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第七章 訣別の祁山
第五十四集 激突
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歴城へと到着した緑風子は、谷間の向こうが霧に包まれている事を確認した。夜空に浮かぶ月の光すらも吸い込むかのような闇が広がっている。
歴城の駐屯兵たちに、霧が晴れるまでは決して誰も通すなと言い含めると、竹杖に松明を縛り付け、自らは谷間へと向かっていく。
さすがの緑風子もいきなり霧の中へと踏み込む事はしない。むしろそれは罠である。道術による結界を破るには、どこから入るかという方角が全てを分ける。そこを間違えれば完全に術中に入ってしまい抜け出せなくなるのだ。
術者の側もそれをよく分かっている為、陣の欠点となる方角は非常に入りにくい位置になるように配置するのである。
それ故にある程度の目星を付けながら、切り立った山岳地帯を登らねばならないわけだ。それも真夜中にである。少しでも時間が惜しい現状を鑑みれば致し方ない。
目星を立てては外れ、ぼやきながら何度も山を上り下りした緑風子が、何とか陣の端を見つけたのは、既に夜が明け始めた頃の事である。
傍目には、ただの切り立った崖と、その下に広がる霧の海しか見えない。
もうすぐ陽が上る事を確認した緑風子は、松明を消すと竹杖から外した。孤立した祁山砦では、今まさに馬超軍との交戦が行われているはずである。あまり時間をかけるわけにはいかない。
緑風子は躊躇する素振りも見せず、軽い足取りで崖から飛び降りると、まるで吸い込まれるように霧の中へと落ちて行った……。
夜が明けた祁山砦では、いよいよ馬超軍の総攻撃が始まろうとしていた。夜の間も断続的な攻撃を受け続け、涼州軍の将兵は疲労困憊といった様子で、兵数は元より士気の時点で負けていた。
このまま攻撃が開始されれば、霧が晴れるのを待つ間に砦ごと陥落する危機である。
城壁の上から馬超軍の様子を見渡す、楊阜、趙昂、王異、姜敍、そして趙英もそこにいた。
馬超軍の軍勢から、栗毛の馬に乗った将が単騎で駆けてくるのが見えた。長槍を手にし、龍を象った兜と、金色の甲冑を纏ったその姿は、正に敵の総大将・馬超であった。
「戦う前に、こいつを返してやる!」
笑みを浮かべながら叫んで馬超が投げた物が、城壁の上を転がる。
人の生首である……。
それは趙昂と王異の嫡子、そして趙英の弟である趙月だった。目を見開いたままのその表情は、その死が本人にとって予期せぬ事であった事を物語っている。
思わず絶句する彼らを尻目に、馬超は呵々大笑した。
趙昂と王異は息子の変わり果てた姿に目を背けるも、冀城で彼らが馬超の妻子にした事を考えれば、それは意趣返しである。受け入れざるを得なかった。
そして一方で馬超の方は、趙月は趙家の送り込んだ密偵であり、自身の嫡子である馬秋の命を狙っていた者だと信じて疑わなかった。それ故に彼は趙月の首を投げ渡す事で、「お前たちの策は既に破れている」と宣言し、祁山砦の士気を更に下げようとしたのである。
出陣前に趙月に言った「役に立ってもらう」という言葉の真意は、正にこの為だったわけだ。
だが最も心を乱されたのが、他でもない趙英であった。
実は趙月に会う為に漢中に赴いた事も、そこで弟が帰る事を拒否して張魯に仕える道を選んだ事も、趙英は未だに両親に言い出せていなかったのである。
単純に言い出せなかった事もあるが、砦の建設などの準備に奔走していた両親の姿に、言い出す機会を逃したままだったのだ。
弟の選んだ道を尊重し、笑顔で別れた事。それら全て趙英独りで背負ったまま……。
こうなる可能性は充分に分かっていながら、あの日の自分の判断がこの結果を招いてしまった。あの時、例え弟に嫌われる事になろうとも、頬を叩いて無理に連れ帰るべきだったのであろうか。
だが、どんなに悔やんだ所で、現実は変わらない。
もう弟は戻らない……。
挑発的な馬超の高笑いが、趙英の心に突き刺さる。
あの男は、純粋に己の道を選んだだけの少年を、何の容赦もなく切り殺した。それも自身の息子に止められていたはずであるにも関わらず……。
悲しみが怒りへと転じた趙英は慟哭し、腰に佩いた青き宝剣、今は亡き師母・趙娥より受け継いだ「冰霄」を抜き放つと、周囲が制止する間もなく、城壁から飛び降りた。
地面を踏みしめるように着地した趙英は静かに顔を上げ、その怒りに燃える視線で馬超を捉えると、一直線に斬りかかって行った。
故郷である涼州を乱してきた馬超は確かに今までも敵であった。だが趙英にとって、この瞬間に馬超が真の意味で仇敵となったのである。
凄まじい速度で向かって来る女侠の姿に、馬超は思わず驚いた物の、すぐに笑みを見せて槍を構えると、愛馬から飛び降りて迎え撃った。
彼の愛する家族を奪い、更に残った息子の命まで狙った趙家は、馬超にとっても仇敵。その趙家の中でも、恐らくは最強の武を誇るであろう趙英。そして同時に、趙昂と王異にとっては最後に残った子である。
そんな趙英を、その両親の目の前で討ち取る。これこそ真の勝利、真の復讐であると馬超は思い至ったのである。
周囲に砂埃を立てながら衝突した両者。
剣と槍のぶつかる金属音と同時に、そこに込められた一切の手加減がない内力の強さを物語るように爆音が響いている。更にその動きは常人にはほとんど捉えられぬほど速い。
城壁の上の涼州軍将兵も、後ろに控えている馬超軍の将兵も、共に手出しが出来なかった。むしろ手の出しようがないというのが正しい。
もはや互いに語る言葉はなく、まるで野生の獣の如く、ただ怒りの絶叫だけを上げる趙英と馬超。ただただ己の中の怒りと憎悪を、全身全霊の武を以って相手に叩きつけている。
両者に共通していたのは、相手に対する怒りよりも、こんな事態を招いてしまった自分自身への怒りの強さである。趙英も馬超も、何より許せないのは自分自身であった。
止め処なく溢れ出して己の心を蝕むその感情を、目の前の仇敵に向ける事で、何とか自我を保っているとも言えた。
もしも馬超が勝利すれば、もはや祁山砦に戦うだけの士気は残らず、一気に陥落してしまうであろう。
だが逆に趙英が勝利すれば、敵は総大将を失う事となり、馬超軍は一気に崩壊する。
祁山の戦いの行方は、両軍の将兵が見守る中、こうして両者の一騎打ちが勝敗を分ける形へと変わったのであった。
歴城の駐屯兵たちに、霧が晴れるまでは決して誰も通すなと言い含めると、竹杖に松明を縛り付け、自らは谷間へと向かっていく。
さすがの緑風子もいきなり霧の中へと踏み込む事はしない。むしろそれは罠である。道術による結界を破るには、どこから入るかという方角が全てを分ける。そこを間違えれば完全に術中に入ってしまい抜け出せなくなるのだ。
術者の側もそれをよく分かっている為、陣の欠点となる方角は非常に入りにくい位置になるように配置するのである。
それ故にある程度の目星を付けながら、切り立った山岳地帯を登らねばならないわけだ。それも真夜中にである。少しでも時間が惜しい現状を鑑みれば致し方ない。
目星を立てては外れ、ぼやきながら何度も山を上り下りした緑風子が、何とか陣の端を見つけたのは、既に夜が明け始めた頃の事である。
傍目には、ただの切り立った崖と、その下に広がる霧の海しか見えない。
もうすぐ陽が上る事を確認した緑風子は、松明を消すと竹杖から外した。孤立した祁山砦では、今まさに馬超軍との交戦が行われているはずである。あまり時間をかけるわけにはいかない。
緑風子は躊躇する素振りも見せず、軽い足取りで崖から飛び降りると、まるで吸い込まれるように霧の中へと落ちて行った……。
夜が明けた祁山砦では、いよいよ馬超軍の総攻撃が始まろうとしていた。夜の間も断続的な攻撃を受け続け、涼州軍の将兵は疲労困憊といった様子で、兵数は元より士気の時点で負けていた。
このまま攻撃が開始されれば、霧が晴れるのを待つ間に砦ごと陥落する危機である。
城壁の上から馬超軍の様子を見渡す、楊阜、趙昂、王異、姜敍、そして趙英もそこにいた。
馬超軍の軍勢から、栗毛の馬に乗った将が単騎で駆けてくるのが見えた。長槍を手にし、龍を象った兜と、金色の甲冑を纏ったその姿は、正に敵の総大将・馬超であった。
「戦う前に、こいつを返してやる!」
笑みを浮かべながら叫んで馬超が投げた物が、城壁の上を転がる。
人の生首である……。
それは趙昂と王異の嫡子、そして趙英の弟である趙月だった。目を見開いたままのその表情は、その死が本人にとって予期せぬ事であった事を物語っている。
思わず絶句する彼らを尻目に、馬超は呵々大笑した。
趙昂と王異は息子の変わり果てた姿に目を背けるも、冀城で彼らが馬超の妻子にした事を考えれば、それは意趣返しである。受け入れざるを得なかった。
そして一方で馬超の方は、趙月は趙家の送り込んだ密偵であり、自身の嫡子である馬秋の命を狙っていた者だと信じて疑わなかった。それ故に彼は趙月の首を投げ渡す事で、「お前たちの策は既に破れている」と宣言し、祁山砦の士気を更に下げようとしたのである。
出陣前に趙月に言った「役に立ってもらう」という言葉の真意は、正にこの為だったわけだ。
だが最も心を乱されたのが、他でもない趙英であった。
実は趙月に会う為に漢中に赴いた事も、そこで弟が帰る事を拒否して張魯に仕える道を選んだ事も、趙英は未だに両親に言い出せていなかったのである。
単純に言い出せなかった事もあるが、砦の建設などの準備に奔走していた両親の姿に、言い出す機会を逃したままだったのだ。
弟の選んだ道を尊重し、笑顔で別れた事。それら全て趙英独りで背負ったまま……。
こうなる可能性は充分に分かっていながら、あの日の自分の判断がこの結果を招いてしまった。あの時、例え弟に嫌われる事になろうとも、頬を叩いて無理に連れ帰るべきだったのであろうか。
だが、どんなに悔やんだ所で、現実は変わらない。
もう弟は戻らない……。
挑発的な馬超の高笑いが、趙英の心に突き刺さる。
あの男は、純粋に己の道を選んだだけの少年を、何の容赦もなく切り殺した。それも自身の息子に止められていたはずであるにも関わらず……。
悲しみが怒りへと転じた趙英は慟哭し、腰に佩いた青き宝剣、今は亡き師母・趙娥より受け継いだ「冰霄」を抜き放つと、周囲が制止する間もなく、城壁から飛び降りた。
地面を踏みしめるように着地した趙英は静かに顔を上げ、その怒りに燃える視線で馬超を捉えると、一直線に斬りかかって行った。
故郷である涼州を乱してきた馬超は確かに今までも敵であった。だが趙英にとって、この瞬間に馬超が真の意味で仇敵となったのである。
凄まじい速度で向かって来る女侠の姿に、馬超は思わず驚いた物の、すぐに笑みを見せて槍を構えると、愛馬から飛び降りて迎え撃った。
彼の愛する家族を奪い、更に残った息子の命まで狙った趙家は、馬超にとっても仇敵。その趙家の中でも、恐らくは最強の武を誇るであろう趙英。そして同時に、趙昂と王異にとっては最後に残った子である。
そんな趙英を、その両親の目の前で討ち取る。これこそ真の勝利、真の復讐であると馬超は思い至ったのである。
周囲に砂埃を立てながら衝突した両者。
剣と槍のぶつかる金属音と同時に、そこに込められた一切の手加減がない内力の強さを物語るように爆音が響いている。更にその動きは常人にはほとんど捉えられぬほど速い。
城壁の上の涼州軍将兵も、後ろに控えている馬超軍の将兵も、共に手出しが出来なかった。むしろ手の出しようがないというのが正しい。
もはや互いに語る言葉はなく、まるで野生の獣の如く、ただ怒りの絶叫だけを上げる趙英と馬超。ただただ己の中の怒りと憎悪を、全身全霊の武を以って相手に叩きつけている。
両者に共通していたのは、相手に対する怒りよりも、こんな事態を招いてしまった自分自身への怒りの強さである。趙英も馬超も、何より許せないのは自分自身であった。
止め処なく溢れ出して己の心を蝕むその感情を、目の前の仇敵に向ける事で、何とか自我を保っているとも言えた。
もしも馬超が勝利すれば、もはや祁山砦に戦うだけの士気は残らず、一気に陥落してしまうであろう。
だが逆に趙英が勝利すれば、敵は総大将を失う事となり、馬超軍は一気に崩壊する。
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