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幕間
抱き枕、交代
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がば、と起き上がると、すぐ側で驚いたように身を竦める動きに目をやる。
夢の延長。爛々とした眼光に驚き目を見開く栞里に気づき、ヴィルはゆっくりと意識的に呼吸をする。
獣の姿。翻るように悪夢から目覚めた体は、人の形を取っていたなら嫌な汗に塗れていたのだろう。
「お前が、起こしたのか?」
「起こした…かも。ごめん。うなされている気がして覗き込もうと思ったら」
今の状況か、と納得する。傍で人が動く気配に、悪夢で冴えた意識が覚醒したのだということは理解した。
「ヴィル?大丈夫?」
「ああ」
獣の姿。顔色など分かるはずもない。それなのに、心配するように覗き込む顔、ほっそりとした首筋。わずかに力を込めるまでもなく手を添えるだけでも壊してしまえそうな、小さき生き物。
荒い息を吐き出し、牙を剥くような口元と、周囲の全てを警戒するように動く耳、揺れる尻尾。そして冷え冷えとした鋭い目。昼間、栞里を取り囲んだ女性たちを追い払った時よりもさらに危険を感じている様子に、栞里は戸惑う。いつも通りに、寝ていただけなのに。
ふと、その目が栞里に真っ直ぐ据えられた。何も言われないことが、やけに居心地が悪い。何かを考えている様子なのに。
そう思っていたら、身を起こしていたヴィルがようやくベッドに伏せた。いつものように寛いで眠るような姿勢ではなく、警戒を怠らないような、腹を下にして伏せた状態で。
だが、ふと、その目が細められて、栞里は面食らう。
なんだか急に、悪巧みでもしているように見えて。
実際、ヴィルは我ながら良いことを思いついた、と思う。
悪夢は、最悪だった。しかも、過去の現実と、今の現実を夢は混在させてしまった。ヴィルが生きていた場所。ヴィルの自由を奪うために、思うがままに動かすために。力任せに引きちぎろうとしても千切れないような頑丈な鎖ではなく、引きちぎることを躊躇うような、真綿のような鎖で自由を奪われていた。
そして、夢の中で栞里もまた、ヴィルを今までのどの鎖よりも抗えない鎖として見つかってしまっていた。
あり得ない。
栞里があの場所にいるなど、叶うはずもないのだ。
それでも、今までの刷り込まれた経験に夢というもので上書きされれば、恐怖は植え付けられる。
安心していられるこの場所で、どのように眠ろうと。栞里に目が届きさえすれば、どのような位置関係だろうと、気にはならなかった。
それが、たったあれだけのことで。
一瞬の遅れもとりたくないと思えば、栞里に背を向けて眠る今の状態は違う、のだ。
寝ている間に、気づけばいつも気に入ったらしいヴィルの毛並みの手触りを求めて近づいている栞里に呆れた目を向けたとき、抱き枕、と栞里は言ったなと思い返す。
「シオリ」
「?」
伏せた獣のヴィルに改まって名を呼ばれ、栞里は小首を傾げる。
大きなヴィルは、伏せていても、ペタンと座った栞里の顔と顔の位置は近い。ほんの少し、首を伸ばせば届くほどに。
思わず、ぺろり、と長い舌で顔を舐めた。その、口元を。
甘いな、と、舐めた舌で自身の口周りを舐めれば、驚いた顔で固まっている栞里が目に映る。
思わず、どうした、と聞けば、どうしたじゃない、となんだか怒っている。何をと見ていれば、照れていることはわかって、思わずヴィルは喉の奥で笑ってしまう。
「何を慌てている。舐められたくらいで」
「なっ」
「親愛の情を示しただけだぞ。お前、成人しているんだろう」
「成人とか、関係ないでしょうっ」
顔を両手で覆って抱え込んだ両膝に項垂れている栞里の呟きを、良すぎる聴覚はしっかりと拾う。
キスしたことないのに。舐められるって、と。
その呟きが、迂闊なことこの上ないと分からないほどに、まあ男に慣れていないのだろうな、と笑いながら、重く考えるのを笑うようなことを言う。ヴィルにしてみれば、そのままでいいのだけれど。
「犬になど、しょっちゅう舐められているだろうが」
「ヴィルは犬じゃないでしょうっ」
言い返されたことに驚きながら、面白くなってヴィルは揃えられた栞里の爪先に、鼻先を乗せて見上げる。
「ああ。犬じゃない。だが、そんなに恥ずかしいなら、犬だと思ってしまえば気にならないだろうが」
できれば苦労しない、と、わずかに覗く目が睨んでくる。
実際、栞里は一度そう認識してしまったものを切り替える術を知らず、ヴィルに口元を舐められた、と言う現実にどんな顔をすれば良いのかもわからなくなっている。
それは、あんな外見なのだ。女性経験は豊富だろう。ここでもあっという間に、女の人たちが群がってきた。手慣れていて当たり前だ。なんだかもう、ひたすらに悔しくて恥ずかしい。
が、顔を上げないでいると、それに焦れたヴィルが、足元から低い声で言う。
「顔を上げないと、もっと舐めるぞ」
「えっ」
慌てて顔を上げたのを見て、ぽかんと、獣の顔でも分かるくらいにぽかんとしたヴィルは、それはそれで、複雑そうな顔になった。
「そんなに嫌か」
と。
いやと言うより恥ずかしくていたたまれない、とはっきり言い返され、それは不服はないようで。
話が逸れたと自分のせいなのを棚上げして腰を折られた話を元に戻す。
「嫌な夢を見た。シオリ、抱き枕にしてもいいか?」
その姿で言われると、気軽に、いいよ、と言ってしまいそうになる。たった今、その姿で舐められて猛抗議をしていたはずなのに。だが、ふと気づいて聞き返す。
「その姿で?」
「抱きにくいな。かまわんが…」
ストレートな物言いだよね、と目を逸らしながら、栞里は自分の言動を思い返す。許可なんて得ることもなく、なし崩しで、獣姿のヴィルを寝ぼけて抱き枕にし続けて、何日だろう、と。抱き枕、と言われて断れる立場ではないのだ。そして、それを承知で言っているのだろうと、なんとなく思う。この人は、栞里よりはるかに頭が回る。
「半獣人なら、いいよ」
気が変わらないうちに、とでも言うのだろうか。
どうやったのかわからないほどの早業で、栞里は大きくて逞しい、半獣人の腕の中で抱き枕にされた。
夢の延長。爛々とした眼光に驚き目を見開く栞里に気づき、ヴィルはゆっくりと意識的に呼吸をする。
獣の姿。翻るように悪夢から目覚めた体は、人の形を取っていたなら嫌な汗に塗れていたのだろう。
「お前が、起こしたのか?」
「起こした…かも。ごめん。うなされている気がして覗き込もうと思ったら」
今の状況か、と納得する。傍で人が動く気配に、悪夢で冴えた意識が覚醒したのだということは理解した。
「ヴィル?大丈夫?」
「ああ」
獣の姿。顔色など分かるはずもない。それなのに、心配するように覗き込む顔、ほっそりとした首筋。わずかに力を込めるまでもなく手を添えるだけでも壊してしまえそうな、小さき生き物。
荒い息を吐き出し、牙を剥くような口元と、周囲の全てを警戒するように動く耳、揺れる尻尾。そして冷え冷えとした鋭い目。昼間、栞里を取り囲んだ女性たちを追い払った時よりもさらに危険を感じている様子に、栞里は戸惑う。いつも通りに、寝ていただけなのに。
ふと、その目が栞里に真っ直ぐ据えられた。何も言われないことが、やけに居心地が悪い。何かを考えている様子なのに。
そう思っていたら、身を起こしていたヴィルがようやくベッドに伏せた。いつものように寛いで眠るような姿勢ではなく、警戒を怠らないような、腹を下にして伏せた状態で。
だが、ふと、その目が細められて、栞里は面食らう。
なんだか急に、悪巧みでもしているように見えて。
実際、ヴィルは我ながら良いことを思いついた、と思う。
悪夢は、最悪だった。しかも、過去の現実と、今の現実を夢は混在させてしまった。ヴィルが生きていた場所。ヴィルの自由を奪うために、思うがままに動かすために。力任せに引きちぎろうとしても千切れないような頑丈な鎖ではなく、引きちぎることを躊躇うような、真綿のような鎖で自由を奪われていた。
そして、夢の中で栞里もまた、ヴィルを今までのどの鎖よりも抗えない鎖として見つかってしまっていた。
あり得ない。
栞里があの場所にいるなど、叶うはずもないのだ。
それでも、今までの刷り込まれた経験に夢というもので上書きされれば、恐怖は植え付けられる。
安心していられるこの場所で、どのように眠ろうと。栞里に目が届きさえすれば、どのような位置関係だろうと、気にはならなかった。
それが、たったあれだけのことで。
一瞬の遅れもとりたくないと思えば、栞里に背を向けて眠る今の状態は違う、のだ。
寝ている間に、気づけばいつも気に入ったらしいヴィルの毛並みの手触りを求めて近づいている栞里に呆れた目を向けたとき、抱き枕、と栞里は言ったなと思い返す。
「シオリ」
「?」
伏せた獣のヴィルに改まって名を呼ばれ、栞里は小首を傾げる。
大きなヴィルは、伏せていても、ペタンと座った栞里の顔と顔の位置は近い。ほんの少し、首を伸ばせば届くほどに。
思わず、ぺろり、と長い舌で顔を舐めた。その、口元を。
甘いな、と、舐めた舌で自身の口周りを舐めれば、驚いた顔で固まっている栞里が目に映る。
思わず、どうした、と聞けば、どうしたじゃない、となんだか怒っている。何をと見ていれば、照れていることはわかって、思わずヴィルは喉の奥で笑ってしまう。
「何を慌てている。舐められたくらいで」
「なっ」
「親愛の情を示しただけだぞ。お前、成人しているんだろう」
「成人とか、関係ないでしょうっ」
顔を両手で覆って抱え込んだ両膝に項垂れている栞里の呟きを、良すぎる聴覚はしっかりと拾う。
キスしたことないのに。舐められるって、と。
その呟きが、迂闊なことこの上ないと分からないほどに、まあ男に慣れていないのだろうな、と笑いながら、重く考えるのを笑うようなことを言う。ヴィルにしてみれば、そのままでいいのだけれど。
「犬になど、しょっちゅう舐められているだろうが」
「ヴィルは犬じゃないでしょうっ」
言い返されたことに驚きながら、面白くなってヴィルは揃えられた栞里の爪先に、鼻先を乗せて見上げる。
「ああ。犬じゃない。だが、そんなに恥ずかしいなら、犬だと思ってしまえば気にならないだろうが」
できれば苦労しない、と、わずかに覗く目が睨んでくる。
実際、栞里は一度そう認識してしまったものを切り替える術を知らず、ヴィルに口元を舐められた、と言う現実にどんな顔をすれば良いのかもわからなくなっている。
それは、あんな外見なのだ。女性経験は豊富だろう。ここでもあっという間に、女の人たちが群がってきた。手慣れていて当たり前だ。なんだかもう、ひたすらに悔しくて恥ずかしい。
が、顔を上げないでいると、それに焦れたヴィルが、足元から低い声で言う。
「顔を上げないと、もっと舐めるぞ」
「えっ」
慌てて顔を上げたのを見て、ぽかんと、獣の顔でも分かるくらいにぽかんとしたヴィルは、それはそれで、複雑そうな顔になった。
「そんなに嫌か」
と。
いやと言うより恥ずかしくていたたまれない、とはっきり言い返され、それは不服はないようで。
話が逸れたと自分のせいなのを棚上げして腰を折られた話を元に戻す。
「嫌な夢を見た。シオリ、抱き枕にしてもいいか?」
その姿で言われると、気軽に、いいよ、と言ってしまいそうになる。たった今、その姿で舐められて猛抗議をしていたはずなのに。だが、ふと気づいて聞き返す。
「その姿で?」
「抱きにくいな。かまわんが…」
ストレートな物言いだよね、と目を逸らしながら、栞里は自分の言動を思い返す。許可なんて得ることもなく、なし崩しで、獣姿のヴィルを寝ぼけて抱き枕にし続けて、何日だろう、と。抱き枕、と言われて断れる立場ではないのだ。そして、それを承知で言っているのだろうと、なんとなく思う。この人は、栞里よりはるかに頭が回る。
「半獣人なら、いいよ」
気が変わらないうちに、とでも言うのだろうか。
どうやったのかわからないほどの早業で、栞里は大きくて逞しい、半獣人の腕の中で抱き枕にされた。
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