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第二部

92 向けられる視線

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 アーニーが来てからおよそ半月が経過した。

 彼は本当に家に帰る気がなさそうだった。幸い彼の親族は現れていないから嫌々連れ帰られる心配もなさそうだわ。
 彼はこっそり私にだけ五歳だって正確な年齢を教えてくれた。
 更には、彼の実家はでっかい屋敷を持っていてソーンダイクっていう名前らしいけど、こっちの世界の名門やら有名人とかにはまだまだ疎い私には、家名を聞いてもさっぱりピンと来なかった。前にウィリアムから地図を見せられた時に一度は聞いたような気もするけど何とも言えないわ。日々に追われて覚えてる暇もないのよね。

 アーニーは依然として名前しか覚えていない事になっている。マルスにもザックにも実はまだ話していない。

 まあ、彼の決心が付くまで口出しはしないつもり。

 ところで、最近は買い出しやお遣いなんかで道端を歩いていると、よくこの界隈担当の王都警備隊の人に声を掛けられるようになった。

 一番初めの時はアイリスだってバレたかと思って冷や冷やドキドキってかバックンバックンしたものだったけど、彼らはアーニーを気にかけてくれているみたい。
 だからザックの所の人間の私やマルスに気軽に様子を訊ねてくる。だけどマルスはちょっとどっこい会話が続かないから、最近は専ら私の方に来るってわけだった。

 この日も、お店のお昼営業終了後にアーニーと二人で近所の雑貨屋まで買い物に行く途中、王都警備隊の二人組から声を掛けられた。

「体調に何か変化はないかい?」
「はい、大丈夫です。この通り至って元気です」
「それなら良かった」

 言葉通り調子は良さそうにきちんと受け答えしているアーニーだったけど、彼はあの晩吸血被害はなかったものの倒れていたって事は、何らかの刺激が与えられたからなんだろうってのは想像に難くない。外傷はなくても後から何か症状が出てくる可能性もあったから、私も密かに心配はしていた。
 今アーニーと話している二人も、彼を診察した軍医の方から何かあると心配だからよくよく経過を見て報告するように言われているみたい。
 まあ幸い今の所大丈夫そうだけど。

 それに、もし犯人の事で何か思い出したら何でも良いから教えて欲しいって言われてもいたわ。

 彼は目撃していないというよりも、記憶障害であの場に居た経緯すら忘れているから思い出した時が鍵なのかもしれない。

「それじゃあなアーネスト君、何かあったらすぐに言うんだよ?」
「はい」
「リズちゃん、また今度詰め所の皆で店に行くよ。ザック殿にも宜しく言っておいてくれ」
「わかりました」

 アーニーが元気で変わりないのを直接本人から確かめられて、警備隊の二人はそう締め括って安心したような面持ちで昼の巡回へと戻って行く。
 道端で佇んだまま少し見送っていると、気付いた片方が軽く手を振ってくれたから振り返した。ふふふ関係は良好。この分じゃ私がアイリスだなんて気付かれたりしなそうね。しめしめよ。

「さてと、行こっか」
「はい」

 そうして私達も目的のお店へと再び歩き出す。
 だけど五歩十歩って進んだ所で、私はふと足を止めた。
 アーニーが付いて来ていない。
 不思議に思って振り返れば、彼はほとんど出発地点に立ち止まったままどこか緊張を滲ませた真剣な面持ちでじっと足元を見つめていた。
 何か気になる虫でもいたのかしら。

「アーニー?」

 引き返した私がどうかしたって訊ねる前に、彼はハッと顔を上げて逆に駆け寄ってくると、爪先を上げて内緒話の催促のように手を自分の口元に持って行く。
 応じて身を屈めれば、案の定耳元で声を潜めた。

「あの、実はさっきから誰かに見られています」
「えっ」

 思わずびっくりしてキョロキョロしそうになったけど、アーニーから服をギュッと掴まれて「だ、駄目です気付いてるってバレちゃいます!」って声を殺したまま言われたもんだから我に返った。
 そ、そうよね。危なかった。
 この子まだ小さいのに他者の視線を感じる鋭い感性の持ち主なのね。繊細って言うのかしら。
 私は普段そう言うのに鈍感だからちょっと感心しちゃったわ……なんてそんな悠長な事言ってる場合じゃないわね。

「さっきの二人じゃないのよね?」
「違います。二人が居る時からでした。気のせいかとも思ったんです。それか警備隊の二人へのものかなあとも。でも違うみたいです」

 私も顔色をやや悪くする。
 アーニーは一旦言葉を切ると、半目を伏せて少し思案したのち真剣な目を上げた。

「あの、わたしとリズお姉さんのどちらが標的かわかりませんし、このまま今日は帰った方が無難だと思うんです。わたしじゃ視線の主が襲ってきてもマルスお兄さんやザックおじさんと違って、リズお姉さんを護れるかわからないですし……」

 アーニーは自分の小さな両手を見下ろして落胆顔のまま俯いた。
 あらあら一丁前に男の子ねえ。だけどお姉さんはあなたのその気持ちだけで十分よ。
 ところでこの子ってば一人称が「わたし」なのよね。
 すごく大人びてるって思うと共に、確かあいつの一人称も「私」だったって思い出せば、共通点に微妙な気持ちになった。
 アーニーはこんなに可愛いのに、一緒にして何かごめんね?

「昼間だし大丈夫よ。いざという時は私があなたを護るわ」
「えっ、いえ、わたしは男ですし」
「まだ小さいのに余計な気を遣わない。素直にお姉さんに頼りなさい。だから雑貨屋さんに行きましょ」
「でも、万が一ということも……」
「こう見えて私結構凄いのよ? 裏ワザもあるしね」
「裏ワザ……ですか?」
「そ。裏ワザ。まあ手の内は明かせないけど」

 私は内緒話終了とばかりに腰を上げ、困惑の面持ちで見上げてくる可愛い黄色い頭を大丈夫との意を込めてポムポムと撫でてやった。
 リボンプレゼントの効果は絶大だったのか、彼からはもうビク付かれたりしない。毎朝髪を結んであげてるから慣れたってのもあるとは思うけど。今も後ろに一つに結んでいる。
 不安なら手を繋いで行こうかって片手を差し出して待っていると、ややあってアーニーは体から緊張の力みを抜いておずおずと彼の小さな手を預けてきた。
 そうしてこの日は何事もなく雑貨屋さんで楽しく買い物をして、無事に現在の仮住まい処刑どころに帰ったわ。

 働いたお金で自分のリボンを買えて嬉しそうなアーニーは、荷物を置きに早速マルスとの共同部屋に行こうとする。

「ちょっと待って。実は話しておきたいことがあるの」
「あ、はい。何ですか?」

 背中を呼び止められ、不思議そうな顔で私の傍まで戻ってきた少年へと、私はしゃがみ込んでなるべく目線を合わせるようにした。

「実を言うとね、ここ最近マルスも外出時視線を感じるって言ってたの。しかも何度か」
「えっ!? そうなんですか?」

 まだ小さいし下手に怖がらせるのは本意じゃなかったからこれまで伝えていなかっただけで、私達は誰かに関心を持たれているみたい。そこは私も知ってた。まあ関心ってより監視って表現した方がぴったりかもしれない。話したのはアーニーなら大丈夫だって判断したからよ。

 私はマルスから注意を促されていたから知っていたけど、彼は自らで気付いた。私の想像以上に聡明な子だった。

 視線を向けられるようになったのはアーニーがうちに来てかららしいけど、私やマルスも叩かれて埃が山ほど出てくる身の上だったから、今の時点では一体誰に向けてのものか判然としない。

 それでいて今の所何かしてくるってわけでもなさそうだったから、様子を見てみる方向でマルスとは意見が一致していた。一応ザックにも気を付けるようには言ってある。彼の方でも不審者には注意してくれるって言っていた。

 視線の主も標的も不明。

 だけど萎縮して店に引き籠ってるのも癪じゃない?
 そんなわけで、警戒は怠らないようにはするけど、極力いつも通りでいるようにした。
 吸血犯のことも考慮して、私も夜はゴミ出し一つにも今まで以上に気を張っているし、昼間でも人目のない場所には行かないようにしている。

 とにかく、こっちがきっちり警戒を怠らずにいれば、そのうち相手の方が痺れを切らして尻尾を出すかもしれない。

 そうなったらこっちのものだわ。




 翌日の午前中、私はマルスと二人で店で使う食材とは別に自分達で消費する分の食料を買い出しに出掛けていた。店のはほとんど業者が卸しに来る。
 視線を感じて以来、外出時のマルスは腰ベルトに通した剣帯に親父殿から餞別にもらった長剣と元々自分の物だった短剣を挿している。
 ここ王都では武器の携帯は認められているから、別段誰に見咎められる心配もない。こうして見た目からして武器を持っていれば強そうだし、よからぬ思惑を持つ相手への牽制にもなるし、もしもの時は応戦もできる。
 まあ、鞘から抜かないのが一番だけど。

 今日は市場に行って欲しかった柑橘類を買い入れた。

「次はパン屋さんね」

 ザックは店ではあんまりパンを焼かないから、主食のパンは近所のパン屋で買っていた。
 店の前に着いて、私はマルスから果物の紙袋を受け取るとザックから預かっている財布を手渡す。買い物の時荷物があると邪魔だものね。

「それじゃ愛想良くするのよ~」
「何で」
「ん~ふ~別に~?」

 意味不明な私からの見送りの視線――たぶん形的にはエロ目を受けて、マルスは首を傾げつつも店内に入って行く。
 私はうっかり落としたり破ったりしないよう果物の紙袋を抱え直して、車道に背を向けて彼が出てくるのを一人待った。
 パン屋の奥さんはイケメン男子のマルスをお気に入りで、彼が買いに行くとよくおまけをしてくれるのよね。
 そんなしたたかな打算もあって一人で行かせたってわけ。
 果たして今日もおまけしてくれるかは不明だけど、してもらえたらラッキーってな程度の気楽な賭けよ。
 程なくしてマルスがパン入りの袋を手に出てきた。

「マルス、リストの全部買えた?」

 さりげなく訊ねてみれば、傍まで来た彼は手に提げている袋に視線を向けて「買えた。それにドーナツももらった」だって。

「でかしたわ! 今日のアーニーのおやつはこれに決まりね。おやつ代も浮いて少しはエンゲル係数も下がるわ」
「エンゲ……何?」
「ふふっ食費を節約できたってことよ」

 ザックの店は繁盛しているけど、貴族みたいに食事を毎回豪勢にできる程裕福じゃない。
 専ら調理はザックが担当してくれるけど、四人分の食費のやりくりは私が引き受けている。フフフ財布の紐を緩めたりはしないわよ。
 私以外は男性だししっかり食べてもらわないといけない成長期の子供が二人もいるから、安くていい物を日々求めて歩いている。近所の市場での特売には絶対参加よ絶対参加。日本で一人暮らししていた時は自由気ままだったから、まさかこんな節約生活をこっちに来てするようになるなんて思わなかった。
 うふふちょうど良い花嫁修業だわー……嫁ぎ先はキャンセルされたけど。

「さてと、買う物は買ったし、お店始まる前に帰らないとね」

 マルスは無言で頷いて果物の紙袋を私の手からひょいっと器用に片手で掬い上げ、代わりにそれより軽いパン入りの袋を空いた手に載せてきた。

「あら、ありがと」

 思わず笑みになる。
 ホントこの子ってさりげなくスマートよね。
 先に歩き出したマルスに続く形で、私は機嫌良く車道寄りだった所から石畳の歩道を中央へと一歩踏み出した。

 刹那、それは過ぎる程突然に起きた。
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