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君と僕の物語:番外編
愛し君へ
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季節の変わり目はどうにも体調がよろしくない。特に身体が弱いという訳でもないのだけど、やはり暑さ寒さにはあまり強くなくて、気を張っている時は大丈夫なのだけど、気を抜くと体調を崩す。
そんな季節の変わり目、ナダールさん達がルーンに越してきて間もなく3年が過ぎようとしている。
「アジェ、どうした? 顔色悪いぞ?」
グノーに顔を覗き込まれた僕はへにゃりと笑う。どうも今日は朝からふわふわしていると思っていたのだが、これは本格的にあまりよろしくないようだ。
「そんなに顔色悪い?」
「あぁ、真っ白だ、そんな笑ってないでこっちこい」
僕はグノーが切り盛りする「騎士の宿」という食堂に来ていたのだけど、彼は僕を問答無用で店の奥の個室へと引っ張り込む。そこは宿泊もできるようにしつらえられた小さな部屋なので横になる事もできるのだけど、僕をそこに押し込んで、グノーは僕の額に手を当てた。
「少し熱がありそうだな、体調は?」
「うん? ちょっと胸がムカムカするかな……」
グノーは「そうか」と頷いて「とりあえず寝ろ」と寝床をしつらえてくれる。
「お店、忙しい時間なのにごめん」
「今日は平日だからな、それほどでもねぇよ。それよりも大変なのはカイル先生だ」
「カイル先生がどうかしたの?」
僕が布団に潜り込み首を傾げると、グノーは眉間に皺を寄せ「あいつはヤバイ……」と呟いた。
「ナダールの幼馴染だし、ここに来た時には臨月間直の妊夫だしで、世話するのはやぶさかじゃなかったんだけどな、あいつに子育ては危険すぎる……」
僕の兄エリオット王子の番相手であるカイル先生が、ここルーンにやって来たのは1ヵ月くらい前の事だった。突然ルーンに現れた彼は「ここで子供を生ませてください」と僕とグノーに頭を下げた。なんでそんな事になっているのか?兄は知っているのか?と問い詰めたら、彼は兄には言ってくれるなと僕に泣きついてきた。詳しく事情を聞けば、どうやら兄の先生に対する束縛はずいぶん強く、王家との軋轢の中で先生も疲弊している様子、ついでにもう腹は見てすぐ分かるほどの臨月具合で、とりあえず安静に彼が子供を生むのが先決だと僕達は彼の出産に協力する事となった。
男性Ωの妊娠出産は普通の女性とも女性Ωとも違っている。それもそうだ、元々できるはずのない腹の中に子ができるのだから当然といえば当然。だけれど、そこは男性Ωで既に2人の子供を生んでいる大先輩がここにはいる訳で、彼が頼ってきたのも頷けるというものだ。
「何? どうかした? 何かあった?」
「根本的にあいつは何もできない!」
「へ?」
「俺も元々相当なポンコツさかげんだったけど、俺以上だ、あいつはヤバイ……」
グノーは溜息を吐いて「俺はカイトが心配で仕方がないよ」と、そう言った。
「何があったの?」
「まず第一にあいつはカイトが泣いていても気付かない!」
「え? そうなんだ?」
「第二に、赤ん坊は繊細なんだって事を理解してない!」
「先生一体何したの?」
「第三に、自分が子供を産んだという自覚がない!」
指折り数えて言い募るグノーに、僕はどういう顔をしていいのか分からない。
「もしかして大変?」
「いっそ俺がカイトを育てたいくらいだ、危なっかしくて見ていられない」
「そんなに?」
グノーはまた大きく溜息を零した。
現在カイル先生はこの家に間借りしている状態だ、産後カイル先生とその子供の世話をしているのはグノーとお店の従業員も手伝っていると聞いてはいたが、ここまでグノーが零しているのを初めて聞いた。
「カイトが可愛いだけに、余計に先生の残念さかげんが浮き彫りになるんだよな……あの人根本的に子育て向いてない」
まさかグノーの口からそんな言葉を聞くとは僕としても驚きだけどね!
出会った当初のグノーはそれこそ子供なんか生まない、番もいらない、一生一人で生きていくと豪語していた人間なのだ、それが今となってはベテランママのような発言に笑いが込み上げる。
「なに笑ってんだよ?」
「だって、グノー本当にお母さんなんだもん、人って変わるもんだねぇ」
「さすがに2人も生めばそうなる。そういうお前はどうなんだ?」
「言わないでよ、頑張ってはいるんだよ」
僕と僕の番相手エディとの間にはまだ子供がいない、自分がΩとしてあまり優秀ではない事を分かっている僕は溜息を零した。
「2人で暮らし始めてもう一年経つだろう? 夜の生活はそれなりにあるんだったら、ぼちぼちできても不思議じゃないんだがなぁ」
「もう! そういう事あけすけに言わないでよっ!」
「駄目だったか?」
「そういう話しは普通友達相手でもあんまりしないものなんだよっ!」
グノーの距離感は時々とてもおかしい、それは今まであまり人と付き合ってこなかった弊害か、その裏表のない言動が僕は嫌いではないけど、事これに関しては結構傷付く。
グノーとナダールさんはそれこそ最初の一回で子供ができたというくらいに身体の相性がいいのだ。それは自他と共に認める『運命の番』だからなのか、むしろ無計画に生むわけにいかないと家族計画を立てているくらいに続けざまに2人産んでいる。
正直僕はそれが羨ましくて仕方がない。
「僕も早く子供欲しいなぁ……」
僕の歳はそろそろグノーが第一子を出産した年齢に近付いてきている、いつできても不思議ではない、けれどそれがなかなかできないのだ。
「その前に体調治す方が先だろ?」
「グノーが子供の話ふったんじゃん! うぅ……そんな事言ってたら気持ち悪くなってきた……」
「大丈夫か? 医者呼ぶか? ってか、それこそカイル先生医師免許持ってんじゃん、呼んでくるわ」
「駄目だよ、グノー。もし万が一何かの病気だったらカイト君に移っちゃう」
「あ? あぁ、そうか。だったら町医者呼んでくるからちょっと待ってろ」
そう言ってグノーは部屋を出て行く、僕はムカムカする腹を抱えて布団の中で身体を丸めた。
子供、子供か……そういえば次の発情期いつだっけ?僕は指折り数えて首を傾げた、もうとっくにきていてもいい頃合いだと気が付いた僕は、この体調不良はヒートの前兆かと思い至った。もしそうだったらお医者さんにわざわざ来てもらうの申し訳なかったな……と思っていると、ばたばたと慌てたようにグノーが医師を連れてきた。
医者先生は僕の診察を一通り済ませて一言「おめでとう」と、そう言った。
「え? 何が……?」
「妊娠ですよ、男性Ωの方の妊娠がこう立て続けだと、こちらとしてもいい勉強になる。有難い事だ」
医者先生はそう言ってにっこり笑った。
「へ……? 妊娠?」
俄かに信じられずに腹を撫でた。別に膨らみも感じないその腹の中に僕の子供がいる事に僕は驚きを隠せない。
「え? ホントに……?」
「症状から診て間違いないだろう、ただ男性Ωの妊娠は稀な事だから、詳しい人間の話を聞きたい所ではあるけれど……」
「だったらやっぱりカイル先生呼んでくるわ、病気じゃないなら問題ないだろう。あいつも男性Ωだ、妊娠出産もしたばっかりで、あいつが一番分かってる」
「君も男性Ωだろう?」
「俺にはそういう知識は全くねぇもんよ、自分の事は分かっても、人の事まで分かんねぇよ」
そう言ってグノーはまたばたばたと部屋を飛び出していった。
妊娠? 僕が妊娠? 本当に? このお腹の中に僕とエディの赤ちゃんがいるの……?
カイル先生が赤ちゃんを抱いて、僕の前へとやって来た。そして医者先生と同じように一通りの診断をして「間違いないと思うよ」とそう言った。
先生の腕の中でむずがる小さな男の子、僕の中にも同じように小さな命が宿ってる。考え出したら嬉しくて叫びだしてしまいそうだった。
ようやくだ、ようやく僕も子供が抱ける!
「どうしよう、グノー、嬉しい。僕、泣きそうだよ」
「泣くのは旦那に報告してからにしろ、俺がまたエディにどやされる」
そう言ったグノーの顔も満面の笑みで「良かったな」と僕の頬を撫でてくれた。
その日の内にエディに報告したらエディは固まったまましばらく動かなかった。
「エディ、喜んでくれないの……?」
不安になった僕がエディの顔を覗き込むと「そんな訳あるか!」と怒鳴られた。
「あ、すまん……つい。いや、でも……うん、そうか……はは、そうかそうか、あははは」
エディは壊れたように笑い出し、僕を抱き上げた。
「ありがとう、アジェ。良かった、本当に良かった、これでお前とちゃんと結婚できる」
「うん、待たせてごめんね」
「そんな事はどうでもいい。どうしたもんか、俺は今、叫び出したい気分だ」
「あはは、分かる。僕もそう思ったよ」
僕達は啄ばむようにキスを重ねる、僕はこの時、幸せの絶頂だった。
「ちょっと子供の発育が良くない感じがするね」
妊娠発覚から数ヶ月、僕は長いこと酷い悪阻に悩まされていた。
「ちゃんと食べてる? 栄養摂れてる……?」
「食べられる時にはちゃんと食べてますけど、どうにも食べられない事も多いです」
僕はあまりに酷い悪阻にすっかりしょげていた。日常生活もままならない生活、僕を1人で自宅に置いておく事を不安がったエディは、早々に僕が領主様の館に戻る事を決めてしまった。いわゆる里帰り出産という形になるのだけど、僕達の家と領主様の屋敷は目と鼻の先なのに、こんなに早々に実家に戻るのもどうかと思うのだ。
けれど、それでも僕の生活はどうにもままならず、僕は屋敷でほぼ寝たきりの生活を余儀なくされている。
仕事を終えると毎日エディは僕の元へと来てくれるが、僕がこんな状態ではろくすっぽ話もできず、逆に気を使われ早々に帰ってしまう。
でもね、だけど、本当は傍にいて欲しいんだ、エディの匂いに包まれていれば安心できる、だけどそれは僕のわがままだからと言い出せずにいたら「お前馬鹿か」とグノーに言われてしまった。
「そう思うんなら一緒にいろ、その腹の子はお前一人の子供じゃない、半分はあいつの子でもあるんだから、わがままとか言ってる場合か!」
その言葉で僕は目から鱗が落ちるような気持ちだった。
「俺もユリの時は酷かった、その間あいつは仕事そっちのけで俺の傍にいてくれたよ。別に仕事を蔑ろにしろとは言わないけど、傍にいれば楽になるなら一緒にいられる時は一緒にいろ」
「そんな事、言ってもいいのかな……?」
「あ? それを嫌がるような旦那なら一緒にいる意味がねぇだろう! こちとら命張って新しい命を生み出そうって頑張ってんだ、文句なんて言わせねぇよ」
僕はその言葉に勇気を貰って、それをエディに伝えてみた。
「俺は全く構いはしないが、お前は平気なのか? 寝ていた方が良くはないか?」
「寝てるより、エディの傍にいる方が楽なんだ、だから抱いてて」
そう言って両手を差し出したら、戸惑ったようにエディは僕を抱き締めてくれた。
「当然ながら俺もこんな事は初めてで、どうしていいのか分からない。お前が楽だと言うのなら俺は何だってしたいと思っている。他には何かないのか? こんな事くらいで大丈夫なのか?」
「エディの腕の中は安心するよ、きっとお腹の子も僕1人じゃ頼りなくて、お父さんが一緒で安心してる」
僕の言葉にエディが絶句した。
「どうしたの?」
僕が見上げるとエディが困ったように「お父さんなんて、初めて言われた……」と困惑顔だ。
「エディはこの子のお父さんだろう? 今更何言ってるの?」
「うん、分かっている、分かっているんだが、まだ自覚が薄くて……いや、自覚はしてるか、なんだろうな? 俺にもよく分からない。今までいなかった人間が生み出されるって、よく考えたら凄い事だよな。頭で理解をしていてもいざ自分の事となるとどうも勝手が違う」
「お父さん、頼りな~い」
「俺だって何もかも初めてなんだから仕方ないだろう!」
僕達は2人揃って笑ってしまう。そうだよ仕方がない、だって何もかもが初めてなんだもの、僕もエディも手探り状態なのは本当に仕方がない事なんだ。
僕を抱え上げたまま、エディは優しく僕の腹を撫でる、僕はそのぬくもりに自分を全部預けて、ようやく安心する事ができた。
こうしてようやく安定期に入った僕は、どうにか1人で動けるようになったのだけど、それまでがそれまでだったので心配で仕方がないエディはどこにでも僕の後を付いてくる。
今までも割とその傾向はあったけど、少しでも疲れた素振りを見せるとすぐに抱え上げられてしまうので本当に困る。
「エディは過保護すぎ!」
「大事な子供に何かあったら困るだろう!」
「そうだけど、もう安定期だし、もっと運動もしなきゃ駄目なんだよ」
何度もエディにはそう言っているのに、彼はそれでも心配顔で僕を見やる。
「用心に越した事はないだろう?」
「用心し過ぎて運動不足じゃ赤ちゃんにも良くないんだよ」
僕の腹はまだそこまで目に見えて膨らんではいない。腹の出方は人それぞれで、大丈夫だとは言われているけど少し心配。最初に子供の発育が良くないと言われていたから余計にだ。
僕も頑張るから君も頑張れと僕は自身の腹を撫でた。
いよいよ間もなく臨月、心配していたような事は何も起こらず、僕は無事にそこまで子供を守りぬく事ができた。けれど、そんなある日言われたのが「赤ん坊が逆子だね」という淡々とした言葉だった。
「逆子……?」
「そう、逆子。通常子供は生まれる時に出てきやすいように頭が下を向くんだよ、だけど君のお腹の子はどうやら頭が上にあるようだ」
「それって……」
「出産には常に危険が伴う、その中のひとつだよ」
僕が不安そうな顔を見せると、カイル先生は「大丈夫だよ」と言いはしたのだが、後日先生がエディを訪ね、何事か相談しているのを僕は聞いてしまった。
もし万が一の場合、子供を選ぶのか、母体を選ぶのか、たぶんそんな話をしていたのだと思う、僕は絶望に打ちひしがれていた。
ようやく授かった命、ここまで大事に大事に育ててきたのに、こんなのってあんまりだ!
「アジェ、どうした……?」
カイル先生が帰った後、エディが優しく僕に問いかける。
「僕、絶対産むからね」
「……アジェ」
「誰がなんと言おうと絶対産むから!」
僕が拳を握ってそう言うとエディは「すまん、これはきっと俺のせいだ」とそう言った。
「因果応報とでも言うのかな、こんな事になって初めて分かる。自分がその立場に立たなけりゃ分からないなんて、俺は本当に大馬鹿だ……」
「エディ……?」
「ちょうど今のお前くらいの時期だったんだ、俺はあいつを責め立てた、危うくあいつは流産しかけて、命だって危なかった。旦那は未だにあの時の事は許さないって言い続けている。俺はどこかで思っていた、結果、母子ともに無事で誰も死ななかったんだから良いじゃないかってな。でも、違う、そんな事は分からない、この恐怖は誰にも理解できない、俺とお前にしか分からない、俺は自分が情けない……今になって旦那のあの時の恐怖が分かるんだ、お前が死ぬかもしれない、腹の子が死んでしまうかもしれない、あまつさえ両方失うかもしれないなんて、そんな恐怖があの時の俺には分からなかった……」
エディは情けない顔で僕を抱き締める。
「僕は諦めないよ、因果応報なんてない、グノーもナダールさんも今、僕達がこうなっている事をそんな風に思ったりしない」
「分かってる、それでも、自分にできる事が何もないのが辛い。産むのはお前だ、俺は何もできない、事これに関しては、俺は無力で何もできない」
「傍にいて、こうして抱き締めていて、そして誰よりも僕がやり切るって信じていて」
「アジェ……」
「僕は、絶対死んだりしないし、この子も無事に産んでみせるから」
エディは更に僕を強く抱き締め、黙って僕の肩口に顔を埋めた。
結局逆子は治らないまま僕は出産を迎えた。出産は領主様のお屋敷で、僕の傍らにはエディがいて僕の手を握っている。部屋の外にはたぶん他にもたくさん、今か今かと子供の出産を待っている人達がいるのだと思う。でも、今の僕はそれどころではない。
「はぁ、んん、痛いっ、何コレ、苦し……っあ……」
波状で襲ってくる痛みに僕は思考も奪われて、泣き叫んでいた。そんな僕の手をエディはずっと困惑顔で握っている。
「痛い痛い痛い痛いっっ!!」
「うん、そうだね、だけどもう少しだよ、産んじゃえば楽になるからね」
そんな事は言われなくても分かってる! だけどその子供がなかなか出てこない。
もういつ出てきても不思議じゃない、そう何度も言われているのに子供はまだ産まれる気配を見せなくて、僕は苦しくて仕方がない。
やっぱり逆子のせいなのか? 子供はちゃんと産まれるの? 怖い、痛い、苦しい、怖い。
「見えてきた、アジェ君、頑張れ」
もう既に頑張ってる! これ以上どう頑張れって言うのさ!
激しい痛み、何かが出てくる、僕の中から出てくるのは……
叫びを上げて、僕は子供を産み落とす、産み落としたはずだ、急に身体の力が抜けた、けれど辺りはしんと静まり返って、聞こえるはずの、聞こえなければいけないはずの赤子の声が聞こえない。
「えでぃ……ねぇ、えでぃ……子供は? ねぇ、あかちゃんは!? ねぇ! ねぇってば、エディっっ!!」
僕の手を握るエディの手の力が強くなった。聞こえない産声、不安と恐怖、産まれた子供を見ているのであろうエディの瞳からぼろりと涙が零れた。
「男の子だ、アジェ……」
言葉と同時に小さな小さな泣き声が聞こえた。それはまるで子猫の鳴き声のようで、小さく儚く、それでもしっかりと僕の耳に届いた。
僕はその声を聞いて、もう堪えきれずに大声でぼろぼろと泣き出した。そんな僕の胸元に置かれた赤ちゃんはとても小さくて壊してしまいそうで怖かったのだけど、とても可愛くて、僕はいつまでも涙が止まらなかった。
出産からから数日、僕の周りはずっとお祭り騒ぎだった。
領主様も大喜びで、町の住民にふれて回るのであっという間にそれは町中に知れ渡り、次から次にお祝いの品が領主様の館に運び込まれたと僕はのちに聞いたのだけど、ちょっとその辺の記憶は曖昧であまり覚えていない。
何せ僕はとても疲れていて、息子を産んだ直後からまた寝たきり生活に逆戻りをしてしまったからだ。
息子に乳をやる事だけが僕の仕事で、それ以外はもう本当にひたすら寝ていた。
世の母親はもっとしっかりしているのだろうに、情けない事この上ない。けれどそんな僕をエディはひたすらひたすら甘やかす。今までも僕には激甘だった彼だけど、その甘やかし方は本当にそれでいいのか? というほどの甘やかし方で、僕はずいぶん怠惰な生活を送っている。
僕の出産はすぐにランティスにも伝わったようで、両親から物凄く豪華な金糸の入った産着とおくるみが贈られてきたのだけど、こんなのいつ着せるの? 勿体なくて着せられないよ!
「お前は幸せ者だねぇ」
僕は小さな我が子の小さな鼻を突く。産まれてきた事をこんなにたくさんの人に祝ってもらえる、産まれてすぐに捨てられた僕とは大違いだよ。
逆子で産まれた我が子は何かしらの障害が出る事も懸念されたのだけれど、特にそういった事もなく、普通にすくすくと成長している。思いのほか父親にそっくりだった息子の髪は金色で、瞳も綺麗な空の色だ。
「アジェ、少し散歩をしないか?」
エディが声をかけてきて、僕は笑顔で頷いた。エディは片手に息子を抱えて、もう片手を僕に差し出す。
「うふふ、どういう風の吹き回し? 今までこんな事してくれた事なかったのに」
僕達は手を繋いで歩いて行く。エディの歩幅は大きくて、僕は普段置いていかれる事も多いのだけど、今日のエディは僕に合わせてゆっくりゆっくり歩いてくれる。
「俺はいつも自分の事ばっかりで、他人の事をあまり考えてはこなかった。それでは駄目だとしみじみそう思っているんだよ」
エディは苦笑したようにそう言った。
町に唯一ある小さな教会、その鐘つき堂に上がって町を見渡す。ルーンの町はそこまで大きな町ではない、高さのある建物もほとんどなくて、そこからは町を一望できる。
エディは息子を抱え直して、彼にその町を見せるように言った。
「ロディ見えるか、ここがお前の生まれた町で、お前が暮らす町、そしていずれはお前が治める土地になる。俺はそれまでこの土地を守ってみせるから、お前も元気に大きくなれ。産まれてきてくれて、本当にありがとう」
日暮れの町は赤く染まって、とても綺麗な景色だ。小さな息子は何を言われているのかも分かってはいないのだろうが、目を細めて笑みを見せた。
そんな季節の変わり目、ナダールさん達がルーンに越してきて間もなく3年が過ぎようとしている。
「アジェ、どうした? 顔色悪いぞ?」
グノーに顔を覗き込まれた僕はへにゃりと笑う。どうも今日は朝からふわふわしていると思っていたのだが、これは本格的にあまりよろしくないようだ。
「そんなに顔色悪い?」
「あぁ、真っ白だ、そんな笑ってないでこっちこい」
僕はグノーが切り盛りする「騎士の宿」という食堂に来ていたのだけど、彼は僕を問答無用で店の奥の個室へと引っ張り込む。そこは宿泊もできるようにしつらえられた小さな部屋なので横になる事もできるのだけど、僕をそこに押し込んで、グノーは僕の額に手を当てた。
「少し熱がありそうだな、体調は?」
「うん? ちょっと胸がムカムカするかな……」
グノーは「そうか」と頷いて「とりあえず寝ろ」と寝床をしつらえてくれる。
「お店、忙しい時間なのにごめん」
「今日は平日だからな、それほどでもねぇよ。それよりも大変なのはカイル先生だ」
「カイル先生がどうかしたの?」
僕が布団に潜り込み首を傾げると、グノーは眉間に皺を寄せ「あいつはヤバイ……」と呟いた。
「ナダールの幼馴染だし、ここに来た時には臨月間直の妊夫だしで、世話するのはやぶさかじゃなかったんだけどな、あいつに子育ては危険すぎる……」
僕の兄エリオット王子の番相手であるカイル先生が、ここルーンにやって来たのは1ヵ月くらい前の事だった。突然ルーンに現れた彼は「ここで子供を生ませてください」と僕とグノーに頭を下げた。なんでそんな事になっているのか?兄は知っているのか?と問い詰めたら、彼は兄には言ってくれるなと僕に泣きついてきた。詳しく事情を聞けば、どうやら兄の先生に対する束縛はずいぶん強く、王家との軋轢の中で先生も疲弊している様子、ついでにもう腹は見てすぐ分かるほどの臨月具合で、とりあえず安静に彼が子供を生むのが先決だと僕達は彼の出産に協力する事となった。
男性Ωの妊娠出産は普通の女性とも女性Ωとも違っている。それもそうだ、元々できるはずのない腹の中に子ができるのだから当然といえば当然。だけれど、そこは男性Ωで既に2人の子供を生んでいる大先輩がここにはいる訳で、彼が頼ってきたのも頷けるというものだ。
「何? どうかした? 何かあった?」
「根本的にあいつは何もできない!」
「へ?」
「俺も元々相当なポンコツさかげんだったけど、俺以上だ、あいつはヤバイ……」
グノーは溜息を吐いて「俺はカイトが心配で仕方がないよ」と、そう言った。
「何があったの?」
「まず第一にあいつはカイトが泣いていても気付かない!」
「え? そうなんだ?」
「第二に、赤ん坊は繊細なんだって事を理解してない!」
「先生一体何したの?」
「第三に、自分が子供を産んだという自覚がない!」
指折り数えて言い募るグノーに、僕はどういう顔をしていいのか分からない。
「もしかして大変?」
「いっそ俺がカイトを育てたいくらいだ、危なっかしくて見ていられない」
「そんなに?」
グノーはまた大きく溜息を零した。
現在カイル先生はこの家に間借りしている状態だ、産後カイル先生とその子供の世話をしているのはグノーとお店の従業員も手伝っていると聞いてはいたが、ここまでグノーが零しているのを初めて聞いた。
「カイトが可愛いだけに、余計に先生の残念さかげんが浮き彫りになるんだよな……あの人根本的に子育て向いてない」
まさかグノーの口からそんな言葉を聞くとは僕としても驚きだけどね!
出会った当初のグノーはそれこそ子供なんか生まない、番もいらない、一生一人で生きていくと豪語していた人間なのだ、それが今となってはベテランママのような発言に笑いが込み上げる。
「なに笑ってんだよ?」
「だって、グノー本当にお母さんなんだもん、人って変わるもんだねぇ」
「さすがに2人も生めばそうなる。そういうお前はどうなんだ?」
「言わないでよ、頑張ってはいるんだよ」
僕と僕の番相手エディとの間にはまだ子供がいない、自分がΩとしてあまり優秀ではない事を分かっている僕は溜息を零した。
「2人で暮らし始めてもう一年経つだろう? 夜の生活はそれなりにあるんだったら、ぼちぼちできても不思議じゃないんだがなぁ」
「もう! そういう事あけすけに言わないでよっ!」
「駄目だったか?」
「そういう話しは普通友達相手でもあんまりしないものなんだよっ!」
グノーの距離感は時々とてもおかしい、それは今まであまり人と付き合ってこなかった弊害か、その裏表のない言動が僕は嫌いではないけど、事これに関しては結構傷付く。
グノーとナダールさんはそれこそ最初の一回で子供ができたというくらいに身体の相性がいいのだ。それは自他と共に認める『運命の番』だからなのか、むしろ無計画に生むわけにいかないと家族計画を立てているくらいに続けざまに2人産んでいる。
正直僕はそれが羨ましくて仕方がない。
「僕も早く子供欲しいなぁ……」
僕の歳はそろそろグノーが第一子を出産した年齢に近付いてきている、いつできても不思議ではない、けれどそれがなかなかできないのだ。
「その前に体調治す方が先だろ?」
「グノーが子供の話ふったんじゃん! うぅ……そんな事言ってたら気持ち悪くなってきた……」
「大丈夫か? 医者呼ぶか? ってか、それこそカイル先生医師免許持ってんじゃん、呼んでくるわ」
「駄目だよ、グノー。もし万が一何かの病気だったらカイト君に移っちゃう」
「あ? あぁ、そうか。だったら町医者呼んでくるからちょっと待ってろ」
そう言ってグノーは部屋を出て行く、僕はムカムカする腹を抱えて布団の中で身体を丸めた。
子供、子供か……そういえば次の発情期いつだっけ?僕は指折り数えて首を傾げた、もうとっくにきていてもいい頃合いだと気が付いた僕は、この体調不良はヒートの前兆かと思い至った。もしそうだったらお医者さんにわざわざ来てもらうの申し訳なかったな……と思っていると、ばたばたと慌てたようにグノーが医師を連れてきた。
医者先生は僕の診察を一通り済ませて一言「おめでとう」と、そう言った。
「え? 何が……?」
「妊娠ですよ、男性Ωの方の妊娠がこう立て続けだと、こちらとしてもいい勉強になる。有難い事だ」
医者先生はそう言ってにっこり笑った。
「へ……? 妊娠?」
俄かに信じられずに腹を撫でた。別に膨らみも感じないその腹の中に僕の子供がいる事に僕は驚きを隠せない。
「え? ホントに……?」
「症状から診て間違いないだろう、ただ男性Ωの妊娠は稀な事だから、詳しい人間の話を聞きたい所ではあるけれど……」
「だったらやっぱりカイル先生呼んでくるわ、病気じゃないなら問題ないだろう。あいつも男性Ωだ、妊娠出産もしたばっかりで、あいつが一番分かってる」
「君も男性Ωだろう?」
「俺にはそういう知識は全くねぇもんよ、自分の事は分かっても、人の事まで分かんねぇよ」
そう言ってグノーはまたばたばたと部屋を飛び出していった。
妊娠? 僕が妊娠? 本当に? このお腹の中に僕とエディの赤ちゃんがいるの……?
カイル先生が赤ちゃんを抱いて、僕の前へとやって来た。そして医者先生と同じように一通りの診断をして「間違いないと思うよ」とそう言った。
先生の腕の中でむずがる小さな男の子、僕の中にも同じように小さな命が宿ってる。考え出したら嬉しくて叫びだしてしまいそうだった。
ようやくだ、ようやく僕も子供が抱ける!
「どうしよう、グノー、嬉しい。僕、泣きそうだよ」
「泣くのは旦那に報告してからにしろ、俺がまたエディにどやされる」
そう言ったグノーの顔も満面の笑みで「良かったな」と僕の頬を撫でてくれた。
その日の内にエディに報告したらエディは固まったまましばらく動かなかった。
「エディ、喜んでくれないの……?」
不安になった僕がエディの顔を覗き込むと「そんな訳あるか!」と怒鳴られた。
「あ、すまん……つい。いや、でも……うん、そうか……はは、そうかそうか、あははは」
エディは壊れたように笑い出し、僕を抱き上げた。
「ありがとう、アジェ。良かった、本当に良かった、これでお前とちゃんと結婚できる」
「うん、待たせてごめんね」
「そんな事はどうでもいい。どうしたもんか、俺は今、叫び出したい気分だ」
「あはは、分かる。僕もそう思ったよ」
僕達は啄ばむようにキスを重ねる、僕はこの時、幸せの絶頂だった。
「ちょっと子供の発育が良くない感じがするね」
妊娠発覚から数ヶ月、僕は長いこと酷い悪阻に悩まされていた。
「ちゃんと食べてる? 栄養摂れてる……?」
「食べられる時にはちゃんと食べてますけど、どうにも食べられない事も多いです」
僕はあまりに酷い悪阻にすっかりしょげていた。日常生活もままならない生活、僕を1人で自宅に置いておく事を不安がったエディは、早々に僕が領主様の館に戻る事を決めてしまった。いわゆる里帰り出産という形になるのだけど、僕達の家と領主様の屋敷は目と鼻の先なのに、こんなに早々に実家に戻るのもどうかと思うのだ。
けれど、それでも僕の生活はどうにもままならず、僕は屋敷でほぼ寝たきりの生活を余儀なくされている。
仕事を終えると毎日エディは僕の元へと来てくれるが、僕がこんな状態ではろくすっぽ話もできず、逆に気を使われ早々に帰ってしまう。
でもね、だけど、本当は傍にいて欲しいんだ、エディの匂いに包まれていれば安心できる、だけどそれは僕のわがままだからと言い出せずにいたら「お前馬鹿か」とグノーに言われてしまった。
「そう思うんなら一緒にいろ、その腹の子はお前一人の子供じゃない、半分はあいつの子でもあるんだから、わがままとか言ってる場合か!」
その言葉で僕は目から鱗が落ちるような気持ちだった。
「俺もユリの時は酷かった、その間あいつは仕事そっちのけで俺の傍にいてくれたよ。別に仕事を蔑ろにしろとは言わないけど、傍にいれば楽になるなら一緒にいられる時は一緒にいろ」
「そんな事、言ってもいいのかな……?」
「あ? それを嫌がるような旦那なら一緒にいる意味がねぇだろう! こちとら命張って新しい命を生み出そうって頑張ってんだ、文句なんて言わせねぇよ」
僕はその言葉に勇気を貰って、それをエディに伝えてみた。
「俺は全く構いはしないが、お前は平気なのか? 寝ていた方が良くはないか?」
「寝てるより、エディの傍にいる方が楽なんだ、だから抱いてて」
そう言って両手を差し出したら、戸惑ったようにエディは僕を抱き締めてくれた。
「当然ながら俺もこんな事は初めてで、どうしていいのか分からない。お前が楽だと言うのなら俺は何だってしたいと思っている。他には何かないのか? こんな事くらいで大丈夫なのか?」
「エディの腕の中は安心するよ、きっとお腹の子も僕1人じゃ頼りなくて、お父さんが一緒で安心してる」
僕の言葉にエディが絶句した。
「どうしたの?」
僕が見上げるとエディが困ったように「お父さんなんて、初めて言われた……」と困惑顔だ。
「エディはこの子のお父さんだろう? 今更何言ってるの?」
「うん、分かっている、分かっているんだが、まだ自覚が薄くて……いや、自覚はしてるか、なんだろうな? 俺にもよく分からない。今までいなかった人間が生み出されるって、よく考えたら凄い事だよな。頭で理解をしていてもいざ自分の事となるとどうも勝手が違う」
「お父さん、頼りな~い」
「俺だって何もかも初めてなんだから仕方ないだろう!」
僕達は2人揃って笑ってしまう。そうだよ仕方がない、だって何もかもが初めてなんだもの、僕もエディも手探り状態なのは本当に仕方がない事なんだ。
僕を抱え上げたまま、エディは優しく僕の腹を撫でる、僕はそのぬくもりに自分を全部預けて、ようやく安心する事ができた。
こうしてようやく安定期に入った僕は、どうにか1人で動けるようになったのだけど、それまでがそれまでだったので心配で仕方がないエディはどこにでも僕の後を付いてくる。
今までも割とその傾向はあったけど、少しでも疲れた素振りを見せるとすぐに抱え上げられてしまうので本当に困る。
「エディは過保護すぎ!」
「大事な子供に何かあったら困るだろう!」
「そうだけど、もう安定期だし、もっと運動もしなきゃ駄目なんだよ」
何度もエディにはそう言っているのに、彼はそれでも心配顔で僕を見やる。
「用心に越した事はないだろう?」
「用心し過ぎて運動不足じゃ赤ちゃんにも良くないんだよ」
僕の腹はまだそこまで目に見えて膨らんではいない。腹の出方は人それぞれで、大丈夫だとは言われているけど少し心配。最初に子供の発育が良くないと言われていたから余計にだ。
僕も頑張るから君も頑張れと僕は自身の腹を撫でた。
いよいよ間もなく臨月、心配していたような事は何も起こらず、僕は無事にそこまで子供を守りぬく事ができた。けれど、そんなある日言われたのが「赤ん坊が逆子だね」という淡々とした言葉だった。
「逆子……?」
「そう、逆子。通常子供は生まれる時に出てきやすいように頭が下を向くんだよ、だけど君のお腹の子はどうやら頭が上にあるようだ」
「それって……」
「出産には常に危険が伴う、その中のひとつだよ」
僕が不安そうな顔を見せると、カイル先生は「大丈夫だよ」と言いはしたのだが、後日先生がエディを訪ね、何事か相談しているのを僕は聞いてしまった。
もし万が一の場合、子供を選ぶのか、母体を選ぶのか、たぶんそんな話をしていたのだと思う、僕は絶望に打ちひしがれていた。
ようやく授かった命、ここまで大事に大事に育ててきたのに、こんなのってあんまりだ!
「アジェ、どうした……?」
カイル先生が帰った後、エディが優しく僕に問いかける。
「僕、絶対産むからね」
「……アジェ」
「誰がなんと言おうと絶対産むから!」
僕が拳を握ってそう言うとエディは「すまん、これはきっと俺のせいだ」とそう言った。
「因果応報とでも言うのかな、こんな事になって初めて分かる。自分がその立場に立たなけりゃ分からないなんて、俺は本当に大馬鹿だ……」
「エディ……?」
「ちょうど今のお前くらいの時期だったんだ、俺はあいつを責め立てた、危うくあいつは流産しかけて、命だって危なかった。旦那は未だにあの時の事は許さないって言い続けている。俺はどこかで思っていた、結果、母子ともに無事で誰も死ななかったんだから良いじゃないかってな。でも、違う、そんな事は分からない、この恐怖は誰にも理解できない、俺とお前にしか分からない、俺は自分が情けない……今になって旦那のあの時の恐怖が分かるんだ、お前が死ぬかもしれない、腹の子が死んでしまうかもしれない、あまつさえ両方失うかもしれないなんて、そんな恐怖があの時の俺には分からなかった……」
エディは情けない顔で僕を抱き締める。
「僕は諦めないよ、因果応報なんてない、グノーもナダールさんも今、僕達がこうなっている事をそんな風に思ったりしない」
「分かってる、それでも、自分にできる事が何もないのが辛い。産むのはお前だ、俺は何もできない、事これに関しては、俺は無力で何もできない」
「傍にいて、こうして抱き締めていて、そして誰よりも僕がやり切るって信じていて」
「アジェ……」
「僕は、絶対死んだりしないし、この子も無事に産んでみせるから」
エディは更に僕を強く抱き締め、黙って僕の肩口に顔を埋めた。
結局逆子は治らないまま僕は出産を迎えた。出産は領主様のお屋敷で、僕の傍らにはエディがいて僕の手を握っている。部屋の外にはたぶん他にもたくさん、今か今かと子供の出産を待っている人達がいるのだと思う。でも、今の僕はそれどころではない。
「はぁ、んん、痛いっ、何コレ、苦し……っあ……」
波状で襲ってくる痛みに僕は思考も奪われて、泣き叫んでいた。そんな僕の手をエディはずっと困惑顔で握っている。
「痛い痛い痛い痛いっっ!!」
「うん、そうだね、だけどもう少しだよ、産んじゃえば楽になるからね」
そんな事は言われなくても分かってる! だけどその子供がなかなか出てこない。
もういつ出てきても不思議じゃない、そう何度も言われているのに子供はまだ産まれる気配を見せなくて、僕は苦しくて仕方がない。
やっぱり逆子のせいなのか? 子供はちゃんと産まれるの? 怖い、痛い、苦しい、怖い。
「見えてきた、アジェ君、頑張れ」
もう既に頑張ってる! これ以上どう頑張れって言うのさ!
激しい痛み、何かが出てくる、僕の中から出てくるのは……
叫びを上げて、僕は子供を産み落とす、産み落としたはずだ、急に身体の力が抜けた、けれど辺りはしんと静まり返って、聞こえるはずの、聞こえなければいけないはずの赤子の声が聞こえない。
「えでぃ……ねぇ、えでぃ……子供は? ねぇ、あかちゃんは!? ねぇ! ねぇってば、エディっっ!!」
僕の手を握るエディの手の力が強くなった。聞こえない産声、不安と恐怖、産まれた子供を見ているのであろうエディの瞳からぼろりと涙が零れた。
「男の子だ、アジェ……」
言葉と同時に小さな小さな泣き声が聞こえた。それはまるで子猫の鳴き声のようで、小さく儚く、それでもしっかりと僕の耳に届いた。
僕はその声を聞いて、もう堪えきれずに大声でぼろぼろと泣き出した。そんな僕の胸元に置かれた赤ちゃんはとても小さくて壊してしまいそうで怖かったのだけど、とても可愛くて、僕はいつまでも涙が止まらなかった。
出産からから数日、僕の周りはずっとお祭り騒ぎだった。
領主様も大喜びで、町の住民にふれて回るのであっという間にそれは町中に知れ渡り、次から次にお祝いの品が領主様の館に運び込まれたと僕はのちに聞いたのだけど、ちょっとその辺の記憶は曖昧であまり覚えていない。
何せ僕はとても疲れていて、息子を産んだ直後からまた寝たきり生活に逆戻りをしてしまったからだ。
息子に乳をやる事だけが僕の仕事で、それ以外はもう本当にひたすら寝ていた。
世の母親はもっとしっかりしているのだろうに、情けない事この上ない。けれどそんな僕をエディはひたすらひたすら甘やかす。今までも僕には激甘だった彼だけど、その甘やかし方は本当にそれでいいのか? というほどの甘やかし方で、僕はずいぶん怠惰な生活を送っている。
僕の出産はすぐにランティスにも伝わったようで、両親から物凄く豪華な金糸の入った産着とおくるみが贈られてきたのだけど、こんなのいつ着せるの? 勿体なくて着せられないよ!
「お前は幸せ者だねぇ」
僕は小さな我が子の小さな鼻を突く。産まれてきた事をこんなにたくさんの人に祝ってもらえる、産まれてすぐに捨てられた僕とは大違いだよ。
逆子で産まれた我が子は何かしらの障害が出る事も懸念されたのだけれど、特にそういった事もなく、普通にすくすくと成長している。思いのほか父親にそっくりだった息子の髪は金色で、瞳も綺麗な空の色だ。
「アジェ、少し散歩をしないか?」
エディが声をかけてきて、僕は笑顔で頷いた。エディは片手に息子を抱えて、もう片手を僕に差し出す。
「うふふ、どういう風の吹き回し? 今までこんな事してくれた事なかったのに」
僕達は手を繋いで歩いて行く。エディの歩幅は大きくて、僕は普段置いていかれる事も多いのだけど、今日のエディは僕に合わせてゆっくりゆっくり歩いてくれる。
「俺はいつも自分の事ばっかりで、他人の事をあまり考えてはこなかった。それでは駄目だとしみじみそう思っているんだよ」
エディは苦笑したようにそう言った。
町に唯一ある小さな教会、その鐘つき堂に上がって町を見渡す。ルーンの町はそこまで大きな町ではない、高さのある建物もほとんどなくて、そこからは町を一望できる。
エディは息子を抱え直して、彼にその町を見せるように言った。
「ロディ見えるか、ここがお前の生まれた町で、お前が暮らす町、そしていずれはお前が治める土地になる。俺はそれまでこの土地を守ってみせるから、お前も元気に大きくなれ。産まれてきてくれて、本当にありがとう」
日暮れの町は赤く染まって、とても綺麗な景色だ。小さな息子は何を言われているのかも分かってはいないのだろうが、目を細めて笑みを見せた。
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