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season2

陞爵の誘い

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トレーシアと伯爵家が裁かれたあの日からひと月ほどが経ったある日、プリシラ様の訪れを知らせる先触れが突如として届き、一介の子爵家である我が家は緊張感に包まれていた。

そしていざ本当に訪れたプリシラ様を前に、王族を間近で見る機会などない使用人達はどこか浮き足だった。

唯一落ち着いているのはジェイマンくらいで…いや、むしろプリシラ様と交わす視線には…どこか親しみめいたものまである。

応接室にお招き入れしたのだが、ジェイマンを除く者の人払いがされたそこで成されたプリシラ様からのご提案に、思わず声が裏返りそうになってしまった。


「私が…伯爵に……?」

「えぇ、そうよ」


ジェイマンの淹れた紅茶を優雅な仕草で口にしながら、にこりと微笑んで告げられたのはまさかの【伯爵】への陞爵の話。


「わたくし、つい最近伯爵位を買ったでしょう?だけど我が家は既にいくつか所持しているし、これ以上は必要としていないの。かと言って、一度所持したものを無闇に明け渡すわけにもいかないじゃない?」

「え、えぇ…確かに……」

「それでねっ」


パンッ!と小気味いい音を立てて手を合わせ、


「あなたに受け取ってもらいたいの」


いいでしょ?と実に軽い感じで言われ、思わずその流れで「あ、はい」と返しそうになった。

いやいやいやいや。

そんな簡単に渡すものではないでしょう?

そんな軽く「はい、あげる」なんてするものではないでしょう?

え?そうだよね?間違っていないよね?

軽くパニックになりながら、どう返すべきか頭を働かせているとプリシラ様が続けて話す。


「貴方の奥様…ナディア夫人の為にも」

「え?」


ナディアの為にと言われ、それこそ何故?と固まってしまう。

ナディアは身分に執着などしていないし、それなりにある資産に無駄な手をつけることもしない。

そんなナディアの為?

そう思っていると、プリシラ様は僕の疑問を読み取ったようで、


「何も、貴方の奥様を欲深い女性だなんてこれっぽっちも思っていなくてよ?強いて言うなら、そうね…恩返しかしら」

「恩返し…ですか……?妻に?」

「えぇ」


そこから語られたのは、驚くべき事だった。






******






かつて、王族であることの息苦しさと厳しすぎる王女教育に耐えかね、一度だけ逃げ出したことがあるというプリシラ様。

息抜きにと連れていってもらった市井で護衛を振り切り、その結果迷いこんだ場所でひとり不安と恐怖に震えて泣いていたらしい。

どれだけの時間そうしていたのか、しばらくしてひとりの少女が声をかけてきた。


『どうしたの?大丈夫?』


自分よりずっと小さいその少女は、そう声をかけて背中を撫でてくれたのだという。


「そのあと護衛がいるであろう場所まで手を引いて連れて行ってくれて、会ったのはそれきり。ただ、その子の優しくて温かい眼差しと…こう言ってはなんだけれど…あまりにも細くて小さい様子が心配でたまらなくて、お父様にお願いして調べてもらったの」

「まさか…」

「そのまさかよ。その幼い少女…当時はまだ五歳だった彼女は貧しい小さな孤児院で暮らしていたけれど、のちに自立して市井の食堂で働くようになり、人格者でもある若き貴族に見初められて嫁ぐことになった」


言葉がなかった。

自分と同じような出会いと経験を、当時は王女であったプリシラ様もしていたなんて。

そして、ひとつ浮かんだ疑問。


「…もしかして、影はその頃からずっと……」


それに対しては返事は貰えず、けれど穏やかな笑みを浮かべたことで、それが是なのだと察した。

王家の影に見守られていた平民の孤児。

元来持つ優しさと慈しみは、きっと他にも誰かのことを救っていたのかもしれない。

その中には、僕のように……


「八人よ」

「………え?」

「食堂で働くようになって、あの子の姿に見惚れて求婚した貴族の人数」

「え…ですが……」


僕がナディアと会ったのは、食堂で働くようになってそんなに経っていない頃のはず。


「食堂で働くようになって僅か三ヶ月の間に起きた話だから、あの子の人気の高さが窺えるわね。それに、社交界でも実際はそうなんじゃない?」


確かに、元平民だと揶揄しながらも向ける視線は明らかに熱を籠めたものであることも多い。

だから僕はいつも気が抜けないし、どんな人物を相手にしている時もナディアの腰を抱く手を離さない。


「あんなに小さくて幼かったあの子が、今では立派な子爵夫人として成長した。それは贔屓目を抜きにしても確かだと言える」

「っ…ありがとうございます」


泣きそうになって、思わず頭を下げてしまった。

ナディアの苦労を…努力を、こんなにも力強く評価されたことが、嬉しくてたまらない。


「けれど出自を軽視する人はこれからもい続けるし、低位貴族である子爵のままでは、何かと問題が起きた時に対応しきれないと思うわ」


それはその通りで、あの裁判で色々と注目を浴びたナディアは今や時の人扱い。

プリシラ様のお気に入りとしても知れ渡り、お茶会などの誘いもひっきりなしに届けられる。

その全てに応える事はないが、今日の誘いは以前から懇意にしてくれている同じ子爵夫人だからと言って、楽しそうに出掛けていった。

そして、それを見計らったようにプリシラ様の訪れが齎された。


「厄介な話も巻き込んでいるのではなくて?」

「……はい」


思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまったが、それも仕方ない。


「人のものを欲しがる輩は一定数いるのよね。それも評価されるべき逸品であるなら、益々手に入れたくなる愚弄者が」


プリシラ様のお眼鏡に叶う人物だと言われるようになったこともあり、まだ若く…まして子もいないナディアを寄越せとしつこく言い寄ってくる人物が数名脳裏に浮かび、怒りが沸き起こる。

普段からしっかり護衛もつけているが、それだけでは心配を拭いきれないのも事実。


「ちなみに、わたくしの影は戦闘武術に長けている者ばかりよ」


そう言われ、ナディアにはプリシラ様の…王族の影がつけられていることを思い出した。


「影の方は…表には出ないのでは……」

「指令によるわね。基本的には姿を表すこともないし、手を出すこともないの。だけど命に関わるようなこと、女性の尊厳を損なうようなことがあればすぐに対応してくれる」


そんな猛者達がナディアについている…そしてふと、前回の僕はさぞ愚弄者と思われていたのだと気付いて、恥ずかしさのあまりこの場から消えたくなってしまった。


「だからね、伯爵位を賜るのもあの子の立場を守る手だてのひとつになると思うのよ」

「確かに…」


高位貴族には難しいにしても、伯爵位以下には身分で対峙することが出来る。

それに…プリシラ様がいらっしゃる限り、たとえ高位貴族であってもナディアに無体を働くことはないのだろう。


「ですがプリシラ様、陞爵するにはそれなりの事由が必要とされるのでは?」

「そこで貴方にお願いがあるの」


またもにっこりと…しかしどこか黒い雰囲気を含んだ笑みを向けられ、思わず身震いする。


「……ここからは、少し重い話になるわ」


力強い眼差しをしたプリシラ様から目を逸らすことなど出来ず、僕もじっと見返し頷いた。


「あの時、コーレス夫人の裁きの場にいた二組のご夫婦を覚えているかしら」

「……えぇ、勿論です」

「あのご夫婦のご子息とご息女は、コーレス夫人による被害に遭った最たる者よ。ご子息は身の潔白を証明しきれずに不貞のレッテルを貼られ、加えてコーレス夫人に対する婦女暴行をでっちあげられたの。そして何よりも非道だったのが…ご息女がコーレス夫人の息がかかった貴族男性によって狼藉を働かれた」


あまりの所業に怒りで思わず拳を強く握ったが、今回もそうなっていた可能性があったのだと…ナディアが襲われていたのかもしれないと思うと、恐怖と怒りで震えてきた。


「ご子息に対してかなりご執心だったわ…だからこそふたりを醜聞まみれにして別れさせ、最後には自分がご子息を手に入れる算段だったのでしょうね。当時はアレギラ家も裕福だったし、既に相手がいるにも関わらず、実際に縁談の申し込みを送ったことも確認されているわ」

「……もしかして、アレギラ家が傾いたのは…」

「莫大な慰謝料が発生したからよ。徐々に追い込まれたふたりはそれでも互いだけを愛し、互いだけを求め合った。その関係を壊す決定打となったのが、ご息女への狼藉」


そこでプリシラ様は怒りとも悲しみともとれる、苦しそうな表情になった。

もしかすると、その女性はプリシラ様にとって大切な存在だったのではないだろうか。

一度きりの親切も大切にするお方だから、懇意である相手であれば…


「心身ともに深く傷付いたご息女は屋敷に引きこもるようになり、傷物になったからと婚約解消を願い出た。けれど相手のご子息はそれを断固として受け入れることをせず、常に献身的に付き添っていたわ」


僕もそうするだろう。

もしもナディアが襲われたら…考えただけでも頭が狂いそうだが、間違いなく相手を殺し、離れようとするのを拒絶する。

それが僕のためだと言うなら尚更だ。


「だけど…月日が流れ、狼藉を働かれたことで身籠っていることが分かると、ご息女は手紙を遺して……ひとり命を絶った」

「……っ、、」

「そして婚約者の死を知らされたご子息は、ひっそりと執り行われたご息女の葬儀が終わると、その足でコーレス夫人が参加している夜会へと抜剣をした状態で赴き、まずは狼藉を働いた相手に斬りかかり、コーレス夫人に対して剣を振り上げたところで捕縛されたの」

「そんな……っ…」

「わたくしはご子息のあとを追って駆け付けたけれど、その時は既に捕縛されたあとで…魂の叫びはこういうものなのだと思ったわ。ありったけの罵声をコーレス夫人に浴びせたあと、婚約者への生涯の愛を誓って…渾身の力で衛兵達を振り払った彼は、自らの首に刃を走らせた」

「っ……そんな騒ぎを起こして…それでも尚…コーレス夫人はお咎めを受けなかったのですか?」


僕の問い掛けに、プリシラ様は首を横に振る。


「受けたことにはなっているのよ…それが家を傾かせるほどの慰謝料支払い」

「そんなものはっ……」

「当時まだ十三歳であることと…確たる証拠がなかったことが理由よ。そして何より…彼女をその時大層可愛がっていた愚弄者のひとりに、わたくしの叔父も名を連ねていたのも原因だわ」


まさか!と思った。

プリシラ様の叔父と言えば王弟…父親と娘以上の年齢差があるではないか。


「当時の叔父は権力を持っていたから…徹底した箝口令が敷かれ、伯爵家が慰謝料を支払うことでふたりの家を黙らせたの。そしてその後も変わらずに彼女を囲っていた叔父は、その嫁ぎ先にコーレス男爵を指名し婚約を結ばせた」

「なぜ…なぜコーレス男爵を……」

「一目惚れだそうよ。爵位こそ低いけれど、際立つ見目のよさに惹かれて叔父におねだりしたんですって…ふざけているわ」


巻き込まれたビノワのあまりの不憫さに、僕は苦しくて呼吸が苦しくなってきた。


「その後も叔父を後ろ楯にコーレス夫人は奔放な振る舞いを続け、多くの貴族から反感を買って…やがて取り返しのつかない過ちをおかした」

「……あやまち…」

「とある理由から王家が極秘に招いていた貴賓がいらしたのだけれど、叔父の口利きで王城に入り込んでいたコーレス夫人は、他国の王族であるその貴賓を相手に媚薬を盛って事に及んだのよ」


開いた口が塞がらなくなった。







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