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序章
溢れた花
しおりを挟む体調が悪いのだと思っていた。
梅雨時は気をつけていても体調を崩しやすいと言うし、湿度や気温の上昇で免疫力が落ちて、それで胃の調子もすぐれないんだと。
退勤直後から自覚していた胃のむかつきの原因は、それだけのことだと簡単に片づけていた。
「……嘘、だろ」
目の前の〝ある物〟を凝視し、乃亜は震え声を零す。
「どうして?」
今日はいつもより昼休憩に入るのが遅れた。空きっ腹に唐揚げ弁当を急いで詰め込んだのが悪かったのだと反省をしていた。
だが、自宅に帰り着いてすぐ、買ってきた僅かな食材を冷蔵庫に入れてる途中で突然もよおした吐き気の産物は、そんな反省とは全く関係の無いものだった。
「これは……」
ワンルームマンションとはいえ、突然の吐き気にトイレまで走るのは間に合わないと、冷蔵庫の横の小さなシンクで水を流しながらの嘔吐だった。
食道から喉へ。せり上がってきたものを吐き出しただけ。
だが、とんでもない不快感とともに乃亜の口から溢れ落ちたのは、当然そうだと思っていた吐瀉物ではなかった。
「……花?」
ピンクとオレンジ。細い茎に、ぷくっと丸い小さな花が密集している、名前も知らない花が二本。ミニシンクの中で流水に晒されている。
信じられない。信じたくない。
けれど、これが現実だということは、自身の体調と眼前の花が示している。
「まさか、発病した? でも、なぜ?」
おさまらない不快感に胃を撫でつつ、乃亜の思考は千々に乱れる。
この状況に心当たりはある。花を吐いたのは、発病したから。自分は花吐き病を発症したのだと、乃亜は理解した。が、その理由がわからない。
花吐き病は、叶わない片想いを拗らせた者が、どうしようもない恋心を花という形で嘔吐する。
正式名称は、嘔吐中枢花被性疾患。病として認識された始まりは室町時代で、以来、現代まで罹患者が絶えない奇病。絶えるわけがない。片想いが原因の病なのだから。
だが、女性恐怖症とまではいかないにしても、異性に対して少なからずトラウマがある自分がまさか花吐き病を発症するとは、と、乃亜は狼狽しきりだ。
ミニシンクの縁を握って立ち尽くしたまま、なぜ、と自問を続けてしまう。
花吐き病は、罹患者が吐き出した花に接触すると感染する。乃亜には、その記憶があった。
彼が中学三年生の時、目の前で女生徒が花を吐いた。花吐き病のことは知識として知ってはいたが、実際に目の当たりにするのは初めてだった彼はひどく動揺し、恥ずかしいことに腰がぬけてしまった。
花を吐いた女生徒は卒業する乃亜にどうしても告白したかったらしく、その場にしゃがみ込んでしまった彼に近づき、至近距離でまた花を吐いた。少女が吐いた赤いチューリップの花弁は春風とともに乃亜の手に乗り、その時、彼女と同じ病に感染した。
それから十七年。感染者ではあったが、一度も花を吐くことは無かった。
感染時のトラウマは、以来、異性と深く付き合う機会から逃げ出す選択を乃亜にさせた。
細面の穏やかな風貌、温厚な気性に好意を抱いてくれる女性も幾人か現れたのだが、誰にも心を寄せることなく研究に没頭するうちに、三十二歳になっていた。
「なんで? どうして……」
このまま、恋愛から縁遠いまま、自分は独身を貫く。きっとそうなるだろうと漠然と思っていたのに、なぜ、ここに来て発病してしまったのか。
わからない。わからない。
自分が花を吐いたという現実に、乃亜の混乱と動揺は止まらない。
誰を想って、花を吐いた?
全く心当たりがない。
花を吐かずにはいられないほど、いったい誰を?
自分が吐き出したパステルカラーの花を見つめ、ただただ呆然とする他なかった。
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