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5 氷の獣人公爵

公爵の帰還 1

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 執務室に入り、ラウドは思わず目を見開いた。その表情に、全く顔色を変えない男に変わんねぇな、と毒づきたくなる。ただ違和感はそこではない。その目が、無表情な男の隣に向けられる。


「…起きてこれたのか」
「余計なことを言うな」

 間髪入れない声に、ああ、と納得する。起きてこれた、ではない。起きてこれる程度に手加減したのだ。この男。手を出していないわけではないことは、匂いでわかる。
「奥方、そこで何を?」
「…ラウドさん、栞里でいいです。落ち着かないです」
 落ち着かない、と言う言葉に反応するように、その膝の腕にふさふさとした尻尾が置かれる。それを見下ろして何か言いたげな栞里に、ヴィルがやんわりと微笑む。目を疑うラウドの周囲で、執務室の中にいた文官たちが居心地悪そうに目を逸らすのを見れば、これが最初ではないのだろう。
「どうした、栞里」
「…いらな…て、ちょっとっ」
 抵抗ができるはずもないな、とラウドが眺めているのは、ヴィルが別の椅子に座っていたはずの栞里を軽々と持ち上げて自分の膝の上に移動させる流れるような動きで。
 ラウドと一緒に入ってきたサライが、その様子を見て堪えきれないように吹き出した。それにもラウドは驚く。この男、こんな風に笑うのか、と。
「その様子。栞里、聞いたのか」
「人前でやることじゃないっ」
「ほう。人前じゃなければ、やるのか」
「もうやだぁ」
 やだろうなぁと、同情しながらラウドは眺めるしかない。あんなに愉しそうなヴィルを見るのは、実際初めてだ。まあ確かに、尻尾を触るのは、性交渉、もしくは弱点いや、急所をついているとも言えるから人前では憚られるだろうが。つまり、知らなかった、と言うことかと推測しながら、ため息をついて歩み寄った。
「お前、人が悪いな」
「何の用だ」
「その前に」
 手を伸ばして流石に居心地悪そうな栞里を摘み上げた。獣人の、しかも狼族の伴侶に触れるなど、自殺行為なのは承知しているが。しかも、明らかな執着と溺愛ぶりを見れば、危ういが、最初が肝心、でもあるととっさにラウドは判断した。ここで見過ごせば、誰もこの少女を助けてやれないしこの男の暴走も止められない。
 案の定の殺気を向けられるが、ラウドの手の中に栞里がいる以上、ヴィルは手を出せない。
 摘み上げた栞里をそのまま床に下ろして答えを寄越しそうもないヴィルを無視してもう一度尋ねる。
「こんなところで捕まえられて、何をさせられてたんだ」
「仕事があると言うので、その辺で探検したり勉強したりしてくると言ったんですけど。だったらここで勉強してわからなければすぐに聞けばいいと言われて」
 そう言って見上げてきた栞里の首筋が伸び、所有を主張するような鬱血痕を複数見つけてラウドはあ~あと天を仰ぐ。本人は気付いてはいないのだろう。
「お前がそんな風になるとは想像もしなかったな。面白い」
 言いながらラウドは自分の後ろに栞里を下がらせ、それをしっかりとサライが回収していく。その一連の行動にヴィルの不機嫌が増していくが、さらにそれに火に油を注いだのが栞里のほっとしたような表情で、苛立たしげに立ち上がる。
 が、それを見上げた栞里は本気でわからぬ様子で首を傾げる。
「ヴィル、終わったの?休憩?」
「……」
 勢いを削がれ、机に両腕をついてしばらく項垂れていたのは明らかに色々なものを飲み込んでいるな、とラウドは愉快なのを隠せずに観察してしまう。
 そうしているうちに、大きなため息と一緒に机を回り込んでこちらにやってくる。そして、栞里をそのままサライの手からさらりと奪うように抱き上げ、接客用のソファに座った。そうしてラウドとサライにも向かい側を勧める。
「少し、休憩にする」
 言いながら、さりげなく膝にのせた栞里の前に自分の尻尾を置いているのはきっとこれはもう、無意識なんだなとラウドにもわかった。反射的にそれに手を伸ばしている栞里と、触れられるのと同時に目を細めて栞里の頭に顎を乗せ、顎の下や頬をそっとすり寄せているのを眺めれば、邪魔して悪かったな、と本気で思う。
 実際、新婚の蜜月を妨げているのだ。妨げられているのはヴィルだけで、栞里はそんな慣習すら知らないのだろうな、と言うのはもう推測はすぐにできるが。
 そのテーブルの上に置かれていた菓子鉢からとった菓子を、サライが当たり前のように手を伸ばして栞里の口に放り込んでいるのを、この関係は面白いな、と眺めてしまう。その行為も、ヴィルは自分がやろうとするだろうに、サライが手を出す分には黙っている。狼族に複数婚をさせることは困難で、免除されることが多い。ヴィルの立場では免除はされなかっただろうが、なるほど、こういう回避を受け入れたのかとは納得する。
「それで、揃ってどうした」
「ああ。本当なら邸にお前の帰還と伴侶の紹介の話を持ってきたかったんだが。王宮がもう、お前のことを聞きつけたらしい」
「…まあ、そんなこともあるだろうな」
 ものすごく不機嫌に、しかし表情も変えずに言うヴィルを栞里が心配そうに見つめている。どこまでこの少女は聞いているのだろうと思いながら、ラウドはため息をついた。
「早急に、挨拶と不在の理由を説明しに登城せよ、とのことだ」
「ふん」
 面倒だ、と一蹴しようとするのを止める。
「今は従え。ここに慣れていない伴侶がいるのを忘れるな。サライ殿と話をした。お前とサライ殿は同じ婚姻の証を持っている。同じ伴侶を持つ証だ。ついでに婚姻の報告をして、一妻多夫であることも報告してこい」
「言えば、栞里を見せろという話になる」
「隠す方が面倒だ」
 ヴィルの不機嫌が部屋の温度を一気に下げる。気配を必死に消そうとしている文官たちを気の毒には思うが、とにかく行かせなければいけない。栞里と離れることが何よりも納得がいかないだろうこの公爵を動かすのは一苦労だと思っていたが、ヴィルの膝の上からその栞里がヴィルを見上げた。
「わたしは、隠さなければいけないものなの?」
「違うっ」
 反射的に答えながら、ヴィルは栞里の頬に自身の大きな手を添える。
「違うが…王宮に知らせればお前を危険に晒す」
「でも、前にもう、気付かれてた気がするし。そのころは何もなかったのに」
 ラウドが首を傾げるが、2人の間で話は進んでいく。
「面倒ごとは、さっさと済ませて?向こうの出方を見てきてよ。その方が、わたしもどうしていればいいか分かりやすいし」
「お前…俺と離れるんだぞ」
「どのくらい?」
 馬車で片道1週間、と頭に浮かべながらヴィルはサライに目を向ける。
「獣化すれば…片道俺は3日もあれば。お前は?」
「大丈夫ですよ」
「往復1週間だ」
「…滞在する気、ないね」
 ふは、と、吹き出した栞里の肩にヴィルは顔を埋める。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、栞里は楽しそうに笑って頭を撫でた。
「1週間で、いっぱいここのこと勉強しておくよ。誰に聞けばいい?」
「俺が教える」
「うん?で、誰に聞けばいい?」
 ものすごく、物言いたげにヴィルは顔を上げて栞里と目を合わせるが、ニコニコと笑って小首を傾げられる。観念したように、もう一度顔を埋めながら深くため息をついた。
「出る前に、手配していく。片道1週間と向こうは見積もっているだろうから、数日は出るのに猶予がある」
 それを聞いて、栞里が本当にほっとしたように、嬉しそうに笑った。いきなり離れることに不安がないわけはないのだ。
 その顔に、ヴィルが深く深く、息を吐き出した。





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