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13 拗らせケント
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「ほんの少し目を離しただけでこれか」
ケントの微笑をバックミラー越しに見た運転手の男性は、後部座席に幽霊を見たタクシー運転手の如くに蒼白になった。因みにケントとは親子ほど年の離れた妻子持ちで熟練の運転手だ。
「全く本当に……首輪でも付けてやりたいよ」
彼の口調は穏やかだが、声音の裏にはわなわなと震え、背筋を凍らせるような嫉妬の黒い炎が見えた。
それでも職務熱心な運転手の男性は訊ねた。
「だ、旦那様如何致します? 車を出しますか?」
「いや、僕が出る」
「はい? ……ああ、畏まりました」
すずかが意図せずとも、バッチリ妻の浮気現場を目撃したような形になったケントは、腹を立ててさっさと先に帰宅……するわきゃなかった。
会社を世界企業に押し上げ現在の地位を築いた彼には、間男に妻を譲るなどというそんな温さも、ショックに落ち込んで引き下がるという可愛げもない。
いや、よしんば可愛げがあったとしても、今ここで発揮する必要は全くない。
「何のために今までずっと我慢していたと思って……」
運転手がいつものようにドアを開ける前にケントが自分からさっさと降りてしまったので、彼の小さな毒づきは生憎運転手には聞こえなかったが、運転手は心得たように「では、暫しここでお待ちしておりますので」と窓を開け主人に慇懃な言葉を届けた。
花柳ケントは幼少のみぎりよりとても優秀だった。
将来的に会社を継ぐようにと英才教育をされていたのも、彼の天与の様々な才能を加速度的に開かせるのに大いに貢献していた。
同い年の皆が義務教育中に、既に大学の講義を受けてもいた。
ただし世間的には極々普通の、それでいてちょっと頭の良い少年だと欺くよう、大学の学位取得の片手間に年相応の私立学校に籍を置いてもいた。
これも彼自身が正規の手段でコツコツと稼いだ金銭による寄付のなせる技だった。
加えて、学園の理事長が両親の知人という点もこの才能の隠匿に一役買っていた。
どうして普通を装うのか?
それは神童などと目されては、意中のあの子を遠ざけるかもしれないと彼はわかっていたからだ。
とにもかくにも何事も重要なのは事前の根回し。
彼はその効果の程をよくよく理解していた。
だというのに、たった一人、例によって意中のあの子だけにはそんなものは通用しない。
始まりは親と共に出席した何かのパーティーだ。
そこで出会ったあの子に、落ちた。
一時の迷いか否か自分の気持ちを確認するためにもその後も何度か彼女と会えるように頼んで、確信した。
生涯その子の傍に居たいと希うようになった。
だから、そのために無難に見えるように努力した。
凡庸の範疇に収まるようになど、努力と言うと語弊があるかもしれないが、彼としては大真面目に努力だった。
折角彼女の家族から攻めようと、自分を応援してくれるように彼女の姉と仲良くなり気持ちを理解してもらった……というのに、何故かその子からは段々と距離を置かれた。
昔のような親しい仲になれるようこれでも彼なりに試みた。
パーティーでは自分から声を掛けたし、彼女の姉と三人なら気も許してくれるかとそうした。
なのに、むしろ離れて行くばかりだった。
彼女に嫌な事をした覚えはないのに、避けられる。
しかも彼女は年頃になってどんどん綺麗になっていく。
小さい頃はわんぱく盛りだった彼女の同級生男子たちも、急に色気付いて彼女の周囲をうろつくようにもなった。女を見る目があると感心こそしてやったが、当然ながらケント的には超絶面白くなかった。
挙句、すずかが学校で仲の良い男友達を作っていると知って、自分とは距離を置くのにどうしてと嘆き憤慨さえした。
この時彼は人生の苦悩という言葉を身をもって経験した。
突破口のない行き詰まり、募る苛立ちと焦燥が彼を歪ませていったと言っても過言ではない。
――僕を好きじゃなくても今はいい。だけど、他の男に靡くのは絶対に許さない。
恋の妨害の始まりはそんな恣意的な想いからだ。
もしも彼が回りくどく条件だの何だのを付けず、素直に想いを打ち明けていたなら、簡単に解決していただろう。
もしも彼女から控えめにされるのが面白くないと、彼が幼稚な感情を抑えられず意地悪をしなければ、関係の向上は思いもしない上昇をみせたかもしれない。
しかし、残念な事に、拗らせていた。
父親が倒れ実質的に家業を取り仕切るようになり忙しくなったのは、痛手だった。
前よりも彼女に割ける時間が減ったからだ。
しかしそれは将来安泰のためにも仕方がないと自らを律し、熱心に自社の発展に尽力した。その結果が現在なのだが、彼は後悔してもいた。
彼女が追い詰められていた時期に傍に居られなかった。
彼女関係の報告はどんな些細な変化でも随時上げてもらっていた。
彼女の家が傾き始めていたのも知っていた。
ただし彼は仕事には公平で、気を揉んではいたが手は出さなかった。
彼女の母親が倒れたと知り、ようやく動いたのだ。
傘下に入れるに当たって周囲を納得させるような理由としては、技術が欲しいとした。
それはどうにか彼女と結婚するために必要な画策だったが、決してそのために誇張して言ったわけではない。
廃れさせる、或いは他社に流出させるには惜しい技術だったのは本当だ。
その点は喜ばしくも彼にとって幸いと言うか有利に働いた。
それでも正直に言えば、代替できる技術はあるので絶対に欲しい技術でもなかった。この先の開発次第で唯一無二の技術となるかもしれない可能性は秘めているにしても、だ。
全ては婚姻を呑ませるため。
彼女を縛るために必要だった。
我ながら歪んでいる、と自覚はしている。
それでもこうなってしまったものはどうにもできない。
一度きりの人生なのだし、自分の可能な限りで手を尽くし囲い込んでしまいたかった。
そうやって手に入れた関係だが、家に帰れば彼女が居てくれる、それだけでも奇跡のようだった。
こっちを見てほしくてついつい触れてしまうが、しかし優しくしても甘やかしてみても彼女はいつも怒る。
ぱっちりして黒目がちでちょっと猫みたいな双眸が吊り上がる様さえ可愛らしいから、ついつい怒っていてもいいかと絆されるのだったけれど……。
これも惚れた弱みだ。
いつも心配で、いつも気になって、早く安心したいと願う。
しかし自分が望むように向こうもそう思ってくれなければものにしても意味がない。
きっと満たされない。
拗らせていてもそれくらいはわかるだけに、彼は何度も彼女の気持ちに働きかけて辛抱強く待つしかないのだ。
故に、変に警戒して欲しくなくて、卒業までは手を出さないなどと宣言もした。
その一方で、たぶんきっと、無邪気な笑顔を向けられたらもう駄目だと思う自分もいる。
今の所彼女にその片鱗すらないのは幸いなのか何なのか、かなり複雑ではあったが。
ともかく現在彼は、他の男と楽しそうにする新妻を連れ戻すために気持ちを引き締めるのだった。
新たな客が入店した時、坂ノ上小町は友誼たちとまだ店内にいた。
事情は知らないが、彼はすずかとアルトのイチャ付きをどこか微笑ましい気持ちで時々眺めていた。無論ちょっと呆れている面もある。
視線を自らの飲み物に戻しグラスに付いた結露を何となく見つめつつ、慈善パーティーに誘う文句を機嫌良く考えていると、すずかたちの席の方が騒がしくなった。
目を向ければ、背の高い一人の若い男が二人の席の傍に立っている。
見覚えのあるその男の顔に小町は一瞬驚いたが、同時に腹の底から不愉快なものが込み上げた。
「なあ坂ノ上、三好さんたち何か雰囲気ヤバそうじゃないか?」
友誼の潜められた声には同感だ。
確かにすずかたちは次第に口論に近いような声になっている。
そのうち事態が動いて小町は目を瞠った。
「ちょっと行ってくる」
置き去りにするようにそう告げて、小町は居ても立ってもいられず席を立った。
男装のアルトと自撮りをしたりやっぱりベタベタしたり、すずかは楽しく過ごしていた。
しかしそれも彼が来るまでだった。
「すずか」
傍に立った気配とよく知る声に顔を向ければ、ケントがそこにいた。
当然だが彼の頬には爪の痕がまだ赤く残っている。服装も私服のままだ。
いつも見るのは仕事着のスーツ姿が多いので、実は今日の出掛ける前に彼のお洒落な私服姿を見た際は新鮮でドキドキしたものだった。
うっかりまた見惚れそうになったが、すずかが一方的に怒ったとは言え喧嘩したのだと思い出し、態度を一貫させようとわざと頬を膨らませてみせる。ただ、上機嫌の今改めて見れば、彼の引っ掻き傷も多少は後ろめたく感じた。
「何でここに?」
「君を捜したからだよ」
「捜したって……何か用?」
向ける言葉もつっけんどんだ。
すずかの態度に感化されたわけではなさそうだが、元々表情の硬かったケントは眉をひそめて彼女の手を掴んだ。
「帰るよ」
「はあ!? 何で! 今友達と遊んでるんだけど! 勝手に一人で帰ればいいでしょ!」
すずかが手を自分の方に引っ込めると、ケントは再度掴んでくる。
「男と遊ぶのが楽しければ僕とそうすればいいだろう」
「何わけわかんない事言ってんのケン兄ってば」
男装してはいてもアルトは女子なので、ケントの「男と遊ぶ」との形容をすずかは素で不可解に思ってしまった。ちょっとたまに彼女は抜けているのだ。
それがとぼけたように見えたのか、ケントは一段と険悪さを滲ませる。
「こんなオープンな場所でベタベタと……。君は自分の立場をもっと弁えるべきだと思うけどな」
ここに来てようやくアルトと自分を彼がどう見ているのかわかったすずかは、思わず閃いて促すようにアルトと視線を交わした。
イチャイチャ継続。
そんな意思が眼差しには込められている。
ケントの顔を知るアルトの方は、予期せずいきなり始まった夫婦喧嘩にちょっとどうしていいのかわからない様子でいたが、すずかの視線からその意を酌んだようだった。
これはこのまま浮気現場にしてしまえばいいとすずかは思ったのだ。
そんなわけで、腰を上げたアルトがケントの前に立った。
「お兄さんこそ周囲の目を気にした方がいいですよ? すずかと楽しくしているのに邪魔しないでもらえます?」
アルトの挑発的な物言いに、ケントは明らかに瞳の温度を下げた。
(うわっケン兄怖いよ! きょーちゃんごめん~!)
アルトがやや臆したのを感じ取ったすずかは、援護のためにアルトの横に立って彼女の腕を抱きしめる。
「そーだよ楽しくしてるんだからケン兄は口出ししないでよ」
更にはアルトの胴体に両腕を回してピッタリと抱き付いて文句をぶつけた。
その流れの中で「きょーちゃんプラン3で」とこそりと告げる。
アルトは小さく了解に頷くと、早速すずかの髪に唇を寄せた。
これはついさっきまで浮気のイチャイチャを効率良く見せ付けるには……と相談した中で決めた行動の一つだった。
まさかこんなにも早く実行の機が訪れるとは当の二人も思っていなかったが。
「そーゆーことですので~」
なんてアルトがへらっと笑った刹那、
「調子に乗るな」
低く凄んだケントが手荒にも彼女の胸倉をぐいっと掴んだ。
アルトが苦しそうに「うっ」と呻く。
「やっやめてケン兄っ!」
これにはさすがのすずかもギョッとして、今にもアルトを殴りそうなケントの腕に飛び付いて止めた。
この時点では、ケントはアルトとの面識がなかったので、彼の目には見知らぬチャラ男にしか見えない相手の正体を知らなかったのだ。
「……こんな軽薄な奴を庇うのか?」
「庇うよ! 大事なきょーちゃんだもん!」
「は?」
「きょーちゃんなの!」
要領を得ないすずかの訴えだったが、頭の回転の速いケントには少ないヒントから状況が読めてしまった。
やや驚いたように眉間を解いてゆっくりと指先を開くと、解放されてけほりと軽く咳き込むアルトを見てすずかを見て、確認のために問い掛ける。
「まさか、京町さんなのか?」
「そうだよ!」
潤んだ目ですずかは即座にそう肯定した。
ケントの微笑をバックミラー越しに見た運転手の男性は、後部座席に幽霊を見たタクシー運転手の如くに蒼白になった。因みにケントとは親子ほど年の離れた妻子持ちで熟練の運転手だ。
「全く本当に……首輪でも付けてやりたいよ」
彼の口調は穏やかだが、声音の裏にはわなわなと震え、背筋を凍らせるような嫉妬の黒い炎が見えた。
それでも職務熱心な運転手の男性は訊ねた。
「だ、旦那様如何致します? 車を出しますか?」
「いや、僕が出る」
「はい? ……ああ、畏まりました」
すずかが意図せずとも、バッチリ妻の浮気現場を目撃したような形になったケントは、腹を立ててさっさと先に帰宅……するわきゃなかった。
会社を世界企業に押し上げ現在の地位を築いた彼には、間男に妻を譲るなどというそんな温さも、ショックに落ち込んで引き下がるという可愛げもない。
いや、よしんば可愛げがあったとしても、今ここで発揮する必要は全くない。
「何のために今までずっと我慢していたと思って……」
運転手がいつものようにドアを開ける前にケントが自分からさっさと降りてしまったので、彼の小さな毒づきは生憎運転手には聞こえなかったが、運転手は心得たように「では、暫しここでお待ちしておりますので」と窓を開け主人に慇懃な言葉を届けた。
花柳ケントは幼少のみぎりよりとても優秀だった。
将来的に会社を継ぐようにと英才教育をされていたのも、彼の天与の様々な才能を加速度的に開かせるのに大いに貢献していた。
同い年の皆が義務教育中に、既に大学の講義を受けてもいた。
ただし世間的には極々普通の、それでいてちょっと頭の良い少年だと欺くよう、大学の学位取得の片手間に年相応の私立学校に籍を置いてもいた。
これも彼自身が正規の手段でコツコツと稼いだ金銭による寄付のなせる技だった。
加えて、学園の理事長が両親の知人という点もこの才能の隠匿に一役買っていた。
どうして普通を装うのか?
それは神童などと目されては、意中のあの子を遠ざけるかもしれないと彼はわかっていたからだ。
とにもかくにも何事も重要なのは事前の根回し。
彼はその効果の程をよくよく理解していた。
だというのに、たった一人、例によって意中のあの子だけにはそんなものは通用しない。
始まりは親と共に出席した何かのパーティーだ。
そこで出会ったあの子に、落ちた。
一時の迷いか否か自分の気持ちを確認するためにもその後も何度か彼女と会えるように頼んで、確信した。
生涯その子の傍に居たいと希うようになった。
だから、そのために無難に見えるように努力した。
凡庸の範疇に収まるようになど、努力と言うと語弊があるかもしれないが、彼としては大真面目に努力だった。
折角彼女の家族から攻めようと、自分を応援してくれるように彼女の姉と仲良くなり気持ちを理解してもらった……というのに、何故かその子からは段々と距離を置かれた。
昔のような親しい仲になれるようこれでも彼なりに試みた。
パーティーでは自分から声を掛けたし、彼女の姉と三人なら気も許してくれるかとそうした。
なのに、むしろ離れて行くばかりだった。
彼女に嫌な事をした覚えはないのに、避けられる。
しかも彼女は年頃になってどんどん綺麗になっていく。
小さい頃はわんぱく盛りだった彼女の同級生男子たちも、急に色気付いて彼女の周囲をうろつくようにもなった。女を見る目があると感心こそしてやったが、当然ながらケント的には超絶面白くなかった。
挙句、すずかが学校で仲の良い男友達を作っていると知って、自分とは距離を置くのにどうしてと嘆き憤慨さえした。
この時彼は人生の苦悩という言葉を身をもって経験した。
突破口のない行き詰まり、募る苛立ちと焦燥が彼を歪ませていったと言っても過言ではない。
――僕を好きじゃなくても今はいい。だけど、他の男に靡くのは絶対に許さない。
恋の妨害の始まりはそんな恣意的な想いからだ。
もしも彼が回りくどく条件だの何だのを付けず、素直に想いを打ち明けていたなら、簡単に解決していただろう。
もしも彼女から控えめにされるのが面白くないと、彼が幼稚な感情を抑えられず意地悪をしなければ、関係の向上は思いもしない上昇をみせたかもしれない。
しかし、残念な事に、拗らせていた。
父親が倒れ実質的に家業を取り仕切るようになり忙しくなったのは、痛手だった。
前よりも彼女に割ける時間が減ったからだ。
しかしそれは将来安泰のためにも仕方がないと自らを律し、熱心に自社の発展に尽力した。その結果が現在なのだが、彼は後悔してもいた。
彼女が追い詰められていた時期に傍に居られなかった。
彼女関係の報告はどんな些細な変化でも随時上げてもらっていた。
彼女の家が傾き始めていたのも知っていた。
ただし彼は仕事には公平で、気を揉んではいたが手は出さなかった。
彼女の母親が倒れたと知り、ようやく動いたのだ。
傘下に入れるに当たって周囲を納得させるような理由としては、技術が欲しいとした。
それはどうにか彼女と結婚するために必要な画策だったが、決してそのために誇張して言ったわけではない。
廃れさせる、或いは他社に流出させるには惜しい技術だったのは本当だ。
その点は喜ばしくも彼にとって幸いと言うか有利に働いた。
それでも正直に言えば、代替できる技術はあるので絶対に欲しい技術でもなかった。この先の開発次第で唯一無二の技術となるかもしれない可能性は秘めているにしても、だ。
全ては婚姻を呑ませるため。
彼女を縛るために必要だった。
我ながら歪んでいる、と自覚はしている。
それでもこうなってしまったものはどうにもできない。
一度きりの人生なのだし、自分の可能な限りで手を尽くし囲い込んでしまいたかった。
そうやって手に入れた関係だが、家に帰れば彼女が居てくれる、それだけでも奇跡のようだった。
こっちを見てほしくてついつい触れてしまうが、しかし優しくしても甘やかしてみても彼女はいつも怒る。
ぱっちりして黒目がちでちょっと猫みたいな双眸が吊り上がる様さえ可愛らしいから、ついつい怒っていてもいいかと絆されるのだったけれど……。
これも惚れた弱みだ。
いつも心配で、いつも気になって、早く安心したいと願う。
しかし自分が望むように向こうもそう思ってくれなければものにしても意味がない。
きっと満たされない。
拗らせていてもそれくらいはわかるだけに、彼は何度も彼女の気持ちに働きかけて辛抱強く待つしかないのだ。
故に、変に警戒して欲しくなくて、卒業までは手を出さないなどと宣言もした。
その一方で、たぶんきっと、無邪気な笑顔を向けられたらもう駄目だと思う自分もいる。
今の所彼女にその片鱗すらないのは幸いなのか何なのか、かなり複雑ではあったが。
ともかく現在彼は、他の男と楽しそうにする新妻を連れ戻すために気持ちを引き締めるのだった。
新たな客が入店した時、坂ノ上小町は友誼たちとまだ店内にいた。
事情は知らないが、彼はすずかとアルトのイチャ付きをどこか微笑ましい気持ちで時々眺めていた。無論ちょっと呆れている面もある。
視線を自らの飲み物に戻しグラスに付いた結露を何となく見つめつつ、慈善パーティーに誘う文句を機嫌良く考えていると、すずかたちの席の方が騒がしくなった。
目を向ければ、背の高い一人の若い男が二人の席の傍に立っている。
見覚えのあるその男の顔に小町は一瞬驚いたが、同時に腹の底から不愉快なものが込み上げた。
「なあ坂ノ上、三好さんたち何か雰囲気ヤバそうじゃないか?」
友誼の潜められた声には同感だ。
確かにすずかたちは次第に口論に近いような声になっている。
そのうち事態が動いて小町は目を瞠った。
「ちょっと行ってくる」
置き去りにするようにそう告げて、小町は居ても立ってもいられず席を立った。
男装のアルトと自撮りをしたりやっぱりベタベタしたり、すずかは楽しく過ごしていた。
しかしそれも彼が来るまでだった。
「すずか」
傍に立った気配とよく知る声に顔を向ければ、ケントがそこにいた。
当然だが彼の頬には爪の痕がまだ赤く残っている。服装も私服のままだ。
いつも見るのは仕事着のスーツ姿が多いので、実は今日の出掛ける前に彼のお洒落な私服姿を見た際は新鮮でドキドキしたものだった。
うっかりまた見惚れそうになったが、すずかが一方的に怒ったとは言え喧嘩したのだと思い出し、態度を一貫させようとわざと頬を膨らませてみせる。ただ、上機嫌の今改めて見れば、彼の引っ掻き傷も多少は後ろめたく感じた。
「何でここに?」
「君を捜したからだよ」
「捜したって……何か用?」
向ける言葉もつっけんどんだ。
すずかの態度に感化されたわけではなさそうだが、元々表情の硬かったケントは眉をひそめて彼女の手を掴んだ。
「帰るよ」
「はあ!? 何で! 今友達と遊んでるんだけど! 勝手に一人で帰ればいいでしょ!」
すずかが手を自分の方に引っ込めると、ケントは再度掴んでくる。
「男と遊ぶのが楽しければ僕とそうすればいいだろう」
「何わけわかんない事言ってんのケン兄ってば」
男装してはいてもアルトは女子なので、ケントの「男と遊ぶ」との形容をすずかは素で不可解に思ってしまった。ちょっとたまに彼女は抜けているのだ。
それがとぼけたように見えたのか、ケントは一段と険悪さを滲ませる。
「こんなオープンな場所でベタベタと……。君は自分の立場をもっと弁えるべきだと思うけどな」
ここに来てようやくアルトと自分を彼がどう見ているのかわかったすずかは、思わず閃いて促すようにアルトと視線を交わした。
イチャイチャ継続。
そんな意思が眼差しには込められている。
ケントの顔を知るアルトの方は、予期せずいきなり始まった夫婦喧嘩にちょっとどうしていいのかわからない様子でいたが、すずかの視線からその意を酌んだようだった。
これはこのまま浮気現場にしてしまえばいいとすずかは思ったのだ。
そんなわけで、腰を上げたアルトがケントの前に立った。
「お兄さんこそ周囲の目を気にした方がいいですよ? すずかと楽しくしているのに邪魔しないでもらえます?」
アルトの挑発的な物言いに、ケントは明らかに瞳の温度を下げた。
(うわっケン兄怖いよ! きょーちゃんごめん~!)
アルトがやや臆したのを感じ取ったすずかは、援護のためにアルトの横に立って彼女の腕を抱きしめる。
「そーだよ楽しくしてるんだからケン兄は口出ししないでよ」
更にはアルトの胴体に両腕を回してピッタリと抱き付いて文句をぶつけた。
その流れの中で「きょーちゃんプラン3で」とこそりと告げる。
アルトは小さく了解に頷くと、早速すずかの髪に唇を寄せた。
これはついさっきまで浮気のイチャイチャを効率良く見せ付けるには……と相談した中で決めた行動の一つだった。
まさかこんなにも早く実行の機が訪れるとは当の二人も思っていなかったが。
「そーゆーことですので~」
なんてアルトがへらっと笑った刹那、
「調子に乗るな」
低く凄んだケントが手荒にも彼女の胸倉をぐいっと掴んだ。
アルトが苦しそうに「うっ」と呻く。
「やっやめてケン兄っ!」
これにはさすがのすずかもギョッとして、今にもアルトを殴りそうなケントの腕に飛び付いて止めた。
この時点では、ケントはアルトとの面識がなかったので、彼の目には見知らぬチャラ男にしか見えない相手の正体を知らなかったのだ。
「……こんな軽薄な奴を庇うのか?」
「庇うよ! 大事なきょーちゃんだもん!」
「は?」
「きょーちゃんなの!」
要領を得ないすずかの訴えだったが、頭の回転の速いケントには少ないヒントから状況が読めてしまった。
やや驚いたように眉間を解いてゆっくりと指先を開くと、解放されてけほりと軽く咳き込むアルトを見てすずかを見て、確認のために問い掛ける。
「まさか、京町さんなのか?」
「そうだよ!」
潤んだ目ですずかは即座にそう肯定した。
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