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壱
鹿の鳴く丘で 【一】
しおりを挟む――きゅいんっ、きゅうぃーん
独特な甲高い鳴き声を聞かせてくれる鹿の群れが、今日も丘に集まってくる。
風に乗って薫るのは、辺り一面に咲き誇る萩の花が放つ芳香。
紅紫に白。鹿の全身を隠すほどに鬱蒼と咲き揃った花々を、その頭を振ってかき分けて進み、軽快に跳ねる鹿たちのなんと愛らしいことだろう。
ともに駆けたり、角を突き合わせたり。互いの鳴き声を共鳴させ合ったり。どれだけ見ていても飽きない。
「うふふっ。本当に可愛らしい子たちですねぇ」
微笑ましいその様子を、丘の頂上に根を張る大きな楡(にれ)の木にもたれ、のんびりと眺めるのが、私の毎朝の日課。
「さて、今日はどうしましょう。そろそろ冬支度の染め物もしなくてはいけませんが……では、柘榴(ざくろ)でも採りに行きましょうか」
「――そこの御方」
――びくんっ
誰も居ない、他人が訪れるはずのない丘の上で、すっかり気を緩めて放っていた独り言の最中。突然掛けられた声に、ぴんっと背筋が伸びる。
「どなた、ですか?」
張りのある良く通る声が飛んできた元を驚きとともに辿れば、鹿の群れとは逆の坂から萩をかき分け、進みいでる人物が見えた。
「……あっ……」
知らず、口元に手が伸びる。
ひんやりと残る、白き朝靄の中。朧げに滲む曙光を浴びた姿の凛々しさに、思わず息をのんだ。
なんて、麗しいお方なの――?
「済まないが、この近くに泉はないだろうか。こいつに水を飲ませてやりたいのだが」
清澄な朝の空気の中、向けられた涼やかな笑み。『こいつ』と、引き連れた馬を指しながら近づいてくる姿に、慌てて立ち上がる。
「あ、はい。それなら、あちらの小径(こみち)を抜けたところに……きゃっ!」
「危ないっ!」
慌てたせいで、地にはみ出していた木の根に気づかず、つまずいてしまった。
「大丈夫か?」
傾いだ身を支え、転ぶ寸前で助けてくれた人の声に、思わず顔を上げれば。
「はい……あ、ありが……」
思っていたよりも近く、すぐ目の前に相手の顔が迫っていたために、驚きのあまり御礼の声が小さくしぼんでいく。
驚いたのは、相手との近さだけではない。今まで、こんなに美しい男性を見たことがなかったから。
「どうされた? どこか怪我でも?」
「あ、いえ……申し訳、ありません」
気がつけば、相手の腕にすがったまま、至近距離で見つめ合っていた。
意志の強さが見てとれる、きりりとした眉に、切れ長の瞳。
力強い光を放つその瞳に捕らわれ、刹那、呼吸が止まる。
目が、離せない。
――とくんっ
胸の奥で、鼓動が甘く軋んだ。
けれど、見知らぬ御方にいつまでもすがりついているのは、大変な非礼。
「ありがとう、ございました」
目線を外せないまま小声で御礼を述べ、すがっていた指の力をそっと抜く。これで、これ以上失礼にならずに離れられると、ほっとした。
「え?」
それなのに、顔の近さは変わらない。
「あの、お手を……」
互いの距離が近いままなのは、相手が自分の肩と背中に添えた手をそのままにしているからだと、ようやく気づいた。
「あのっ……」
再び声をかけるけれど、目の前の人物は、まるで何も聞こえていないかのように微動だにしない。
それどころか、肩を掴まれた指に力が込められ、さらに相手の顔が眼前にまで迫ってきた。
じっと覗き込まれ、視線が絡まり合う。
「あ、あの……あのっ」
その瞳に宿る強い光に、鼓動が速まる。
身体を引き、こちらから離れなければいけないとわかっているのに、告げるべき言葉も上手く出てこない。
ど、どうしましょう。私、どうしましょう。
どうしたことか、頬まで熱くなってきているのです。いったい、どうしたら……。
――ひひぃぃーんっ!
「……っ! きゃあっ!」
突然、真横で大きな嘶(いなな)きを上げた馬に驚き、困惑は一気に消え去る。
「あぁ、済まない」
びくんっと背筋を伸ばし、叫んだ私に謝罪した人の指は、すぐに離れていった。
「こいつめ。喉が乾いて我慢できなくなったようだ。では、泉への案内を頼めるだろうか」
先程までの強い光から一転、柔らかく包み込むような笑みが向けられる。
「あ、はい。あちらでございます」
肩から指は離れたけれど、背中に回された手はそのままに、ともに歩き出すように促された。
……この御方の手、とても温かいわ。
少し強引な素振りにも関わらず、背に感じる温もりには、嫌悪感など微塵も湧いてこない。
手だけではない。この御方、纏う空気がとても温かいのだもの。
そっと見上げた端整な横顔に、知らず、口元を綻ばせている自分が居た。
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