The Signature of Our Dictator

羽上帆樽

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第3章 そして提案

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 目が覚めると、いつの間にか寝室にいた。ベッドは二つあって、僕の隣にリィルが眠っている。部屋は完全には暗くなかった。相変わらず照明器具はどこにも見当たらないが、天井がぼんやりと光を発しているのが分かる。枕もとにあるデジタル時計を見ると、時刻は午前六時三十分を迎えたところだった。普段と比べると若干早い目覚めだが、これ以上眠る気にはなれなかったので、僕はゆっくりとベッドの外に出た。

 リビングに移動して、そこに置いたままになっていたトランクケースから、今日の分の着替えを取り出す。何の変哲もない基本的な私服で、どこからどう見ても一般的なものに見える。事実として、僕は一般人なので、そのように見られるのなら光栄だ。できるならリィルもそのように見えていてほしい。

 何もすることがなくて、適当に部屋の中をぶらぶらしていたら、寝室からリィルが出てきた。

「おはよう……」目を擦りながらリィルは言った。

「やあ」僕は応える。

「お腹、大丈夫そう?」

「え? ああ、うん……」僕は話す。「……ちょっと、あのあとの記憶が全然ないんだけど……」

「それって、本当に大丈夫?」リィルは笑っている。「自分で布団に入っていたから、安心しなよ。苦しいからもう寝るって言って、お風呂には入らなかったよ」

「え、そうなの?」

「うん……」

「じゃあ、僕は今から入ってこようかな……」そう言いながら、僕はすでに着替えてしまったことに気づく。「ああ、でも、もう着替えちゃったし……」

「入ってきたら?」

「旅館みたいに、露天風呂だったら、喜んで入るんだけどね」

「背中流してあげようか?」

「お腹だけになったら困るから、いい」

 そう言い残して、僕は一人で浴室に向かった。

 浴室もかなりシンプルな作りで、ビジネスホテルの一画みたいな雰囲気だった。トイレも同じエリアに存在している。傍にある棚にタオルがいくつか積まれていて、自由に使って良いみたいだった。なかなか気が利くようだ。

 湯船に水は入っていなかった。リィルはお湯を張らなかったらしい。

 僕も、今から沸かす気にはなれなかったので、手短にシャワーだけ浴びることにした。

 身体を洗い、頭も洗って、十分くらいで浴室から出た。リビングに戻ると、リィルは携帯端末を使って読書をしていた。

「何を読んでいるの?」ソファに座りながら僕は尋ねる。

「この施設の概要」

 想定していなかった返答だったので、僕は多少驚いた。

「ネットに載っているの?」

「まあ、載ってはいるけど……。そんなに詳しいことは書かれていないよ。誰にでも分かるような、極めて簡単なことだけ」

「へえ……。まあ、そうだろうね。ネットってそういうものだから……」

「でもね、その中にも、私たちが知らないことがあった」

「ほう。たとえば?」

「この施設では、施設全体を統轄するコンピューターが運用されているらしい」

 僕はソファから立ち上がり、テーブルの横を通ってリィルの後ろに回った。彼女の背後から端末に表示された記事に目を通す。たしかに、それらしい記述があった。この施設は、できてからそれほど長い歴史があるわけではない。それなのに、周囲のほかの企業を抑えてここまで規模を発展させたのは、コンピューターによる管理をいち早く採用し、作業の効率化を図ったからだ、との説明が成されていた。様々な分野を跨いで、それらを「解析と翻訳」といった一つの括りにして作業が行えるのは、そのせいもあるのだろう。

「なるほどね」僕は言った。「でも、そうすると、僕たちが呼び出されたのが、少し不思議なことになる」

「どうして?」リィルはこちらを向く。

「だって、効率化が図られているんだろう? それなのに、なぜ、人手不足になる? むしろ人手が余ってもいいくらいじゃない?」

「たしかに……」

 リィルは再び端末に顔を戻した。指を使って画面をスクロールし、彼女は記事の続きを読む。しかし、それ以上のことは何も書かれていなかった。この施設に関するほかの記事は、最新のものでも二年前のものがあるだけで、今の僕の疑問に答えられるようなものは見つからなかった。

「まあ、気にするようなことじゃないか。僕たちは、与えられた仕事をこなせばいいんだから……」

「でも、気になる」未だ端末を見ながら、リィルが呟く。

「その好奇心は、今は心の片隅に仕舞っておいてね」

「無理だよ、そんなの」

「仕事中に発揮しないでもらいたい」

「するかも」

「それは困る」

「でもさ、君も気になるでしょう?」リィルは僕を見る。「そういうのって、一番気になるものじゃない?」

「そうだけど、それよりも大事なことがある」

「……それ、本心じゃないでしょう?」

 僕とリィルは数秒間黙って見つめ合った。

 僕は若干口もとを持ち上げる。

 リィルもそれに合わせて笑った。

「まあ、とにかく、今は保留しておこう。その方が、色々と都合が良い」

「うん……」リィルは頷いた。「分かった。……今のところは、ね」

 昨夜に引き続き、今日も二人分の朝食が出現したが、さすがに僕はどちらとも食べることはしなかった。どうしようもなかったから、とりあえずトレイごと料理を冷蔵庫に仕舞っておくことにする。何か文句を言われるかもしれないが、今日は仕事で施設の人間に会うだろうから、そのときに適当な人物に伝えておけば良い。

 午前九時になった頃、ドアがノックされた。

「はい」僕は応える。なぜか、こういった場面に電子的な機能は採用されていないようだ。ドアくらい自動で開けてくれても良いものだが……。

 把手を握ってドアを開けると、女性が一人立っていた。

「おはようございます」彼女は頭を下げた。「入ってもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ……」僕はドアの隙間を大きくして、彼女を室内に入れる。

「担当者のサラと申します。勤務時間になったので、作業を開始して頂こうと思います」

 僕は簡単に自己紹介した。

「そちらは?」

 サラは僕の背後に立っているリィルを手で示す。

「ああ、彼女は僕のアシスタントです」僕はとっさに思いついた嘘を吐いた。「名前はリィルといいます」

 サラと名乗る女性は、数秒間リィルをじっと見ていたが、やがて視線を僕に戻して話を再開した。

「それでは、作業の流れについて一通りお話させて頂きますが……、まずは、そうですね、リビングに移動しましょう」

 三人揃ってリビングに移る。

 サラをドアに近い方のソファに座らせ、僕はその対面に座った。ソファは二つしかないから、リィルは立っているしかない。しかし、彼女はアシスタントという設定なので、それでちょうど良い気がした。

「改めまして、お二人の担当をさせて頂く、サラです」

 サラは再び挨拶をした。名刺のようなものは渡してこない。そういうルールのようだ。

「早速ですが、お二人には電子テキストの翻訳作業をしてもらいます。それについて説明します」

 僕は頷く。

 サラに対して、ロトほどではないが、彼女も礼儀正しい人間のようだ、と僕は思った。堅苦しい感じがしないわけではないが、そういった要素は緩和されているといって良い。それに対して、ロトはかなり堅苦しい印象を与える。サラはブロンドの髪を備え、スラリとした身体つきをしている。青と白を基調とした制服を着ており、しっかりとした身のこなしだった。

 サラの説明によると、僕たちの仕事は、とある英国のテキストを翻訳するというものらしかった。英国から持ち込まれたものだから、当然英語で書かれている。それをプログラミング言語に置き換えて、コンピューターで処理できる形に仕上げるらしい。なお、どうしてそんなことをするのかは不明だ。その点については、この仕事を引き受けたときに読んだ書類にも、ロトの説明にも、また、サラの説明にも、一切含まれていなかった。もちろん、僕も多少は気になるが、あまり詮索しないようにしている。そうした方が仕事がスムーズに進むからだ。

 翻訳を行うために使用する機器は、この施設の所定のものではなく、僕が持参したもので良いとのことだった。一応サラにチェックしてもらったが、特に問題はなさそうだった。その機器をこの施設のクラウドに接続して、出来上がったテキストをそこに保存する。もちろん、クラウドに保存するのは完成形のデータだから、その前に何度も推敲やチェックをしなくてはならない。その作業自体はいつも通りだが、僕は比較的プレッシャーに弱いから、普段と同じように力を発揮できるか心配だった。

「ここまでで、何か質問はありますか?」

 一通り説明を終えて、サラは無表情で僕に尋ねた。

「いえ、特には……。……ああ、でも、一つだけ……。その作業は、いつまでに終わらせれば良いですか?」

「いつでも良いです。早いに越したことはありませんが、ご自分のペースで完了させて下さい。終わり次第、次のテキストをお渡しします。用があるときは、内線を使って連絡して下さい」

 なるほど、時間ではなく、内容で評価されるようだ、と僕は理解した。なかなか良いシステムだ。個人的には、その方がポテンシャルを高く保ちやすい。

 次に、機器の運用方法を含め、サラからちょっとしたレクチャーを受けた。機器の運用方法というのは、僕がいつも使っている機器と、この施設のクラウドを接続することで利用できるようになる、様々なサービスの使用方法という意味だ。翻訳をサポートするツールが数多く用意されているようで、僕はそれを自由に使って良いとのことだった。必要があれば、個人の知識や技能だけでなく、与えられた道具を自由に使っても良い、ということになる。考えてみれば当たり前の話だが、こうしたシステムが採用されている組織は意外と少ない。さらに、サラは英語をマスターしているようで、注意すべき単語や文構造についても教えてもらった。とはいっても、僕にも作業をスムーズに行えるくらいの技量はあるので、彼女に教えてもらうことは少なかった。

 すべて説明し終えると、それでは、自分の仕事がありますので、と言ってサラは部屋を出ていった。翻訳すべきテキストは、彼女からメモリーに保存された状態で受け取った。

「さて、じゃあ、やってみようかな……」僕はデバイスを操作しながら呟く。

 リィルが僕の対面に座り、脚を組んでこちらを見た。

「……なんか、変な人ばかり」彼女は話す。

「サラのこと?」

「あの人も、サブリーダーの彼も」

「そうかな。普通の人に見えたけど」僕はタイピングを始める。

「うん……。なんか、人という感じがしない」

「自分の方が人間に近いって?」

「そこまでは言わないけど……。うーん、でも、あれが一般的なのかな」

「たぶんね」

 僕が使っているデバイスは、キーボードとディスプレイが搭載された、いたって基本的なラップトップだ。ただし、翻訳をよりスムーズに行うために、キーボードにはちょっとしたカスタマイズが施されている。一つの言語しか使わないわけではないため、色々な言語に対応できるように配慮されており、キーの配置を使用する言語によって変更できる仕組みになっている。といっても、それほど頻繁に配置を変えることはない。自分の専門ではプログラミング言語を使うことが多いから、普段はそれに特化した配置になっている。今回も配置を変える必要はなさそうだった。

 サラから受け取ったメモリーをデバイスに差し込んで、テキストの中身を確認する。学術的な文書だった。英語で書かれているが、難解なものではない。どちらかというと、学術的な文章は、物語形式のものよりは翻訳がしやすい。論理的な文章はルールから逸脱しない。

 デバイスはすでにクラウドに接続されている。僕個人に割り当てられた容量は、必要がないくらい多かった。それが全部埋まるまで仕事をしろということか。

 慣れない作業ではなかったので、作業は滞りなく進行した。サラに教えてもらった補助ツールに関しては、今のところ使う必要はなさそうだった。種類が豊富すぎて、どれを使ったら良いのか分からない。シンプルに進めていくのが最も効率が良いと判断した。

 二時間半くらい続けて作業を行い、気づくと昼時になっていた。

「まあ、順調かな……」

 お茶を飲みながら僕は言った。このお茶は、作業の途中でテーブルから出現したものだ。テーブルに入るスリットは、その上に置かれている物の状況に合わせて位置と大きさが調整されるようで、お茶はデバイスの邪魔にならない位置に現れた。

「私の出番はなさそうだね」対面に座るリィルが話す。「つまらないけど、楽だから、まあ、いいか」

「気楽だね」

「うん、気楽」

 僕はソファから立ち上がり、軽く伸びをする。

「ちょっと、外に行ってくるよ。ロトに会ってくる。このまま、お昼ご飯が二人分運ばれてきたら、大変だから」

 僕がそう言うと、リィルも立ち上がった。

「私も行く」

 僕は了承した。

 部屋の外に出ても、廊下には誰もいなかった。静まり返っている。この一帯は海の底にあるわけだが、水の気配は感じられない。右にも左にもずっと灰色の廊下が延びているが、どちらの先にも終わりは見えなかった。ロビーに続く階段は左手にあるので、僕とリィルはそちらに向かって進む。

「どのくらいで終わりそう?」歩きながらリィルが質問した。

「うーん、そうね……。与えられたテキストは、今日中にはなんとかなりそうかな」

「え、そんなに?」

「思ったよりも簡単なものだったから……。……もしかすると、試されているのかもしれない。今やっているのは、肩慣らしみたいなものなんだろうね、きっと……」

「私さ、あとで、遊びに行ってもいい?」

「どこに?」

「海に」

「それって、勤務時間中にってこと?」

「そうだよ」

「駄目に決まっているじゃないか」僕は笑う。「仕事を何だと思っているの?」

「時間を無駄にする許しがたい所業」

 面白かったので、僕はさらに笑った。

「とりあえず、僕の傍にはいてほしい。終わったら、一緒に行こう」

「了解」

 前方に階段が見えてくる。僕たちが近づくと、階段の付近が明るくなった。廊下の照明はずっと灯っているが、ここだけは回路が異なるらしい。

 ロトに案内されて、昨日通ったときにも感じたことだが、この階段はかなり長い。丘の上から海の底まで繋がっているのだから、長いのは当然だが、ほかにもっと良い設備が作れたのではないか、と思う。わざわざ人間の足を使って上り下りをさせる意味が分からない。エレベーターなど、もっと便利な手段があるはずだ。

 長い階段を上りきって、ロビーに辿り着く。やはり、そこにも人の気配はなかった。

「予め、内線で伝えておくべきだったかな……」

 周囲を見渡しながら、僕は誰にともなく呟く。

 誰の応答もない。

 僕は隣を見る。

「どこにいると思う?」

「さあ……」リィルは首を傾げた。「地球上のどこかにはいると思うけど……」

「案外、火星に住んでいたりしてね」

 数秒遅れて、リィルは吹き出した。

「彼が?」彼女は尋ねる。

「そうそう」僕は二度頷いた。「フォーマルな格好で、火星で一人なんだ」

 昨日のことを思い出して、僕は入り口から見て左手にあるドームの方へ歩いていった。正面のドアを抜ければ、その向こう側に部屋があるはずだ。

 僕はドアをノックする。

 暫くすると、それがこちら側に向かって開いた。

 ロトが姿を現す。

「どうかされましたか?」ロトが笑顔で言った。

「お忙しいところ申し訳ありません」僕は対社会人用の声を出す。「あの、食事のことなんですけど……、……彼女、実は、ちょっとした病気で、特定のものしか食べられないんです」

 ロトは僕の背後に目を向ける。そこにリィルが立っていた。

「ああ、そうでしたか。えっと、それでしたら……」

「いえ、こちらで持参しているものがあるので、ほかのものを用意して頂く必要はありません。その、うっかりしていて、つい伝え忘れてしまって……」

「それは大変失礼致しました。分かりました。では、担当者に伝えておきます。今の時間ですと……」ロトは自分の腕時計を見る。「昼食はまだですね。では、今日の昼食から一人分のご用意とさせて頂きます。……昨晩や、今朝の分は、どうされましたか? 手をつけないまま回収されたとか?」

「昨晩は僕が二人分食べました。今朝の分は、実は、冷蔵庫に仕舞ってあります。だから、今日の分の昼食は不要です。今日の夜から、一人分でお願いします」

「それは、また、随分と大胆な……」ロトは笑った。「ええ、分かりました。必要でしたら、今朝の分は回収して、新しいものをご用意致しますが」

「いえ、けっこうです。素晴らしいメニューだったから、もう一度食べたいんです」僕は口から出任せを言う。

「分かりました。ご不便をおかけしまして、申し訳ありません」

 何度か挨拶を繰り返して、ロトはドアの中に戻っていった。

「火星にはいなかったね」リィルが言った。

「え? 火星?」

 部屋に戻ったときには正午を迎えていたが、たった今注文した通り、昼食は届けられていなかった。僕は冷蔵庫から今朝の分の料理を取り出し、それを食べ始める。食事のときは仕事に関する事柄には触れないスタイルなので、黙ってゆっくりと食べ物を消化した(唾液の分泌は消化の始まりといえる)。

「午後は、何時から?」

 僕が昼食をとり終えると、リィルが尋ねてきた。

「えっと、二時からだったかな」僕は腕時計を見る。「まだ一時間近くあるね」

「外に行かない?」

「今から? まあ、いいけど、若干眠くなってきた」

「じゃあ、いいよ」リィルは笑顔で言った。「全部作業が終わったら、行こう」

「了解」

 どういうわけか、僕は、昼食のあとは必ず眠くなる。たぶん、ほとんどの人に見られる症状だろうが、僕のそれはかなり顕著な形で表れる。視界がぼんやりとして、手先に力が入らなくなるし、立ったり座ったりしているのが嫌になる。だから横になるしかない。数十分も眠れば、症状は大分緩和される。無理してすぐに作業を再開すると、あとで必ず頭が痛くなるので、昼食のあとはできる限り眠るようにしている。

 ありがたいことに、寝室には寝心地の良いベッドがある。僕はその上に横になり、そっと目を瞑った。

 すぐに眠りに落ちる。

 しかし、非常に珍しいことに夢を見た。

 夢の中で、僕は一生懸命リィルと話そうとしていた。言葉のチョイスを変え、言い回しを工夫して、なんとか彼女と意思の疎通を図ろうとする。けれど、彼女にはまったく伝わらない。リィルは首を傾げるばかりで、何度同じことを繰り返しても、僕は自分の言いたいことを伝えられない。僕は、何かとても大切なことを伝えようとしていた。それが伝わらなければ、きっと僕と彼女の関係は終わってしまう。それなのに、本当に何も伝わらないのだ。どうしたら良いのだろうと途方に暮れたとき、彼女が口を開いて一方的に僕に言葉を放った。

「私たち、結局、その程度の関係だったんだよ」

 僕が言いたいことは伝わらないのに、どうして、彼女の言っていることが僕には理解できるのか分からなかった。ただ、ああ、その通りだなと納得してしまって、僕は遠ざかっていく彼女の背中をぼうっと見つめる。言葉が通じないから、彼女を引き止めることもできない。それでは足を動かせばいいではないか、と思ったが、そう思ったときには、彼女はすでに僕の視界から消えていた。

 僕は、その場に立ち尽くしたまま、小さく溜め息を吐く。

 不思議と涙は出なかった。

 こうなることを、どこかで想定していたのかもしれない。

 なんと高尚な予測。

 まるで未来を予知できるみたいだ。

 ?

 未来?

 これは未来なのか?

 それとも、過去なのか?

 突然大きく揺さぶられ、僕はとっさに目を覚ます。

 頭の上にリィルの顔があった。

「起きて」彼女の口が動く。「時間だよ」

 僕はゆっくりと身体を起こし、枕もとにあるデジタル時計を確認する。もう午後一時五十分だった。あと十分で午後の作業が始まる。

「大丈夫?」リィルが尋ねた。

「うん、まあ……」僕は額を抑える。「妙な夢を見た」

「どんな?」

「いや、気にしなくていい。夢は夢にすぎない」

「もう、始まるよ」

「分かっている」

 リビングに移動し、スリープモードにしておいたデバイスを起動する。クラウドに接続し、午前の続きを始めた。

 作業は、その名の通り、本当の意味で作業だった。だからほとんど頭を使わない。少なくとも、これらの一連の運動を通して学習することは何もない。たとえるなら、ネットサーフィンをしているようなものだ。視覚情報は確かに脳に伝わっているが、脳の側がそれを正しく処理しようとしない。どうでも良い情報は記憶に留めないようにできているからだ。つまり、省エネルギーを徹底した結果だといえる。

「ねえ、あのさ」午後の作業を開始して三十分が経過した頃、僕はリィルに声をかけた。

「ん? 何?」携帯端末から顔を上げて、リィルは反応する。

「これって何て読むのかな?」

 僕がデバイスのディスプレイを指差すと、リィルは立ち上がって僕の方にやって来た。隣から顔を出して、彼女はディスプレイを覗き込む。

 僕が指示したところには、”humiliate”と記されていた。僕にはこの単語の意味が分からない。

「えっと、humiliateじゃなかったかな」彼女は流暢な発音で答える。

「聞いたことない。どういう意味?」

「たしか、尊厳を踏み躙る、みたいな意味だったと思うけど」

「尊厳? 尊厳を踏み躙る? へえ……。いやあ、難しい動詞だね」

「でも、合っている保証はないよ。調べたら?」

「まあ、そうか」

 僕はオンラインの辞書を使って単語の意味を調べる。すると、彼女が言ったのとほぼ同じ意味であることが分かった。

「ああ、合っているね」僕は言った。「さすが。凄いじゃないか」

「最初から調べればいいじゃん」

「そうだね」

「どうして私に訊いたの?」

 僕はリィルの顔を見る。

「さあ、どうしてだろう」

「試したかったとか?」

「いや……。ただ、なんとなく、訊いてみようかな、と思ったから、かな」

「ふうん」

 リィルは腑に落ちないみたいだったが、そのまま自分の席に戻った。

 タイピングを続けながら、僕は、どうして彼女に今の質問をしたのだろう、と自問自答した。たしかに不合理だ。僕の手もとにはデバイスがあって、ちょっとキーを操作すれば、簡単にネットで検索することができる。デバイスの表示を切り替えるのが面倒なら、携帯端末で同じ操作をすることも可能だ。それなのに、わざわざ声帯を震わせ、舌の位置を変えて、声を出して彼女に読み方と意味を尋ねた。

 どうして、そんなことをする必要があったのか?

 分からなかった。

 エラーかもしれない。

 ただ……。

 彼女の返答を聞いて、少し安心したのは確かだ。

 もしかすると、安心を求めて彼女に尋ねたのかもしれない。

 けれど、それはなぜ?

 リィルは、いつも僕の傍にいるのに、どうして、彼女の返答を聞きたかったのか?

 僕は、どうして、彼女とのコミュニケーションを求めたのだろう?

 やはり、分からなかった。

 暫くの間、僕の頭にはその疑問が渦巻いていたが、仕事の邪魔になると判断して、一時的に保留することに決めた。

 その疑問については、あとで彼女に意見を訊いてみようと思った。

「ねえ、君さ」リィルが言った。「ワイバーンって知っている?」

「ワイバーン?」

「そう、ワイバーン。龍の一種なんだけど……」

「知らないね。それがどうかしたの?」

「いや、なんとなく」リィルは笑った。「君に訊いてみようかなって思った」

 僕は彼女を見る。

 僕の不思議な言動について、彼女に意見を求める必要はなくなったな、と僕は思った。
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