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5 氷の獣人公爵

小姑がいっぱい

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「結婚しただとっ!!!!?」



 唸り声を伴う怒声に、思わず栞里が首を竦めた。と同時に、ヴィルが栞里を抱き寄せ、周囲に凍てつくような視線を向ける。















 光に包まれた、と思った後、案の定というか、栞里は見覚えのある場所にいた。あの森の、泉の畔。そして、手の中には、あの本がしっかりとある。
 思わずそれを広げようとすると、不意打ちのように抱え上げられた。驚きは一瞬で、抱き上げる動作のまま流れるように歩き出したヴィルに目を向ける。
「ヴィル?」
「ゆっくりしている時間はない。余計な邪魔が入る前に神殿に行く」
「…帰ってきても驚かないね」
「そろそろだ、とサライが言っていたからな」
 その視線の先には、当たり前のようにサライもいる。と言うことはオーナーは、と思い浮かべて、一緒に、今日初めて会った女の人の顔が浮かぶ。優しそうな人。
「森を抜けるのに丸腰か、2人揃って」
 飄々と言うサライに、ヴィルは歩調を緩めることなく呆れた視線を向ける。ヴィルにもサライにも、武器なぞ必要はない。あればあるに越したことはないが、なければないなりの戦い方がある。
 そんな風に、息を弾ませることもなく話している2人の速さに気づいて栞里は目を瞠る。
 運動能力が高いことは承知していたけれど、向こうではかなり、抑えていたのだとわかる。目まぐるしく過ぎ去っていく景色がその速さを知らせてくれるだけで、抱え上げられた栞里には安心感しかない。

 とにかく、と、神殿を見つけるまでは足を緩める気のないヴィルとサライに連れられて、栞里は初めてここの集落を、神殿を見た。以前は森から出ることすらなかったのだから当たり前だとはわかっているけれど。

 小さな集落の中の小さな神殿。
 不意打ちで飛び込んできた大柄な獣人2人に、中で何か作業をしていたらしい神官は、ぽかんとした様子で目を向けてくる。
「婚姻の誓約を」
 短いサライの言葉に、ああ、とうなずいた若い神官は、その目を、ヴィルに抱え上げられたままの栞里に向けた。どんな風に見えているのか、ふとその目が細められる。
「これは…可愛らしい花嫁ですね。…念のためですが、合意の上ですね?」
 その確認に、ヴィルの体が強張るのを栞里は感じ取り、そしてそばにいるサライも珍しく尖った気配をさせている。会ったばかりの頃に聞いた話。人族が獣人の婚姻を妨げ、数を減らさせた、と。
 ヴィルの唸り声の振動を肌で感じながら、真っ直ぐに栞里はその神官に微笑んだ。
「もちろんです」
「っ」
 まさかの、サライまで。2人揃って息を飲むのを不思議に思いながら、栞里はおろして、と無言で合図を送りながら先ほどまで見下ろす位置にあった神官の顔を見上げる。
「ちゃんと、伴侶となることを求めてもらって、最初に見つけた神殿がここなんです。確かに、大好きな人ですけど、そんな騙し打ちみたいなこと、わたししてませんよ?」
「…おい」
 上から降ってくる声に目を向けると、なぜか片手で口元を覆っているヴィルに栞里は首を傾げる。
 その目を神官に戻すと、なんだかとても楽しそうに笑っていた。




 せっかくだから、少しだけ支度をしましょう、と通された奥の部屋。自分で婚姻の支度をできない貧しい人も多いこの小さな集落の神殿では、貸し出せるように少し、質素ながらも衣装があるのだ、と。
 これに着替えなさい、と渡された衣装に思わず栞里が頬を緩めていると、それを神官は楽しそうに眺めてくる。
「何か?」
「いえ…失礼しました。わたしはユールと申しますが。わたしも大概失礼なことを申し上げた自覚はありますが、あなたはその雰囲気を一言で打ち消してしまった。わたしが申し上げた意図も、承知されていましたね?」
「ええ…まあ」
 むしろ、このユールと名乗った神官の方が、良い度胸をしていると栞里にしてみれば呆れる思いだ。あの2人に、平然と喧嘩を売ったようなものなのだ。それは多分、同じ人族である自分のためで。
「心配していただいてありがとうございます。まあ確かに、ご覧になったとおり焦っていますけど、あの人たち。あれ、どうやら全部わたしのためみたいなので」
 苦笑いをする栞里に、ユールは念を押す。
「そうだとしても、全て承知の上ですね?あなたのためだから、とその言葉で納得していないことまで、許していませんね?」
 一夫一妻を当たり前とする文化で育った栞里が、多数婚を当たり前とする文化で生きること。よくわからないが、寿命が変わるかもしれないこと。多分、とっても厄介なお家柄に嫁ぐことになること。
 でもそういうのは全部、ヴィルと一緒にいる、ということにたまたまくっついてきたおまけのようなもの。その上で必要な努力があるならやれるだけやろうとは思うけれど。
 何も言わずに微笑んだ栞里に、ユールは柔らかく笑みを返して、部屋を出る。
「着替えたら、先ほどのところに来てください。佳き祝福をさせていただけそうです」

 質素だ、と言いながら、長く使い続けられるだけの仕立ての良さと、美しい刺繍のされた白いドレスに着替える。ただ、1人で着替えられる、というのが質素だ、ということなのかな、と思うけれど、その着心地の良さと、ドレスを着られたのが存外嬉しくて栞里は笑顔になる。
 待っていた2人も向けられた栞里がいたたまれなくなって目を逸らすほどに甘く笑むから、ユールが咳払いで促したほどで。

 作法がわからずに見上げる栞里に、ヴィルは困った顔で笑う。緊張している様子が可愛いとは思うが、正直、やっとという感慨が強い中でそんな顔をされたらとんでもないわがままを言いそうで。今さら、サライを邪魔にしたり。いや、とにかく本能のままに栞里を抱きしめてしまいそうになる。
 が、サライの提案が何よりも栞里のためであり、そしてヴィルの求める結果を出すためにも必要なことだったのだから、そこは抑えなければと。
 そんなことを考えてやり過ごしながら、栞里の耳元に口を寄せる。
「神官が婚姻の誓約書を祭壇に置く。神官がその誓約書を祝福したら促されるから、そこに手をかざして、誓う、と一言言えばいい。誓約が成れば、誓約書は消える。代わりに、誓約した者に婚姻の証が刻まれる。それで、婚姻はできる。…婚姻の証は、離縁しない限り、消えない」
「誓う、って言えばいいのね?わかった」
 緊張した面持ちで自分のやることだけを繰り返した栞里の様子に、少しぽかんとして、ヴィルはかなわないな、と笑う。こんなところまで連れ去ってきて、添い遂げさせようという無茶をする男に、やっぱり嫌だと言われても仕方ないとどこかで思ってしまっているのに、そんな素振りも見せないのだ。





「誓いを」




 ユールの言葉に促され、栞里が手を伸ばすと、他の手も伸びてくる。


 あれ、と思った時には、とにかくやるべきこと、と思っていて口は教わった言葉を紡いでいる。




「「「「「誓います」」」」」



(えっ!?)



 待って、と、そう言いながら振り仰ごうとする前に、眩しいほどなのに柔らかく包むような光で神殿を満たして、誓約書が消える。




 こちらも呆気に取られた様子のユールが、それでも、告げるべきことを告げる。この誓約が無効となれば、この段階で誓約書は何の反応も示さないのだ。つまり、これは求められた、そして認められた婚姻ということが証されているのだ。


「おめでとうございます。婚姻は成りました」


 間一髪でその場に姿を現した懐かしい顔に、喜びよりも何よりも驚きで栞里は固まっている。
 記憶にあるとおり全く変わらない、ルーシェ。
 顔の左半分に傷痕のある、美しい青年。その姿を見た覚えはなかったけれど、すぐにわかった。ノインだ、と。


 いや、どさくさに紛れて今、夫にならなかった?と混乱を極めていれば、こちらは苛立ちが極限に達した様子のヴィルに抱え上げられる。
「貴様らっ」
 珍しいほどに感情を剥き出しにしたヴィルに、ルーシェは記憶通りの、腹が立つほどにやんわりと笑う。
「そう、怒るな。公爵」
 牙を剥き出しにするヴィルを見て、栞里は困惑する。とにかく状況についていけず、まず目の前のことから片付けることに逃避した。


「ヴィル、このドレス、汚しちゃったりする前にちゃんと返したいから、おろして?」
「…お前」
「いや、全然状況に頭がついて行ってないから、突っ込まないでね?」
「ついてく」
「いや、着替えるし」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないっ」

 抗議の声は聞き入れられることなく、しっかりと栞里は今度はヴィルの手で着替えさせられる。
 その時に、自分の後ろ首のあたりに絡まり合うように美しく紋様があることに気づく。姿見でそれを見て、自分の体にあるものだというのに、思わず見惚れるほどにそれは、美しい。
 その様子を見て、ずっと余裕のない様子で栞里の世話を焼いていたヴィルがようやく手を止め、自分の首元を見せてくれる。
「その紋様の中央と同じものが、俺にもある。俺との婚姻の証だ。絡み合っているのは、それぞれ他の夫たちと同じ紋様だ」
「夫たち…」
 ヴィルと、サライ、2人だけで済むという話ではなかったか。しかも、サライは壁を買って出てくれたわけで、実質はヴィルとの婚姻だと考えていいと言われて…まあ、長い時間を生きることになるからその中で互いに関係を変えたいと思ったらどっちの方向でも変えればいいとサライには言われていて。
 と、ぐるぐる考えているところに、ノックの音とともにサライが入ってくる。
 まだ着替え終わっていない栞里の焦りは無視して、サライはなぜか満足げに、栞里の左の肩口にある紋様に指先を触れた。
「これは、わたしの紋様だな」
 そう呟いて、その目をヴィルに向ける。さっさと栞里に服を着させていく手際に微かな笑みを浮かべながらも、サライの方も苛立たしげだ。
「想定しなかっただけに、油断した」
「まったくだ」
 サライの言葉にヴィルも頷きながら、忌々しげな声音を隠そうともしない。
「向こうは余裕だぞ。話すのに落ち着いた方がいいだろうと、あのハイエルフが公爵邸まで全員連れて跳んでくれるそうだ」
「この人数であの距離を?転移するのか?」
「できるだろう、あれなら」
「…なるほど」
 舌打ちすら聞こえそうなヴィルの声音。
 そのあとは、どう言っても栞里はヴィルに抱き上げられたまま身動きもままならず。

 ルーシェとノインが待つ場所に戻れば、そこにはあの、ミルクティ色の毛並みの青年もいる。その姿に先ほどまでよりもさらにヴィルが殺気立つ。それは、獅子種の青年。いや、獅子族の長の血を引く青年。つまりは今の獣人族の王族。
 だがそんなことは関係なく、ヴィルの感情に敏感に気付いた栞里が、抑えるように抱き上げられたままヴィルの服を掴む。
「ヴィル、あの人、前にこっちに来たときに助けてくれた」
「助けて、だと?」
 疑うようなヴィルの声音に、ルーシェが笑う。
「それも含めて話そうか。それを連れて歩いていくのは、いくら同じ領内と言っても時間がかかる。さっさと話を済ませたいこちらとしても」




 言うなり、何の前触れもなくルーシェは転移を使う。ユールに礼をいう間もないことに栞里が文句を言おうと口を開く前に、周囲のざわめきに気づく。
 姿を消したきりの主人が突然現れたのだから当たり前だろう。
 周囲を取り巻く獣人たちの驚きと戸惑い。ようやく誰かが我に返ったように動き始め、その騒ぎの中で駆けつけたあの獅子族の青年と同じような形の耳と尻尾を持つ男の出迎えに、ヴィルは栞里を妻だと紹介し。





 あの唸り声を伴った怒鳴り声につながるのだ。



 ああ、こうだから、この人、ちゃんと自分の周りに説明せずに済ませようとしたんだな、と栞里はヴィルを見上げる。まあ周りからしたら、この結婚する気なんてなかったらしい人がその気にさえなれば、いや、ならなくても一夫多妻で婚姻を結んでもらって子孫を残して欲しかったんだろうし、その相手も何かと選びたかったろうと思えば。


 誤算中の誤算なんだろうな、と自分のせいとはいえ同情しながら、確信犯め、とその視線に込める。栞里にとっては、小姑的な人…いや、その周りも含めて人たち、なのだろうが、ヴィルを気遣っている人たちだ。蔑ろにして、とはやはり思ってしまうのに。
 気づいたヴィルは、ただ甘く笑うだけだ。どんな雑音も関係ないと言ってくれているようで、見ていられずに栞里は抱き上げてくれたままのヴィルの首元に顔を埋めて隠れる。




「お前たちとの話はあとだ。サライ、あとそっちの、ルシエールとノイン、だろう?」
 栞里から聞いて記憶していた名を呼べば、案の定の頷き。そして、ミルクティ色の獅子族にも目を向ける。
「お前もだな…その顔は、コルトか」
「はい、叔父上」
 おじうえ、と首元で呟く栞里の背を撫でながら、さっさとヴィルは大股に歩く。




「ついてこい」



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