狐の国のお嫁様 ~紗国の愛の物語~

真白 桐羽

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沫雪-あわゆき-1

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 その日は寒い日だった。
この世界に来て初めて見る雪。
地面に降っても積もることなく消えていく、そんな儚い小さな雪が静かに降っていた。

僕は、学び舎が休みの今日、翠に書を教えるために大きなテーブルのある部屋にいた。

翠はふんふんと何かを歌いながら楽しそうにやってきて、小さな手で叔母である久利紗様にいただいたお祝いの筆を並べている。
翠付きの侍女たちは、時には手を差し伸べてそれを手伝うが「僕がやるの」といって置き直したりしていて、とてもかわいい。

「翠、今日はどんな字を練習しようか……もう名前はきれいに書けるものね」

翠が学び舎に通い出してから今日まで、一通りの紗国の常用漢字を教え込んだ。
黒板や教科書に書いてあることがわからないことがないようにと思ったのだけど。
意外にも本などを見ながらの座学が少なく実技が多く、提出物に名前を書く程度で済んでいるらしい。
なので、書き慣れた自分の名前「翠紗」はとても良く書けるのだ。

「はい!」

翠は嬉しそうに胸を張った。

すっかり冬支度になった着物はあわせとなっている。
すこしふっくらした生地の、かわいらしい黄色の着物とオレンジの着物を重ねて紺色の袴を履いている。

書を練習するから汚れてもいいようにとの配慮で、その上からちいさなエプロンを付けられてちょこんと座った翠はにっこり笑って言った。

「僕はおうひさまのように字が上手になりたいのです」
「うん、そう?僕みたいになんて、うれしいな」

僕はそんな事を言われて嬉しすぎてちょっと照れる……

「じゃあ、墨を磨ろうね、そうそううまいよ、力を入れずにゆっくりとね。早く磨ろうとしたら良い色が出ないから、ゆっくりね」

今朝とったばかりの清水を小さな水差しで差しながら、ゆっくりと円を描くように磨っている子を見守った。
僕の墨はサヨが磨ってくれていて、見守るだけでいいのだ。
助手がいるなんて、先生っぽい!よね。

「うん、艶のいい墨が磨れたね」

僕が声を掛けると、翠はにこっとしてから、墨を横に置き、筆をとった。

「今日は、おうさまとおうひさまのお名前を練習したい……のです」

ちょっと恥ずかしそうにそう呟いた翠は、照れ隠しなのかちょっと拗ねたような顔で上目遣いに見つめてくる。

「そう?わかったよ。蘭紗様の紗の字は翠と一緒だから蘭を練習しようね」
「はい!」

僕が翠に見せるために筆をとったその時だった。
襖がスッと開けられ、緊張感の漂う声で告げられたのだ。

「薫様……ハリル様が危篤でございます」
「え……」

僕の手から筆が落ちて半紙にボトリと落ちた。
脳裏に浮かんだのは、痩せて頬がこけて眼窩が落ち込んだあの覇気のない顔だ。
誰にも名さえ告げずに一切を拒んでいたが、僕との会話で怒りを吐き出して少しは落ち着いてくれていたのに。

あれから僕は3日に一度は訪れてハリル様との時間を過ごすよう心がけていた。
僑先生に相談して、負担のない頻度にしたのだ。
ベッドから出ることができないハリル様は、時には椅子に座ってみたいとおっしゃったり、止められている食事をしたいとおっしゃったり。
僕と侍女だけには色々とわがままも出るようになっていた。

心が和らいでいくのを感じていたけれど……体の限界がこんなにも早く来てしまうなんて。

「薫様……」

仙が心配気に側に寄ってきた。
僕は乱れる呼吸を整えようと一生懸命に深呼吸をした。
そして振り向いて固まっている翠を見た。

「翠……ごめんね。行かないといけないことができちゃったみたい」
「ごいっしょに行きます」

翠はテトテトっと近寄ってきて僕の震える手を握ってくれた。
そこから温かい体温が伝わってきて、ようやく一息つけた。

「でもね、翠……」

危篤……亡くなるところ……ということだ。
そんなところを見せていいのだろうか……

「クーちゃんも一緒にいくのがいいと思うの」

僕を真剣に見つめる翠は、僕の手をしっかり握ったまま「クーちゃん」を呼んだ。
スッと小鳥の姿で現れたクーちゃんは「クルゥ」と一鳴きすると、肩に止まる。
そのまま呼吸を整えて頑張って立ち上がって、歩き出す。

頬にやわらかなクーちゃんの羽毛が当たっていて、右手には翠の暖かな小さな手があって。
僕にはこんなにも色々と支えてくれるものがあるのに……ハリル様は。

ハリル様の寝所の次の間には、喜紗さんと蘭紗様、そして救出にもあたった主治医の僑先生がいた。

「もう、誰ともお会いしたくないそうです。私ができる処置も、もはやございません。あとは静かに息を引き取られるだけとなります。薫様に側にいてほしいと、そう願われておられて……どうなさいますか?」

僑先生はじっと僕を見た。
力及ばずという無力感に苛まれている僕と違って、凛としている。
さすが医師だ。

「……薫」

蘭紗様は僕を抱きしめた。

「嫌なら無理をするな。いかに父のお嫁様といえども……我にはそなたの方が大事だ。嫌なのなら」
「いえ、嫌なんかじゃありません……僕をお望みなら行かせてください」
「……そうか」

蘭紗様は僕を心配気に見つめながらも身を引いてくれた。
手をもんで心配している喜紗さんは、僕を見つめて「頼みます」と頭をさげてくれた。

僕は翠を蘭紗様に預けようとしたのだけど、翠は頑なに手を離さないので、仕方なく一緒に入ることにした。
クーちゃんは肩に止まったままだ。
襖を静かに開けると、ベッドから人の気配がする。
だが、布団の上掛けは人が入っているとは思えないほど膨らみがない。
体は痩せに痩せて、ほとんど骨と皮しかないのだ……。

「薫かい?」
「はい、あの……子が一緒にどうしてもいたいと」
「子?ああ、翠か……おいで」


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