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第七章 訣別の祁山
第五十五集 妬みと憧れと
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緑風子は真っ白な霧の中を歩いていた。
不思議と穏やかな気持ちであった。追い続けてきた宿敵・鍾離灼との戦いは、どちらが勝とうと今日ここで終わる。
仲間たちを救う為には、当然ながら勝利しなければならない。理性ではそう分かっていたが、より本能的な感情としては不思議とどちらでもよかった。どこか達観にも似たその心持ちが、意図する事なく彼を冷静にさせていたとも言えた。
それはこの日に限らず、今までもずっとそうだった。
霧の中で歩数を数えるでもなく、ここだと思う場所で歩く方角を変えていく緑風子。それはもはや長年の勘としか言えなかったが、結果として正確な道を選び続けていた。
だがそれは彼の動きが鍾離灼に筒抜けである事も意味している。陣を破る為の進入路が固定であるならば、術者も当然それを知っているわけだ。しかも破ろうと試みる相手は、緑風子の他にいないのである。
それ故に副次的にかけられた別な呪術の他、物理的な罠なども至る所に配されていた。冷静にそれを避けていく緑風子であったが、それもまた鍾離灼の予測の範囲内であろう。
ここで重要なのは、あくまでもこれは術者の許に迷う事なく辿り着く為の物であって、この五里霧の陣、すなわち霧その物の存在を消すには、術者の意思で消すか、術者を倒すしかないのである。
対する鍾離灼は、霧の奥で悠然と待つわけではなかった。
緑風子が陣に入った事は即座に感じており、相手の進行する経路が分かっている以上、余計な小細工を全て排除して回っていた。
彼が各所に仕掛けた罠を避けて回る緑風子は、その都度に霊符を撒いていた。陣の中央に達するには、その周囲を大きく迂回するような経路を進まねばならぬ為、そうしておけば必然的に中央で対峙した際に、緑風子も自身の結界を張れるという事である。
鍾離灼はそうした動きも見抜いており、霧に紛れて緑風子の通り過ぎた道に撒かれた霊符を次々と破いて回った。
緑風子は歩みを止めた。その視線の先には淡く光る八卦図が大きく地面に描かれている。遂に陣の中央に辿り着いたのだ。だがその周囲に鍾離灼はいない。
「紅煬子。隠れてないで、出てきたらどうだい?」
そう声を発した途端、緑風子は不穏な気配を感じてその場を飛び退く。それと同時に飛び退いた地面から、鋭い刃のような物が飛び出る。
間一髪でそれを回避した緑風子が着地すると、その刃は霧に混ざる様に消えていく。
「虚影有実」を利用した罠である。刃自体は幻影であるが、一時的には実体がある為に相手を傷つける事が出来るわけだ。
緑風子は神経を研ぎ澄まし、立て続けに八卦図の周囲を跳び回る。次々と地面から刃が現れては消えていく。
ここまで複数の罠を集中させているとなれば、鍾離灼はここで勝負を決めるつもりであろうと予想が出来た。
術式が発動するわずかな気配を感知して即座に飛び退いていく緑風子は超人的と言えた。常人であるなら察する事も対処する事も出来ないであろう。だがあまりにも数が多い。罠を仕掛けた張本人、すなわち鍾離灼は、最初から相手が緑風子である事を見越している以上、その限界以上の罠を張り巡らせているという事だった。
緑風子とて、いつまでも回避し続ける事は難しく、遂に限界が訪れた。回避した先の着地点で術が発動し、その右足をズタズタに裂かれてしまった。
思わず呻き声を上げて倒れ込んだ緑風子が、左手を地面に付くと、その地面からも刃が現れ、彼の左腕を両断した。
血飛沫を上げながら倒れ込んだ緑風子。
そこに至って、霧の奥から鍾離灼が現れて呵々大笑する。
「あの天才様も、こうなると無様だなぁ」
地面に伏して歯噛みしている若き師叔を見下ろし、勝ち誇った高笑いを続ける紅顔白髪の道士。だがその背後に別の人影が現れた事に気づかない。
「何がそんなにおかしいのかな? 幻影を斬って嬉しい?」
その声に思わず鳥肌が立った鍾離灼は、振り返ろうとするが、直前に背中に衝撃を受け、まるで痺れたように動けなくなる。点穴である。
背後の声は、正に目の前で倒れているはずの緑風子の物であった。
「な、何故だ……。お前の霊符は……、全て……」
見落としなどなかった。彼は緑風子の撒いた霊符を全て破ったのだ。だから「虚影有実」の術を使う事は出来ないはずだった。仮に使えたとしても、ずっと相手の位置を把握していたはずだ。いつ幻影と入れ替わったのか。
だが背後の声は言い放つ。いつもの余裕の笑みを思わせる穏やかな声で。
「初歩的な事だよ。ちょっと考えれば分かると思うけど、のんびりもしてられなくてね。これで終わりにしよう……」
そう言って背後に立つ緑風子は、鍾離灼の首筋に触れると経絡を突いた。それは脳への血流を止める物。このまま意識が遠のき、苦しむ事もなく眠る様に闇に落ち、そのまま目覚めない。
鍾離灼は、己の今までの人生が頭の中で駆け巡った。走馬灯という物か。
自身の生家で怪物と揶揄されながらの監禁生活。その後に求仙道に引き取られてからの修行時代。そして出会った年若い師叔。天才児と言われて持て囃されていた少年。
近づけば比較される。何かあれば自分が悪者にされる。だから距離を置いていたのに、何故かいつも自分に近づいてくる。悪意の無さそうな笑顔で。
師父であり、実父でもあった鍾離玄を殺害して逃亡した後も、追いかけて来たのは緑風子だった。
どこまで逃げても、あの笑顔のままに追いかけて来る。あいつを殺さないと、俺は自由にはなれない。
だが最後の最後まで、勝つ事が出来なかった。あの天才には……。
そうして鍾離灼は地面に倒れ伏し、それまで淡い光を放っていた地面の八卦図から光が消えた。それは術者が死んだ事を意味する。
そして事を終えた緑風子の幻影も消えた。鍾離灼の背後に立っていた幻影が……。
血を流して地面に伏した緑風子は顔を上げると、息絶えた宿敵へと近づいていく。切り刻まれた右足を引きずるように、左腕を失い、残った右腕だけで、地面を這うように。
鍾離灼が霊符を排除するであろう事は緑風子とて分かっていた。だから霊符を貼った石をそれに混ぜて転がしていたのだ。そのままの霊符を囮にして。
だが敵の術式の中で幻影を出す事は出来ても、本体と幻影を入れ替える事は流石に出来ない。鍾離灼もそこまで間抜けではない。
だから緑風子は本体を囮にしたのである。勝利するにはそれしか手が無かったのだ。
満身創痍で生き残った緑風子は、傷を負う事なく眠る様に死んでいった鍾離灼の隣に並ぶと、開いたままのその瞼を右手で閉じさせた。
宿敵との戦いを終えた緑風子の表情に、笑みなど浮かんでいなかった。悲しみの涙を流していた。
彼にとって鍾離灼は、宿敵ではあったが、仇敵ではなかった。
「今更言っても信じないだろうけどさ。僕はずっと、あなたに憧れてたんだよ……」
物心ついた頃から、道術の才能を見出された緑風子は、己の意思で道士になったわけではなかった。天才児として褒め称えられ続けた彼は、大人たちに望まれるがままに、ただ天才児を演じ続けていたのだ。
だが本人の意思と関係なく、こうあれと望まれた人生を、望まれた姿で生きるのは、もはや奴隷と何が違うのか。
そんな緑風子の目には、いつも集団の端で斜に構えていた白髪の少年が特別に見えた。その少年に憧れ、幼心に兄代わりになって欲しいという思いがあった。
だから嫌がられても彼に話しかけた。成長するにつれ、彼の真似をするようになっていた。本心を出さぬ作り笑顔で皮肉を言う姿が、カッコいいと思っていたから。
だがそうした自分の行動の全てが、彼を心底から傷つけていたと気づいたのは、もっと後になってから……。
師父殺しを犯して逃亡した大罪人を誅すると求仙道が決定した時、緑風子は全てを悟ってしまったのだ。彼を歪めてしまった一番の原因は、自分なのではないかと。
ならば自分の手で決着を着けよう。他の者の手ではなく、自分の手で。いつか憧れた兄を……。
それもこうして終わった。
穏やかな死に顔の鍾離灼の隣で、自分も並ぶように倒れ込んだ緑風子は、そのまま空を見上げる。
この霧ももうすぐ晴れる。
自分の役目は終わった。
趙英たちならば、きっと大丈夫だろう。
その顔に涙の跡を残しつつも、晴れやかな気持ちで再び笑みを浮かべた道家の優男は、静かに目を閉じるのであった。
不思議と穏やかな気持ちであった。追い続けてきた宿敵・鍾離灼との戦いは、どちらが勝とうと今日ここで終わる。
仲間たちを救う為には、当然ながら勝利しなければならない。理性ではそう分かっていたが、より本能的な感情としては不思議とどちらでもよかった。どこか達観にも似たその心持ちが、意図する事なく彼を冷静にさせていたとも言えた。
それはこの日に限らず、今までもずっとそうだった。
霧の中で歩数を数えるでもなく、ここだと思う場所で歩く方角を変えていく緑風子。それはもはや長年の勘としか言えなかったが、結果として正確な道を選び続けていた。
だがそれは彼の動きが鍾離灼に筒抜けである事も意味している。陣を破る為の進入路が固定であるならば、術者も当然それを知っているわけだ。しかも破ろうと試みる相手は、緑風子の他にいないのである。
それ故に副次的にかけられた別な呪術の他、物理的な罠なども至る所に配されていた。冷静にそれを避けていく緑風子であったが、それもまた鍾離灼の予測の範囲内であろう。
ここで重要なのは、あくまでもこれは術者の許に迷う事なく辿り着く為の物であって、この五里霧の陣、すなわち霧その物の存在を消すには、術者の意思で消すか、術者を倒すしかないのである。
対する鍾離灼は、霧の奥で悠然と待つわけではなかった。
緑風子が陣に入った事は即座に感じており、相手の進行する経路が分かっている以上、余計な小細工を全て排除して回っていた。
彼が各所に仕掛けた罠を避けて回る緑風子は、その都度に霊符を撒いていた。陣の中央に達するには、その周囲を大きく迂回するような経路を進まねばならぬ為、そうしておけば必然的に中央で対峙した際に、緑風子も自身の結界を張れるという事である。
鍾離灼はそうした動きも見抜いており、霧に紛れて緑風子の通り過ぎた道に撒かれた霊符を次々と破いて回った。
緑風子は歩みを止めた。その視線の先には淡く光る八卦図が大きく地面に描かれている。遂に陣の中央に辿り着いたのだ。だがその周囲に鍾離灼はいない。
「紅煬子。隠れてないで、出てきたらどうだい?」
そう声を発した途端、緑風子は不穏な気配を感じてその場を飛び退く。それと同時に飛び退いた地面から、鋭い刃のような物が飛び出る。
間一髪でそれを回避した緑風子が着地すると、その刃は霧に混ざる様に消えていく。
「虚影有実」を利用した罠である。刃自体は幻影であるが、一時的には実体がある為に相手を傷つける事が出来るわけだ。
緑風子は神経を研ぎ澄まし、立て続けに八卦図の周囲を跳び回る。次々と地面から刃が現れては消えていく。
ここまで複数の罠を集中させているとなれば、鍾離灼はここで勝負を決めるつもりであろうと予想が出来た。
術式が発動するわずかな気配を感知して即座に飛び退いていく緑風子は超人的と言えた。常人であるなら察する事も対処する事も出来ないであろう。だがあまりにも数が多い。罠を仕掛けた張本人、すなわち鍾離灼は、最初から相手が緑風子である事を見越している以上、その限界以上の罠を張り巡らせているという事だった。
緑風子とて、いつまでも回避し続ける事は難しく、遂に限界が訪れた。回避した先の着地点で術が発動し、その右足をズタズタに裂かれてしまった。
思わず呻き声を上げて倒れ込んだ緑風子が、左手を地面に付くと、その地面からも刃が現れ、彼の左腕を両断した。
血飛沫を上げながら倒れ込んだ緑風子。
そこに至って、霧の奥から鍾離灼が現れて呵々大笑する。
「あの天才様も、こうなると無様だなぁ」
地面に伏して歯噛みしている若き師叔を見下ろし、勝ち誇った高笑いを続ける紅顔白髪の道士。だがその背後に別の人影が現れた事に気づかない。
「何がそんなにおかしいのかな? 幻影を斬って嬉しい?」
その声に思わず鳥肌が立った鍾離灼は、振り返ろうとするが、直前に背中に衝撃を受け、まるで痺れたように動けなくなる。点穴である。
背後の声は、正に目の前で倒れているはずの緑風子の物であった。
「な、何故だ……。お前の霊符は……、全て……」
見落としなどなかった。彼は緑風子の撒いた霊符を全て破ったのだ。だから「虚影有実」の術を使う事は出来ないはずだった。仮に使えたとしても、ずっと相手の位置を把握していたはずだ。いつ幻影と入れ替わったのか。
だが背後の声は言い放つ。いつもの余裕の笑みを思わせる穏やかな声で。
「初歩的な事だよ。ちょっと考えれば分かると思うけど、のんびりもしてられなくてね。これで終わりにしよう……」
そう言って背後に立つ緑風子は、鍾離灼の首筋に触れると経絡を突いた。それは脳への血流を止める物。このまま意識が遠のき、苦しむ事もなく眠る様に闇に落ち、そのまま目覚めない。
鍾離灼は、己の今までの人生が頭の中で駆け巡った。走馬灯という物か。
自身の生家で怪物と揶揄されながらの監禁生活。その後に求仙道に引き取られてからの修行時代。そして出会った年若い師叔。天才児と言われて持て囃されていた少年。
近づけば比較される。何かあれば自分が悪者にされる。だから距離を置いていたのに、何故かいつも自分に近づいてくる。悪意の無さそうな笑顔で。
師父であり、実父でもあった鍾離玄を殺害して逃亡した後も、追いかけて来たのは緑風子だった。
どこまで逃げても、あの笑顔のままに追いかけて来る。あいつを殺さないと、俺は自由にはなれない。
だが最後の最後まで、勝つ事が出来なかった。あの天才には……。
そうして鍾離灼は地面に倒れ伏し、それまで淡い光を放っていた地面の八卦図から光が消えた。それは術者が死んだ事を意味する。
そして事を終えた緑風子の幻影も消えた。鍾離灼の背後に立っていた幻影が……。
血を流して地面に伏した緑風子は顔を上げると、息絶えた宿敵へと近づいていく。切り刻まれた右足を引きずるように、左腕を失い、残った右腕だけで、地面を這うように。
鍾離灼が霊符を排除するであろう事は緑風子とて分かっていた。だから霊符を貼った石をそれに混ぜて転がしていたのだ。そのままの霊符を囮にして。
だが敵の術式の中で幻影を出す事は出来ても、本体と幻影を入れ替える事は流石に出来ない。鍾離灼もそこまで間抜けではない。
だから緑風子は本体を囮にしたのである。勝利するにはそれしか手が無かったのだ。
満身創痍で生き残った緑風子は、傷を負う事なく眠る様に死んでいった鍾離灼の隣に並ぶと、開いたままのその瞼を右手で閉じさせた。
宿敵との戦いを終えた緑風子の表情に、笑みなど浮かんでいなかった。悲しみの涙を流していた。
彼にとって鍾離灼は、宿敵ではあったが、仇敵ではなかった。
「今更言っても信じないだろうけどさ。僕はずっと、あなたに憧れてたんだよ……」
物心ついた頃から、道術の才能を見出された緑風子は、己の意思で道士になったわけではなかった。天才児として褒め称えられ続けた彼は、大人たちに望まれるがままに、ただ天才児を演じ続けていたのだ。
だが本人の意思と関係なく、こうあれと望まれた人生を、望まれた姿で生きるのは、もはや奴隷と何が違うのか。
そんな緑風子の目には、いつも集団の端で斜に構えていた白髪の少年が特別に見えた。その少年に憧れ、幼心に兄代わりになって欲しいという思いがあった。
だから嫌がられても彼に話しかけた。成長するにつれ、彼の真似をするようになっていた。本心を出さぬ作り笑顔で皮肉を言う姿が、カッコいいと思っていたから。
だがそうした自分の行動の全てが、彼を心底から傷つけていたと気づいたのは、もっと後になってから……。
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ならば自分の手で決着を着けよう。他の者の手ではなく、自分の手で。いつか憧れた兄を……。
それもこうして終わった。
穏やかな死に顔の鍾離灼の隣で、自分も並ぶように倒れ込んだ緑風子は、そのまま空を見上げる。
この霧ももうすぐ晴れる。
自分の役目は終わった。
趙英たちならば、きっと大丈夫だろう。
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