配でそれが分かったからだ。

 扉を薄く開き、その隙間から室内を覗くと、席に座ったあいつの姿が見えた。

 影の落ちた机の上で本を開いている。

 やがて、あいつは、俺の方を見た。

 ほんの少ししか開いていないはずの隙間から、何の迷いもなく正確に視線を向けて、こちらを見た。

 俺は何もなかったかのように扉を開くと、真っ直ぐ自分の席に向かって、机の中にあるはずのそろばんを探す。目的のものを見つけると、その場で鞄の中に仕舞った。その間、あいつはずっと俺の方を見ていた。最初は無視しようと思ったが、ずっと、少しだけ笑って見ているから、段々と苛ついてきて、俺は結局言葉を口にしてしまった。

「何だよ」

 俺がそう言うと、あいつは小首を傾げて見せた。そのまま何も言わない。

 俺はあいつを一度明確に睨みつけてから、出口に向かう。

「本、好きなムんだね」

 と、背後から一言、そう聞こえた。

 声をかけられるとは思っていなかった。

 そして、それがあいつの声だと理解するのに、少し時間がかかった。

 ずっと聞いていなかった声。

 床に転がって黒くなった給食の残りかすのパンを投げつけられても何も言わなかったのに……。

 澄んだ声だった。

 俺は黙って振り返る。

 あいつは、やはり少しだけ笑っていた。

 唐突に、教室の後ろにあるもう一つの扉が開かれて、クラスメートの男子が姿を現した。片手にバッドを持ったままの格好で、そいつは俺とあいつを交互に見た。

「お前達、何してんの」

 気持ち悪、と続けて、そいつは走って逃げていった。
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