3 / 8
壱
鹿の鳴く丘で 【二】
しおりを挟む「まぁ、とても喉が乾いていたのですねぇ。こんなに美味しそうに飲んで」
「そのようだな。今朝は、いつもよりも遠出をしたいと思いついてしまったから、こいつには少々きつかったのかもしれない」
案内した泉のほとりで、美味しそうに水を飲む馬をともに眺めながら、男性と言葉を交わす。
初めて会う方なのに、とても話しやすいわ。
ふと、乳姉妹の真古奈(まこな)が常々言っている、粗野な男性たちの話を思い出した。その男性たちは、言葉遣いも振る舞いも、とても荒々しいのだという。
「この辺りは、静かだな。それに、吹く風がなんとも心地良い」
けれど、そよ風に目を細めて木々を見上げるこの御方には、そのような粗暴さは感じられない。
木漏れ日を受けながら話す声は穏やかで、笑みは涼やかだ。
そして、それは決してなよやかなものではなく。浴びる陽光の中で、尚、輝くような存在感に、失礼ながら、つい見惚れてしまうほど。
言葉の端々に、人に命令し慣れている者独特のものを感じ取れるけれど、不快に思うほどではないもの。
身に着けておられる衣服の布地も、ひと目で手の込んだ織りの高価な品だとわかる。
この辺りには初めて来たとおっしゃっていらしたし、私には縁のない、中央のお血筋の御方なのでしょう。
きっと、もう二度とお会いする事はない御方。
水を飲み終えた馬に慈しみの目を向け、首筋を撫でているお姿を見ながら、『もう、会えない』と心中で呟く。
「……あ」
その途端、きゅうっと胸が締めつけられた。
「さて、そろそろ戻らねば」
「……っ」
胸の痛みに顔を強ばらせてしまったその時、男性がこちらを振り返った。
……もう、お別れなのですね。
きゅっと、再びせつない音を奏でた胸の痛みに気づかないふりで、笑顔を浮かべる。
「お帰りの道のり、お気をつけられますよう」
一瞬だけ目を合わせ、すぐに瞼を伏せる。左右の袖に交差させた手を入れて胸元に掲げ、貴人への礼節をもって深く頭を下げた。
このまま、立ち去ってください。
私が、この胸の痛みの意味に名前をつけてしまう前に。どうか、このまま――。
「名を――――あなたの名を、教えてもらえないだろうか」
けれど、相手は立ち去るどころか、名前を尋ねてくる。
「私は、名をお伝えする程の者ではございません」
どうか、このままお立ち去りを。
続く言葉を飲み込み、頭(こうべ)を垂れたまま答えることを拒んだ。
「わかった」
すぐに発せられた諾了の返答に、ほっと気を緩めた瞬間。
「……あっ」
両の袖に入れていた手が、手首ごと掴まれた。
「女人(にょにん)に、先に尋ねてしまった私が悪かった」
持ち上げられた袖から覗いた指先に、相手の指が絡む。
「私のほうから先に名乗るべきだった。気が利かず、済まない。私の名は――――だ」
――ぴくんっ
「……あ……」
聞き間違い、でしょうか。今、聞かされた御名(みな)は、まさか……。
「さて、私は名乗ったぞ」
「……っ、あの……」
どうしましょう。 絡めた指先の向こうから向けられる涼やかな目線に、どう答えれば良いのか。頭の中が整理できずに、唇だけが震えるばかり。
まさか、私でも存じ上げている高貴な御方の御名を聞かされるとは、思ってもみなかったのです。
たった今、聞かされた御名。それは、この国の大君(おおきみ)様に一番近いとされる尊きお血筋――――そこに名を連ねておられる皇子(みこ)の名、だった。
「あなたの名も、どうか聞かせてほしい」
「あ、あの。どうか、それだけは……名を名乗ることだけは、御容赦くださいませ」
震える唇から、かろうじて紡いだ言葉も震えていた。
私の名を、高貴なあなた様がご存知であるはずはないけれど。両親を亡くし、家人(けにん)に助けられることでようやく日々を暮らしている傍流の血筋の女だとは、どうしても知られたくないのです。
「なぜ? 何故、そのような表情をなさる?」
つと、皇子様の手が、頬に触れた。
「泣くほどに……そのように、つらそうな表情をなさるほどに、私に名を知られたくないということか?」
……え? あ……私、いつの間に涙を流していたのでしょう。
目元に触れる親指の優しい感触で、自分が泣いていたことに初めて気づいた。
「明日、また来る。先程の丘で待っていてくれ。あの楡(にれ)の木の前で」
「あ……」
目尻に唇が押し当てられ、ちゅっと軽い感触を残して涙が吸い取られた。
「その時、気が変わったら私に名を教えてほしい。嫌なら、名乗らずとも構わぬ。が、笑顔だけは見せてくれ」
しっとりと落ち着いた声色。精悍な眼差し。慈しみに溢れた笑み。
無意識に身を預けたくなるような、居心地の良さ。
向けられる全て、感じる全てに、どうしようもなく心が持っていかれる。
「あなたの笑顔を見るためだけに、明日また来る」
別れ際に告げられたこの言葉が、揺れていた心に決定的なものを埋め込んだ。
私も、お会いしたい。もう一度。
皇子様。あなたに、会いたい!
10
あなたにおすすめの小説
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
自信家CEOは花嫁を略奪する
朝陽ゆりね
恋愛
「あなたとは、一夜限りの関係です」
そのはずだったのに、
そう言ったはずなのに――
私には婚約者がいて、あなたと交際することはできない。
それにあなたは特定の女とはつきあわないのでしょ?
だったら、なぜ?
お願いだからもうかまわないで――
松坂和眞は特定の相手とは交際しないと宣言し、言い寄る女と一時を愉しむ男だ。
だが、経営者としての手腕は世間に広く知られている。
璃桜はそんな和眞に憧れて入社したが、親からもらった自由な時間は3年だった。
そしてその期間が来てしまった。
半年後、親が決めた相手と結婚する。
退職する前日、和眞を誘惑する決意をし、成功するが――
【完結】これはきっと運命の赤い糸
夏目若葉
恋愛
大手商社㈱オッティモで受付の仕事をしている浅木美桜(あさぎ みお)。
医師の三雲や、経産省のエリート官僚である仁科から付き合ってもいないのに何故かプロポーズを受け、引いてしまう。
自社の創立30周年記念パーティーで、同じビルの大企業・㈱志田ケミカルプロダクツの青砥桔平(あおと きっぺい)と出会う。
一目惚れに近い形で、自然と互いに惹かれ合うふたりだったが、川井という探偵から「あの男は辞めておけ」と忠告が入る。
桔平は志田ケミカルの会長の孫で、御曹司だった。
志田ケミカルの会社の内情を調べていた川井から、青砥家のお家事情を聞いてしまう。
会長の娘婿である桔平の父・一馬は、地盤固めのために銀行頭取の娘との見合い話を桔平に勧めているらしいと聞いて、美桜はショックを受ける。
その上、自分の母が青砥家と因縁があると知り……
━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
大手商社・㈱オッティモの受付で働く
浅木 美桜(あさぎ みお) 24歳
×
大手化粧品メーカー・㈱志田ケミカルプロダクツの若き常務
青砥 桔平(あおと きっぺい) 30歳
×
オフィスビル内を探っている探偵
川井 智親(かわい ともちか) 32歳
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
あの素晴らしい愛をもう一度
仏白目
恋愛
伯爵夫人セレス・クリスティアーノは
33歳、愛する夫ジャレッド・クリスティアーノ伯爵との間には、可愛い子供が2人いる。
家同士のつながりで婚約した2人だが
婚約期間にはお互いに惹かれあい
好きだ!
私も大好き〜!
僕はもっと大好きだ!
私だって〜!
と人前でいちゃつく姿は有名であった
そんな情熱をもち結婚した2人は子宝にもめぐまれ爵位も継承し順風満帆であった
はず・・・
このお話は、作者の自分勝手な世界観でのフィクションです。
あしからず!
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
背徳の恋のあとで
ひかり芽衣
恋愛
『愛人を作ることは、家族を維持するために必要なことなのかもしれない』
恋愛小説が好きで純愛を夢見ていた男爵家の一人娘アリーナは、いつの間にかそう考えるようになっていた。
自分が子供を産むまでは……
物心ついた時から愛人に現を抜かす父にかわり、父の仕事までこなす母。母のことを尊敬し真っ直ぐに育ったアリーナは、完璧な母にも唯一弱音を吐ける人物がいることを知る。
母の恋に衝撃を受ける中、予期せぬ相手とのアリーナの初恋。
そして、ずっとアリーナのよき相談相手である図書館管理者との距離も次第に近づいていき……
不倫が身近な存在の今、結婚を、夫婦を、子どもの存在を……あなたはどう考えていますか?
※アリーナの幸せを一緒に見届けて下さると嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる