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第2章 さらに継続
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車の振動に揺さぶられながら、僕たちは夜の街を通り抜けていく。すぐ隣にはリィルが座っていて、僕の前の席に運転手の男性がいた。この車は、かなり古いものだが、それは見た目だけで、内部構造はすべて電子化されているみたいだ。生卵の殻を被った茹で卵のようなものといえる。
僕たちを出迎えてくれた彼はまだ若かった。ざっと見て二十代くらいだろうか。きちんとした服を着ているところを見ると、それなりの役職の人間らしい。名前は尋ねなかったし、向こうも自ら名乗ることはしなかった。おそらく、僕たちが彼と関係を持つことはないだろう。この送迎のためだけに用いられた人員だといえる。
「いやあ、それにしても、お若いですねえ、二人とも」その運転手が話した。「おいくつなんですか?」
「さあ……」僕は答える。「知りません」
「まあ、そういう人もいますね。そちらのお嬢さんは?」
「今年で四十になります」リィルが答える。
「え?」運転しながら、彼は後ろを振り向いた。「本当ですか?」
「ええ」
「はあ、そうですか……」
そう言ったきり、彼は何も話さなくなった。
窓の向こうでは、街を出歩いている人がちらほらと見える。家は洒落ているものが多く、同じ国のものとは思えないようなものもあった。この街の住民も、身につけている衣服は様々だ。フォーマルな格好をしている者もいれば、ラフな格好をしている者もいる。僕たちは、どちらかというと、今はラフな格好をしている。これは、若さを主張するためではなかった。堅い人間だと思われないようにするためだ。そういう人柄だと思われると、思いがけない仕事が飛び込んでくることがある。そうした事態は極力避けたかった。
「ねえ、あのさ」リィルが小声で言った。「ちょっと、気になることがあるんだけど……」
「何?」僕は尋ねる。
「この街さ、なんか変じゃない?」
「何が?」
「なんか……、皆、気ままに動いていない気がする、というか」
「え? どういう意味?」
「いや、気のせいかな……」
僕は窓の外に目を向ける。別に、何も変わっているところはないように見えた。普通の生活が展開されているように思える。
「何もおかしいとは思わないけど」
「そう……」リィルは頷く。「なら、いいんだけど……」
車は細い道を入っていく。左右は草原で、道も舗装されていなかった。平たい草原というよりも、小高い丘を上っているような感じだ。暫くすると、前方に明るい光が見えた。そこに建物があるようだ。
車はその光の前で停車した。
「さあ、着きましたよ。お疲れ様です」運転手が後ろを振り返って話す。
シートベルトを外して、僕たちはドアを開けて外に出た。この車は前にしかドアがないので、前の椅子を倒して、その隙間を通って僕たちはドアを抜けた。
外は寒かった。
すぐ傍に夜の海がある。
そして、前方。
そこに目的地の建物があった。
一見すると、「山」という漢字と同じ形をしているように見える。中央に大きなドーム状の構造があり、その左右にそれより小さなドームがそれぞれ配置されている。窓はなく、壁面はクリーム色だった。ドームの頂上にかなり強い光を発する照明が設置されており、それはくるくると回っている。どうやら、この建物は灯台の役割も担っているようだ。丘の上に建てられているし、海の傍にあるのだから、きっとそうだろう。しかし、文書の解析と翻訳を行う施設が、どうしてそのような役割を兼ねているのか、僕には分からなかった。わざわざ別に灯台を建てる費用がなかったのかもしれない。
「さあ、どうぞ」
立ち止まって建物を眺めていた僕たちに向けて、運転手の男性が手招きする。僕とリィルは彼についていき、ドームの入り口の方へと近づいていった。
入り口には重厚な扉が設置されている。ドアではなく、両開きの扉だった。城の入り口とも思えるようなデザインだが、素材は近未来的なものが使われている。少なくとも、木造ではない。
運転手の男性が近づくと、扉が勝手にこちら側に開いた。
僕たちは建物の中に入る。
その先は、赤い絨毯が敷かれた広大なロビーだった。
天井には、木造の梁のようなものが巡らされている。左右にドアがあり、そちらは先ほどの小さなドームに続いていると思われた。目の前にフロントのようなスペースがあり、その向こうに雑多なものが置かれているのが見える。
まるでホテルみたいだな、と僕は思った。
「まるでホテルみたい」僕の隣で、リィルが言った。
僕は彼女の顔を見る。
「君さ、超能力者じゃないよね?」
右手に硝子製のテーブルや革張りの椅子が並べられた一画があり、運転手の男性にそこで暫く待つように言われた。これから担当者を連れてくるようだ。
僕たちは、指示された通り椅子に腰かける。僕の対面にリィルが座った。
今、このロビーには、僕たちのほかに誰もいない。
とても静かだった。
耳を澄ますと、波の音が微かに聞こえてくる。しかし、ある程度の防音加工が成されているようで、必要以上に音が大きく聞こえることはなかった。
「ああ、疲れた……」リィルが勢い良く背凭れに寄りかかった。
「そんなに?」僕は応答する。「移動しただけじゃないか」
「移動が一番疲れる」
「まあ、たしかにね」
「さっきの人さ、妙な感じだったよね」リィルは言った。「なんか、歳の割に落ち着いている感じで……」
「君だってそうじゃないか」
「え?」
「四十歳なんだろう?」
リィルは僕を睨みつける。
「嘘に決まっているじゃん」
「あれ、そうなの?」
「馬鹿にしているのかな?」
「いや、本気だけど……。へえ、そう……。てっきり本当なのかと思った」
「そんなふうに見える?」
「頑張って見ようと思えば、あるいは」
「頑張らないでよ」彼女は困ったような顔になる。「なんかずれているよね、君って……」
よく言われることなので、僕は黙って頷いた。
左の方から音がして、僕はそちらに顔を向ける。見ると、ドームのドアが開き、男性が一人こちらに近づいてきた。
僕とリィルは立ち上がる。
「ようこそ」僕たちの前に立って、彼が挨拶をした。「お疲れでしょう。すぐにお部屋にご案内致します」
男性が片手を差し出してきたので、僕は彼の手を握った。リィルもそれに続く。
「えっと、貴方は……」
「ああ、申し遅れました。私は、この施設のサブリーダーを務めている者です。名前をロトといいます。どうぞ、よろしくお願い致します」
そう言って、男性は再び頭を下げる。非常に礼儀が正しい印象を受けた。
「お部屋にご案内する前に、まずは、ええ、そうですね……。少しこちらでお話をしましょうか」そう言って、ロトは僕たちに座るように勧める。彼は立ったままだった。「詳しい内容は明日お話ししますので、今日のところは概要だけお伝えしておきます」
僕は黙って頷く。
「まずですが、食事はすべてお部屋にお届けします。全員での会食、という文化はここにはありません。入浴設備もお部屋に備わっておりますので、そちらをご自由にお使い下さい。衣服に関しましても、まことに心苦しいのですが、ええ、その、ご自分で洗って頂くことになります。とはいっても、部屋に備わっている洗濯機に衣服を入れて、スイッチを押すだけですので、どうぞ、そちらをお使い下さい。ベッドのシーツも定期的に洗濯して頂くようにお願いします」
僕は再び頷く。なんだか本当にホテルに宿泊しに来たみたいだな、と思った。周囲の環境がそうした錯覚を一層引き立たせる。
「ええ、それでは、お仕事の方ですが……。……お二人には、主にプログラミング言語を扱った翻訳作業を行って頂きます。そちらがご専門と伺っておりますので、それほど苦労しないとは思いますが、一応、担当者を一人添えさせて頂きます。今回は彼女がサポーターとしてお二人を支えますので、詳しいことは、明日彼女に直接お尋ね下さい」
そう言って、ロトは自分の説明を終了した。いたって当たり前の内容で、僕は若干拍子抜けしてしまったが、彼の丁寧な人柄はよく分かった。
「実は、現在我々のリーダーが不在でして、その……、そういうわけで、サブリーダーである私がお二人の案内役を務めさせて頂くことになりました。直接ご不便をおかけすることはないと思いますが、ご留意頂けたら幸いです」
「えっと、その方が、僕たちを使命してくれたんですか?」気になったので、僕は質問した。
「いいえ、そういうわけではありません」ロトは自分の前で手を振る。「その決定は、組織の該当する部署で話し合って決めたことです」
僕は頷いた。
ロトに促されて、僕とリィルは椅子から立ち上がる。彼に続いてフロントを横切り、建物の奥へと進んでいく。
歩いていると、隣でリィルが目配せをしてきた。
意味が分からないので、僕はとりあえず首を傾げる。
彼女は舌を覗かせた。
「え?」僕は小声で尋ねる。「何?」
「なんか、変な感じがしない?」リィルは言った。
「どういう意味?」
「いや、何も感じないのなら、いいんだけど……」
フロントの先は廊下になっていたが、それほど長くなかった。すぐに突き当りにドアが出現する。廊下は明るかったが、そのドアの付近は、僕たちが近づくことで初めて明かりが灯った。
ロトがドアを開ける。
ドアの先は階段だった。
なるほど、と僕は一人で頷く。
どうやら、作業を行う空間は地下にあるようだ。
「我々の主な仕事場は、海のずっと下に存在しています」歩きながら、ロトが説明した。「先ほどのロビーは、本当にロビーとしてしか機能しておりません。作業はすべて地下空間で行います」
「それには、何か理由があるんですか?」僕は尋ねる。
「詳しくは存じ上げておりませんが、なんでも、創始者がそのような環境を好んだとか……」ロトは少し笑った。「どうやら、集中できる環境を望んでいたようです」
彼が創始者と呼んだということは、この施設のリーダーとその人物は別人なのだろう、と僕は思った。
階段はコンクリート製で、かなり重厚な作りだった。左右の壁も同じだ。この先は、照明器具がどこにあるのか分からなかった。どこを見てもそれらしきものは見つからない。どうやら、天井そのものが照明として機能しているようだ。
階段を下りた先は、ロビーとは雰囲気がかなり違っていた。
一本の細長い廊下がずっと向こうまで続いており、その左右に等間隔でドアが並んでいる。ドアの向こう側には部屋があるわけだから、それだけの空間がこの辺りに存在していることになる。廊下の床や壁は灰色だが、コンクリートが剥き出しというわけではない。わざとその色に塗装されているのが分かる。
僕たちはロトの後ろについて歩く。
三人分の足音が響いた。
ほかには何も聞こえない。
ここが海の底だとは思えなかった。
やがて、ロトは一つのドアの前で立ち止まった。
「こちらが、お二人のお部屋になります」彼は説明した。「必要なものはすべて揃っていると思いますが、何かご不便がありましたら、内線でお伝え下さい。担当の者が伺います」
僕は頷き、ロトからカードキーを受け取る。
「何か質問はございますか?」
ロトに尋ねられたが、僕には特に訊きたいことはなかった。隣を見てリィルにも確認したが、彼女も首を横に振った。
「では、夕食の時間までお寛ぎ下さい。夕食は午後八時にお届けする予定ですが、時間の変更はご希望ですか?」
「いえ、そのままで大丈夫です」僕は答えた。
「では……」
そう言って、ロトは踵を返し、階段がある方へと戻っていった。
僕はカードキーを使ってドアを開ける。ドアは向こう側へ開き、室内の照明が自動的に灯った。
部屋の構造はいたって簡単な作りになっていた。まず、中央に広いリビングがあり、その左右にそれよりも小さい個室がある。左が寝室で、右が仕事部屋だ。浴室と洗面所はドアのすぐ傍にあり、玄関から見て右手にある。
僕たちはリビングで荷物を下して、部屋の中央にあるソファに腰かけた。
「疲れた」リィルが言った。
「まだ言っているんだね、それ」僕は応じる。
「疲れがとれるまで、いつまでも言い続けるつもりだから」
「ふうん」
沈黙。
実は、僕もかなり疲れていた。
二人とも上着を羽織ったままだったので、立ち上がってとりあえず部屋に適した格好になる。ソファは大きなテーブルを挟んで前後にあり、左手にキャビネットとクローゼットがあった。右手には冷蔵庫が置かれている。テレビはなかった。ここは海底なので、もちろん窓もない。
「あ、そういえばさ」上着をハンガーにかけながら、リィルが言った。「夜ご飯って、私の分も用意しているよね、きっと」
「ああ、たしかに」僕は頷く。
「どうしよう……。……今から断れば、間に合うかな?」
「いや、それはやめた方がいいんじゃないかな。怪しまれるだけだよ。……うーん、そうね……。とりあえず、僕が二人分を平らげよう」
「いやいや、無理でしょ」
「そうかな? 意外といけると思うけど」
「君、そんなに大食いじゃないじゃん」
「大食いじゃなくても、その気になれば食べられるものだよ」僕は説明する。「普段大笑いしない人でも、その気になれば大笑いすることはできるだろう?」
「そういう問題?」
「違う?」
「なんか、違うような……」
「まあまあ、気にせずに」僕は言った。「無理なら冷蔵庫に入れておくよ」
荷物を適当に取り出して、中身を再度チェックする。忘れ物は何もなかった。当たり前だ。というよりも、そもそも忘れるようなものがない。僕の仕事は、場所と時間と機器さえあればできる。機器もそれほどしっかりとしたものを使うわけではないし、いざとなれば紙とペンさえあれば可能だ。あとは……。知識と、それを補助する辞書が必要になるか。けれど、辞書は携帯端末さえあればどこでも使える。
ソファは一人がけのものなので、僕たちは互いに対面して座ることになる。同じ部屋にいて、しかもソファに座っているのに、向かい合って座るのがんだか不思議な感じがした。
「ここってさ、勝手に出入りしていいのかな?」自分の髪を弄りながら、リィルは僕に質問した。女性が自身の髪に触れる心理を僕は知らない。
「ここって?」
「この、施設」
「さあ、それはどうかなあ……」僕は考える。「さっき訊いておけばよかったね」
「ロトさん……、だっけ?」リィルは話した。「なんか、不思議な人だよね。あそこまで畏まる必要があるのかな……」
「まあ、サブリーダーだからね……。リーダーよりはしっかりしているのかもしれない」
「どうして?」
「そういうものだよ、サブリーダーって」
「サブリーダーになったことがあるの?」
「いや、ないね」僕は笑う。「僕がなれると思う?」
「なれるんじゃないかな」
「君、それ、今、考えないで答えただろう」
「いや、考えたけど」
「そう?」僕は言った。「それならいいけどね……」
二人とも疲れているせいか、なかなか会話が続かない。無理して続ける必要もないので、僕たちはそのまま黙り続けた。
やがて、リィルはソファに座ったまま眠ってしまった。
安らかな寝顔。
安らかな吐息。
テーブルに肘をついて、暫くの間彼女の寝顔を見つめていたが、僕は携帯端末を取り出してニュースを見始めた。
ニュースといっても、世間一般に関するどうでも良いものは見ない。自分が専門とする分野を取り扱うページを検索し、それを一つずつ開いて確認していく。この分野に関して、僕はそれほど詳しいわけではない。しかし、だからこそ、情報には常に機敏である必要がある。ほかの人に差をつけられたらお終いだからだ(たぶん、それで人生が終わることはないが)。
特に目を引くニュースはなかったが、それらの記事を読みながら、世の中には色々な考え方をする人がいるんだな、と僕はなんとなく思った。酷く当たり前のことだが、その当たり前を僕は普段あまり意識しない。どちらかというと、自分のことばかり考えてしまう方だ。自分の考えが正しいと思い込み、視野が狭くなってあとで失敗する。だから、意識できる内にしておかないと、失敗する可能性が高くなる。
そんなことをしている内に時間は過ぎ、間もなく午後八時を迎える頃になった。
目の前で物が動く気配がし、タイミング良くリィルが目を覚ます。
「おはよう」僕は言った。「よく眠れた?」
「ふわわわあ」リィルはわざとらしい欠伸をする。それから両手を上げ、伸びをした。「うーん、よく眠れたかは分からないけど……。少なくとも、少し疲れはとれたかな」
「それはおめでとう」
そのとき、テーブルの表面が明るく光り出した。
僕もリィルもそちらに目を向ける。
薄い水色の光がテーブル全体を支配し、その真上に半透明のスクリーンが投影された。
そこに文字が並ぶ。
〉お食事の用意が整いました。お持ちしてもよろしいですか?
僕はその文面を読む。リィルの瞳も同じように動いているので、表と裏のどちらからでも読めるようになっているようだ。
文面の下に「はい」と「いいえ」の選択肢が表示されたので、僕は「はい」を選択した。間もなくスクリーンは消え、テーブルはもとの状態に戻った。
「なかなかハイテクだね」僕は言った。
リィルは黙って頷く。
しかし、驚くのはまだ早かった。
たった今スクリーンが出力されていたテーブルの表面に、細長いスリットが入る。そのスリットは幾何学的な挙動で徐々に幅を広げ、次の瞬間、光速とも思える速度でテーブルの下から料理が出現した。
これには驚いた。
リィルも目を見開いている。
料理が出現すると同時に、テーブルの表面にできたスリットは消える。料理が載ったトレイは安定してテーブルの上に鎮座した。
暫くの間固まっていたが、僕は気になってテーブルの下を確認した。すると、テーブルの脚に囲まれた空間が空ではないことが分かった。四角い箱のような装置がテーブルと床を繋いでおり、そこから料理が運ばれてきたようだ。
「どういう構造をしているんだろう……」僕は呟く。
リィルも身を屈めてテーブルの下を見ている。
彼女は顔を上げて、僅かに首を傾げた。
「ここって、海の底だよね?」彼女が尋ねる。
「そうらしいね」
「これ、かなりの費用がかかっているんじゃない?」
「それはそうだろうね。ただではできないよ」僕は笑う。「まあ、いいか。細かいことは気にしないで、料理を食べよう」
「召し上がれ」
何も断りを入れなかったので、僕とリィルの二人分の料理がテーブルに載っている。トレイに皿がいくつか載せられており、その中に様々な料理が入っている。今日は和食だった。フルコースではない。そんな豪華なものは用意できなくて当然だろう。むしろ、僕はそういったハイスペックな料理が苦手だから助かった。
手を合わせて、僕は夕飯を食べ始める。サラダを一口食べてみたが、普通に美味しかった。
「どう、美味しい?」リィルが質問する。
「うん」僕は頷く。「少なくとも、自分で作るよりは美味しい」
「美味しいってさ、どんな感じ?」
「え、どんな感じって?」
「説明してみてよ」
僕は考える。
「うーん、説明しろと言われても……。なんか、電気が走る感じかな。特定の化学物質に反応して、信号が送られる感じ」
「全然分からない」
「匂いと同じだよ。あと、感情とも似ている。美味しいものを食べると、嬉しく感じるというのは、あながち間違えてはいないかもしれないね」
「分からないなあ」
「経験しないと分からないよ。別に、そこまで食事に興味があるわけじゃないだろう?」
「うん、まあね」
「実は、僕もだ」
僕は食べ物を口に詰める作業を続ける。出し巻き玉子や金平牛蒡など、オーソドックスな和食といった印象だが、どれも普通に美味しかった。しかし、それ以上の味覚は僕には伝わらない。すべて「普通に美味しい」というふうに処理されるだけだ。
二十分ほどで一人分の料理を平らげたが、とてももう一人分は食べられそうになかった。リィルに指摘された通りだ。
「ほら、やっぱり、無理じゃん」案の定、彼女に言われた。「どうするの?」
「うん、やっぱり、こうなったら冷蔵庫に仕舞っておくしかないね」
「それを毎食続けるつもり?」
「無理かな?」
「一日三食届くんだよ。それを三日も続けたら、九食分が冷蔵庫に入ることになって……。……どう考えてもキャパシティーオーバーになると思うんだけど」
「キャパシティーオーバーって、和製英語?」
「知らない」
「まあ、とりあえず、今日の分は冷蔵庫に仕舞っておこう」そう言って、僕はリィルの分のトレイを持って立ち上がる。しかし、そこですぐに気がついた。「いや……。違った。きっと、この器も回収されるんだ。どうしよう……。料理だけ冷蔵庫に入れておくわけにはいかないし……」
僕は歩いて冷蔵庫まで近づき、蓋を開けて中を確かめる。当然、食器の類はその中には入っていない。キャビネットはどうかと思ってその中も確かめてみたが、食器らしいものは見つからなかった。
「……食べたら?」
僕の情けない行動を見ていたリィルが、最終手段の提案をした。
「いや、到底食べられないよ、こんなに……」僕は持っているトレイを見て話す。「もう、自分の分だけでお腹いっぱいなんだ。もう一人分なんて、そんなの……」
「でもさ、ほかにどうしようもないじゃん」
「……そうだね」
というわけで、僕は無理してもう一人分の料理を胃袋に詰めることになった。
当然、途中で吐きそうになる。
そして、実際に少し吐いた。
「いやいや、そこまで無理しなくても……」向こう側の席で、リィルが無責任な発言をした。「うーん、もう、しょうがないから、どこかに隠しちゃえば? あ、クローゼットの中とか? それとも、塵箱に捨てるとか……」
「なんてことを言うんだ」僕は苦しい声で話す。
「だって、しょうがないじゃん」
僕は鰤大根を一口食べる。鰤の上に生姜はあった。
大洪水が起こる一歩手前でなんとか料理を食べ終え、僕はソファの背凭れに勢い良く寄りかかった。
「……明日から、一人分にしてもらおう……」僕は言った。
「どうやって?」
「いや、なんか、適当に理由をつけて……」
「どんな?」
「君に考えてほしい」
「え、私が? うーん……」
僕は苦しくて動けない。別に動く必要もなかった。あとは風呂に入って眠るだけだ。
「あ、じゃあ、私、帰ろうか?」突然、リィルが提案する。「そうすれば、万事オーケーでしょう?」
僕は彼女を見る。
「何言っているの?」
「駄目?」
「駄目」
リィルは声を出して笑う。
「まあ、当たり前か」
「君さ、お風呂に入ってきたら?」
「え、どうして?」
「僕は暫く入れそうにないから、先にどうぞ」
「分かった」
そう言って、リィルはソファから立ち上がる。
「……一人で大丈夫?」
「何が?」僕は尋ねた。
「苦しくて、踠いたりしない?」
「ここは海の中だから、踠くのは正解だ」
リィルは笑った。
「大丈夫そうだね。じゃあ、行ってきます」
彼女は浴室へと消える。
暫くの間、じっとしていよう、と僕は思った。
リィルがいなくなってから五分くらい経った頃、突然テーブルの上から皿が載ったトレイが消えた。よく見ていなかったが、先ほどと同じようにテーブルにスリットが入り、そこから下に回収されたようだ。
こんなハイテクノロジーな施設で、僕はいったどのような仕事を任されるのだろう、と多少不安になる。
その前に、明日の分の朝食を食べられるか心配するべきだった。
僕たちを出迎えてくれた彼はまだ若かった。ざっと見て二十代くらいだろうか。きちんとした服を着ているところを見ると、それなりの役職の人間らしい。名前は尋ねなかったし、向こうも自ら名乗ることはしなかった。おそらく、僕たちが彼と関係を持つことはないだろう。この送迎のためだけに用いられた人員だといえる。
「いやあ、それにしても、お若いですねえ、二人とも」その運転手が話した。「おいくつなんですか?」
「さあ……」僕は答える。「知りません」
「まあ、そういう人もいますね。そちらのお嬢さんは?」
「今年で四十になります」リィルが答える。
「え?」運転しながら、彼は後ろを振り向いた。「本当ですか?」
「ええ」
「はあ、そうですか……」
そう言ったきり、彼は何も話さなくなった。
窓の向こうでは、街を出歩いている人がちらほらと見える。家は洒落ているものが多く、同じ国のものとは思えないようなものもあった。この街の住民も、身につけている衣服は様々だ。フォーマルな格好をしている者もいれば、ラフな格好をしている者もいる。僕たちは、どちらかというと、今はラフな格好をしている。これは、若さを主張するためではなかった。堅い人間だと思われないようにするためだ。そういう人柄だと思われると、思いがけない仕事が飛び込んでくることがある。そうした事態は極力避けたかった。
「ねえ、あのさ」リィルが小声で言った。「ちょっと、気になることがあるんだけど……」
「何?」僕は尋ねる。
「この街さ、なんか変じゃない?」
「何が?」
「なんか……、皆、気ままに動いていない気がする、というか」
「え? どういう意味?」
「いや、気のせいかな……」
僕は窓の外に目を向ける。別に、何も変わっているところはないように見えた。普通の生活が展開されているように思える。
「何もおかしいとは思わないけど」
「そう……」リィルは頷く。「なら、いいんだけど……」
車は細い道を入っていく。左右は草原で、道も舗装されていなかった。平たい草原というよりも、小高い丘を上っているような感じだ。暫くすると、前方に明るい光が見えた。そこに建物があるようだ。
車はその光の前で停車した。
「さあ、着きましたよ。お疲れ様です」運転手が後ろを振り返って話す。
シートベルトを外して、僕たちはドアを開けて外に出た。この車は前にしかドアがないので、前の椅子を倒して、その隙間を通って僕たちはドアを抜けた。
外は寒かった。
すぐ傍に夜の海がある。
そして、前方。
そこに目的地の建物があった。
一見すると、「山」という漢字と同じ形をしているように見える。中央に大きなドーム状の構造があり、その左右にそれより小さなドームがそれぞれ配置されている。窓はなく、壁面はクリーム色だった。ドームの頂上にかなり強い光を発する照明が設置されており、それはくるくると回っている。どうやら、この建物は灯台の役割も担っているようだ。丘の上に建てられているし、海の傍にあるのだから、きっとそうだろう。しかし、文書の解析と翻訳を行う施設が、どうしてそのような役割を兼ねているのか、僕には分からなかった。わざわざ別に灯台を建てる費用がなかったのかもしれない。
「さあ、どうぞ」
立ち止まって建物を眺めていた僕たちに向けて、運転手の男性が手招きする。僕とリィルは彼についていき、ドームの入り口の方へと近づいていった。
入り口には重厚な扉が設置されている。ドアではなく、両開きの扉だった。城の入り口とも思えるようなデザインだが、素材は近未来的なものが使われている。少なくとも、木造ではない。
運転手の男性が近づくと、扉が勝手にこちら側に開いた。
僕たちは建物の中に入る。
その先は、赤い絨毯が敷かれた広大なロビーだった。
天井には、木造の梁のようなものが巡らされている。左右にドアがあり、そちらは先ほどの小さなドームに続いていると思われた。目の前にフロントのようなスペースがあり、その向こうに雑多なものが置かれているのが見える。
まるでホテルみたいだな、と僕は思った。
「まるでホテルみたい」僕の隣で、リィルが言った。
僕は彼女の顔を見る。
「君さ、超能力者じゃないよね?」
右手に硝子製のテーブルや革張りの椅子が並べられた一画があり、運転手の男性にそこで暫く待つように言われた。これから担当者を連れてくるようだ。
僕たちは、指示された通り椅子に腰かける。僕の対面にリィルが座った。
今、このロビーには、僕たちのほかに誰もいない。
とても静かだった。
耳を澄ますと、波の音が微かに聞こえてくる。しかし、ある程度の防音加工が成されているようで、必要以上に音が大きく聞こえることはなかった。
「ああ、疲れた……」リィルが勢い良く背凭れに寄りかかった。
「そんなに?」僕は応答する。「移動しただけじゃないか」
「移動が一番疲れる」
「まあ、たしかにね」
「さっきの人さ、妙な感じだったよね」リィルは言った。「なんか、歳の割に落ち着いている感じで……」
「君だってそうじゃないか」
「え?」
「四十歳なんだろう?」
リィルは僕を睨みつける。
「嘘に決まっているじゃん」
「あれ、そうなの?」
「馬鹿にしているのかな?」
「いや、本気だけど……。へえ、そう……。てっきり本当なのかと思った」
「そんなふうに見える?」
「頑張って見ようと思えば、あるいは」
「頑張らないでよ」彼女は困ったような顔になる。「なんかずれているよね、君って……」
よく言われることなので、僕は黙って頷いた。
左の方から音がして、僕はそちらに顔を向ける。見ると、ドームのドアが開き、男性が一人こちらに近づいてきた。
僕とリィルは立ち上がる。
「ようこそ」僕たちの前に立って、彼が挨拶をした。「お疲れでしょう。すぐにお部屋にご案内致します」
男性が片手を差し出してきたので、僕は彼の手を握った。リィルもそれに続く。
「えっと、貴方は……」
「ああ、申し遅れました。私は、この施設のサブリーダーを務めている者です。名前をロトといいます。どうぞ、よろしくお願い致します」
そう言って、男性は再び頭を下げる。非常に礼儀が正しい印象を受けた。
「お部屋にご案内する前に、まずは、ええ、そうですね……。少しこちらでお話をしましょうか」そう言って、ロトは僕たちに座るように勧める。彼は立ったままだった。「詳しい内容は明日お話ししますので、今日のところは概要だけお伝えしておきます」
僕は黙って頷く。
「まずですが、食事はすべてお部屋にお届けします。全員での会食、という文化はここにはありません。入浴設備もお部屋に備わっておりますので、そちらをご自由にお使い下さい。衣服に関しましても、まことに心苦しいのですが、ええ、その、ご自分で洗って頂くことになります。とはいっても、部屋に備わっている洗濯機に衣服を入れて、スイッチを押すだけですので、どうぞ、そちらをお使い下さい。ベッドのシーツも定期的に洗濯して頂くようにお願いします」
僕は再び頷く。なんだか本当にホテルに宿泊しに来たみたいだな、と思った。周囲の環境がそうした錯覚を一層引き立たせる。
「ええ、それでは、お仕事の方ですが……。……お二人には、主にプログラミング言語を扱った翻訳作業を行って頂きます。そちらがご専門と伺っておりますので、それほど苦労しないとは思いますが、一応、担当者を一人添えさせて頂きます。今回は彼女がサポーターとしてお二人を支えますので、詳しいことは、明日彼女に直接お尋ね下さい」
そう言って、ロトは自分の説明を終了した。いたって当たり前の内容で、僕は若干拍子抜けしてしまったが、彼の丁寧な人柄はよく分かった。
「実は、現在我々のリーダーが不在でして、その……、そういうわけで、サブリーダーである私がお二人の案内役を務めさせて頂くことになりました。直接ご不便をおかけすることはないと思いますが、ご留意頂けたら幸いです」
「えっと、その方が、僕たちを使命してくれたんですか?」気になったので、僕は質問した。
「いいえ、そういうわけではありません」ロトは自分の前で手を振る。「その決定は、組織の該当する部署で話し合って決めたことです」
僕は頷いた。
ロトに促されて、僕とリィルは椅子から立ち上がる。彼に続いてフロントを横切り、建物の奥へと進んでいく。
歩いていると、隣でリィルが目配せをしてきた。
意味が分からないので、僕はとりあえず首を傾げる。
彼女は舌を覗かせた。
「え?」僕は小声で尋ねる。「何?」
「なんか、変な感じがしない?」リィルは言った。
「どういう意味?」
「いや、何も感じないのなら、いいんだけど……」
フロントの先は廊下になっていたが、それほど長くなかった。すぐに突き当りにドアが出現する。廊下は明るかったが、そのドアの付近は、僕たちが近づくことで初めて明かりが灯った。
ロトがドアを開ける。
ドアの先は階段だった。
なるほど、と僕は一人で頷く。
どうやら、作業を行う空間は地下にあるようだ。
「我々の主な仕事場は、海のずっと下に存在しています」歩きながら、ロトが説明した。「先ほどのロビーは、本当にロビーとしてしか機能しておりません。作業はすべて地下空間で行います」
「それには、何か理由があるんですか?」僕は尋ねる。
「詳しくは存じ上げておりませんが、なんでも、創始者がそのような環境を好んだとか……」ロトは少し笑った。「どうやら、集中できる環境を望んでいたようです」
彼が創始者と呼んだということは、この施設のリーダーとその人物は別人なのだろう、と僕は思った。
階段はコンクリート製で、かなり重厚な作りだった。左右の壁も同じだ。この先は、照明器具がどこにあるのか分からなかった。どこを見てもそれらしきものは見つからない。どうやら、天井そのものが照明として機能しているようだ。
階段を下りた先は、ロビーとは雰囲気がかなり違っていた。
一本の細長い廊下がずっと向こうまで続いており、その左右に等間隔でドアが並んでいる。ドアの向こう側には部屋があるわけだから、それだけの空間がこの辺りに存在していることになる。廊下の床や壁は灰色だが、コンクリートが剥き出しというわけではない。わざとその色に塗装されているのが分かる。
僕たちはロトの後ろについて歩く。
三人分の足音が響いた。
ほかには何も聞こえない。
ここが海の底だとは思えなかった。
やがて、ロトは一つのドアの前で立ち止まった。
「こちらが、お二人のお部屋になります」彼は説明した。「必要なものはすべて揃っていると思いますが、何かご不便がありましたら、内線でお伝え下さい。担当の者が伺います」
僕は頷き、ロトからカードキーを受け取る。
「何か質問はございますか?」
ロトに尋ねられたが、僕には特に訊きたいことはなかった。隣を見てリィルにも確認したが、彼女も首を横に振った。
「では、夕食の時間までお寛ぎ下さい。夕食は午後八時にお届けする予定ですが、時間の変更はご希望ですか?」
「いえ、そのままで大丈夫です」僕は答えた。
「では……」
そう言って、ロトは踵を返し、階段がある方へと戻っていった。
僕はカードキーを使ってドアを開ける。ドアは向こう側へ開き、室内の照明が自動的に灯った。
部屋の構造はいたって簡単な作りになっていた。まず、中央に広いリビングがあり、その左右にそれよりも小さい個室がある。左が寝室で、右が仕事部屋だ。浴室と洗面所はドアのすぐ傍にあり、玄関から見て右手にある。
僕たちはリビングで荷物を下して、部屋の中央にあるソファに腰かけた。
「疲れた」リィルが言った。
「まだ言っているんだね、それ」僕は応じる。
「疲れがとれるまで、いつまでも言い続けるつもりだから」
「ふうん」
沈黙。
実は、僕もかなり疲れていた。
二人とも上着を羽織ったままだったので、立ち上がってとりあえず部屋に適した格好になる。ソファは大きなテーブルを挟んで前後にあり、左手にキャビネットとクローゼットがあった。右手には冷蔵庫が置かれている。テレビはなかった。ここは海底なので、もちろん窓もない。
「あ、そういえばさ」上着をハンガーにかけながら、リィルが言った。「夜ご飯って、私の分も用意しているよね、きっと」
「ああ、たしかに」僕は頷く。
「どうしよう……。……今から断れば、間に合うかな?」
「いや、それはやめた方がいいんじゃないかな。怪しまれるだけだよ。……うーん、そうね……。とりあえず、僕が二人分を平らげよう」
「いやいや、無理でしょ」
「そうかな? 意外といけると思うけど」
「君、そんなに大食いじゃないじゃん」
「大食いじゃなくても、その気になれば食べられるものだよ」僕は説明する。「普段大笑いしない人でも、その気になれば大笑いすることはできるだろう?」
「そういう問題?」
「違う?」
「なんか、違うような……」
「まあまあ、気にせずに」僕は言った。「無理なら冷蔵庫に入れておくよ」
荷物を適当に取り出して、中身を再度チェックする。忘れ物は何もなかった。当たり前だ。というよりも、そもそも忘れるようなものがない。僕の仕事は、場所と時間と機器さえあればできる。機器もそれほどしっかりとしたものを使うわけではないし、いざとなれば紙とペンさえあれば可能だ。あとは……。知識と、それを補助する辞書が必要になるか。けれど、辞書は携帯端末さえあればどこでも使える。
ソファは一人がけのものなので、僕たちは互いに対面して座ることになる。同じ部屋にいて、しかもソファに座っているのに、向かい合って座るのがんだか不思議な感じがした。
「ここってさ、勝手に出入りしていいのかな?」自分の髪を弄りながら、リィルは僕に質問した。女性が自身の髪に触れる心理を僕は知らない。
「ここって?」
「この、施設」
「さあ、それはどうかなあ……」僕は考える。「さっき訊いておけばよかったね」
「ロトさん……、だっけ?」リィルは話した。「なんか、不思議な人だよね。あそこまで畏まる必要があるのかな……」
「まあ、サブリーダーだからね……。リーダーよりはしっかりしているのかもしれない」
「どうして?」
「そういうものだよ、サブリーダーって」
「サブリーダーになったことがあるの?」
「いや、ないね」僕は笑う。「僕がなれると思う?」
「なれるんじゃないかな」
「君、それ、今、考えないで答えただろう」
「いや、考えたけど」
「そう?」僕は言った。「それならいいけどね……」
二人とも疲れているせいか、なかなか会話が続かない。無理して続ける必要もないので、僕たちはそのまま黙り続けた。
やがて、リィルはソファに座ったまま眠ってしまった。
安らかな寝顔。
安らかな吐息。
テーブルに肘をついて、暫くの間彼女の寝顔を見つめていたが、僕は携帯端末を取り出してニュースを見始めた。
ニュースといっても、世間一般に関するどうでも良いものは見ない。自分が専門とする分野を取り扱うページを検索し、それを一つずつ開いて確認していく。この分野に関して、僕はそれほど詳しいわけではない。しかし、だからこそ、情報には常に機敏である必要がある。ほかの人に差をつけられたらお終いだからだ(たぶん、それで人生が終わることはないが)。
特に目を引くニュースはなかったが、それらの記事を読みながら、世の中には色々な考え方をする人がいるんだな、と僕はなんとなく思った。酷く当たり前のことだが、その当たり前を僕は普段あまり意識しない。どちらかというと、自分のことばかり考えてしまう方だ。自分の考えが正しいと思い込み、視野が狭くなってあとで失敗する。だから、意識できる内にしておかないと、失敗する可能性が高くなる。
そんなことをしている内に時間は過ぎ、間もなく午後八時を迎える頃になった。
目の前で物が動く気配がし、タイミング良くリィルが目を覚ます。
「おはよう」僕は言った。「よく眠れた?」
「ふわわわあ」リィルはわざとらしい欠伸をする。それから両手を上げ、伸びをした。「うーん、よく眠れたかは分からないけど……。少なくとも、少し疲れはとれたかな」
「それはおめでとう」
そのとき、テーブルの表面が明るく光り出した。
僕もリィルもそちらに目を向ける。
薄い水色の光がテーブル全体を支配し、その真上に半透明のスクリーンが投影された。
そこに文字が並ぶ。
〉お食事の用意が整いました。お持ちしてもよろしいですか?
僕はその文面を読む。リィルの瞳も同じように動いているので、表と裏のどちらからでも読めるようになっているようだ。
文面の下に「はい」と「いいえ」の選択肢が表示されたので、僕は「はい」を選択した。間もなくスクリーンは消え、テーブルはもとの状態に戻った。
「なかなかハイテクだね」僕は言った。
リィルは黙って頷く。
しかし、驚くのはまだ早かった。
たった今スクリーンが出力されていたテーブルの表面に、細長いスリットが入る。そのスリットは幾何学的な挙動で徐々に幅を広げ、次の瞬間、光速とも思える速度でテーブルの下から料理が出現した。
これには驚いた。
リィルも目を見開いている。
料理が出現すると同時に、テーブルの表面にできたスリットは消える。料理が載ったトレイは安定してテーブルの上に鎮座した。
暫くの間固まっていたが、僕は気になってテーブルの下を確認した。すると、テーブルの脚に囲まれた空間が空ではないことが分かった。四角い箱のような装置がテーブルと床を繋いでおり、そこから料理が運ばれてきたようだ。
「どういう構造をしているんだろう……」僕は呟く。
リィルも身を屈めてテーブルの下を見ている。
彼女は顔を上げて、僅かに首を傾げた。
「ここって、海の底だよね?」彼女が尋ねる。
「そうらしいね」
「これ、かなりの費用がかかっているんじゃない?」
「それはそうだろうね。ただではできないよ」僕は笑う。「まあ、いいか。細かいことは気にしないで、料理を食べよう」
「召し上がれ」
何も断りを入れなかったので、僕とリィルの二人分の料理がテーブルに載っている。トレイに皿がいくつか載せられており、その中に様々な料理が入っている。今日は和食だった。フルコースではない。そんな豪華なものは用意できなくて当然だろう。むしろ、僕はそういったハイスペックな料理が苦手だから助かった。
手を合わせて、僕は夕飯を食べ始める。サラダを一口食べてみたが、普通に美味しかった。
「どう、美味しい?」リィルが質問する。
「うん」僕は頷く。「少なくとも、自分で作るよりは美味しい」
「美味しいってさ、どんな感じ?」
「え、どんな感じって?」
「説明してみてよ」
僕は考える。
「うーん、説明しろと言われても……。なんか、電気が走る感じかな。特定の化学物質に反応して、信号が送られる感じ」
「全然分からない」
「匂いと同じだよ。あと、感情とも似ている。美味しいものを食べると、嬉しく感じるというのは、あながち間違えてはいないかもしれないね」
「分からないなあ」
「経験しないと分からないよ。別に、そこまで食事に興味があるわけじゃないだろう?」
「うん、まあね」
「実は、僕もだ」
僕は食べ物を口に詰める作業を続ける。出し巻き玉子や金平牛蒡など、オーソドックスな和食といった印象だが、どれも普通に美味しかった。しかし、それ以上の味覚は僕には伝わらない。すべて「普通に美味しい」というふうに処理されるだけだ。
二十分ほどで一人分の料理を平らげたが、とてももう一人分は食べられそうになかった。リィルに指摘された通りだ。
「ほら、やっぱり、無理じゃん」案の定、彼女に言われた。「どうするの?」
「うん、やっぱり、こうなったら冷蔵庫に仕舞っておくしかないね」
「それを毎食続けるつもり?」
「無理かな?」
「一日三食届くんだよ。それを三日も続けたら、九食分が冷蔵庫に入ることになって……。……どう考えてもキャパシティーオーバーになると思うんだけど」
「キャパシティーオーバーって、和製英語?」
「知らない」
「まあ、とりあえず、今日の分は冷蔵庫に仕舞っておこう」そう言って、僕はリィルの分のトレイを持って立ち上がる。しかし、そこですぐに気がついた。「いや……。違った。きっと、この器も回収されるんだ。どうしよう……。料理だけ冷蔵庫に入れておくわけにはいかないし……」
僕は歩いて冷蔵庫まで近づき、蓋を開けて中を確かめる。当然、食器の類はその中には入っていない。キャビネットはどうかと思ってその中も確かめてみたが、食器らしいものは見つからなかった。
「……食べたら?」
僕の情けない行動を見ていたリィルが、最終手段の提案をした。
「いや、到底食べられないよ、こんなに……」僕は持っているトレイを見て話す。「もう、自分の分だけでお腹いっぱいなんだ。もう一人分なんて、そんなの……」
「でもさ、ほかにどうしようもないじゃん」
「……そうだね」
というわけで、僕は無理してもう一人分の料理を胃袋に詰めることになった。
当然、途中で吐きそうになる。
そして、実際に少し吐いた。
「いやいや、そこまで無理しなくても……」向こう側の席で、リィルが無責任な発言をした。「うーん、もう、しょうがないから、どこかに隠しちゃえば? あ、クローゼットの中とか? それとも、塵箱に捨てるとか……」
「なんてことを言うんだ」僕は苦しい声で話す。
「だって、しょうがないじゃん」
僕は鰤大根を一口食べる。鰤の上に生姜はあった。
大洪水が起こる一歩手前でなんとか料理を食べ終え、僕はソファの背凭れに勢い良く寄りかかった。
「……明日から、一人分にしてもらおう……」僕は言った。
「どうやって?」
「いや、なんか、適当に理由をつけて……」
「どんな?」
「君に考えてほしい」
「え、私が? うーん……」
僕は苦しくて動けない。別に動く必要もなかった。あとは風呂に入って眠るだけだ。
「あ、じゃあ、私、帰ろうか?」突然、リィルが提案する。「そうすれば、万事オーケーでしょう?」
僕は彼女を見る。
「何言っているの?」
「駄目?」
「駄目」
リィルは声を出して笑う。
「まあ、当たり前か」
「君さ、お風呂に入ってきたら?」
「え、どうして?」
「僕は暫く入れそうにないから、先にどうぞ」
「分かった」
そう言って、リィルはソファから立ち上がる。
「……一人で大丈夫?」
「何が?」僕は尋ねた。
「苦しくて、踠いたりしない?」
「ここは海の中だから、踠くのは正解だ」
リィルは笑った。
「大丈夫そうだね。じゃあ、行ってきます」
彼女は浴室へと消える。
暫くの間、じっとしていよう、と僕は思った。
リィルがいなくなってから五分くらい経った頃、突然テーブルの上から皿が載ったトレイが消えた。よく見ていなかったが、先ほどと同じようにテーブルにスリットが入り、そこから下に回収されたようだ。
こんなハイテクノロジーな施設で、僕はいったどのような仕事を任されるのだろう、と多少不安になる。
その前に、明日の分の朝食を食べられるか心配するべきだった。
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