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5 氷の獣人公爵

付け焼き刃でいいからやれ、と

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 ラウドは本来の役目が武官であり、辺境を守るヴィルの部隊の副官として派遣されていることを考えれば、今回の夜会について栞里の教育係となるわけがなかった。これ以上ない教育係だろう、とここでもこき使われているのは本来ならば人に命じられて動くなど考えられないはずのルシエールだ。ただし今回、ルシエールにそれを支持したのはラウドだが。
 ヴィルが栞里と四六時中一緒にいるその役割を他人に割り振るはずもなかった。ヴィルが口出しする前に、根回しを終えてしまったと言える。
 もともとこの国のことを学びたいと考え、ヴィルの留守中も図書室に篭ることもあったような栞里には、みっちりと教育してもらえるのは願ったりなことでもあった。ただ。

「ルーシェ、楽しそうね」
「ああ、楽しいな。あの狼の小僧がすごすごと引き下がって帰っていくのがまた、愉快だ」
「…いい性格」

 栞里に与えられた私室でテーブルを角を挟んで座りながらルシエールはご満悦の体でにっこりと微笑む。その笑顔は目が眩むほどに美しいのだが、見慣れたから、というよりもそこに重きを置いていない栞里には全く無用の長物でさらりと受け流している。それを楽しむルシエールは、先ほども覗きに来て相手にされず、そのままラウドに引きずられてすごすごと帰っていったヴィルの背中を思い起こして笑うのだから、いい性格だ。
 栞里が学んでいる間、それでなくても時間がないのだから邪魔をするなとヴィルは言い含められている、らしい。と栞里は苦笑いをする。日中引き離された上で寝室を共にすれば翌日栞里が動けない可能性もあると、そこまで口出しをされて共寝も禁じられたそうだ。
 ただ、それに関しては栞里の方から、その方が後が怖いからと添い寝のみ最終的に許されている。言った理由も事実だが、もう一つは、ヴィルを拾って以来、ほぼ毎日一緒にあったあの毛並みがないのは栞里の方も落ち着かないのだ。

「なんか、もしやと思っていたけど、あるのね。ダンスって…」
「ああ?シオリの国には、なかったか」
「一般的ではなかったかなぁ。社交の場、というよりも、趣味でやる人とか、まあスポーツとして楽しむ人とか…」
「スポーツ?」
「体を動かすこと、かな。それを競い合うような…」
「ダンスを競うのか」
「パートナーと息があってるか、とか、決まった形をしっかりと取れているか、とか、決めるポーズとか、視線とか表情とか…だったかなぁ」
 実際やっていたわけではないし、テレビでなんとなく見たことがある程度だからきちんと説明ができない。ただ、ふむ、と頷いているルシエールを上目に一瞥して、手元の系譜にもう一度目を落とす。人の名前とか、顔とか、関係とか、肩書きとか、覚えるのがとにかく苦手なのだ。これで写真があったとしてもまず無理、だと思うのに、さらに字面でしかないとなると、おそらくどれだけ時間を割いてもできる気がしない。
「ルーシェ、これ、わたし多分、向いてない」
「邸の人間は、わりとすぐに覚えただろう。覚えようとしていたのもあるだろうが」
「日々接してるし。この人が何をしてくれている人っていうのもあるし。こんな文字情報だけで、しかも何をしている人があったとしてもそもそも関係なさそうな人、覚えられる気がしない」
「覚える気がないのだな」
「…覚えないとヴィルが困るかもしれないと思うから、これでも頑張ってるんだよ」
「ふん」
 ヴィルのため、と言われると実際その通りなのに面白くない。ただ、やっていてルシエールにも、本当にこれが栞里にとって苦手な話で時間を割いてプレッシャーをかければさらに悪循環に入っていくのは目に見えていた。
 他の分野、歴史や最近の情勢などを教えていた時と進み具合があまりにも違う。本人にやる気がないわけではなく、やろうとしているのに全然頭に入らずに悔しそうにしているのが、かわいそうではあるが可愛らしい。いや、違う、と眉間を指で挟んで少し浮かんだ不埒な考えは一旦追い出す。
「そうだな…本当にお前、苦手なんだな」
「関わらなくても困らなそうな人のことを覚えるの、苦手というか、自分でも面白いくらいに頭に入らなくて」
「苦手意識で思い込んでそうなっている部分もあるんだろうが…まあ時間もないことだしな」
 言って、栞里に見せていた貴族年鑑の一箇所を指差す。
「基本的に、お前が1人になることはないようにする。それでも万が一もある。顔を見たり、顔を見てわからなくても名前を聞いたら、とにかく関わらずに知っている顔の側にいるようにするべき奴らだけは、一度叩き込む。まあ、頭の隅に一度入れれば、運が良ければ思い出すだろう」
「運が良ければ、程度でいいの?」
「その程度の気楽さじゃないと、お前はなおさら覚えられそうもない」
「さすがルーシェ」
 言われて怒る気にもなれないレベルで苦手な話なので、それは素直に目を向けて覚えようとする。
 この後は、ダンスのレッスンも待っている。ダンスのレッスンの相手は自分がやるとヴィルはだいぶごねたらしいが、そもそもあなた、ダンスをやれと言われても断固拒否していた方にやらせるわけがないでしょう、とクィムにはっきりと言われたらしい。クィムはヴィルが王都に行っている間栞里の身の回りに気を配るように言われた執事の1人で、狐の獣人だ。狐の獣人と接すると、確かにノインは獣人とは違うのだな、と感じる。
 どうやらサライと年が近らしいクィムがダンスの相手をしてくれているが、それがヴィルは不満で仕方ないらしい。毎晩、添い寝だけ、ということではあるが全身で匂い付けをされる。飼い犬にされていた匂い付けは可愛いもんだったな、と遠い目になるのも疲れてきたくらいだ。
 サライのもともとの立場上面識があったわけではないらしいが、年が近いせいか話は合うらしく談笑している姿を時折見かけた。
 あの時ヴィルが栞里に紹介して出て行った使用人は皆、ずっと栞里付きのようにしてくれているが、ヴィルの機嫌を慮って女性が近くにいることの方が多くこれほど男性使用人がそばにいてくれることも珍しかった。
「この機会に、あの狼に良い距離感を学ばせるのだな」
「…反動しかない気がするんだけど」
 楽しげにいうルシエールに、栞里はげっそりと返した。
 知識もダンスも付け焼き刃。今回は付け焼き刃でも良いから、これから時間をかけて身につけていけというとっかかりなのだろう、と、よし、と両手で頬を擦ってルシエールを見上げた。


「ルーシェ、続きお願い」


 その言葉に返すように向けたルシエールの笑顔には、思わず栞里も目を逸らした。
 笑顔に込められた意味を無意識に感じ取っているのだな、とルシエールはそれも愉快になって、軽く髪を撫でてから続きを始めた。




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