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第5章 そこで説明
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あと少しで作業が一段落しそうだったので、リィルの話を聞く前に、暫くの間僕はキーを叩き続けた。そろそろ指が疲れてきたが、疲れても折れるわけではない。折れるまで叩き続けようとは思わないが、まあ、折れたら折れたで仕方がないとも思った。
十五分くらいして、とりあえず、テキストのだいたいの翻訳が終わった。時刻を確認すると、針は午前十一時半を指している。あと三十分もすれば昼食になるから、僕は少し早めに休憩することにした。
「それで? さっきの話は?」
デバイスの蓋を閉じて、僕はリィルに質問した。見ると、彼女は自分の手を使って訳の分からない形を作っている。それが彼女の暇潰しのようだ。
「あ、終わった?」リィルは言った。「よし、では、話そう」
「威勢がいいね」
リィルの話によると、廊下を右手に進み、そこで見つけた休憩室に入ろうとしたところ、声が聞こえたので、一度立ち止まって室内を覗いてみたら、そこにサラがいるのを見つけたとのことだ。サラのほかには誰もいない。それなのに、サラは確かに誰かと会話をしている。リィル曰く、サラは天井に顔を向けていたらしい。話口調は事務的なもので、談笑しているような感じではなかった。そして、意を決してリィルが休憩室の中に入ると、サラは途端に話すのをやめてしまった。リィルが軽く頭を下げると、サラもそれに応じたが、彼女が飲み物を買っている間、リィルはずっとサラに見られていた。
「へえ……」
リィルの話を聞き終えて、僕は適当に相槌を打った。
「ね、凄いでしょう? もう、驚きでしょう?」
「うーん、どうかな……」
「どうかなって……。だって、天井に向かって話していたんだよ」
「ただの独り言かもしれないじゃないか」
「いや、そんなはずはないって」リィルは譲らない。まあ、普通はそう考えるのが自然だろう。「あれは、明らかに誰かと話していた。独り言なんかじゃない。それは分かる。自分に言い聞かせているような感じじゃなかったし」
「自分の中にいる、もう一人の自分と話していた、という可能性は?」
「いや、ないでしょ、そんなの……」
「ないとはいえないね。僕はよくするよ、そういうこと」
「わざわざ口に出してしないでしょう?」
「さあ、どうかな」僕は目を逸らす。「自分では声を出しているつもりなんてないかもしれないし」
「あのさ、それ、冗談で言っているんだよね?」
「どう受け止めるかは、君次第だ」
「そんな……」
「今のは冗談だよ」僕は笑った。「よく見極めよう」
リィルは膨れ面になり、僕を激しく睨みつける。こういう表情をしている彼女が、一番キュートではないか、と僕は思う。
「まあ、それじゃあ、今は君の言う通りだとしよう」彼女のレーザー光線を避けて、僕は言った。「サラは、確かに誰かと話していた。しかし、その対象は、さすがに天井そのものではないだろう。となると、どんな可能性が考えられると思う?」
「天井にスピーカーとマイクがあって、それを通して会話をしていた」
「うん、それしかないだろうね」
「やっぱり……。でも、どうして、そんな装置が休憩室にあるのかな? それなら、誰でも使えることになるよね? 私が休憩室に入ったとき、彼女は話すのをやめたんだから、何か、聞かれたらまずいことを話していたんだと思うけど……。何だろう……」
「しかし、人は、プライベートな内容は、それがどんなものであろうと、他人には聞かれたくないものだよ」
「それって……、重要な話ではなかった可能性もあるってこと?」
「そうだね」
「うーん……」
「それに、考えるときに天井に視線を送る人もいるしね」僕は付け加えた。「君だってそうじゃないか」
「え?」
リィルはこちらを見る。
「気づいていないの?」僕は笑った。
「私が?」
「そうだよ。ほら、やっぱり、今の段階では何も断定できない」
「そうだけどさ、でも……」リィルは下を向く。「……でも、あれは、絶対何かやっていた」
僕は一度息を吐き出し、ソファの背に深く凭れかかる。
おそらく、リィルの言っている通りだろう。彼女がその種の観察に長けていることは、僕も知っている。長けているといっても、飛びきり優れているわけではないが、信用に値するのは確かだ。だから、今は僕も彼女が言っていることを事実として受け止めるが……。
……しかし、そうすると、サラはいったい何をしていたのだろう? 勤務時間なのに、彼女は仕事をしていなかったのか? たしかに、この施設では、仕事は量ではなく質で判断されるから、彼女が仕事を早く切り上げた可能性も充分にある。しかし、それなら、どうして、わざわざ休憩室に移動する必要があったのか? 自室でも、充分寛げるはずだ。その種の休憩室は、複数人で会話をするためにあるといって良い。一人で使うものではない。特にこの施設の人間はそうだろう。仕事をするスペースが、そもそも個室なのだから、むしろ休憩室の方がプライベートではないといえる。
そうすると、やはり、サラは一人ではなかった、と考えるのが妥当だ。
休憩室に行く必要があった。
この時間帯なら、ほかの所員に遭遇する可能性は低い。
皆、自分の部屋で一人で仕事をしている。しかも、おそらく、サラは上級の立場にいる人間だ。僕たちのサポーターを務めていることからもそれが分かる。
休憩室でなくてはならない理由……。
やはり、休憩室に、ほかの部屋にはない何かがあるのだ。
サラはそれを使っていた。
誰にも見つからないように……。
十二時になり、テーブルに昼食が届けられる。しかし、僕は今はそれに手をつけなかった。
「ちょっと、行ってみよう」僕は立ち上がる。
「え? 行くって、どこに?」
「その、休憩室に」
「今から?」
「そう」
僕が玄関に向かうと、その後ろをリィルもついてきた。
ドアを開けて廊下に出る。彼女が言っていたように、僕は廊下を右手に進んでいった。
「大丈夫かな……」僕の隣でリィルが言った。「まだ、いるかもしれないよ」
「それならそれでいい。入る前に確認する。まだ話をしていたら、失礼だけど、隠れてその内容を聞こう。もう終わっていたら、なんとか頑張って話しかけてみるよ」
「スリリングだね」
「まあ、たまには悪くない」僕は呟く。「毎日同じことを繰り返してばかりで、そろそろ飽きてきていたところなんだ」
左に進むより廊下は遥かに長い。周囲は明るかった。照明を兼ねた天井がずっと向こうまで続いている。その両側の壁面にドアが一定の間隔で並んでいるから、なんとなく無機質な迷路に迷い込んだ感じがする。たしかに、思い込もうとすれば、こんな情景もスリリングに感じられる。ここに長い間いると忘れてしまいがちだが、今僕たちは海の底にいるのだ。いつ壁に亀裂が入って水が流れ込んでくるか分からない。
靴音が響く。
途中で後ろを振り返ったが、もう先は見えなくなっていた。視界は限られている。
「これ、歩くとどのくらいかかるの?」僕は尋ねる。
「ええっと……。うーん、分からないなあ……。考え事をしながら歩いていたから……」
「ちょっと、手を繋ごうか」
「え、なんで?」
「いや、なんとなく」僕はリィルを見る。「嫌だ?」
「嫌だ」
「ショック」
「嘘だよ」リィルは笑った。「少しだけね」
「なんか、誤解されそうな表現だけど」
「誤解?」リィルは僕の掌を握る。「もう、手に触れている時点で、誤解も何もないと思うけど」
「君の方から触れたよね、今」
「そっちが誘ったんでしょう?」
「その言い方さ、わざとやっているの?」
「どうだと思う?」
「さあ、どうかな」僕は考える。「君なら、どちらともありえそう」
「正解は、わざとでした」
「へえ……」
沈黙。
潜水艦の中を探検しているような錯覚に襲われる。リィルが傍にいるのが救いだった。僕は、こういった雰囲気があまり得意ではない。特に灰色の壁や天井が駄目だ。憂鬱な気分になってしまう。僕は普段から憂鬱な人間だが、それを上回る憂鬱に晒されるとシステムに異常を来してしまうのだ。
突然、廊下の右側の壁がなくなった。
壁が窪んでいる。そこが休憩室のようだ。
僕たちはその空間の前で立ち止まった。
休憩室といっても、部屋の明確な入り口は存在しない。三面が壁で囲まれているだけで、開いている所から自由に出入りできる構造になっている。円形のテーブルがいくつか並べられており、その周りに背の高い椅子が向かい合って配置されている。一つのテーブルに椅子は二つずつだった。奥の方に自動販売機が三つ並んでいる。一つは飲み物を売っているものだったが、あとの二つの内一つは軽食を、もう一つは煙草を取り扱っているものだった。
サラはもういなかった。自分の部屋に戻ったようだ。
五分くらい、僕とリィルは休憩室の中を調べた。調べるといっても、この部屋に置かれているものはそもそも限られているから、調べる対象は本当に僅かしかない。テーブルに椅子、自動販売機の周辺をそれぞれ調べてみたが、特に何も見つからなかった。
「うーん、何もないなあ……」手近な椅子に腰かけながら、リィルが言った。
「そんなに簡単にヒントを貰えるわけがないね」僕は彼女の対面に座る。
「この部屋に、何かがあるのは、確かなんだけど……」
「ま、そうだろうね」
「そうだろうね、じゃなくて、君も考えてよ、ちゃんと」
「考えている。口と頭が連動していないだけだ」
リィルはテーブルに両肘をつき、掌に自分の顎を載せてこちらを見る。
「どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって?」僕は身体を横に向けた。
「うーん、なんかさあ、だんだん、つまんなくなってきちゃった……」
「勉強して、理解できないと、すぐに投げ出してしまうタイプだね」
「そうだよ……。……もう、退屈」
「天井に向かって話しかけてみたら?」
僕がそう言うと、彼女はその姿勢のまま、天井さん、聞こえますか、と大きな声で尋ねた。
しかし、もちろん、何の反応もない。
リィルは溜息を吐いた。
「たぶん、対人会話を実現するシステムが備わっているんだ」僕は言った。「少なくとも、人間同士で会話をするためのシステムではないと思う。その可能性も捨てきれないけど、それなら自分の部屋からでもできるし、休憩室で大っぴらにやる意味がない」
「でも、そういう人もいるかもしれないんでしょう?」リィルは挑戦的な目を僕に向ける。
「その通り」
「君ならどうする?」
「僕は、そもそも、誰かと話したいとは思わない」
「私と話しているじゃん」
「君は例外なんだ」僕は言った。「可愛いから」
「でも、もしそんなシステムが存在するとしたら、私たちにも使えるはずだよね? 何かキーが必要ってことかな……」
「その可能性が高い」
「どんなキーだと思う?」
「さあ……。向こうから個人を判別するのか、それとも、こちらから相手に承認を求めるのか……」
「サラに訊けばよかった」
「うん、それはやめよう」
「ロトに訊きに行く?」
「君さ、もう少し自制したら?」僕は話す。「僕たちは部外者なんだよ。好き放題やっていいわけじゃないんだ」
「さっきいいって言ったじゃん」
「好き放題やっていいとは言っていない。ばれないように調べる分にはいい」
「ロトの口を封じるとか?」
「怖いね。ジェットコースターよりも怖い」
「はああああ……」リィルは勢い良くテーブルに突っ伏した。「なんか、疲れちゃった、色々と考えすぎて……」
「僕はお昼ご飯を食べよう」
僕が椅子から立ち上がっても、リィルは何の反応も示さない。
「帰らないの?」
「うん……。もう暫くここにいる……」
「そう。気をつけてね。健闘を祈る」
僕は長い廊下を一人で歩き始める。途中で立ち止まり、顔を上げて天井を見てみたが、そこから何かを感じ取ることはできなかった。まあ、当然だろう。対人会話を可能にするシステムと言ったが、そんなものは個人レベルのデバイスからでも使用できる。何も珍しいシステムではない。問題はそこではない。サラが何をしていたのか、それを考えることが重要だ。
ただ……。
僕はあまりそういったことには立ち入りたくなかった。
なんというのか……。……それが僕のポリシーなのだ。
他人のことは気にしすぎない。そうすることで、自分の領域からもある程度他人を排除できる。
今までずっとそうしてきた。
それなのに……。
どうやら、ずっと近くにいることで、僕は少しずつリィルの影響を受けてしまったようだ。
磁石の傍に置いてある金属が、同じように磁力を帯びてしまうような……。そんなことが起こりえるのかは知らないが、なんとなく、そんなイメージに近い。
僕は再び前進する。
数メートル先でドアが開き、サラが僕の前に現れた。
僕に気づいて、彼女はこちらを振り返る。サラは無表情のまま軽く頭を下げて、ロビーがある方へ歩き始めた。
「あの」
遠ざかる彼女の背中に向かって、僕は声をかけた。
サラはこちらを振り返る。
「はい、なんでしょう?」
「一つ訊きたいことがあるんです」僕は言った。「クラウドが復旧する目処が立っていないのは、なぜですか?」
「その質問にはお答えできません」サラは答える。「クラウドの使用禁止に関して、私から詳細な情報をお伝えすることはできません。これは命令なんです」
「なぜですか?」
「今の回答でご理解頂けませんか?」サラは僕を軽く睨む。
「いえ、理解はします。ただ……。……そう、ちょっと、不便だなと思いまして」僕は嘘を吐いた。「ええ、だから、その……、そうですね、そんな不満をついつい口にしてしまったんだと思います。すみません」
サラはじっと僕の表情を伺っている。
「結構です」サラは言った。「ご不便をおかけしているのは、事実ですから」
「早く使えるようになるといいですね」
頷いてから、サラは廊下の先に消えていった。
自分の部屋の前に戻ってきて、僕はドアを開けて中に入る。照明が自動的に灯った。空気は相変わらず快適だ。何もかもが適度に調節されている。
テーブルに載ったままになっている昼食を横目に、僕はソファに座って膝の上でデバイスを起動した。特にすることはなかったが、なんとなく先ほど仕上げたテキストに目を通した。
文字が並んでいる。
僕は考える。
たしかに、リィルが言いたいことは僕にも分かった。
そこには、何かがある。
そことはどこか?
それは、この施設、あるいはこの空間。
記号化された施設というものが重要なのではない。この場所、この空間に何かがあるのだ。
まさに直感。
人間に特有な感覚。
機械には真似できない能力。
リィルがそれを発揮できるのはなぜか?
僕がそれを信じられるのはなぜか?
そして、その存在を認められる条件とは何か?
少しだけ分かったような気がした。
方向性が定まったように感じる。
僕は友人に電話をかけた。携帯端末から番号を選択し、コール音を聞きながら相手が出るのを待つ。
電話はすぐに繋がった。彼の陰気な声がスピーカーを通して聞こえる。
僕は、この数日の間に起こった出来事を彼に伝え、それからこの施設に関する情報を提供するように求めた。すると、案の定彼は僕の要求を拒否した。理由を尋ねると、職業柄必要のないことを教えるわけにはいかないとのことだ。そう言われてしまっては仕方がないが、僕はできる範囲で彼から話を聞き出そうとした。
彼が教えてくれたのは、この仕事の依頼が届けられたソースに関することだった。その説明によると、彼はある一通のメッセージを受け取ったらしい。当然、そのメッセージはネットを介して届けられ、それに返信する形で彼はその依頼を引き受けた。このようなことは、彼にとっては珍しいことではない。ただし、彼が扱うのは、基本的に彼が住む街の求人情報であり、それ以外の地域は本来彼の守備範囲ではない。けれど、断る理由がないため、彼はこの依頼を引き受けてしまった。
「で、それがどうかしたの?」僕の説明を受けて彼は言った。
「いや、どうかしたのじゃなくて……」僕は話す。「何か様子が変なんだ。リィルもそう言っている」
「訳が分からないね。第一、それで何か事件に巻き込まれたとしても、僕の責任じゃない。僕は君に仕事を紹介し、君はそれを引き受けた。つまり、責任はすべて君にある」
「冷たいやつだ」
「そうさ。知らなかったのか? とにかく、何も起こらないことを祈っているよ」
「何でもいいから、もう少し詳しいことを教えてほしい」
「そう言われても、こっちにも充分な情報はないんだ。……まあ、それなら、独自に調べてみよう。望み薄だと思うけどね」
「よろしく」
「何が?」
僕が答える前に電話は切れた。
なんて軽弾みな行動をするのだろう、と端末を仕舞いながら僕は思う。普通、自分の担当外の依頼を引き受けたりするだろうか。しかも、それを友人に紹介するなんて……。
まあ、今までそれに気づかなかった僕もどうかしているが……。
ドアが開き、リィルが部屋に戻ってきた。
「おかえり。オンデマンドだね」僕は言った。
「オンデマンド?」リィルは僕の対面に座る。
「その後、何かあった?」
「何も……」彼女は話す。「もう、私、今日は寝よっかな」
「ご自由にどうぞ、と言いたいところだけど、午後の仕事があるからよろしく」
「そう言って、いつも何もやることないじゃん」
僕はたった今友人から聞いたことを彼女に話した。
「馬鹿じゃないの?」リィルは僕と同じ感想を述べた。しかし、その指摘の対象は彼ではなく僕だった。「確認もしないで引き受けるなんて」
「だって、彼が何も説明しないから……。そんなふうに紹介されたら、普通、正式な依頼だと思うだろう?」
「確認しないのが悪い」
「いちいち確認するわけないじゃないか」僕は言った。「牛乳を飲む前に、それが本当に牛乳か確認したりするわけ?」
「知らないよ。牛乳なんて飲まないから」
「やってしまいましたね、これは」
「他人事だなあ……」リィルは一人がけのソファで横になる。「あああ、もう駄目だあ……。なんかどうでも良くなってきた。好奇心喪失。何だったんだろう……。なんであんなに興味津々で行動していたのかな……」
「魔が差したんだろうね」
「もうさあ、帰ろうよ……。家でごろごろしていた方がよっぽと有益じゃん……」
「うん、床が綺麗になるから」
「あああ……」リィルはソファの肘かけから首を地面に垂らす。「もう、疲れた……」
「何に疲れたの?」僕は笑う。「何もしていないんだから、疲れるはずがない」
「人生に疲れた」
「冷蔵庫に入って、リフレッシュでもしたら?」
「うん、いいかも、それ……」リィルは目を閉じる。
「まさか、そこで寝るつもりじゃないよね」
「そうかも……」
「寝ないでね、本当に」
リィルは沈黙する。
静寂。
僕は立ち上がり、彼女を力尽くで起き上がらせた。
「もう、ちょっかい出さないでよ……」
リィルは伸びをする。
僕は自分の席に戻った。
「もう、立ったまま寝ようかな……」
「体操でもしたら?」
僕がそう言うと、彼女は本当に体操を始めた。
食器を載せたトレイがテーブルから消失し、僕はいつも通り昼寝をした。今日は寝室は使わなかった。寝室で眠る日とそうでない日があって、その日の気分次第でどちらで眠るかを決めている。寝室を使わないとなれば、ソファに座ったまま眠るしかない。眠るのに適した形状とはいえないが、これがまた適度に心地良かった。窮屈なバスの座席で転た寝をするのと同じ感じだ。
今日は夢は見なかった。それほど疲れている感覚はない。目を覚ますとリィルも眠っていたが、彼女も特別疲れているわけではなさそうだった。口ではそう言っているが、きっと僕の気を引こうとしたのだろう。自分でそんなことを言うのは恥ずかしいが、しかし、それは、最近になって発見したリィルの特徴の一つだった。僕は今まで他人と積極的にコミュニケーションをとってきた方ではないから、どのような言動にどのような意味が含まれているのか、分析するのに慣れていないところがある。リィルとは毎日一緒にいるから、その日々の積み重ねを経て、少しずつリィルの行動の意味が分かるようになってきた。
僕はぼうっと彼女の寝顔を眺める。
何度見ても飽きない。
どうしてだろう?
そう思ったとき、テーブルに変化があった。
僕の意識は自然とそちらに向く。
今は何もないテーブルの表面が、青白い光を発している。これはスクリーンが投影される際の前段階だ。そして、予想した通りスクリーンが僕の前に出現する。
僕はそこに書かれている文章を読んだ。
しかし、途中で文字を追う目が止まった
僕はもう一度始めから文章を読み直す。ソファの背凭れから身体を起こし、身を乗り出してスクリーンに顔を寄せた。
メッセージの内容は以下の通りだった。
〉未だに全所員に知らせていないようなので、こちらから直接伝えることにする。
〉簡潔に述べよう。
〉トップシークレットに類するとあるテキストを拝借した。
〉返却を望むのであれば、七十二時間以内にヘブンズの活動領域を拡大せよ。
〉要求に応じなかった場合、テキストは二度とあなた方のもとに戻ってこない。
〉心するように。
統括者
僕は三度通してその文章を読んだ。送信先を確認すると、この施設に勤める全所員に宛てられたものだった。
僕は急いでソファから立ち上がり、肩を揺すってリィルを起こした。
「ん……」片手で目を擦りながら、リィルは声を漏らす。「……なあに?」
「これ」
「……え?」
リィルはぼんやりとした表情で身体を起こし、僕が指差したスクリーンに目を向ける。まだ頭が回りかけている途中のようで、暫くの間黙って文字を追っていたが、途中から表情を変えて、真剣な顔で文章の意味を汲み取ろうとした。
一通り文章を読み終えてから、リィルは僕の方を振り返った。
「これ、何?」
「分からない」僕は答える。「休憩していたら、突然現れたんだ」
リィルは再びスクリーンに目を戻す。
「この、統括者って……。……誰?」
「さあ……」
「その前に、この意味が分からないんだけど……」彼女は該当する単語を指で示した。「ヘブンズって何?」
「分からない」
そのとき、僕たちの背後でドアが開いた。
ノックはされなかった。
突然の音に驚いて、僕とリィルは揃って背後を振り返る。
そこにサラが立っていた。
僕は声を発しかけたが、サラは僕を見ようとしない。部屋の中に視線を巡らして、テーブルの上にスクリーンが投影されているのを見つけると、彼女は不愉快そうに小さく舌を打った。
「あの……」僕は呟く。
「お二人とも、それを読みましたね?」サラが尋ねる。
僕とリィルは互いに目配せする。
「ええ……」
「そこを動かないで下さい」
そう言って、サラは勢い良く廊下を駆けていった。
十五分くらいして、とりあえず、テキストのだいたいの翻訳が終わった。時刻を確認すると、針は午前十一時半を指している。あと三十分もすれば昼食になるから、僕は少し早めに休憩することにした。
「それで? さっきの話は?」
デバイスの蓋を閉じて、僕はリィルに質問した。見ると、彼女は自分の手を使って訳の分からない形を作っている。それが彼女の暇潰しのようだ。
「あ、終わった?」リィルは言った。「よし、では、話そう」
「威勢がいいね」
リィルの話によると、廊下を右手に進み、そこで見つけた休憩室に入ろうとしたところ、声が聞こえたので、一度立ち止まって室内を覗いてみたら、そこにサラがいるのを見つけたとのことだ。サラのほかには誰もいない。それなのに、サラは確かに誰かと会話をしている。リィル曰く、サラは天井に顔を向けていたらしい。話口調は事務的なもので、談笑しているような感じではなかった。そして、意を決してリィルが休憩室の中に入ると、サラは途端に話すのをやめてしまった。リィルが軽く頭を下げると、サラもそれに応じたが、彼女が飲み物を買っている間、リィルはずっとサラに見られていた。
「へえ……」
リィルの話を聞き終えて、僕は適当に相槌を打った。
「ね、凄いでしょう? もう、驚きでしょう?」
「うーん、どうかな……」
「どうかなって……。だって、天井に向かって話していたんだよ」
「ただの独り言かもしれないじゃないか」
「いや、そんなはずはないって」リィルは譲らない。まあ、普通はそう考えるのが自然だろう。「あれは、明らかに誰かと話していた。独り言なんかじゃない。それは分かる。自分に言い聞かせているような感じじゃなかったし」
「自分の中にいる、もう一人の自分と話していた、という可能性は?」
「いや、ないでしょ、そんなの……」
「ないとはいえないね。僕はよくするよ、そういうこと」
「わざわざ口に出してしないでしょう?」
「さあ、どうかな」僕は目を逸らす。「自分では声を出しているつもりなんてないかもしれないし」
「あのさ、それ、冗談で言っているんだよね?」
「どう受け止めるかは、君次第だ」
「そんな……」
「今のは冗談だよ」僕は笑った。「よく見極めよう」
リィルは膨れ面になり、僕を激しく睨みつける。こういう表情をしている彼女が、一番キュートではないか、と僕は思う。
「まあ、それじゃあ、今は君の言う通りだとしよう」彼女のレーザー光線を避けて、僕は言った。「サラは、確かに誰かと話していた。しかし、その対象は、さすがに天井そのものではないだろう。となると、どんな可能性が考えられると思う?」
「天井にスピーカーとマイクがあって、それを通して会話をしていた」
「うん、それしかないだろうね」
「やっぱり……。でも、どうして、そんな装置が休憩室にあるのかな? それなら、誰でも使えることになるよね? 私が休憩室に入ったとき、彼女は話すのをやめたんだから、何か、聞かれたらまずいことを話していたんだと思うけど……。何だろう……」
「しかし、人は、プライベートな内容は、それがどんなものであろうと、他人には聞かれたくないものだよ」
「それって……、重要な話ではなかった可能性もあるってこと?」
「そうだね」
「うーん……」
「それに、考えるときに天井に視線を送る人もいるしね」僕は付け加えた。「君だってそうじゃないか」
「え?」
リィルはこちらを見る。
「気づいていないの?」僕は笑った。
「私が?」
「そうだよ。ほら、やっぱり、今の段階では何も断定できない」
「そうだけどさ、でも……」リィルは下を向く。「……でも、あれは、絶対何かやっていた」
僕は一度息を吐き出し、ソファの背に深く凭れかかる。
おそらく、リィルの言っている通りだろう。彼女がその種の観察に長けていることは、僕も知っている。長けているといっても、飛びきり優れているわけではないが、信用に値するのは確かだ。だから、今は僕も彼女が言っていることを事実として受け止めるが……。
……しかし、そうすると、サラはいったい何をしていたのだろう? 勤務時間なのに、彼女は仕事をしていなかったのか? たしかに、この施設では、仕事は量ではなく質で判断されるから、彼女が仕事を早く切り上げた可能性も充分にある。しかし、それなら、どうして、わざわざ休憩室に移動する必要があったのか? 自室でも、充分寛げるはずだ。その種の休憩室は、複数人で会話をするためにあるといって良い。一人で使うものではない。特にこの施設の人間はそうだろう。仕事をするスペースが、そもそも個室なのだから、むしろ休憩室の方がプライベートではないといえる。
そうすると、やはり、サラは一人ではなかった、と考えるのが妥当だ。
休憩室に行く必要があった。
この時間帯なら、ほかの所員に遭遇する可能性は低い。
皆、自分の部屋で一人で仕事をしている。しかも、おそらく、サラは上級の立場にいる人間だ。僕たちのサポーターを務めていることからもそれが分かる。
休憩室でなくてはならない理由……。
やはり、休憩室に、ほかの部屋にはない何かがあるのだ。
サラはそれを使っていた。
誰にも見つからないように……。
十二時になり、テーブルに昼食が届けられる。しかし、僕は今はそれに手をつけなかった。
「ちょっと、行ってみよう」僕は立ち上がる。
「え? 行くって、どこに?」
「その、休憩室に」
「今から?」
「そう」
僕が玄関に向かうと、その後ろをリィルもついてきた。
ドアを開けて廊下に出る。彼女が言っていたように、僕は廊下を右手に進んでいった。
「大丈夫かな……」僕の隣でリィルが言った。「まだ、いるかもしれないよ」
「それならそれでいい。入る前に確認する。まだ話をしていたら、失礼だけど、隠れてその内容を聞こう。もう終わっていたら、なんとか頑張って話しかけてみるよ」
「スリリングだね」
「まあ、たまには悪くない」僕は呟く。「毎日同じことを繰り返してばかりで、そろそろ飽きてきていたところなんだ」
左に進むより廊下は遥かに長い。周囲は明るかった。照明を兼ねた天井がずっと向こうまで続いている。その両側の壁面にドアが一定の間隔で並んでいるから、なんとなく無機質な迷路に迷い込んだ感じがする。たしかに、思い込もうとすれば、こんな情景もスリリングに感じられる。ここに長い間いると忘れてしまいがちだが、今僕たちは海の底にいるのだ。いつ壁に亀裂が入って水が流れ込んでくるか分からない。
靴音が響く。
途中で後ろを振り返ったが、もう先は見えなくなっていた。視界は限られている。
「これ、歩くとどのくらいかかるの?」僕は尋ねる。
「ええっと……。うーん、分からないなあ……。考え事をしながら歩いていたから……」
「ちょっと、手を繋ごうか」
「え、なんで?」
「いや、なんとなく」僕はリィルを見る。「嫌だ?」
「嫌だ」
「ショック」
「嘘だよ」リィルは笑った。「少しだけね」
「なんか、誤解されそうな表現だけど」
「誤解?」リィルは僕の掌を握る。「もう、手に触れている時点で、誤解も何もないと思うけど」
「君の方から触れたよね、今」
「そっちが誘ったんでしょう?」
「その言い方さ、わざとやっているの?」
「どうだと思う?」
「さあ、どうかな」僕は考える。「君なら、どちらともありえそう」
「正解は、わざとでした」
「へえ……」
沈黙。
潜水艦の中を探検しているような錯覚に襲われる。リィルが傍にいるのが救いだった。僕は、こういった雰囲気があまり得意ではない。特に灰色の壁や天井が駄目だ。憂鬱な気分になってしまう。僕は普段から憂鬱な人間だが、それを上回る憂鬱に晒されるとシステムに異常を来してしまうのだ。
突然、廊下の右側の壁がなくなった。
壁が窪んでいる。そこが休憩室のようだ。
僕たちはその空間の前で立ち止まった。
休憩室といっても、部屋の明確な入り口は存在しない。三面が壁で囲まれているだけで、開いている所から自由に出入りできる構造になっている。円形のテーブルがいくつか並べられており、その周りに背の高い椅子が向かい合って配置されている。一つのテーブルに椅子は二つずつだった。奥の方に自動販売機が三つ並んでいる。一つは飲み物を売っているものだったが、あとの二つの内一つは軽食を、もう一つは煙草を取り扱っているものだった。
サラはもういなかった。自分の部屋に戻ったようだ。
五分くらい、僕とリィルは休憩室の中を調べた。調べるといっても、この部屋に置かれているものはそもそも限られているから、調べる対象は本当に僅かしかない。テーブルに椅子、自動販売機の周辺をそれぞれ調べてみたが、特に何も見つからなかった。
「うーん、何もないなあ……」手近な椅子に腰かけながら、リィルが言った。
「そんなに簡単にヒントを貰えるわけがないね」僕は彼女の対面に座る。
「この部屋に、何かがあるのは、確かなんだけど……」
「ま、そうだろうね」
「そうだろうね、じゃなくて、君も考えてよ、ちゃんと」
「考えている。口と頭が連動していないだけだ」
リィルはテーブルに両肘をつき、掌に自分の顎を載せてこちらを見る。
「どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって?」僕は身体を横に向けた。
「うーん、なんかさあ、だんだん、つまんなくなってきちゃった……」
「勉強して、理解できないと、すぐに投げ出してしまうタイプだね」
「そうだよ……。……もう、退屈」
「天井に向かって話しかけてみたら?」
僕がそう言うと、彼女はその姿勢のまま、天井さん、聞こえますか、と大きな声で尋ねた。
しかし、もちろん、何の反応もない。
リィルは溜息を吐いた。
「たぶん、対人会話を実現するシステムが備わっているんだ」僕は言った。「少なくとも、人間同士で会話をするためのシステムではないと思う。その可能性も捨てきれないけど、それなら自分の部屋からでもできるし、休憩室で大っぴらにやる意味がない」
「でも、そういう人もいるかもしれないんでしょう?」リィルは挑戦的な目を僕に向ける。
「その通り」
「君ならどうする?」
「僕は、そもそも、誰かと話したいとは思わない」
「私と話しているじゃん」
「君は例外なんだ」僕は言った。「可愛いから」
「でも、もしそんなシステムが存在するとしたら、私たちにも使えるはずだよね? 何かキーが必要ってことかな……」
「その可能性が高い」
「どんなキーだと思う?」
「さあ……。向こうから個人を判別するのか、それとも、こちらから相手に承認を求めるのか……」
「サラに訊けばよかった」
「うん、それはやめよう」
「ロトに訊きに行く?」
「君さ、もう少し自制したら?」僕は話す。「僕たちは部外者なんだよ。好き放題やっていいわけじゃないんだ」
「さっきいいって言ったじゃん」
「好き放題やっていいとは言っていない。ばれないように調べる分にはいい」
「ロトの口を封じるとか?」
「怖いね。ジェットコースターよりも怖い」
「はああああ……」リィルは勢い良くテーブルに突っ伏した。「なんか、疲れちゃった、色々と考えすぎて……」
「僕はお昼ご飯を食べよう」
僕が椅子から立ち上がっても、リィルは何の反応も示さない。
「帰らないの?」
「うん……。もう暫くここにいる……」
「そう。気をつけてね。健闘を祈る」
僕は長い廊下を一人で歩き始める。途中で立ち止まり、顔を上げて天井を見てみたが、そこから何かを感じ取ることはできなかった。まあ、当然だろう。対人会話を可能にするシステムと言ったが、そんなものは個人レベルのデバイスからでも使用できる。何も珍しいシステムではない。問題はそこではない。サラが何をしていたのか、それを考えることが重要だ。
ただ……。
僕はあまりそういったことには立ち入りたくなかった。
なんというのか……。……それが僕のポリシーなのだ。
他人のことは気にしすぎない。そうすることで、自分の領域からもある程度他人を排除できる。
今までずっとそうしてきた。
それなのに……。
どうやら、ずっと近くにいることで、僕は少しずつリィルの影響を受けてしまったようだ。
磁石の傍に置いてある金属が、同じように磁力を帯びてしまうような……。そんなことが起こりえるのかは知らないが、なんとなく、そんなイメージに近い。
僕は再び前進する。
数メートル先でドアが開き、サラが僕の前に現れた。
僕に気づいて、彼女はこちらを振り返る。サラは無表情のまま軽く頭を下げて、ロビーがある方へ歩き始めた。
「あの」
遠ざかる彼女の背中に向かって、僕は声をかけた。
サラはこちらを振り返る。
「はい、なんでしょう?」
「一つ訊きたいことがあるんです」僕は言った。「クラウドが復旧する目処が立っていないのは、なぜですか?」
「その質問にはお答えできません」サラは答える。「クラウドの使用禁止に関して、私から詳細な情報をお伝えすることはできません。これは命令なんです」
「なぜですか?」
「今の回答でご理解頂けませんか?」サラは僕を軽く睨む。
「いえ、理解はします。ただ……。……そう、ちょっと、不便だなと思いまして」僕は嘘を吐いた。「ええ、だから、その……、そうですね、そんな不満をついつい口にしてしまったんだと思います。すみません」
サラはじっと僕の表情を伺っている。
「結構です」サラは言った。「ご不便をおかけしているのは、事実ですから」
「早く使えるようになるといいですね」
頷いてから、サラは廊下の先に消えていった。
自分の部屋の前に戻ってきて、僕はドアを開けて中に入る。照明が自動的に灯った。空気は相変わらず快適だ。何もかもが適度に調節されている。
テーブルに載ったままになっている昼食を横目に、僕はソファに座って膝の上でデバイスを起動した。特にすることはなかったが、なんとなく先ほど仕上げたテキストに目を通した。
文字が並んでいる。
僕は考える。
たしかに、リィルが言いたいことは僕にも分かった。
そこには、何かがある。
そことはどこか?
それは、この施設、あるいはこの空間。
記号化された施設というものが重要なのではない。この場所、この空間に何かがあるのだ。
まさに直感。
人間に特有な感覚。
機械には真似できない能力。
リィルがそれを発揮できるのはなぜか?
僕がそれを信じられるのはなぜか?
そして、その存在を認められる条件とは何か?
少しだけ分かったような気がした。
方向性が定まったように感じる。
僕は友人に電話をかけた。携帯端末から番号を選択し、コール音を聞きながら相手が出るのを待つ。
電話はすぐに繋がった。彼の陰気な声がスピーカーを通して聞こえる。
僕は、この数日の間に起こった出来事を彼に伝え、それからこの施設に関する情報を提供するように求めた。すると、案の定彼は僕の要求を拒否した。理由を尋ねると、職業柄必要のないことを教えるわけにはいかないとのことだ。そう言われてしまっては仕方がないが、僕はできる範囲で彼から話を聞き出そうとした。
彼が教えてくれたのは、この仕事の依頼が届けられたソースに関することだった。その説明によると、彼はある一通のメッセージを受け取ったらしい。当然、そのメッセージはネットを介して届けられ、それに返信する形で彼はその依頼を引き受けた。このようなことは、彼にとっては珍しいことではない。ただし、彼が扱うのは、基本的に彼が住む街の求人情報であり、それ以外の地域は本来彼の守備範囲ではない。けれど、断る理由がないため、彼はこの依頼を引き受けてしまった。
「で、それがどうかしたの?」僕の説明を受けて彼は言った。
「いや、どうかしたのじゃなくて……」僕は話す。「何か様子が変なんだ。リィルもそう言っている」
「訳が分からないね。第一、それで何か事件に巻き込まれたとしても、僕の責任じゃない。僕は君に仕事を紹介し、君はそれを引き受けた。つまり、責任はすべて君にある」
「冷たいやつだ」
「そうさ。知らなかったのか? とにかく、何も起こらないことを祈っているよ」
「何でもいいから、もう少し詳しいことを教えてほしい」
「そう言われても、こっちにも充分な情報はないんだ。……まあ、それなら、独自に調べてみよう。望み薄だと思うけどね」
「よろしく」
「何が?」
僕が答える前に電話は切れた。
なんて軽弾みな行動をするのだろう、と端末を仕舞いながら僕は思う。普通、自分の担当外の依頼を引き受けたりするだろうか。しかも、それを友人に紹介するなんて……。
まあ、今までそれに気づかなかった僕もどうかしているが……。
ドアが開き、リィルが部屋に戻ってきた。
「おかえり。オンデマンドだね」僕は言った。
「オンデマンド?」リィルは僕の対面に座る。
「その後、何かあった?」
「何も……」彼女は話す。「もう、私、今日は寝よっかな」
「ご自由にどうぞ、と言いたいところだけど、午後の仕事があるからよろしく」
「そう言って、いつも何もやることないじゃん」
僕はたった今友人から聞いたことを彼女に話した。
「馬鹿じゃないの?」リィルは僕と同じ感想を述べた。しかし、その指摘の対象は彼ではなく僕だった。「確認もしないで引き受けるなんて」
「だって、彼が何も説明しないから……。そんなふうに紹介されたら、普通、正式な依頼だと思うだろう?」
「確認しないのが悪い」
「いちいち確認するわけないじゃないか」僕は言った。「牛乳を飲む前に、それが本当に牛乳か確認したりするわけ?」
「知らないよ。牛乳なんて飲まないから」
「やってしまいましたね、これは」
「他人事だなあ……」リィルは一人がけのソファで横になる。「あああ、もう駄目だあ……。なんかどうでも良くなってきた。好奇心喪失。何だったんだろう……。なんであんなに興味津々で行動していたのかな……」
「魔が差したんだろうね」
「もうさあ、帰ろうよ……。家でごろごろしていた方がよっぽと有益じゃん……」
「うん、床が綺麗になるから」
「あああ……」リィルはソファの肘かけから首を地面に垂らす。「もう、疲れた……」
「何に疲れたの?」僕は笑う。「何もしていないんだから、疲れるはずがない」
「人生に疲れた」
「冷蔵庫に入って、リフレッシュでもしたら?」
「うん、いいかも、それ……」リィルは目を閉じる。
「まさか、そこで寝るつもりじゃないよね」
「そうかも……」
「寝ないでね、本当に」
リィルは沈黙する。
静寂。
僕は立ち上がり、彼女を力尽くで起き上がらせた。
「もう、ちょっかい出さないでよ……」
リィルは伸びをする。
僕は自分の席に戻った。
「もう、立ったまま寝ようかな……」
「体操でもしたら?」
僕がそう言うと、彼女は本当に体操を始めた。
食器を載せたトレイがテーブルから消失し、僕はいつも通り昼寝をした。今日は寝室は使わなかった。寝室で眠る日とそうでない日があって、その日の気分次第でどちらで眠るかを決めている。寝室を使わないとなれば、ソファに座ったまま眠るしかない。眠るのに適した形状とはいえないが、これがまた適度に心地良かった。窮屈なバスの座席で転た寝をするのと同じ感じだ。
今日は夢は見なかった。それほど疲れている感覚はない。目を覚ますとリィルも眠っていたが、彼女も特別疲れているわけではなさそうだった。口ではそう言っているが、きっと僕の気を引こうとしたのだろう。自分でそんなことを言うのは恥ずかしいが、しかし、それは、最近になって発見したリィルの特徴の一つだった。僕は今まで他人と積極的にコミュニケーションをとってきた方ではないから、どのような言動にどのような意味が含まれているのか、分析するのに慣れていないところがある。リィルとは毎日一緒にいるから、その日々の積み重ねを経て、少しずつリィルの行動の意味が分かるようになってきた。
僕はぼうっと彼女の寝顔を眺める。
何度見ても飽きない。
どうしてだろう?
そう思ったとき、テーブルに変化があった。
僕の意識は自然とそちらに向く。
今は何もないテーブルの表面が、青白い光を発している。これはスクリーンが投影される際の前段階だ。そして、予想した通りスクリーンが僕の前に出現する。
僕はそこに書かれている文章を読んだ。
しかし、途中で文字を追う目が止まった
僕はもう一度始めから文章を読み直す。ソファの背凭れから身体を起こし、身を乗り出してスクリーンに顔を寄せた。
メッセージの内容は以下の通りだった。
〉未だに全所員に知らせていないようなので、こちらから直接伝えることにする。
〉簡潔に述べよう。
〉トップシークレットに類するとあるテキストを拝借した。
〉返却を望むのであれば、七十二時間以内にヘブンズの活動領域を拡大せよ。
〉要求に応じなかった場合、テキストは二度とあなた方のもとに戻ってこない。
〉心するように。
統括者
僕は三度通してその文章を読んだ。送信先を確認すると、この施設に勤める全所員に宛てられたものだった。
僕は急いでソファから立ち上がり、肩を揺すってリィルを起こした。
「ん……」片手で目を擦りながら、リィルは声を漏らす。「……なあに?」
「これ」
「……え?」
リィルはぼんやりとした表情で身体を起こし、僕が指差したスクリーンに目を向ける。まだ頭が回りかけている途中のようで、暫くの間黙って文字を追っていたが、途中から表情を変えて、真剣な顔で文章の意味を汲み取ろうとした。
一通り文章を読み終えてから、リィルは僕の方を振り返った。
「これ、何?」
「分からない」僕は答える。「休憩していたら、突然現れたんだ」
リィルは再びスクリーンに目を戻す。
「この、統括者って……。……誰?」
「さあ……」
「その前に、この意味が分からないんだけど……」彼女は該当する単語を指で示した。「ヘブンズって何?」
「分からない」
そのとき、僕たちの背後でドアが開いた。
ノックはされなかった。
突然の音に驚いて、僕とリィルは揃って背後を振り返る。
そこにサラが立っていた。
僕は声を発しかけたが、サラは僕を見ようとしない。部屋の中に視線を巡らして、テーブルの上にスクリーンが投影されているのを見つけると、彼女は不愉快そうに小さく舌を打った。
「あの……」僕は呟く。
「お二人とも、それを読みましたね?」サラが尋ねる。
僕とリィルは互いに目配せする。
「ええ……」
「そこを動かないで下さい」
そう言って、サラは勢い良く廊下を駆けていった。
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