The Signature of Our Dictator

羽上帆樽

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第4章 しかし対立

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 作業は順調に進み、夜になるまでに、僕は追加のテキストを貰うことができた。量ではなく質によって報酬が支払われるから、多くをこなして損はない。追加で与えられたテキストも途中まで進め、半分くらいまで翻訳したところで今日の勤務時間は終了した。

 例によって、テーブルに夕飯が届けられる。今回も一人分の食事だった。昨日は午後八時に料理が運ばれてきたが、今日は一時間早い午後七時だった。昨日は、僕たちが到着するのが遅かったから、それに合わせてくれたのだろう。

「とりあえず、やるべきことは分かった」夕飯を食べながら僕は言った。今晩はホワイトシチューだった。鮭が入っている。

「よかったじゃん」リィルが反応する。

「でも……、なんだか、仕事をしている気がしない。自分の家でやっている方が、サボろうと思えばサボれるから、緊張感があるね。ここでは、仕事しかすることがないから……」

「あとで、外に行くからね」

「ああ、そうだね」僕は頷く。結局、彼女との約束はまだ果たせていなかった。「じゃあ、これを食べ終わったら行こう」

 室内はとても快適な環境が維持されている。空調や照明は手動でも調節できるが、今の設定のままで特に問題はなかった。僕は割と環境の影響を受ける方だが、この施設の調節は完璧だ。仕事をしているときも、まったく不快に感じることはなかった。

 二十分ほどで夕飯を食べ終え、それから十分くらい休憩して、僕たちは部屋の外に出た。そのまま廊下を左手に進み、階段を上がってロビーに出る。そこで、僕たちはロトがいるのを見つけた。彼はテーブルと椅子が並べられたラウンジに陣取り、この施設の人間ではない誰かと話している。施設の人間は制服を身に着けているので、部外者か否かは服装を見れば分かる。

 彼は僕たちに気づき、軽く視線を向けて微笑んだ。僕も一応頭を下げておく。二人の会話は聞こえなかったが、事務的なことを話しているのは分かった。

 扉が自動的に開き、二人揃って建物の外に足を踏み出す。

 久し振りの屋外だった。

 背後で扉が閉まり、僕たちは外部の空気に完全に晒される。

 振り返ると、ドームの上に強い光が灯っていた。それは一定の速度で回転している。今晩も灯台の役目を全うしているようだ。

「ちょっと、寒いね」リィルが言った。「上着を持ってくればよかった」

「まあ、でも、いいよ、このままで」僕は話す。「たまには涼しすぎるのも悪くない」

「寒いと、涼しいの違いは?」

「ク活用か、シク活用の違いかな」

 ドーム状の建物の裏側に周ると、そこに木製の階段があった。階段は蛇行しながら下まで続いていて、その先に砂浜があるのが見える。僕たちは階段を下り、砂浜を散歩することにした。

 ずっと向こうまで暗黒の海が続いている。潮の香りが微かにした。周期的に波の音が聞こえ、灯台の明かりがそれに呼応するように前方を照らす。今は、空は空ではなく、宇宙として認識できそうだった。灯台以外に周囲に光がないから、星がかなりはっきりと見える。

 砂浜の砂は、多少水気を帯びていたが、それでも大理石のように乾燥していた。

「気持ちいいね」リィルが呟く。

「うん、たしかに」

「海に来たの、久し振りかも」

「そうなの? 連れていってもらったことは?」

「うーん、どうかな……。必要のないことは、記憶に残らないようになっているみたい」

「それは正常だよ」

「海ってさ、どこまで続いているの?」リィルは歩きながら質問する。「地球は本当に丸いの?」

「一般的にはそう認識されているけど、確認したことはないから、分からない」

「月は本当に存在する?」

 僕は顔を上げて周囲を確認する。

「今日は見えないから、存在しないかもしれない」

 リィルは笑った。

 遠くの方に砂浜の終わりが見えたが、かなり遠いので、僕たちは途中で引き返した。終着点の先には山が連なっている。反対側も同様で、僕たちがいる施設は左手の山に程近い場所に位置していた。

 先ほど下りてきた階段の傍まで戻り、二人並んで適当な岩に腰かける。

 ときどき、灯台の明かりが僕たちを照らした。

「これから、どうするの?」

 リィルが尋ねる。

「どうするって、何が?」

「この仕事が終わったら、次は何をするの?」

「ああ、そういうこと……。さあ、どうするのかな。依頼はいくらでもあるけど、何もしないという選択肢もないわけじゃない。でも、たぶん、何かしらの仕事は引き受けるだろうね。そうしないと、生きていけないから……」

「まだ、生き続けるつもり?」

 リィルはこちらを向く。

「もちろん」僕は言った。「君は、どうしたいの?」

「うーん、どうしたいのかなあ……」彼女はまた前方に向き直った。「正直に言って、どうなってもいいような気がして……。……死んでもいいかな、とさえ思う」

「それは、誰だって同じだ」

「そう?」

「自覚していないだけだよ」

「君は自覚している?」

「自覚しかけてはいるけど、しきれてはいない」

「明日死ぬとしたら、何をする?」

「今すぐ家に帰って、冷蔵庫の中身を空にする」

「それ、なかなかいいね。グッドアイデア」

「そうだろう?」僕は言った。「だからこそ、今日の朝、二人分の料理が届けられたときは、困ったんだ」

「それ、関係なくない?」

「その通り」僕は言った。「関係はない」

 暫くの間、僕たちはそこで風に当たっていた。けれど、だんだん身体の芯まで冷たくなってきて、とうとう耐えきれなくなって施設に戻った。

 扉を抜けてロビーに入ると、ラウンジにまだロトがいた。話し相手は帰ったようだ。扉が開いた音で僕たちに気づき、彼はまたこちらに笑顔を向けてきた。

 挨拶くらいしておいた方がいいかと思って、僕はロトの方に近づいた。

「作業の方はどうですか?」ロトの方から声をかけてきた。

「ええ、まあ……」僕は答える。「だいたいは順調ですね」

 彼は僕の背後を見る。

「優秀なアシスタントもお連れのようで、我々としましては、大変助かっております。引き続きよろしくお願い致します」

「いえ、こちらこそ……」彼が頭を下げたので、僕もそれに応じた。

「何かご不便をおかけしていることはありませんか?」

「ええ、特には……」しかし、僕は思いついたことを尋ねた。「ああ、えっと、一つお訊きしたいんですけど……。この施設のクラウドは、どなたが管理しているんですか? その、大変整理されていて、使いやすい印象が受けたので」

「ありがとうございます。ええ、クラウドの管理を専門に行っているスタッフがいるのです。この施設では、一人一人が個別の役割を担っています。その分野の専門家を雇っているわけです。極力、同じ人間に二つ以上の役割を担わせないようにしているのです。そうすることで作業を効率化できます。私は、サブリーダーという立場上、色々とやらなくてはならないことがあるのですが……」

「そうですか。ええ、分かりました。あと、僕たちのサポーターの、サラという方にですが、えっと、その、色々と教えて頂いたので、大変助かりました、と伝えておいてもらってもいいですか?」

「承知致しました」ロトは笑顔で頷いた。

 話はそれくらいにして、僕たちはその場から引き下がった。

 廊下を進み、長い階段を下りる。背後でドアが閉まり、辺りを照らす照明が灯る。

「何を訊きたかったの?」

 階段を中程まで下ったところで、リィルが僕に尋ねた。

「何って、何が?」

「なんか、中身のないやり取りだったじゃん。質問も、それに対する回答も……」

「え、そうかな」

「意味がなかった感じ」

「ま、そんなものだよ、人の会話って」

 灰色の廊下を進み、自分たちの部屋に戻ってくる。

 話し合いの結果、今日もリィルが先に風呂に入ることになった。僕は明日の準備を軽く済ませる必要があったからだ。準備といっても、資料の内容を確認しておく程度で、負荷のかかる作業はまったくしない。夜はできるだけ休養に時間を当てるようにしている。どちらかというと、僕は平均よりも体力がない方だ。

 明日使う資料に目を通しながら、僕は先ほどのロトとの会話を思い出していた。

 彼にクラウドの管理者について尋ねたのは、もちろん、彼と社交的な会話をしたかったからではない。今日や昨日の作業でクラウドを使う中で、ちょっとした違和感を覚えたからだ。その違和感について、一言でまとめてしまえば、人為的でないものを感じたと表現できる。つまり、人間ではない何かが関わっているような気がしたのだ。自分でも酷く抽象的な感覚だと思うが、しかし、そう感じたのだから仕方がない。そして、こういった抽象的な気づきは、あとになって具体的な事実に繋がることが多い。だから忘れないように留意しておく必要がある。これは僕の経験則だが、この予感が外れることはあまりない。

 人為的ではないとしたら、必然的にほかの可能性は二つに絞られる。つまり、自然的か、機械的か、という二つだ。クラウドの管理に関しては、自然的ということはありえない。したがって、残された可能性は機械的であるという一つしかない。そう、機械的……。僕には、この施設のクラウドが、機械的な何かに管理されているように思える。それは本当に経験的な直感で、説明しろと言われても上手く説明できない。例えるなら、人間が書いた小説と、コンピューターが書いた小説を読み比べれば、どちらが書いたものかすぐに判別がつく、というのと同じ感じだろうか。

 おそらく、この予感は当たっている。

 根拠はないが、きっとそうだ。

 しかし……。

 最も気にしなくてはならないのは、どうして、僕がそんなことにひっかかりを覚えたのか、ということだろう。

 クラウドを機械的な何かが管理するのは、それほど珍しいことではないのだから……。

 浴室からリィルが姿を現し、お先に、と僕に告げる。僕は頷いて浴室に向かい、彼女と入れ違いに風呂に入った。

 服を脱いで、湯船に浸かる。彼女は今日は湯を沸かしたようだ。

 自然と溜め息が出た。

 やはり、疲れている。

 天井に向かって湯気が上っていく。

 明日も、適度に頑張ろう、と僕は思った。





 特に滞ることもなく、僕は毎日順調に作業をこなしていった。与えられた二つのテキストの翻訳は完了し、すでに三つ目のテキストに入っている。これほど集中的に仕事に専念したことはないが、経験がなくても案外持久力は続くものらしい。夜になると一気に疲れが出るのは確かだが、目を覚まして、朝食をとれば、そのまま夜まで続けて作業をすることができた。作業が捗っているせいか、程良く負荷がかかるみたいで、夜もぐっすり眠れる。むしろ自宅で仕事をしているときよりも体調が良いくらいだった。

 そんなふうに生活して一週間が経った今日、事態が少し奇妙な方向に傾く出来事が起きた。

 目を覚ましてリビングに移動すると、テーブルの表面に青い小さな光が灯っていた。これは連絡事項がある場合に光るサインだ。僕がテーブルの表面を軽くタップすると、テーブルは上方向に薄水色のスクリーンを投影する。そこにロトからのメッセージが記されていた。


〉連絡事項です。


〉突然の要求で申し訳ありませんが、暫くの間、本施設の全所員にクラウドの使用を禁止します。


〉この処置に関して、詳細な情報をお伝えすることはできません。


〉完成したテキストは、一時的に各自のデバイス内に保存しておくようにお願いします。


〉なお、このメッセージは回線を切り替え、クラウドを経由しない手段を用いて送信しています。


〉また、本施設の所員が各自の操作でクラウドに接続できないように、現在こちら側でロックをかけています。


〉この処置がいつまで続くかは、現段階ではっきりと述べることはできません。


〉多大な迷惑をかけると思いますが、ご理解頂くようにお願いします。


〉以上。


ロト


 メッセージに目を通し終えた僕の頭には、どうしたんだろう、といった酷く当たり前の疑問が浮かんだ。メッセージは施設内にいる全員に宛てられたもので、僕だけがこのメッセージを読んでいるわけではない。

 今のところ、僕がクラウドを使う場面はほとんどなかった。それこそ、完成したテキストを保存するときくらいだ。クラウドに接続することで利用できるサービスは、僕はほとんど使ったことがなかった。自分には合わないものだったし、使わなくても作業は問題なく進む。

 僕はメッセージの前で直立し続ける。

 暫くすると、寝室のドアが開いて、髪が若干爆発しかけたリィルが現れた。

「おはよう……」目を擦りながら彼女が挨拶をした。

 僕は片手を上げ、それからテーブルの上のスクリーンを指差す。

「これ、見てよ」

 リィルは首を傾げて、僕の傍にやって来る。僕の隣に立ち、彼女はメッセージの中身を確認した。

「何これ……。ロトから?」

「そう」

「クラウドが使えないって……。……何かあったのかな?」

「そりゃあ、何かはあったんだろうね。じゃないと、いたずらということになる」

「何か、思い当たることは?」

「僕? ないね」

「クラウドが使えなくなると、どれくらの影響が出るのかな」リィルは上を向く。「私たちは、全然困らないけど、ずっとここで働いている人たちは、それにある程度は頼ってきたわけだから……。うん……。ちょっと、一大事かもしれないね」

「ちょっと、一大事って、どういう状態なわけ?」

「そういえば、君、この前さ、ロトにクラウドについて訊いていたじゃん」頭が回り始めたのか、リィルは突然大きな声を出す。「それって、これと関係があることなんじゃないの?」

「うーん、どうかな……。関係があるといえばそうかもしれないけど、でも、たぶん、今のところは、そんなに大きな関係があるとはいえないと思うな」

「じゃあ、後々関係が見えてくるかもしれないってこと?」

「うん、まあ、そうだね」僕は頷く。「しかし、それはどんなことにもいえる」

 リィルに催促されたので、僕はロトにクラウドに関する質問をした理由を話した。クラウドの裏側に、機械的な何かを感じる、というあれだ。しかし、リィルも僕と同じような印象を抱いたのか、それほど興味は示さなかった。そうした感覚は、実際にクラウドに接続してみれば彼女にも分かるはずだ。いや、彼女だからこそ分かるというべきか。

 妙な出来事が起こっても、朝食はいつも通り届けられ、僕はそれを食べた。今日は朝からスパゲティーグラタンだった。別に、朝から、と断った理由はない。ちょっとボリューミーだな、と思っただけだ。

「それにしても、なかなかスパイシーだね」スパゲティーを口に押し込みながら、僕は話した。

「その料理が?」

「いや、この施設が」

「何が?」

「なんか、色々と新鮮なことがあって、面白い」

「今回の出来事も?」

「うん、そうだね」僕は頷く。「理由が分からないというのが、一番不気味だ」

「ロトに訊いてみれば?」

「いやいや、施設の所員にさえ教えないんだから、部外者の僕たちに教えてくれるはずがないよ」

「私が訊いてこようか?」

「君が?」僕は思わず笑ってしまった。「興味深いけど、やめておこう」

「何が興味深いの?」

「いや、なんだか、君に尋ねられたら、彼も答えてしまうかもしれない、と思って……」

「え?」リィルは少し目を丸くする。「じゃあ、なおさら訊いた方がいいじゃん」

「あとが面倒になる」僕は言った。「彼が上司から責任を追求されるところなんて、僕は見たくないよ」

 ふうん、と言ってリィルは黙った。

 午前九時になって、僕は今日の分の作業を始めた。やはり、クラウドが使えなくても不便は感じない。いたっていつも通りだといえる。

 十時になった頃、ドアがノックされ、僕は作業を中断して立ち上がった。

 ドアを開けると、そこにサラが立っていた。

「おはようございます」無表情のまま、彼女は軽く頭を下げた。「何も問題はありませんか?」

 ドアを閉めて、彼女は玄関に入ってくる。しかし、部屋には上がらずに、そのまま立ち話をする形になった。

「ええ、特には……」僕は答える。「あの、何があったんですか?」

「それについては、お答えできません」彼女は僕の質問を一蹴する。「問題がなければ、引き続き作業を続けて下さい。問題が起きたら、私が対処します。いつでも内線で呼び出して頂いて結構です」

「分かりました」

「では、私はこれで……」そう言って、サラはドアを開けようとする。

「これから、すべての部屋を周るんですか?」

「いえ、違います」彼女はこちらを振り向く。「お二人が、何か不便を感じていないか、気になりましたので」

「お気遣い感謝します」

「感謝しても、何も出ません」

 僕は、サラが少し笑ったのを見逃さなかった。

 彼女は部屋から出ていった。

 ソファに座り直し、僕は自分の作業を再開する。

「やっぱり、何かあったんだね」対面に座るリィルが言った。

「だから、何かはあったんだよ」

「何かなあ……。私たちに関係があることだったりして」

「え、それ、どういう意味?」僕は手を止めて顔を上げる。「この出来事が生じた原因に、僕たちが関わっているってこと?」

「うん……。だって、タイミングがよすぎるから」

「ただの偶然じゃないかな。機器の不具合なんて、定期的に起こるものだよ」

「でもさ、なんか、違うと思う」リィルは説明する。「サラがここに来たのも、私たちの手助けをするためじゃなかったんじゃないかな。きっと、偵察に来たんだよ。私たちが何も怪しいことをしていないか……」

「勘繰りすぎだと思うよ」

「でも、そうとも考えられるでしょう?」

「そうだけど、そうだとしても、それだけではないだろう。たぶん、助力と、偵察の、どちらの意味もあったんじゃないかな。あとは、抑制の効果もあるだろうね。自分たちは、いつでもあなたたちに干渉できる、みたいな……」

「私、やっぱり何が起きたのか知りたい」

「いや、だからさ、どうしてそんなに興味津々なの?」僕は意識を完全に手もとから乖離させて、彼女に質問した。「なんか変じゃないか。ここに来たときから、君、妙なことばかり言っているよ。何か気になることがあるの? 言ってごらん。些細なことでも、ちゃんと耳を傾けるようにするからさ。報告は、ないよりはあった方がいい」

「ただの勘だよ」彼女は言った。「でも、はっきり言うと、この施設は普通じゃないと思う」

「普通じゃない? どういう意味?」

「うーん、よく分からないけど、でも、なんか、そんな気がする」リィルは天井に目を向け、脚と腕を同時に組む。途端に精悍な顔つきになった。「一言で言えば、変。この施設も、この施設に務める人間も、何か変だよ。隠していることがあるんじゃないかな。あるいは、隠されているわけじゃなくても、私たちがまだ知らない何かが存在する……。うーん、なんだろう……。はっきりとは言えないけど、そんな確信がある、というか……」

「分かった。じゃあ、これからは君の勘に従おう」僕は瞬時に方針を転換した。「気づいたことがあれば、僕に教えてほしい」

「うん……」

「ただし、あまり大それたことはしないでね。ロトに直接訊きに行くとか、サラに無理矢理詰め寄るとか、そういうことは控えるんだ。でも、そうだな……。施設内を歩き回る程度なら、まあ、やってもいいことにしよう。なるべく隠密に行動するということで……。いざとなったら、僕が責任をとるよ」

「それは、どうも、ありがとう」

「で、君は何がしたいの?」

「まずは、うーん……」彼女は考える。「それを、考えること、かな」

「なんだ」僕は笑った。「まあ、じゃあ、ゆっくりと考えるといい」

 リィルは静かに一度頷き、そのまま思考モードへと以降した。

 僕も作業を再開する。

 彼女がこんなことを言うということは、おそらく何かあるのだろう。その何かがどんなものかは分からない。けれど、確かにそれは存在する、といった予感がリィルの中に渦巻いている。それは認めなくてはならない。彼女の直感力がどの程度のものなのか、はっきりとしたことは分からないが、少なくとも、僕以上であることは確かだ。だから、今は彼女に任せるしかない。

「今、外に出てきてもいい?」リィルが言った。

「外って、この部屋の外?」

「そう」

「うん、まあ……」僕は考える。「勤務時間中だから、あまり目立たないようにね」

「了解」

 リィルはソファから立ち上がる。

「あ、あとさ」僕は言った。

「何?」

「できたら、どこかで飲み物を買ってきてくれないかな?」

「施設の中で?」

「うん……。何かしら、そういうものを売っているところがあると思うんだけど……。いや、ないのかな。まあ、なければいいんだ。とりあえず、見つけたら、買ってきて」

「何がいい?」

「何でも」

「グリセリンでもいい?」

「いいね。最高」

 リィルは部屋から出ていった。

 部屋が静かになる(リィルが煩いという意味ではない)。

 タイピングをしながら、僕は作業とは無関係なことを考えた。

 まず、あとで、一度友人に電話をしてみようと思った。友人というのは、僕にこの仕事を紹介した彼だ。その友人はとある企業の社員で、彼が住む街で起こる様々な出来事の仲裁をする仕事をしている。あまりにも抽象的な説明だが、一言で言ってしまえば便利屋だ。そして、彼はとある企業の社員だと言ったが、そこには彼以外の社員はいない。つまり、彼が事実上のトップ、管理者ということになる。普段なら、彼はその街に関する情報にしかアンテナを張っていないが、僕にこの仕事を紹介したということは、今僕たちがいるこの街に関することも多少は知っているということになる。だから、施設を中心に、その周辺情報を探ってみようと考えた。

 途中で一度席を立ってトイレに行く。戻ってきたらまたタイピングを始め、テキストをどんどん翻訳していく。

 リィルは、今、何をしているだろう、と僕はぼんやりと考える。

 別に、彼女を普段から意識しているわけではない。僕は彼女が好きだが、だからといって、いつも頭の中に彼女がいるわけではない。それは確実にいえる。好きなものに夢中になると、常にそれが頭に浮かぶようになることがあるが、今の僕はそういった状態ではない。たしかに、少し前にはそういった時期もあった。それくらい、僕は彼女に夢中だった。けれど、今は違う。いったい何が変わったのだろう?

 一つは、互いの距離が近くなったことが挙げられる。距離が近くなれば、対象は自然と大きく見えるようになる。つまり、僕の頭の中には入らなくなる。言い換えれば、対象を微視的に見るようになる。リィルを微視的に見るようになったことで、以前の彼女とは異なる性質を伴って、僕には彼女が見えるようになった。だから、本当は、常時リィルを意識しなくなったのではなく、全体ではない、彼女の一部にフォーカスするようになったのだ。それは、要するに、リィルの違った一面に注目するようになった、ということでもある。

 それは、親密度が上がった証か?

 たぶんそうだろう。

 けれど、親密度が上がるのは、良いことなのか?

 それは分からない。

 一般的にはその通りだが、リィルが僕とどのような関係を築くことを望んでいるのか、僕には分からない。

 ……もう少し、分かる努力をした方が良いかもしれない。

 少なくとも、彼女が僕を理解しようとしてくれているのは確かなのだから……。

 そう思ったとき、ドアが開いて、リィルが部屋に戻ってきた。

「はい、これ」ドアを閉めて、彼女は僕に缶に入った飲み物を渡した。「この廊下を右手に進んだ先に、休憩所みたいな場所があって、そこに自動販売機が置いてあった」

 僕は飲み物を受け取る。メロンソーダーだった。

「グリセリンじゃないんだ」

「それでね」リィルは僕の前に座る。「私、面白いことを聞いちゃった」

「え、何を? 誰から?」

「休憩所に、サラがいた」リィルは話した。「彼女、誰かと話していたんだけど……、誰だと思う?」

 僕は少し考えてみたが、思い当たる節はなかった。その話題に関する情報がないのだから当たり前だ。

「さあ、誰?」

「それが、誰もいなかったの」

「え? どういう意味?」

「彼女、天井に向かって話していたんだよ」リィルは真剣な口振りで言った。「どういうことだと思う?」

 僕は、缶のプルトップを開けて、緑色の液体を体内に流し込む。

「メロンソーダーは、美味しい、ということだ」
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