君に何度でも恋をする

明日葉

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第3章 空白の時間

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 あの日から、何年経っただろう。
 そう思い返そうとして、翔は自嘲気味な笑みを浮かべた。自分の思考の中ですら、誤魔化すように空々しい。何年、などと。忘れたことなどない。はっきりと記憶している。6年が既に経過していた。
 指の間からすり抜けて行くように花音と隼人の行方がしれなくなったすぐ後、翔には大きな仕事が舞い込んでいた。
 連絡がつく土師の家からは、翔の仕事の邪魔になることで、世間から非難されることが怖いから、もう会わないと、そう、花音が自分の家族に説明してあるということだけ聞き出せた。なるほど、それであれば花音が去った理由を家族に説明し、しかも翔が悪者にならずに済むとでも思ったのだろうか。
 そして、翔の周りには、だれも花音の居場所を教えてくれるものもいなかった。
 大きな仕事、は、長期間日本を離れるもので、その前にきちんと話をしたいと思っていたのだが。そして、長く時間をおきすぎたのか、翔は帰国しても花音を探す気力が湧かなくなった。仕事が忙しかった、というのはきっと言い訳だろう。
 ただ、郵便受けに入っていた、記入済みの離婚届に傷つき、そして、そのままにしてあった。それを出さずにいるということは、花音は自分とつながったままだということ。他の誰のものにもなれないということ。
 それが、小さな子供たちを抱えているはずの彼女にとって、どういう意味なのだろう、と考えても、分かるはずもなかった。
 本当にこれを出して欲しいのなら、一度会いに来い、と、挑戦的に思い。そして、向こうから会いに来ない限り、探さないのだと決めた。



 その建物に入る前に、癖のように翔はポケットの中のものに触れた。
 縮緬の守袋は、その中身を持ったまま動こうとしなかった翔に呆れ果てたように、妹が作って寄越したものだ。
 中身は、切れたチェーン。
 都内でも最大震度5強を記録したあの日。その頃は海外での仕事が多く、たまたま帰国して事務所にいた。非常階段を降りる途中で目に入った光るもの。
 足を止める余裕もないほどに表面とは裏腹に頭の芯から冷え切って思考が固まり、流れに従って動いていたはずなのに。目に入った瞬間に足が止まっていた。
 後ろから降りてくる人の波を堰き止めながら、思わず手を伸ばして拾う。決して、特別ではない、ありふれたシルバーのチェーン。だが、見慣れたそれは、身につけていなければ落ち着かなくなっている自身のペンダントと同じデザインで。
 そして、よく見れば、古い血のようなものがついて見える。
 とっさに、まさか、と頭を過ぎる不安。
 身勝手に姿を消したのではないのか、と。その身に何かあったのか、と。
 そんな発想が頭をよぎり、一気に血の気が引いた。それから、冷静になる。
 何年経っていると思うのだ、と。その間、何度ここが掃除され、人が通ったか。ずっとここにあったというのか。そして、この血のようなものが、そんなに何年も前のものだというのか。
 そう思うのに手離せないまま。
 最後に降りてきた副社長の速水に腕を掴んで立たされ、初めてそこにしゃがみ込んでいたことに気づく。何人もの声に上の空で返事をして。
「何をしているんだ。翔、行くぞ」
 立たせた翔の手が握っているものに目をやり、速水が目を細めるのがわかった。こんな物に気を取られて呆けているのがよほど珍しかったのかと判断し、翔は薄っすらと笑った。
 それをポケットに突っ込み、やがて帰宅して、レンの無事に安心して。そして、テーブルの上に置いて、考え込んだ。関わりある人たちの無事を確認するのにも一苦労な状況で。弟妹たちの無事はそれでもすぐに確認できたのが救いだった。
 ようやく意を決して花音に電話をかけるが、電源が入っていないのか、つながらない。あちこちで停電が起きている。それを考えれば、仕方なかったのかもしれない。



 自分のものと対になる物だという確証はないのに、なぜかそう思えて、結局ずっと持ち歩くようになっていた。それを見つけた時の疑念を解消するように動くでもなく、ただ、持っているだけ。それに呆れた妹の冷たい声が聞こえるようだ。
「ただ、こわいだけでしょ」
 と。何年も目を逸らして、探す勇気もないまま言い訳をしていた自分が何か取り返しのつかない時間を過ごして無駄にしたかもしれないと、それを知るのが怖いのだろう、と。
 目の前にあるのは、今度の撮影に協力する自治体の市庁舎。活動の中心を日本に戻してから最初の、主演ドラマの撮影。
 そしてここは、花音の地元。地元にいないことは、姿を消した時に確認していた。
 婚姻届を出したことで、花音の現住所は調べれば分かるようになった。が、分かったことは、花音がずっと住所を動かしていなかったということだけだ。つまり、そこから探る方法がない。花音の実家に聞いても、居場所の答えは得られなかった。知らない、と。本当に知らないのか、知っていて黙っているのかも分からないし、どうでも良いような、そんな気がしてしまっていた。
「お待たせしました。もうすぐ終業時間になりますので。そのあとでエキストラの依頼を事前にしてある職員が残って参加します。時間までお待ちいただける部屋にご案内します」
 広報の担当だという青年が近づいてきて翔と、一緒にいた浅井、そして何人かのスタッフを案内する。他のスタッフや出演者はまだ来ていないか、既に来て部屋に待機しているらしい。



「なんでだよぅ!!」
 少し間延びした、だが、あきらかな怒りを孕んだ大声が耳に入り、全員が声の方に目を向けた。とっさに浅井が声のした方と翔の間に入り守るような態勢になる。
 税務課、と書かれた看板のある窓口のところで、大柄な初老の男が立ち上がって怒鳴っていた。上下薄汚れたジャージを着ている。胡乱な気配に翔は眉を顰めた。
「あー」
 案内をしていた職員がため息のような声を漏らす。
「知っている人ですか?」
「まあ、前にいた課で関わっていた人です。福祉関係のところで」
 今にも手をあげそうな雰囲気の男性と向き合っているのは、がっしりした体躯の強面の翔と年が変わらないような若い男性職員と、まだ20代前半と思われる男性職員の2人。男性が思い切りよく窓口の机を殴り、一気に緊張が高まったところで、不意にどこかから声が割って入った。騒ぎで職員が様子を見にきていたが、その人混みの後ろから「こら」という穏やかな声がして、ちょっとすみません、と言いながら前に出てきた女性に、はっと、翔の全身に緊張が走った。隣で、浅井も息を呑んでいる。
 今にも殴りかかりそうだった男性が、その声に振り返り、そのまま、憮然とした顔になった。
「なんだよぉ」
「なんだよう、じゃないですよ。何してるんですか」
「だってこいつら、おれの金、とろうとするから」

「あ、よかった。花音さん」
 翔の近くで、案内していた男が呟くのを聞き、翔の代わりに浅井が聞き返した。
「よかった?」
「彼女も、前にわたしがいた課で一緒だったんです。彼女の言うことはあの人、わりと聞くので」
 たしかに、先ほどまでの緊張感はだいぶおさまり、間に入ってやりとりをしている。滞納していた税の徴収について、彼が理解できずに騒いでいた、ということのようで。
「誰かに一緒に来て話を聞いてもらえばよかったのに」
「誰もいなかった。話せるやつ」
「そうなの?みんな忙しいからねぇ」
「それに、おれの金、持っていく方が悪い。
「それは、払わなくちゃいけなかったお金でしょ?それが払えてないってことは、前にわたしがだめだよって言ったもの、こっそり買ったりしてない?」
「…でも、おれの…」
 平行線になりかけたのを止めるように、花音ははいはい、と笑って彼を一度黙らせる。素直にいうことを聞く様子は、大きな体を屈めた人の良いおじさんのようにしかもう見えない。
「彼に分かるように説明してあげてください。…同席しましょうか?」
「頼めるか?」
 強面の方が言えば、にっこりと花音は頷いた。まるで時間が経っていないかのように全く変わっていない様子に、翔は息を飲む。
 落ち着いて話せるように、別の部屋に行こうとそこを離れようとするのを思わず呼び止めようとして、翔は強く腕を掴まれた。
 振り返ると、撮影クルーでも何でもない、だが、見覚えのある男が険しい顔をして翔の腕を掴んでいた。
「なにを」
 何という名だったか。ライターだと記憶しているその顔を反射的に睨むが、それよりも翔の隣で、浅井が驚いた顔をしていた。


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