世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

7-4.覚えのない再会

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 腰元まである巨大な籠を埋め尽くすのは、異臭を放つ様々なゴミたちだ。
 残飯、紙くず、破れた服、その他諸々。床はスライムに任せればいいが、何もかもというわけにはいかない。
 ゴミの回収と廃棄もまた、最下層に位置する奴隷の仕事内容の一つ。
 重さに耐えかね下ろした籠に蓋はあっても、臭いまでは完全に防いでくれない。
 淫魔にとっては、このゴミもクラロの魔除けの匂いも変わりないはず。そう考えると、到底手を出そうとは思わない。
 改めてあの男の異様さを実感し、疲れの残る腕を軽く回す。目的地である焼却炉はまだまだ遠い。
 城の裏から出て、更に遠い場所。城の敷地の、ほぼ端に存在しているのだ。元からそんな場所にあったかはともかく、あまりにも遠すぎる。
 往復すれば半時間強もかかるのだ。淫魔サマにご奉仕したいと疼いている奴隷も、こんな場所まで歩きたくないと思っているクラロも、来たくないという気持ちは同じ。
 とはいえ、淫魔に関わらないことを考えれば他の業務よりマシだろう。ただちょっと臭くて、ちょっと面倒なだけだ。
 ……下手に城内を動き回り、またあの男に捕まるよりは、比べるのも馬鹿馬鹿しいほどに。
 二の腕を揉もうとして、固い感触に手を止める。違和感を失ってしまった異物。鈍い光を放つそれは、まだクラロの薬指に居座ったまま。

 この中身を覗くこともなく、かといって何かが起きることもなく。与えられてから、もう数週間は経っただろう。
 その間に新しい人間が配属されては消え、入れ替わってはまた増えて。
 エリオットとはひどい別れになったが、あれから出会うこともなく。今頃専属になったか、あるいは務めに励んでいるか。心配せずとも、彼の将来は明るいことだろう。
 案ずるべきは自分自身。警戒しているが、遊ばれたのは射影室で待ち伏せされていた日が最後。
 何か他の手を考えているのか。それとも、既に仕込まれているのか。考えたところで察することはできないのだろうと、息を吐くのも飽きた頃。
 ……いいや、仕込みというのなら既にいくつか。
 薬指に与えたのも、わざわざ指輪という媒体にしたのも、クラロをからかう為。
 これらから連想される文化は人間社会にのみ通用するもの。知識としてあっても真似するものではない。
 淫魔同士の結婚がどのように執り行われるかはさておき、淫魔と人間が結婚しないことは断言できる。
 奴らにとって人間は所有物。餌。物。時にはそれ以下。そんなものと結婚したいなんて、どれだけ錯乱していようと思うはずがない。
 奴らが人間に抱くのは支配欲。それだけなのだから。
 好きだ? 愛している? 挙げ句には助けたい?
 全くもって馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿げている。
 ……だが、一番馬鹿なのは。素直にこの異物を付けたままでいる自分自身。
 指輪に触れかけた指先が地面を向く。経緯はどうであれ、自分の求めていた物に変わりはない。
 本当は違うかもしれないし、一度きりというのも嘘かもしれない。そもそも、然るべき時がいつかなんて、分かるはずもない。
 全部があの男の戯言で、従っている自分を今もどこかで嗤っているのか。
 ……だとしても、やはりクラロにできることはないのだと。ようやく吐いた息がどれだけ重くとも、目の前で放置された籠よりは圧倒的に軽いもの。
 まだ先は長いと肩を回し、両手に力を入れる。

「――ぺ、ペーター!」

 ……その手から力が抜けたのは、自分を呼ぶ声が聞こえたからだ。
 なんてことはない。その名は、ここで名乗っているものと相違ない。
 聞き覚えがない声も当然だ。ここには何十、何百と奴隷がいて、忘れた者だって数え切れないほどいる。
 だから、クラロの瞳が見開いたのはそうではない。
 聞き覚えのない声。聞き覚えのある名。……聞こえてはならない、組み合わせ。
 抑揚の付いた発音。訛りの強いそれは、紛れもなく、故郷の方言と同じもの。
 それも、老人たちしか使っていない類の。だから、たとえ故郷の者であっても、その響きで聞こえるわけがない。
 クラロのように、わざと発言していない限りは。
 強張る水色に映ったのは、見知らぬ男の姿だった。
 ありふれた髪色。平凡な顔つき。年はクラロよりやや上か。
 掘り起こした記憶の誰とも重ならず、衝動は疑惑に変わり、確信へ至る。
 
「久しぶりだの! 元気にしたったが?」

 鋭い眼光は分厚い前髪に隠され、故に近づく男が怯むこともなく。にこやかな笑顔とは裏腹に、クラロの耳は震える息を捉える。その感情の正体も同じく。

「忘れでまったのが? オレだよ、オレ! ルバ村の!」

 まるで老人を騙すかのように、あくまでも名乗ろうとしない男と、思い出そうとする素振りもないクラロ。
 確かに、その村の名はクラロの故郷と同じ場所。同じ訛り。何も知らない者からすれば、同郷の者と再会したと疑いもしない光景。
 だが、そう。少しでも知っていたなら、あり得ないことだ。
 あの村の者がここにいることも、彼らが『ペーター』と呼んでいることも、全部。

「……あぁ! 久すぶりだなぁ! 元気だったが!」

 だが、クラロは自ら歩み寄り、笑いかける。あからさまに緩む顔は、これ以上ない安堵の表れ。
 意図を理解してくれたと解釈し、勝手に喜ぶのは勝手。
 適当に話に乗るのが一番早く終わると、当の本人が考えることもまた勝手。

「元気そうでえがった! 探すとったのに中々会わねはんで、心配しとったんだ」

 和やかな会話。再会を喜び合う二人。隠された意味を探りながら、互いに情報を探る無駄な作業。
 彼らにとっては重要なことだ。敵地の真ん中、いつ淫魔に見つかってもおかしくない場所。クラロに接触するにはこの方法しかなかったのだろう。
 焼却場は城の中で最も外に近い場所。偶然か、意図的か。それこそ、今のクラロにはどうでもいいこと。

「なんでこったどごろに? おめも城でお勤めだったが?」
「いや、オレはただのお使いで……今はこの場所にいるんだ」

 懐を探り、取り出したのは小さく折り畳まれた紙が一枚。
 たやすく中が見えぬよう厳重に、されど違和感を抱かれない程度に。あまりに小さすぎる欠片を握らされ、強張る笑顔と距離が縮まる。

「みんなも心配すてたんだ! 一回顔見せにごい。おめならいづだって歓迎する!」

 手を握られ、伝わる汗の感触に眉が寄る。滑らないように強く握る力は手は痛く、それ以上に震えている感覚は不快。

「……頼む、来てくれ」

 肩を抱かれ、近づいた唇。
 訛りも演技もない言葉に込められたのは、恐怖と焦りによる懇願。
 縋られる幻覚が重なり、強張った身体はすぐに開放される。纏わりつく腕はなくとも、恐怖を押し殺す瞳はまだ、目の前に。

「じゃあなペーター!」

 早足で立ち去っていく男の姿を、その場に立ち尽くしたまま見送る。あの方向には外壁しかない、なんて突っ込むのはあまりに愚か。
 視線は前から手の平の上、湿った紙へと落ちて、張り付いた端をそっと剥がす。
 綴られる文字が示すのは、彼らがいるという場所。必ず来てほしいという願い。……そして、クラロの本名。
 こうも想定通りだと逆に何も込み上げないのかと、そんな知見を得たところで指先を僅かに捻れば、願いは呆気なく粉々になっていく。
 紙切れ一つ。たった数行の言葉。その為だけに、どれだけの危険を冒してきたことか。
 安全だと盲信する住居から出て、敵の徘徊する町を抜け、本拠地である城に忍び込み。そして、何百といる奴隷の中からクラロ一人を探し出す。
 途方もないことだ。リスクが釣り合わない。いや、伝わりさえすればクラロが行くと疑ってもいないのだろう。
 非国民、反逆者、呼び方は異なっても意味は同じ。旧世代の生活を取り戻そうとする者たちにとって、クラロは味方であるべきだ。
 聖女と勇者の息子。現状を打破できる唯一の希望。ならば、どれだけ危険を冒そうと行動する価値はある。
 理解は示してもクラロが向かう道理はない。願われるのは勝手だ。ならば、クラロが行かないのもまた同義。
 裏切り者と罵られるだろう。だが、クラロは少なくとも約束はしていない。
 一方的な押しつけ。一方的な期待。そうあるべきという理想。そこにクラロの意思など関係ない。
 ……であれば、自分の声を聞かぬ者の望みを叶える道理はない。
 空中に舞う紙吹雪。落ちていくのは籠の中。彼らの勇敢なる行動は、哀れ腐臭漂うゴミと化す。
 証拠を消したのはクラロなりの慈悲だ。それが彼らに伝わらずとも構わない。なんと思われようと、どうでもいい。
 もう既に手遅れなのだと、蓋に手をかける水色の暗さを知る者はいなかった。
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