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月の市
しおりを挟むふと、立ち止まった。人波におされながら右、左と見回してみる。イバラがいない。
どきりと心臓がはねた。リンゴは矢のように振り返った。そこにも、どこにも、イバラの姿がない。
はぐれた。迷子になったのか。
心臓がいやな鳴り方をする。リンゴは鼻から深く息を吸い込んだ。落ち着け。
ついさっきまでは近くにいたんだ。そう遠くへは行ってはいない。
自分を追い越したはずはない。とすると後ろだ。回れ右。
リンゴは、ぶつかってくる人並みを泳ぐようにかきわけ、来た道を戻りはじめた。肩に、すねに、ぶつかってくる赤の他人たちがうっとうしい。舌打ちをしたい気分だ。もっとも、自分が逆走しているので、赤の他人たちのほうも十分迷惑そうだった。
肩に大きな旅行カバンをさげた家族連れを押しのけたとき、松の木の下にでた一軒の屋台の前に、イバラが立ち止まっているのを見つけた。
あのやろう。俺をほっぽりだして何やってんだ。
リンゴは頬が上気するのを感じた。蹴ってやろうと歩調をはやめる。もはや通行人のことは目に入らなかった。誰かにぶつかられても気にならない。イバラだけを見失わないようにとねめつけていた。そのイバラだが、ぴくりとも動かない。いったいなにをやっているのだろうか。
-おい、てめぇ、何やってる。
開口一番、リンゴは思いっきり鋭い声を出して、ポケットに手を突っ込んだままイバラのすねを蹴りつけた。
イバラは、蹴られてはじめてリンゴがそこにいるのに気付いたらしく、ぽかんとして、ぱちぱちまばたきをした。
リンゴはたまらなくなってもう一回蹴った。すると、やっとイバラが声を発した。
-いった、何するの。蹴らなくてもいいでしょ。
-何するのはこっちだろ、この、勝手に立ち止まって何やってんだ。俺が迷子になるところだっただろうが。
言ってからなんだか情けない言い分だなと思ったが、言ってしまったものはもう遅い。
イバラは噴出した。
-笑うな。
むしゃくしゃして、リンゴはもう一発蹴った。
-いたっ、もう、蹴らないでって。結構痛いよ?リンゴの脚力。
脚力の使い方がおかしい、と思ったが追求するのはやめて、リンゴは思いっきり渋い顔をつくった。その顔をみて、イバラはくすくす忍び笑いながら、ごめんね、とあやまった。あまり誠意が感じられなかったので、リンゴはますますムスっとした。俺を心配させたことを、こいつはなんとも思ってやがらない。
-ごめんごめん。
リンゴがあまりにも不機嫌さにあふれる態度をあらわにするので、とうとうイバラは笑いをおさめ、ちょっとだけしゅっとして、リンゴの頭をいい子いい子となでた。
最後のいい子いい子が気に入らなかったので、リンゴはますますふてくされてしまった。口をへの字に曲げてしまったリンゴをみて、イバラは今ここで機嫌をなおしてもらうのをあきらめたらしく、まばたきして少し深く息を吸った。
-何を見てたんだよ。じーっとぼーっと。お化けでもいたのか。
リンゴが仏頂面でつぶやく。イバラにたずねたというより、ほとんど独り言のようだ。でもイバラは聞き取って、にっこりとほほ笑んだ。
まるで春が来たかのように、微笑んだ。
-あのね。これ、見て!
生き生きとはずむように、イバラはかけだしたが、リンゴは微動だにしなかった。興味はないですと言わんばかり。
振り返り、少し気落ちした顔をしたイバラを見て、リンゴは内心ほくそえんだ。ざまあみろ。さっきの俺の仕返しだ。
イバラは悄然と、さっき夢中でのぞき込んでいた屋台のほうを見つめた。そして、もう一度、ちらりとリンゴを見たかと思うと、振り返らずに屋台の下に入っていった。
予想だにしない行動をとられて、あきれたのはリンゴだった。あいつ、まだ何を見る気なんだ。俺をこんなに怒らせておいて?
すると、イバラはなにかを手にとり、店の者と話しはじめた。リンゴは思いきり眉をひそめた。あいつ、何か買ってる?
よく見てみると、その店は編み物屋だった。着るもの、かぶるもの、手袋に帽子にえりまきにセーター、かばんにくつした。狭い屋台からあふれだしそうなほどたくさん、軒先から店の奥へ重なってつりさがっている。色とりどりの毛糸は、どれもどこか懐かしいくすんだ色をしている。
見るまに、イバラは大事そうに何かを抱えて走ってきた。ほんとうに何か買ってきたようだ。
-これっ!
イバラは珍しく、ほほをばら色に上気させて、抱きしめていた袋のなかから何かをそっととりだした。
冬の空のような淡い青に少しミントグリーンをさしたような、不思議な色のなにかが出てきた。リンゴは目をこらした。
マフラーだった。
-きれいな色でしょう?ほら、ここ、ぼたんがついてる、ここでとめるんだよ、えりのところを。ボタンの色もとってもきれい。
女の子のようにイバラははしゃぐ。たしかに、細身のマフラーにしてはすこし大きく見える、すみれ色のぼたんがひとつついている。
イバラは何も言わずに、にこにこ笑った顔のまま、よいしょ、とそれをリンゴの首にまきはじめた。
-はぁっ?おれ!?
リンゴはとびださんばかりに目を向いて叫んだ。まさかの展開だった。
-他に誰がいるの?ほら動かないで。細めのが似合うかと思ってたんだけど、どうかな?うん、よかった。よく似合ってるよ。
イバラはリンゴをながめまわしてますますにこにこと笑う。リンゴは頭が混乱してきた。たしかにあるのとないのとでは首のまわりのあたたかさが全然違うのだが、それにしても、なんともいえない複雑な心境だった。
-俺で遊ぶんじゃねえよ。
とだけ言ったが、あとはなんと言ったらいいのかわからない。
-遊んでないよ。リンゴいつも寒そうにしてたから、市に来たら何か見立ててあげようと思ってたんだ。でも。
ここでイバラはくすっと吹き出し笑いをした。
-リンゴったら、ひとりでどんどん行っちゃうんだもん。びっくりしたな。ちょっと立ち止まっただけであんなに怒るなんて、思わなかったよ。
-ばかっ!
リンゴはわけのわからないままむしゃくしゃして、力まかせにイバラの足を三発続けて蹴った。
-なにが、ちょっと、だっ!全然ちょっとじゃなかったっ。
-気に入らない?
イバラはおかまいなく、いきなり質問をねじこんでくる。リンゴはうっと返事につまった。
-いや、その、そうじゃなくてっ。
マフラーの感想うんぬんではなく、はぐれたことをどうこう言っているのだが、とここまで考えて、さすがにリンゴも疲れを感じた。これ以上やっても意味がない気がする。
首元に無意識に手をやっていた。ほわりとしていて、とても軽い。よくかろやかな感触のものを羽根のように、とか言うが、これは羽根よりもやわらかい。毛糸一本一本が細いうえ、よく見るととても繊細な模様の編み目が、不思議なつる草のようにからまって続く。魔法でできているみたいだ。
これを、俺に似合うと思ったのか。
どうして?
わからない。
実際、似合っているのかどうなのか、自分ではわからなかった。
着るものは、イバラが持っているもの、用意してあるものを勝手に選んできていた。基準は特に決めていない。適当、だった。
今着ている、胸の前に二列の金ボタンが並ぶ黒いコートも、あったから勝手に着てきたのである。しかし、とリンゴは思う。
もしかするとイバラのやつ、いつもこうして、勝手に俺で着せ替え人形するつもりで、服を選んでたのかもしれない。
こっちも勝手だが向こうも勝手だった、というわけだ。
こいつ。
リンゴがじーっとにらむと、イバラは気づいて、首をすくめた。だんだん笑顔から、申し訳なさそうな顔になってくる。いじめているみたいでちょっと気がめいった。
-行くぞ。
リンゴは短く言った。イバラがはっと顔をあげた。
-うん。そうだね。
リンゴはイバラがうなずいたのを見届けて、きびすを返した。振り返りはしなかったが、イバラが砂利をふみしめる音が聞こえるか、耳でそっと確かめた。
イバラは反省したのか、すぐにおいついて隣に並んだ。往来の人混みに何度かからだごとぶつかられていたが、頑としてリンゴの横に陣取る。
そこまでしなくてもいいのに。リンゴはあきれた。
そして、何歩も歩かないうちに、ふたたびリンゴはあきれてイバラを見るはめになった。
イバラときたら、目移りが多すぎるのである。
さっき右を見ていたと思ったら、もう左を向いている。通りすぎるたびに、屋台のなかを名残惜しそうにのぞく。目がきらきら輝いている。はじめてきた子どもでも、ここまではしゃがないだろう、とリンゴは思った。
-おまえ、きょろきょろしすぎだ。そんなのだから、はぐれたんだ。
リンゴがぶすっとして言うと、イバラはぎくっとした。
-そ、そんなにきょろきょろしてる?おれ。あれ?そんなこと、ないよ?
一人称がおれ、になっている。リンゴはため息をついた。
首に巻いた毛糸のかたまりが、人びとの頭上を吹いていく風からも、行き交う人の熱気からも、リンゴを守っていた。動くたび、歩くたびに、頬にふわふわした感触が触れる。自分の体温で、内側はしっかりとあたたかい。
リンゴはぎゅっと一瞬だけ目をつぶり、息をとめて力任せにイバラの腕をひいた。
-うわっ、なに?
イバラの足がもつれ、よろめいてリンゴにもたれかかる。イバラは驚いた声をあげて、ぐっと腰をひいてリンゴに体重がかかるのをとっさに食い止めた。
リンゴはふくれ面のまま、イバラの腕をまたもぐいとひいた。ひっぱられて、イバラはふたたびよろけた。
-え?なに?どうしたの?
今度のイバラの声は笑みを含んでいた。リンゴはますます渋い顔をした。
-持っててやる。ただしっ、あんまり連れまわしたら、しょうちしないからなっ。
毛糸の礼だ、とは言わなかった。
イバラは、きょとんとして、1秒黙ってまばたきをし、そして、ああ、と顔を明るくした。
すぐにくしゃっと笑顔になる。
持っている、というより、リンゴがぶらさがっているような見た目なのが気に入らないが、とりあえず一応の解決をみた、とリンゴは顔をそらす。
イバラはくっくっと笑って言った。
-リンゴに持たれてるんじゃあ、ふらふらしたら申し訳ないね。しゃんと歩くよ。
-はじめからそうしろよ。
リンゴが仏頂面で釘をさす。
-そうだね。
イバラがこちらを見つめ、やさしく笑うのがわかった。
リンゴはそれっきり、一度もイバラの顔を見なかった。黙ってうでをぐいぐいと、先導するみたいにひいていった。それでもイバラのからだは、時おり立ち止まりそうになることがあったが、すぐにリンゴのそばに寄り添ってきた。首をつつむやわらかさと、イバラの体温とでからだがあたたまり、触れ合っている腕のなか、頬、いつもは冷たい指の先まで火照るようだった。人がぶつかってきそうになるたび、イバラがそっとからだをひいて、リンゴをかるくひきよせた。ふたりは無言で歩いた。歩くうちに、だんだんリンゴは、今自分がどんな顔をして歩いているのかわからなくなった。いつのまにか、唇をかみしめて歩いていた。
イバラが肩の荷物をゆすりあげたとき、胸が一瞬だけ、切なく痛んだ。
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