The Signature of Our Dictator

羽上帆樽

文字の大きさ
2 / 10

第2章 さらに継続

しおりを挟む
 車の振動に揺さぶられながら、僕たちは夜の街を通り抜けていく。すぐ隣にはリィルが座っていて、僕の前の席に運転手の男性がいた。この車は、かなり古いものだが、それは見た目だけで、内部構造はすべて電子化されているみたいだ。生卵の殻を被った茹で卵のようなものといえる。

 僕たちを出迎えてくれた彼はまだ若かった。ざっと見て二十代くらいだろうか。きちんとした服を着ているところを見ると、それなりの役職の人間らしい。名前は尋ねなかったし、向こうも自ら名乗ることはしなかった。おそらく、僕たちが彼と関係を持つことはないだろう。この送迎のためだけに用いられた人員だといえる。

「いやあ、それにしても、お若いですねえ、二人とも」その運転手が話した。「おいくつなんですか?」

「さあ……」僕は答える。「知りません」

「まあ、そういう人もいますね。そちらのお嬢さんは?」

「今年で四十になります」リィルが答える。

「え?」運転しながら、彼は後ろを振り向いた。「本当ですか?」

「ええ」

「はあ、そうですか……」

 そう言ったきり、彼は何も話さなくなった。

 窓の向こうでは、街を出歩いている人がちらほらと見える。家は洒落ているものが多く、同じ国のものとは思えないようなものもあった。この街の住民も、身につけている衣服は様々だ。フォーマルな格好をしている者もいれば、ラフな格好をしている者もいる。僕たちは、どちらかというと、今はラフな格好をしている。これは、若さを主張するためではなかった。堅い人間だと思われないようにするためだ。そういう人柄だと思われると、思いがけない仕事が飛び込んでくることがある。そうした事態は極力避けたかった。

「ねえ、あのさ」リィルが小声で言った。「ちょっと、気になることがあるんだけど……」

「何?」僕は尋ねる。

「この街さ、なんか変じゃない?」

「何が?」

「なんか……、皆、気ままに動いていない気がする、というか」

「え? どういう意味?」

「いや、気のせいかな……」

 僕は窓の外に目を向ける。別に、何も変わっているところはないように見えた。普通の生活が展開されているように思える。

「何もおかしいとは思わないけど」

「そう……」リィルは頷く。「なら、いいんだけど……」

 車は細い道を入っていく。左右は草原で、道も舗装されていなかった。平たい草原というよりも、小高い丘を上っているような感じだ。暫くすると、前方に明るい光が見えた。そこに建物があるようだ。

 車はその光の前で停車した。

「さあ、着きましたよ。お疲れ様です」運転手が後ろを振り返って話す。

 シートベルトを外して、僕たちはドアを開けて外に出た。この車は前にしかドアがないので、前の椅子を倒して、その隙間を通って僕たちはドアを抜けた。

 外は寒かった。

 すぐ傍に夜の海がある。

 そして、前方。

 そこに目的地の建物があった。

 一見すると、「山」という漢字と同じ形をしているように見える。中央に大きなドーム状の構造があり、その左右にそれより小さなドームがそれぞれ配置されている。窓はなく、壁面はクリーム色だった。ドームの頂上にかなり強い光を発する照明が設置されており、それはくるくると回っている。どうやら、この建物は灯台の役割も担っているようだ。丘の上に建てられているし、海の傍にあるのだから、きっとそうだろう。しかし、文書の解析と翻訳を行う施設が、どうしてそのような役割を兼ねているのか、僕には分からなかった。わざわざ別に灯台を建てる費用がなかったのかもしれない。

「さあ、どうぞ」

 立ち止まって建物を眺めていた僕たちに向けて、運転手の男性が手招きする。僕とリィルは彼についていき、ドームの入り口の方へと近づいていった。

 入り口には重厚な扉が設置されている。ドアではなく、両開きの扉だった。城の入り口とも思えるようなデザインだが、素材は近未来的なものが使われている。少なくとも、木造ではない。

 運転手の男性が近づくと、扉が勝手にこちら側に開いた。

 僕たちは建物の中に入る。

 その先は、赤い絨毯が敷かれた広大なロビーだった。

 天井には、木造の梁のようなものが巡らされている。左右にドアがあり、そちらは先ほどの小さなドームに続いていると思われた。目の前にフロントのようなスペースがあり、その向こうに雑多なものが置かれているのが見える。

 まるでホテルみたいだな、と僕は思った。

「まるでホテルみたい」僕の隣で、リィルが言った。

 僕は彼女の顔を見る。

「君さ、超能力者じゃないよね?」

 右手に硝子製のテーブルや革張りの椅子が並べられた一画があり、運転手の男性にそこで暫く待つように言われた。これから担当者を連れてくるようだ。

 僕たちは、指示された通り椅子に腰かける。僕の対面にリィルが座った。

 今、このロビーには、僕たちのほかに誰もいない。

 とても静かだった。

 耳を澄ますと、波の音が微かに聞こえてくる。しかし、ある程度の防音加工が成されているようで、必要以上に音が大きく聞こえることはなかった。

「ああ、疲れた……」リィルが勢い良く背凭れに寄りかかった。

「そんなに?」僕は応答する。「移動しただけじゃないか」

「移動が一番疲れる」

「まあ、たしかにね」

「さっきの人さ、妙な感じだったよね」リィルは言った。「なんか、歳の割に落ち着いている感じで……」

「君だってそうじゃないか」

「え?」

「四十歳なんだろう?」

 リィルは僕を睨みつける。

「嘘に決まっているじゃん」

「あれ、そうなの?」

「馬鹿にしているのかな?」

「いや、本気だけど……。へえ、そう……。てっきり本当なのかと思った」

「そんなふうに見える?」

「頑張って見ようと思えば、あるいは」

「頑張らないでよ」彼女は困ったような顔になる。「なんかずれているよね、君って……」

 よく言われることなので、僕は黙って頷いた。

 左の方から音がして、僕はそちらに顔を向ける。見ると、ドームのドアが開き、男性が一人こちらに近づいてきた。

 僕とリィルは立ち上がる。

「ようこそ」僕たちの前に立って、彼が挨拶をした。「お疲れでしょう。すぐにお部屋にご案内致します」

 男性が片手を差し出してきたので、僕は彼の手を握った。リィルもそれに続く。

「えっと、貴方は……」

「ああ、申し遅れました。私は、この施設のサブリーダーを務めている者です。名前をロトといいます。どうぞ、よろしくお願い致します」

 そう言って、男性は再び頭を下げる。非常に礼儀が正しい印象を受けた。

「お部屋にご案内する前に、まずは、ええ、そうですね……。少しこちらでお話をしましょうか」そう言って、ロトは僕たちに座るように勧める。彼は立ったままだった。「詳しい内容は明日お話ししますので、今日のところは概要だけお伝えしておきます」

 僕は黙って頷く。

「まずですが、食事はすべてお部屋にお届けします。全員での会食、という文化はここにはありません。入浴設備もお部屋に備わっておりますので、そちらをご自由にお使い下さい。衣服に関しましても、まことに心苦しいのですが、ええ、その、ご自分で洗って頂くことになります。とはいっても、部屋に備わっている洗濯機に衣服を入れて、スイッチを押すだけですので、どうぞ、そちらをお使い下さい。ベッドのシーツも定期的に洗濯して頂くようにお願いします」

 僕は再び頷く。なんだか本当にホテルに宿泊しに来たみたいだな、と思った。周囲の環境がそうした錯覚を一層引き立たせる。

「ええ、それでは、お仕事の方ですが……。……お二人には、主にプログラミング言語を扱った翻訳作業を行って頂きます。そちらがご専門と伺っておりますので、それほど苦労しないとは思いますが、一応、担当者を一人添えさせて頂きます。今回は彼女がサポーターとしてお二人を支えますので、詳しいことは、明日彼女に直接お尋ね下さい」

 そう言って、ロトは自分の説明を終了した。いたって当たり前の内容で、僕は若干拍子抜けしてしまったが、彼の丁寧な人柄はよく分かった。

「実は、現在我々のリーダーが不在でして、その……、そういうわけで、サブリーダーである私がお二人の案内役を務めさせて頂くことになりました。直接ご不便をおかけすることはないと思いますが、ご留意頂けたら幸いです」

「えっと、その方が、僕たちを使命してくれたんですか?」気になったので、僕は質問した。

「いいえ、そういうわけではありません」ロトは自分の前で手を振る。「その決定は、組織の該当する部署で話し合って決めたことです」

 僕は頷いた。

 ロトに促されて、僕とリィルは椅子から立ち上がる。彼に続いてフロントを横切り、建物の奥へと進んでいく。

 歩いていると、隣でリィルが目配せをしてきた。

 意味が分からないので、僕はとりあえず首を傾げる。

 彼女は舌を覗かせた。

「え?」僕は小声で尋ねる。「何?」

「なんか、変な感じがしない?」リィルは言った。

「どういう意味?」

「いや、何も感じないのなら、いいんだけど……」

 フロントの先は廊下になっていたが、それほど長くなかった。すぐに突き当りにドアが出現する。廊下は明るかったが、そのドアの付近は、僕たちが近づくことで初めて明かりが灯った。

 ロトがドアを開ける。

 ドアの先は階段だった。

 なるほど、と僕は一人で頷く。

 どうやら、作業を行う空間は地下にあるようだ。

「我々の主な仕事場は、海のずっと下に存在しています」歩きながら、ロトが説明した。「先ほどのロビーは、本当にロビーとしてしか機能しておりません。作業はすべて地下空間で行います」

「それには、何か理由があるんですか?」僕は尋ねる。

「詳しくは存じ上げておりませんが、なんでも、創始者がそのような環境を好んだとか……」ロトは少し笑った。「どうやら、集中できる環境を望んでいたようです」

 彼が創始者と呼んだということは、この施設のリーダーとその人物は別人なのだろう、と僕は思った。

 階段はコンクリート製で、かなり重厚な作りだった。左右の壁も同じだ。この先は、照明器具がどこにあるのか分からなかった。どこを見てもそれらしきものは見つからない。どうやら、天井そのものが照明として機能しているようだ。

 階段を下りた先は、ロビーとは雰囲気がかなり違っていた。

 一本の細長い廊下がずっと向こうまで続いており、その左右に等間隔でドアが並んでいる。ドアの向こう側には部屋があるわけだから、それだけの空間がこの辺りに存在していることになる。廊下の床や壁は灰色だが、コンクリートが剥き出しというわけではない。わざとその色に塗装されているのが分かる。

 僕たちはロトの後ろについて歩く。

 三人分の足音が響いた。

 ほかには何も聞こえない。

 ここが海の底だとは思えなかった。

 やがて、ロトは一つのドアの前で立ち止まった。

「こちらが、お二人のお部屋になります」彼は説明した。「必要なものはすべて揃っていると思いますが、何かご不便がありましたら、内線でお伝え下さい。担当の者が伺います」

 僕は頷き、ロトからカードキーを受け取る。

「何か質問はございますか?」

 ロトに尋ねられたが、僕には特に訊きたいことはなかった。隣を見てリィルにも確認したが、彼女も首を横に振った。

「では、夕食の時間までお寛ぎ下さい。夕食は午後八時にお届けする予定ですが、時間の変更はご希望ですか?」

「いえ、そのままで大丈夫です」僕は答えた。

「では……」

 そう言って、ロトは踵を返し、階段がある方へと戻っていった。

 僕はカードキーを使ってドアを開ける。ドアは向こう側へ開き、室内の照明が自動的に灯った。

 部屋の構造はいたって簡単な作りになっていた。まず、中央に広いリビングがあり、その左右にそれよりも小さい個室がある。左が寝室で、右が仕事部屋だ。浴室と洗面所はドアのすぐ傍にあり、玄関から見て右手にある。

 僕たちはリビングで荷物を下して、部屋の中央にあるソファに腰かけた。

「疲れた」リィルが言った。

「まだ言っているんだね、それ」僕は応じる。

「疲れがとれるまで、いつまでも言い続けるつもりだから」

「ふうん」

 沈黙。

 実は、僕もかなり疲れていた。

 二人とも上着を羽織ったままだったので、立ち上がってとりあえず部屋に適した格好になる。ソファは大きなテーブルを挟んで前後にあり、左手にキャビネットとクローゼットがあった。右手には冷蔵庫が置かれている。テレビはなかった。ここは海底なので、もちろん窓もない。

「あ、そういえばさ」上着をハンガーにかけながら、リィルが言った。「夜ご飯って、私の分も用意しているよね、きっと」

「ああ、たしかに」僕は頷く。

「どうしよう……。……今から断れば、間に合うかな?」

「いや、それはやめた方がいいんじゃないかな。怪しまれるだけだよ。……うーん、そうね……。とりあえず、僕が二人分を平らげよう」

「いやいや、無理でしょ」

「そうかな? 意外といけると思うけど」

「君、そんなに大食いじゃないじゃん」

「大食いじゃなくても、その気になれば食べられるものだよ」僕は説明する。「普段大笑いしない人でも、その気になれば大笑いすることはできるだろう?」

「そういう問題?」

「違う?」

「なんか、違うような……」

「まあまあ、気にせずに」僕は言った。「無理なら冷蔵庫に入れておくよ」

 荷物を適当に取り出して、中身を再度チェックする。忘れ物は何もなかった。当たり前だ。というよりも、そもそも忘れるようなものがない。僕の仕事は、場所と時間と機器さえあればできる。機器もそれほどしっかりとしたものを使うわけではないし、いざとなれば紙とペンさえあれば可能だ。あとは……。知識と、それを補助する辞書が必要になるか。けれど、辞書は携帯端末さえあればどこでも使える。

 ソファは一人がけのものなので、僕たちは互いに対面して座ることになる。同じ部屋にいて、しかもソファに座っているのに、向かい合って座るのがんだか不思議な感じがした。

「ここってさ、勝手に出入りしていいのかな?」自分の髪を弄りながら、リィルは僕に質問した。女性が自身の髪に触れる心理を僕は知らない。

「ここって?」

「この、施設」

「さあ、それはどうかなあ……」僕は考える。「さっき訊いておけばよかったね」

「ロトさん……、だっけ?」リィルは話した。「なんか、不思議な人だよね。あそこまで畏まる必要があるのかな……」

「まあ、サブリーダーだからね……。リーダーよりはしっかりしているのかもしれない」

「どうして?」

「そういうものだよ、サブリーダーって」

「サブリーダーになったことがあるの?」

「いや、ないね」僕は笑う。「僕がなれると思う?」

「なれるんじゃないかな」

「君、それ、今、考えないで答えただろう」

「いや、考えたけど」

「そう?」僕は言った。「それならいいけどね……」

 二人とも疲れているせいか、なかなか会話が続かない。無理して続ける必要もないので、僕たちはそのまま黙り続けた。

 やがて、リィルはソファに座ったまま眠ってしまった。

 安らかな寝顔。

 安らかな吐息。

 テーブルに肘をついて、暫くの間彼女の寝顔を見つめていたが、僕は携帯端末を取り出してニュースを見始めた。

 ニュースといっても、世間一般に関するどうでも良いものは見ない。自分が専門とする分野を取り扱うページを検索し、それを一つずつ開いて確認していく。この分野に関して、僕はそれほど詳しいわけではない。しかし、だからこそ、情報には常に機敏である必要がある。ほかの人に差をつけられたらお終いだからだ(たぶん、それで人生が終わることはないが)。

 特に目を引くニュースはなかったが、それらの記事を読みながら、世の中には色々な考え方をする人がいるんだな、と僕はなんとなく思った。酷く当たり前のことだが、その当たり前を僕は普段あまり意識しない。どちらかというと、自分のことばかり考えてしまう方だ。自分の考えが正しいと思い込み、視野が狭くなってあとで失敗する。だから、意識できる内にしておかないと、失敗する可能性が高くなる。

 そんなことをしている内に時間は過ぎ、間もなく午後八時を迎える頃になった。

 目の前で物が動く気配がし、タイミング良くリィルが目を覚ます。

「おはよう」僕は言った。「よく眠れた?」

「ふわわわあ」リィルはわざとらしい欠伸をする。それから両手を上げ、伸びをした。「うーん、よく眠れたかは分からないけど……。少なくとも、少し疲れはとれたかな」

「それはおめでとう」

 そのとき、テーブルの表面が明るく光り出した。

 僕もリィルもそちらに目を向ける。

 薄い水色の光がテーブル全体を支配し、その真上に半透明のスクリーンが投影された。

 そこに文字が並ぶ。


〉お食事の用意が整いました。お持ちしてもよろしいですか?


 僕はその文面を読む。リィルの瞳も同じように動いているので、表と裏のどちらからでも読めるようになっているようだ。

 文面の下に「はい」と「いいえ」の選択肢が表示されたので、僕は「はい」を選択した。間もなくスクリーンは消え、テーブルはもとの状態に戻った。

「なかなかハイテクだね」僕は言った。

 リィルは黙って頷く。

 しかし、驚くのはまだ早かった。

 たった今スクリーンが出力されていたテーブルの表面に、細長いスリットが入る。そのスリットは幾何学的な挙動で徐々に幅を広げ、次の瞬間、光速とも思える速度でテーブルの下から料理が出現した。

 これには驚いた。

 リィルも目を見開いている。

 料理が出現すると同時に、テーブルの表面にできたスリットは消える。料理が載ったトレイは安定してテーブルの上に鎮座した。

 暫くの間固まっていたが、僕は気になってテーブルの下を確認した。すると、テーブルの脚に囲まれた空間が空ではないことが分かった。四角い箱のような装置がテーブルと床を繋いでおり、そこから料理が運ばれてきたようだ。

「どういう構造をしているんだろう……」僕は呟く。

 リィルも身を屈めてテーブルの下を見ている。

 彼女は顔を上げて、僅かに首を傾げた。

「ここって、海の底だよね?」彼女が尋ねる。

「そうらしいね」

「これ、かなりの費用がかかっているんじゃない?」

「それはそうだろうね。ただではできないよ」僕は笑う。「まあ、いいか。細かいことは気にしないで、料理を食べよう」

「召し上がれ」

 何も断りを入れなかったので、僕とリィルの二人分の料理がテーブルに載っている。トレイに皿がいくつか載せられており、その中に様々な料理が入っている。今日は和食だった。フルコースではない。そんな豪華なものは用意できなくて当然だろう。むしろ、僕はそういったハイスペックな料理が苦手だから助かった。

 手を合わせて、僕は夕飯を食べ始める。サラダを一口食べてみたが、普通に美味しかった。

「どう、美味しい?」リィルが質問する。

「うん」僕は頷く。「少なくとも、自分で作るよりは美味しい」

「美味しいってさ、どんな感じ?」

「え、どんな感じって?」

「説明してみてよ」

 僕は考える。

「うーん、説明しろと言われても……。なんか、電気が走る感じかな。特定の化学物質に反応して、信号が送られる感じ」

「全然分からない」

「匂いと同じだよ。あと、感情とも似ている。美味しいものを食べると、嬉しく感じるというのは、あながち間違えてはいないかもしれないね」

「分からないなあ」

「経験しないと分からないよ。別に、そこまで食事に興味があるわけじゃないだろう?」

「うん、まあね」

「実は、僕もだ」

 僕は食べ物を口に詰める作業を続ける。出し巻き玉子や金平牛蒡など、オーソドックスな和食といった印象だが、どれも普通に美味しかった。しかし、それ以上の味覚は僕には伝わらない。すべて「普通に美味しい」というふうに処理されるだけだ。

 二十分ほどで一人分の料理を平らげたが、とてももう一人分は食べられそうになかった。リィルに指摘された通りだ。

「ほら、やっぱり、無理じゃん」案の定、彼女に言われた。「どうするの?」

「うん、やっぱり、こうなったら冷蔵庫に仕舞っておくしかないね」

「それを毎食続けるつもり?」

「無理かな?」

「一日三食届くんだよ。それを三日も続けたら、九食分が冷蔵庫に入ることになって……。……どう考えてもキャパシティーオーバーになると思うんだけど」

「キャパシティーオーバーって、和製英語?」

「知らない」

「まあ、とりあえず、今日の分は冷蔵庫に仕舞っておこう」そう言って、僕はリィルの分のトレイを持って立ち上がる。しかし、そこですぐに気がついた。「いや……。違った。きっと、この器も回収されるんだ。どうしよう……。料理だけ冷蔵庫に入れておくわけにはいかないし……」

 僕は歩いて冷蔵庫まで近づき、蓋を開けて中を確かめる。当然、食器の類はその中には入っていない。キャビネットはどうかと思ってその中も確かめてみたが、食器らしいものは見つからなかった。

「……食べたら?」

 僕の情けない行動を見ていたリィルが、最終手段の提案をした。

「いや、到底食べられないよ、こんなに……」僕は持っているトレイを見て話す。「もう、自分の分だけでお腹いっぱいなんだ。もう一人分なんて、そんなの……」

「でもさ、ほかにどうしようもないじゃん」

「……そうだね」

 というわけで、僕は無理してもう一人分の料理を胃袋に詰めることになった。

 当然、途中で吐きそうになる。

 そして、実際に少し吐いた。

「いやいや、そこまで無理しなくても……」向こう側の席で、リィルが無責任な発言をした。「うーん、もう、しょうがないから、どこかに隠しちゃえば? あ、クローゼットの中とか? それとも、塵箱に捨てるとか……」

「なんてことを言うんだ」僕は苦しい声で話す。

「だって、しょうがないじゃん」

 僕は鰤大根を一口食べる。鰤の上に生姜はあった。

 大洪水が起こる一歩手前でなんとか料理を食べ終え、僕はソファの背凭れに勢い良く寄りかかった。

「……明日から、一人分にしてもらおう……」僕は言った。

「どうやって?」

「いや、なんか、適当に理由をつけて……」

「どんな?」

「君に考えてほしい」

「え、私が? うーん……」

 僕は苦しくて動けない。別に動く必要もなかった。あとは風呂に入って眠るだけだ。

「あ、じゃあ、私、帰ろうか?」突然、リィルが提案する。「そうすれば、万事オーケーでしょう?」

 僕は彼女を見る。

「何言っているの?」

「駄目?」

「駄目」

 リィルは声を出して笑う。

「まあ、当たり前か」

「君さ、お風呂に入ってきたら?」

「え、どうして?」

「僕は暫く入れそうにないから、先にどうぞ」

「分かった」

 そう言って、リィルはソファから立ち上がる。

「……一人で大丈夫?」

「何が?」僕は尋ねた。

「苦しくて、踠いたりしない?」

「ここは海の中だから、踠くのは正解だ」

 リィルは笑った。

「大丈夫そうだね。じゃあ、行ってきます」

 彼女は浴室へと消える。

 暫くの間、じっとしていよう、と僕は思った。

 リィルがいなくなってから五分くらい経った頃、突然テーブルの上から皿が載ったトレイが消えた。よく見ていなかったが、先ほどと同じようにテーブルにスリットが入り、そこから下に回収されたようだ。

 こんなハイテクノロジーな施設で、僕はいったどのような仕事を任されるのだろう、と多少不安になる。

 その前に、明日の分の朝食を食べられるか心配するべきだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

報酬はその笑顔で

鏡野ゆう
ライト文芸
彼女がその人と初めて会ったのは夏休みのバイト先でのことだった。 自分に正直で真っ直ぐな女子大生さんと、にこにこスマイルのパイロットさんとのお話。 『貴方は翼を失くさない』で榎本さんの部下として登場した飛行教導群のパイロット、但馬一尉のお話です。 ※小説家になろう、カクヨムでも公開中※

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

処理中です...