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2 箍とは、嵌める時点で外すことを前提としている

垂れ耳、すばらしい

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 困った、と、栞里は視線を落としたままとにかく、ヴィルがするに任せている。
 なんだか機嫌が悪い、のだ。



 失礼なことを散々最後の方は言い置いて、オーナーは自分がコーヒーを飲み終わると当たり前に帰っていった。栞里が拾ったのだから、好きになさい、と住み込みで働いているここにヴィルがいることは承諾してくれたのはありがたいけれど。



 そうして見送って、振り返ったら、なんだかヴィルの機嫌が悪い気がした。


 その時は、あれ、と思うにとどめていたのだけれど。


 店を片付けて、家に上がって。
 遅い時間になったからとご飯はありあわせと作り置きで。ヴィルはお酒を飲むみたいだからと、買ってあった赤ワインを出した。オーナーから承諾も得て、晴れてここの住人だし。まさかの獣人仲間にまで会えて、多分帰る方法もほぼわかって。しかも自分の魔力をすり減らさなくても外を出歩ける道具までもらえるらしいと。祝杯だと出したのだけれど。
 栞里は飲めるのかと聞かれたから、赤ワインは飲めると頷けば、乾杯をすることになり。まあ祝杯をあげるなら、自分も飲みたいからと、飲めるものにしてあったのは言わない。
 ジャガイモとイカ、ソーセージをチーズで焼いたのと、餃子の皮でなんちゃってミニピザと、野菜を適当にスティックにしたのと。完全におつまみメニュー。

 その時は、機嫌は悪いようには思えなかった。むしろ楽しそうに食事をして。いつもと同じで一緒に片付けをして。
 日課になってしまえば最早栞里は照れる要素はない、いつも通りのお風呂タイム。ヴィルの背中流し用、と栞里が決めたシャツと短パンで背中を洗い、そしてヴィルに教えてもらった背中のマッサージもしてみたりする。力仕事をやってくれるからと頼んだのだが、この程度では力仕事のうちに入らないと言われた。
 体が鈍ると言っていたから、サライが耳と尻尾が見えなくする道具をくれたら、外に走りに行ったりするのも今までより楽にできそうだね、と言ったあたりから、また風向きがおかしくなった。





 そうだな、と言ったきり、なぜか不意に無言になったヴィルの背中を流し終えて、ヴィルを残してリビングで洗濯物を畳んだり、アイロンをかけたり。
 交代してお風呂に入って、出てきたら背中の代わりとヴィルがなぜか楽しげにやっている、栞里の髪を乾かしている、今まさにそんな状態で。



 今日は、栞里は床に座ってソファに寄りかかり、ヴィルはそのソファに座って足の間に栞里がいる状態でやってくれているのだけれど。
 なんだか、背後から冷気が漂っている気がして仕方ない。髪に触れる手は優しいのだけれど。でも。

「ヴィル」


 返事がない。向かい合ってとか、同じ高さに座ってだと、ヴィルの尻尾で遊ばせてもらいながらで手元も堪能できる上に、ついでに尻尾のブラッシングをしていたりするのだけれど。これだとそれができない。三方を囲われていて安心感はあるのだけれど、同時になんだか、ヴィルの機嫌が良くない気がするせいか、危ない気もする。


「ヴィル。機嫌悪い」


 そう言った、栞里の声が、憮然としていた。無意識だったのだけれど。
 栞里の髪をタオルで水気を取り終え、風魔法で乾かしていたヴィルの手が止まる。背中を向けている栞里には見えないけれど、ヴィルの尻尾がぴくりと揺れた。


「いつも通りだ」
「嘘つき」
「嘘など言っていない」


 淡々とした声。機嫌、悪いじゃん、と栞里はモヤモヤして。


「ありがと。わたし、今日はここで寝る。枕取ってくる」


 と、手をすり抜けて立ち上がろうと腰を浮かせた途端、その動きを封じられた。
 反射神経で、ヴィルにかなうはずもないのはわかっているけれど。力でもかなうわけがないのだけれど。それでもいとも容易く絡め取られ、動きを封じられるのが悔しいし、簡単にあしらわれている気がして。そう。悲しいのだ。

「離して」
「なんでだ。機嫌が悪いのは、これじゃあお前だろう」
「ヴィルが不機嫌な理由がわからない。わたし、きっと無神経に何かしたんだろうけど、これじゃ謝れないし直せないのに。ヴィルが誤魔化すなら、近くにいられない。わたしを見ると、イライラするでしょ」



 目一杯抵抗して腕から逃れようとするのに、力強い腕はしっかりと栞里を抱きとめていて、立ち上がりかけた栞里をそのまま抱き上げるのなど造作もなかったようで。



 至近距離は、耐性がついていないから無理、と言っているのに、人型のヴィルの膝の上にそのまま抱き上げられた。目のやりばを失ってまだ逃げようとする栞里を、人の動きを封じる方法を熟知しているヴィルはやんわりと、けれどしっかりと抱き込んでしまう。



「お前が好きなのは、毛並みなんだな」
「毛並み?」


 想像もしていなかった方向からの切り口に栞里の動きが止まる。


「毛並み…まあ好きだけど」
「あの兎の耳を」
「ああ」





 帰り際。薩来が耳を見えなくする前に、不意をついて栞里は手を伸ばしていた。ロップイヤーのような大きく垂れた耳がずっと、誘惑していたのだ。
 というのもあるし。彼にも、何度も、会うたびに言っていること。
 を、言い聞かせるためにという言い訳で、両手それぞれで耳を掴んで、引き寄せるように引っ張ったのだ。
 不意打ちになったようで、驚いた顔に笑ってしまった。
「っつ、この、ばか娘」
 と罵られたけれど、気にしない。いつも通りの言葉をかけながら、密かにその毛並みを堪能すれば、呆れた顔で笑われ、さらっと手は外された。狼に怒られるぞ、と言われた意味はわからなかったけれど、確かに機嫌が悪くなった原因はそれのようだ。



「薩来さんの毛並みも最高でしたが。でもだからってこの扱いをされるのは納得いかない」



 抱きこまれ、恥ずかしさといたたまらなさを逃すために尻尾を触りたいのに、手を伸ばしても逃げていくのだ。いつもは、与えてくれるのに。


 宵闇色の髪の毛が目の前に近づいてきて、首筋にヴィルが鼻先を埋める。お風呂に入った後だけれど、そこですんすん匂いを嗅ぐのをやめてほしい。と身をよじるけれど、当然、逃げられるわけもない。その上、そこで話すとか。くすぐったいの極地だ。


「あいつに言ってた、意味って?」





 あなたは悪くないから。あなたが悪いと思っていたら、気にする人がいるんだから。




 そう、耳を掴んで言ったのだ。
「薩来さんの話だけど…まあ、わたしがここにいる話にもなるから。話すから、離して」
「いやだ」
「え、ちょっと?」
「ここで寝るというやつを離さない」
 いやそれは、あなたの機嫌が悪いからで。機嫌悪い人とじゃゆっくり寝られないだけでと言っても聞く耳を持たないようで。

「だから、機嫌など悪くないと言っているだろう」


 言うが早いか、そのままあろうことかヴィルは栞里を抱き上げて、リビングの電気を消す。


「寝台で、話を聞きながらマッサージをしてやる。いいな」
「横暴!腕力にものを言わせるなんて。ずるい!機嫌悪いって認めないなんて、強情!」


 移動の間中、言いたいことを言って抵抗する栞里を悠々と運びながら、ヴィルはにっこりと、その恐ろしいほどの美貌を笑顔に変えた。



「シオリ、あいつの耳の毛並みはどうだった?」


「垂れ耳、素晴らしかったです」




「ほう」





 また、極寒に放り込まれたような気がして、栞里はひんやりした肌にいつも感じるヴィルの体温ですら温かく感じて、思わず縋り付いた。





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