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それから2年後。俺と美桜の間に子どもが生まれた。元気な女の子だ。桜が咲く前の、暖かくなる時期に生まれたその子に、「若菜」と名付け、大切に育てた。
若菜は美桜に似て、無邪気でおてんばな子に育った。毎年家族で展望台へ花見に来たときは、母娘そろって元気よく駆け回り、俺はいつも勢いで落ちてしまわないかとハラハラさせられる。でも、思っていた通り、家族三人で見る桜は本当に綺麗だった。
就活での一件があってから、毎年桜を見に来るたびに散りたがっていた美桜。散る桜を見ながら、見せていたあの儚げなまなざしは、きっと幸せが終わってしまうことへの恐怖だったのだろう。
いつ散ってしまうのかわからない桜の花のような不安定な美桜だったが、若菜が生まれてからはその不安定さはなくなった。"散りたい"と言わなくなった。
愛情をもらっていた立場から、今度は愛情を与える立場になった美桜。子を持つ親として、いろいろと考えが変わったのだろう。若菜の存在が、美桜の中で"ずっとこの先も続く幸せ"として根付いたのだ。美桜がずっと抱えていた、幸せが終わってしまう恐怖は、すっかり消え去ったように思う。
美桜の心境は大きく変わっていったものの、彼女の笑顔は、あの時の、俺は恋に落ちた時の笑顔に戻っていた。自分は幸せだと信じて疑わない、強く明るい笑顔。
あぁ、君にはその、散ることを恐れず咲き誇る、満開の桜のような笑顔が一番似合うよ。
そして何十年という長い長い年月が経った。俺と美桜は幸せな人生を歩んできた。
もちろん、ずっと順調だったわけじゃない。時には苦しいことも、辛いこともあった。だけど、そんな困難は、俺たちで築き上げてきた幸せの前には、小さなことだったように思う。
そして、そんな俺たちの長い人生にも、終わりを告げるときが来た。
先に弱っていったのは美桜だった。桜の木が良く見える美桜の部屋で、彼女は最期の時間を過ごしていた。
庭に植えた桜は、今年も綺麗に咲いている。優しい風が、その桜の木から花びらを一枚さらってきた。その花びらは、美桜の部屋の窓からふわりと入ってきて、俺の手の甲へと舞い落ちた。美桜は、寝たままの状態で、優しくほほ笑みながら、そばで座っている俺の手とその花びらを、しわだらけの弱々しい綺麗な手でそっと握った。
「結局私は、最期まで生きてきたんだね」
弱々しい美桜の声。もう最期が近づいてきているのは、俺も美桜も分かっていた。これが美桜の最期の言葉になるのだろう。だから、聞き逃さない様に。俺は美桜の手を握り返して、静かに彼女の言葉を聞いた。
「私は何度も何度も散ろうとした。枯れるのが怖くて、綺麗じゃないまま死ぬのが嫌で。綺麗なまま咲いて散る桜に、ずっとなりたいって思ってた。自分の幸せの限界を決めつけて、最高に幸せだって、だから今散るのが最高の終わりだって。何度もそう言って、あなたを困らせてた。だけどあなたは、その度に、私の幸せの限界は今じゃない、と。満開の桜は今じゃない、と、何度も何度も散ろうとしている私を咲かせてくれた」
「うん」
美桜の言葉に、俺はゆっくりとうなずいた。
「ねぇ。私は桜に……満開の桜になれたかしら。綺麗なまま咲いて、綺麗なまま散っていく桜に……なれるかしら」
それは、ずっと美桜が叶えたいと思っていた願いだった。綺麗に咲いて、綺麗なまま散っていく桜に、そんな桜のように生きたいという、願い。
美桜の願いは何でも叶えようと、これまでずっと支え、尽くしてきた。だけど、この願いだけは、俺はずっと叶えずにいた。まだ叶えてはならないと、それだけはずっと否定してきた。
この瞬間のために。
「美桜。君は今、最高に美しい桜だよ。満開の桜だ」
美桜、君の願いはようやく叶う。最高の幸せの中、最高に美しい君のまま、最高の最期を。
「よかった。私、ようやく散ることができるのね」
「うん」
「あなたにね、ずっと言いたかったことがあるの」
「うん。聞かせて」
「あなたは桜の樹のようだなってずっと思ってた。毎年、綺麗な桜の花を咲かせる、大きな樹。あなたがいたから、私はここまで咲き続けられた。ありがとう、大樹」
その言葉に、こらえていた涙が頬を伝う。覚悟はできていたし、最期は笑顔で別れを告げようと決めていた。泣かないと決めていたのに、彼女の言葉を聞くと、とめどなくあふれてきた。
そんな俺に、美桜は優しく笑いながら、最期の言葉を紡いだ。
「先に、散るね。美しいままで。愛しているわ、大樹」
あふれる涙をそのままに、俺も優しく笑い返した。
「あぁ。愛してる。おやすみ、美桜」
桜のように散りゆく君へ。
君は最期まで、最高に綺麗だったよ。
俺の隣で、ずっと満開の桜でいてくれてありがとう。
君は枯れることを恐れていたね。
桜を失った樹は、枯れゆく運命だけど。
君を想いながらゆっくり枯れていくのもね。
悪くないよ。
『桜のように散りゆく君へ』
完
若菜は美桜に似て、無邪気でおてんばな子に育った。毎年家族で展望台へ花見に来たときは、母娘そろって元気よく駆け回り、俺はいつも勢いで落ちてしまわないかとハラハラさせられる。でも、思っていた通り、家族三人で見る桜は本当に綺麗だった。
就活での一件があってから、毎年桜を見に来るたびに散りたがっていた美桜。散る桜を見ながら、見せていたあの儚げなまなざしは、きっと幸せが終わってしまうことへの恐怖だったのだろう。
いつ散ってしまうのかわからない桜の花のような不安定な美桜だったが、若菜が生まれてからはその不安定さはなくなった。"散りたい"と言わなくなった。
愛情をもらっていた立場から、今度は愛情を与える立場になった美桜。子を持つ親として、いろいろと考えが変わったのだろう。若菜の存在が、美桜の中で"ずっとこの先も続く幸せ"として根付いたのだ。美桜がずっと抱えていた、幸せが終わってしまう恐怖は、すっかり消え去ったように思う。
美桜の心境は大きく変わっていったものの、彼女の笑顔は、あの時の、俺は恋に落ちた時の笑顔に戻っていた。自分は幸せだと信じて疑わない、強く明るい笑顔。
あぁ、君にはその、散ることを恐れず咲き誇る、満開の桜のような笑顔が一番似合うよ。
そして何十年という長い長い年月が経った。俺と美桜は幸せな人生を歩んできた。
もちろん、ずっと順調だったわけじゃない。時には苦しいことも、辛いこともあった。だけど、そんな困難は、俺たちで築き上げてきた幸せの前には、小さなことだったように思う。
そして、そんな俺たちの長い人生にも、終わりを告げるときが来た。
先に弱っていったのは美桜だった。桜の木が良く見える美桜の部屋で、彼女は最期の時間を過ごしていた。
庭に植えた桜は、今年も綺麗に咲いている。優しい風が、その桜の木から花びらを一枚さらってきた。その花びらは、美桜の部屋の窓からふわりと入ってきて、俺の手の甲へと舞い落ちた。美桜は、寝たままの状態で、優しくほほ笑みながら、そばで座っている俺の手とその花びらを、しわだらけの弱々しい綺麗な手でそっと握った。
「結局私は、最期まで生きてきたんだね」
弱々しい美桜の声。もう最期が近づいてきているのは、俺も美桜も分かっていた。これが美桜の最期の言葉になるのだろう。だから、聞き逃さない様に。俺は美桜の手を握り返して、静かに彼女の言葉を聞いた。
「私は何度も何度も散ろうとした。枯れるのが怖くて、綺麗じゃないまま死ぬのが嫌で。綺麗なまま咲いて散る桜に、ずっとなりたいって思ってた。自分の幸せの限界を決めつけて、最高に幸せだって、だから今散るのが最高の終わりだって。何度もそう言って、あなたを困らせてた。だけどあなたは、その度に、私の幸せの限界は今じゃない、と。満開の桜は今じゃない、と、何度も何度も散ろうとしている私を咲かせてくれた」
「うん」
美桜の言葉に、俺はゆっくりとうなずいた。
「ねぇ。私は桜に……満開の桜になれたかしら。綺麗なまま咲いて、綺麗なまま散っていく桜に……なれるかしら」
それは、ずっと美桜が叶えたいと思っていた願いだった。綺麗に咲いて、綺麗なまま散っていく桜に、そんな桜のように生きたいという、願い。
美桜の願いは何でも叶えようと、これまでずっと支え、尽くしてきた。だけど、この願いだけは、俺はずっと叶えずにいた。まだ叶えてはならないと、それだけはずっと否定してきた。
この瞬間のために。
「美桜。君は今、最高に美しい桜だよ。満開の桜だ」
美桜、君の願いはようやく叶う。最高の幸せの中、最高に美しい君のまま、最高の最期を。
「よかった。私、ようやく散ることができるのね」
「うん」
「あなたにね、ずっと言いたかったことがあるの」
「うん。聞かせて」
「あなたは桜の樹のようだなってずっと思ってた。毎年、綺麗な桜の花を咲かせる、大きな樹。あなたがいたから、私はここまで咲き続けられた。ありがとう、大樹」
その言葉に、こらえていた涙が頬を伝う。覚悟はできていたし、最期は笑顔で別れを告げようと決めていた。泣かないと決めていたのに、彼女の言葉を聞くと、とめどなくあふれてきた。
そんな俺に、美桜は優しく笑いながら、最期の言葉を紡いだ。
「先に、散るね。美しいままで。愛しているわ、大樹」
あふれる涙をそのままに、俺も優しく笑い返した。
「あぁ。愛してる。おやすみ、美桜」
桜のように散りゆく君へ。
君は最期まで、最高に綺麗だったよ。
俺の隣で、ずっと満開の桜でいてくれてありがとう。
君は枯れることを恐れていたね。
桜を失った樹は、枯れゆく運命だけど。
君を想いながらゆっくり枯れていくのもね。
悪くないよ。
『桜のように散りゆく君へ』
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桜が紡いだ2人の物語、とても感動しました。
読んでいて情景が頭の中で映像で浮かぶような、この物語を間近で見て追体験しているような気持ちになりました!
登場人物の複雑な気持ちもわかりやすく、つい感情移入して読んでしまいます。相手を気持ちや考えを尊重し、思いやる気持ちの大切さを考えさせられ、心動かされました。
他の方にも読んで欲しいので、ここで内容は触れられませんが、素敵な時間をありがとうございました!
応援しています!