西涼女侠伝

水城洋臣

文字の大きさ
70 / 75
第七章 訣別の祁山

第五十三集 霧中の開戦

しおりを挟む
 馬超ばちょう軍が体勢を整え、漢中かんちゅうを進発した。りょう州を落ち延びてから、わずか一月後の事である。

 それを迎え撃つ涼州軍は何とか祁山きざん砦を完成させ、各地に援軍を要請していた。
 当然ながら馬超の耳にも祁山砦建築の話は入っていたが、漢中からの補給と武都氐の援軍を以って、急造の砦など一気に穿ち抜いてやると言う心持ちであった。

 そんな馬超の同盟相手でもある武都氐ぶとていの族長・千萬せんばんは、自身の妹である浥雉ゆうちが殺害された事に憤っていた。殺害した涼州軍も然る事ながら、同時に妻を守る事が出来なかった馬超に対しても同様に怒りを露わにしており、援軍を出し渋るという不測の事態が起こっていたのだ。
 祁山があるのは、正に彼ら武都氐の庭とも言える武都郡であり、その援軍の有無は馬超軍の戦力に大きく関わってしまう。
 あくまでも涼州軍の卑劣な策略であったと武都氐を説得する為、龐徳ほうとくが山岳地帯の奥深く、武都氐の本拠地である仇池きゅうちへと出向く事になった。
 援軍を連れて後から合流するという手筈である。

 だがそれは、馬超軍と涼州軍、祁山で向かい合った両軍が、共に後続の援軍を待つという状況となり、先に援軍を得た方が相手の援軍到来前に勝負を決められるかという、大きな賭けのような形になってしまったのである。

 そんな馬超に対し、道士である鍾離灼しょうりしゃくは単身での先行を申し出ていた。敵の砦を孤立させて見せると彼は言う。確かに敵の援軍や補給を断つ事が出来るなら、それこそ容易に打ち破る事は可能である。

「何か策があるのか?」

 そう訊いた馬超に対し、紅顔白髪の道士は不敵な笑みを浮かべて応える。

「私とて道士の端くれ。策というより、ですな」



 対する祁山砦には、趙昂ちょうこう楊阜ようふ姜敍きょうじょらが詰めていた。
 いつもは後方に待機する王異おういも、この時は鎧を身につけ、夫と共に前線の砦にいた。それは後世の史書にも明記されているほどであり、何か思う所があったのであろう。しかしその理由までは当人が夫らを含め周囲に何も語っていない以上、後世の我々には知る由もない。
 その娘である趙英ちょうえいも周辺警備と連絡要員を兼ねて祁山に駐屯していた。

 他の者たちは本拠地である城の他、西せい城やれき城と言った中間拠点におり、援軍の誘導や補給などの後方支援に回っていた。
 体調の優れぬ呼狐澹ここたん、そして緑風子りょくふうしもまた冀城に待機している。

 未だ援軍の姿は見えないが、恐らくは今日明日には続々と集うであろう。だが馬超軍の進行はそれよりも早く、恐らくは今日にも到着し、最前線である祁山では戦いが始まるはずである。

 その日の祁山周辺は、早朝から深い霧に包まれていた。
 山岳地帯であり、現在は冷え込む時期である以上、霧自体は珍しい物では無かったが、その霧が一向に消えぬまま、歴城から祁山に向かった伝令が途絶え、誰一人として戻ってこない。
 そのような報告が冀城に届いたのは、既に日が傾きかけていた頃の事である。
 報告を聞いた緑風子は、即座にそれが鍾離灼の仕掛けた道術であると悟り、冀城で後方を守っていた尹奉いんほうに伝えた。

 道術によって発生させられた霧は人を迷わせる結界のような物なのだ。
 それは緑風子や鍾離灼の属する求仙道きゅうせんどうに限らず、黄巾の乱を起こした太平道たいへいどう、漢中の五斗米道ごとべいどうも含め、多くの道士が使う術として知られており、その記録は断片的ではあるが、後世に伝わっている史書にも散見される。

 余談であるが、手がかりがつかめず見通しが立たない事を指す「五里霧中ごりむちゅう」という熟語に残る五里霧ごりむという物が、正にその霧を発生させる道術の事で、その術中で迷う事を語源としている。

 この十数年後に蜀漢しょくかん孫呉そんごの間で起きた夷陵いりょうの戦い。民間伝承の中で、蜀の軍師・諸葛亮しょかつりょうが呉軍の足を止めた石兵八陣せきへいはちじんという物が語られる。
 陣の詳細は定かではないが、それもやはりそうした道術の応用であり、対してそれを破った呉の陸遜りくそんもまた道術の知識があったと伝えられている。

 いずれにしても、道術の知識が無い素人が下手に迷い込めば、ただ迷ってしまうのみで誰も帰ってこれない。
 尹奉が西城や歴城に早馬を出し伝令を止めさせると、緑風子は自分が破ると言って単身で向かう事にしたのである。
 霧の正体が道術であると分かった以上、道士に任せるのが得策であるとして尹奉も特に止めるでもなく、丁寧に拱手をして逆に願い出るほどであった。祁山で孤立する友人たちの為に。

 そんな緑風子が芦毛の愛馬に跨って出発しようとする頃には、既に日も暮れ夜となっていた。
 まだ本調子ではないが動けるようになっていた呼狐澹が彼に同行を申し出ると、緑風子はいつもの笑顔で止めた。

「敵もまた道士で、その術を破る以上は独りの方が良いんだよ。それにこれは僕の因縁だしね。慧玉けいぎょくが心配なのは分かるけど、それならばここで援軍を待って、霧が晴れたら連れてきてくれればいい。それが一番だ。いいね」

 黙って頷く呼狐澹だったのだが、単騎で駆け出す緑風子の後姿を、なおも心配そうな瞳で見送った。これを最後にもう会えない。理由は分からないが、不思議とそんな予感がしていたからである。



 そんな霧に包まれている祁山砦でも、やはり混乱は起こっていた。谷間に発生した霧が朝からずっと晴れる事もなく、歴城からの伝令も来ず、向かわせた伝令も帰ってきていない。
 しかも城壁を境とするように漢中側は綺麗に晴れ渡っているのも、あまりに不自然と言えた。

 不穏な物を感じた趙英が、自らが歴城に向かおうかと趙昂に申し出る場面もあったが、いつ馬超軍が到来するか分からぬ現状もあり、ここは様子を見るべきという事で落ち着いた。

「これが道術の類だとしても、冀城に緑風道士がいるのだ。お前はただ友人を信じていればいい」

 そう言って笑みを浮かべ、焦燥する娘の肩を叩いた趙昂。そんな父の気遣いに黙って頷く趙英であった。

 馬超軍が姿を見せたのは、その直後の事である。
 既に日が沈みかけていた事もあり、すっかりと暗くなった谷間に、山道から松明の明かりが次々と現れ広がっていく。

 祁山砦に対して半里(二百メートル強)ほどの距離を取って展開した馬超軍。その頃には既に夜となっていた。
 総攻撃は朝を待ってから行うにしても、弓の一斉射は勿論の事、城壁内への侵入なども含め、兵士を交代で休ませながら夜の間も断続的に攻撃を仕掛けていく馬超軍。
 背後に霧の存在がある以上、迂闊に攻めかかる事も出来ず防戦一方な涼州軍であるが、その霧の存在を既に把握している馬超はあえて敵の疲弊を狙ったのである。

 例え牽制と言えど敵がいつ攻め来るか分からない祁山砦では、常に気を緩めずに警戒していなければならない。対する馬超軍は反撃をほとんど受ける事なく、好きな時期に一方的に攻められるのである。
 肉体的にも精神的にも、将兵の疲労が蓄積するのはどちらの方か火を見るより明らかであろう。

 建安けんあん十九年の祁山の戦いは、こうして馬超軍の圧倒的優勢で開始されたのである。





しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...