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桜の章
第十一話
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フェルナとは、ローマ神話の美と幸せの女神だという。そんな神様をモチーフにした店「JKお悩み相談所フェルナ」こそが、桜の勤め始めた店の名前だった。
面接を受けたときは年齢を偽って高校生として登録したのだが、いざ入ってみると高校生だけでなく中学生も在籍していたので、桜は『ワカバ』の名で登録し、そのまま中学生として勤務することにした。
オーナーはごく普通の人だった。絵画集めが趣味という金持ちの陽気なおじさんで、桜からすれば普通過ぎることが逆に怖かった。
店は繁華街の裏路地にあり、付近の建物は居酒屋か、バーか、スピリチュアルな怪しいお店が多かった。フェルナは一見するとそんなスピリチュアルなお店の一つで、この付近の店の中では小ぎれいに見える方であった。だが桜が店内で行う仕事といえば、占いでも相談でも何でもない、ひたすら男の相手である。始める前は、風俗なんてものは勤めさえすれば何とかなるものだと勝手に思っていたが、やってみるとそう甘いものではなかった。
まず客がなかなかつかない。フェルナでたくさん稼いでいる子は、ほとんど羽振りのいい常連さんがついている。彼女たちは過剰ともいえるほどの愛嬌を振りまき、自らが率先してサービスを行った。だから追加でお金を貰えたり、そうでなくとも次の指名を取り付けている。そんな戦いの場であるから、顔がいいわけでもなく愛想もよくない桜に客がつかないのは当然のことなのかもしれない。顔があまりよくない子の中には、本番をオッケーにしている子もいた。本番オッケーの子にはお客さんに分かるように顔写真にさりげなくマークが入るようになっているので、オッケーにすれば一定のお客さんは間違いなくつくのだが、桜はどうしても本番はやりたくなかった。桜は本番をやることが汚らわしいことだという考えを持っているわけではなかったが、本番をやってお金を稼ぐことは「私」である必要性が感じられなかった。女なら誰もが使える最後の手段に出ることは、自分が自分であることを裏切ることになる。というのは建前で、男性に対する極めて恐ろしい記憶のため、桜に性行為の拒絶反応があることが大きかった。
本番なしでどうにかしてお金を稼ぐために、桜は自分の性格を偽って極めて明るく振舞った。どんなに気持ちの悪い客にも、どんなに気色の悪い注文にも、桜はなるべく笑顔で答えた。今まで紡いできた「桜」の記憶を、その際はそっと胸の奥にしまい込んだ。
家はオーナーの知り合いの怪しい不動産の男から借りた。オーナーは好きにはなれない人物だが、基本的には桜に親切にしてくれた。家を借りたときも、絵師に頼んで部屋に巨大な壁画を描いてもらったことを上機嫌に語っていた。桜に借りることができたのは一番安い六畳一間の汚い部屋だけだったが、気にもしなかった。夏になると蒸し暑くて眩暈がしそうになったが、桜は扇風機一台買わずにできる限り出費を節約して、お金をため続けた。
一人きりで働き続ける日々のなかで、桜はたまに両親のことを考えることがある。
実の父親は自堕落な男だった。酒を飲み、ろくに働きもしない。母親はそんな父を周囲に隠していた。あたかも普通のサラリーマンであるかのように近所には風評していた。幼いころの桜は無精な父の姿を隠すことが不思議でたまらなかった。一度なぜ嘘を言うのかを母に尋ねると、みっともないからだと言われた。あんたも絶対友達に言っちゃだめだよ、と。桜の母は、世間体というものを過剰なまでに気にしている節があった。だが真面目な家庭という風体を装うことにも限界が訪れる。
桜が小学校4年生の時に両親は離婚した。桜は母に引き取られたが、父は多額の借金を抱えていたようで、桜の養育費を払うどころではなかった。家は母の両親が援助して買ったものであったから引っ越しはせずに済んだが、貯蓄は減る一方なので、間もなく母は水商売を始めるようになった。ほぼ毎日夜8時に家を出て、朝方まで帰ってこない。当時桜は母が何をしているのかあまり分かっていなかったが、以前にもまして母の疲労の色が濃くなっていることだけはよく分かった。母と一緒にご飯を食べることがなくなった。普段の生活で母と話すことが極端に少なくなった。桜の中で、母が自分にとってどういう存在なのかがどんどん分からなくなってゆく。そしてある時、疲れ切った顔で家に帰ってきた母から、桜は忘れられぬ言葉を聞いてしまう。
「今日の男も子連れは嫌だってよ、まったく。あんたがいるとなんでも不自由だねえ」
母はこの時かなり酔っていたし、おぼつかない話を聞くに、今日の男は相当いい男だったらしい。しかしだからこそ桜は母の台詞には本音を感じてしまった。
ああ、私はいらない子供なんだ。はっきりそう感じた記憶。何物にも揺るがぬ圧倒的な虚無感だった。自分がモノを見る目で酔った母を見下ろしていた光景が、今でもフィルムのように彼女の網膜に焼き付いている。
この日から約1年半後、母はようやくスーパーを経営する年上の男とお付き合いを始めることになった。
「あんたのお父さんと違って、よく働く、お金もたっぷり持っている素晴らしい人だ」
母はこんな風にその男のことを自慢した。しかし桜は母の言葉はお金のことにしか触れていないから、本当にその男が本当の素晴らしい人なのか疑いを持っていた。
それでもともかく我が家が貧乏から脱出できるのは嬉しいことだし、母がこれまでのように過酷に働かなくて済むようになるなら別にいいなと思っていた。ところが、それが都合の良すぎる考えだったことがすぐ後に分かる。あの男が初めて家に来た時の事を思い出すと、今でも桜は震えが止まらない。
奴は少し太った大柄の、人のよさそうな人物だった。
「桜、トドロキさんが来たわよ。挨拶しなさい」
母は玄関から桜に声をかける。
「は、はじめまして。皆川桜です」
すぐに玄関へ出て、戸惑いながら挨拶をする。ジャージ姿で大きなカバンを背負ったトドロキは、口を大きく開いてよく通る声で言った。
「お、君が桜ちゃんか。可愛い子だねえ。今何年生?」
「中学1年生です」
「今が一番楽しい時期だねえ。いいねえ」
何がおかしいのかトドロキは、はっはっはと大きな笑い声を立てた。
桜はどうしていいのかわからず戸惑った顔を浮かべる。
「ちょっと愛想の悪い子だけど根はいい子なのよ」
見かねた母は咎めるような顔で、もっと笑顔にしてなさい、と無言の合図を送ってくる。
仕方なく桜は引きつった笑みを浮かべた。
その後トドロキと母と桜は三人で夕食を囲むことになった。
「いやー、やっぱり陽子さんの作るハンバーグは一味違いますな。はっはっは」
トドロキは終始上機嫌だった。
「トドロキさん、その大きな鞄には何が入ってるの?」
トドロキが鞄を開けようとしたとき母が尋ねた。
「ああこれは」トドロキが60㎝はありそうな大きな物体を出す。
「ソビエト連邦が1960年代に開発した、水中戦のための特殊な銃のプラモデルなんだ。僕はプラモデルが好きでねえ」
「へえ、格好いいですね!」
母が白々しい大げさなリアクションをとる。
二人の会話はどうもかみ合っておらず桜はトドロキにまだ心を許せていなかったが、またこれから母の手作り料理が食べられるようになるならトドロキと暮らすのも悪くはないと思っていた。
その晩夜遅くまで酒を飲みかわす母とトドロキを置いて、桜は一人自室に戻る。早めにお風呂を済ませて、寝る前に本を読んでいた。
いつものように今日という一日が終わるはずであった。
十二時を過ぎたころであっただろうか。そろそろ桜が本格的に眠気を感じてきたところで、突然ガチャと音を立てて何者かが部屋に入ってきた。
その大きな影はトドロキだった。トドロキは晩御飯を一緒に食べた時とは違って無表情に、じっと桜の方を見つめてきた。
「何ですか……」声にならないくらい細い言葉が出た。とてつもなく悪い予感がする。
トドロキは無言のまま桜の部屋に身を滑らせてゆっくりドアノブを締めると、そのまま桜に向かって体ごと倒れこんできた。
「嫌っ!」汗とアルコールの混じった身体の臭いがひどく気持ち悪い。桜の全身から拒否反応が出ていた。
「はいはい、おじさんは怖くないからー。大人しくしろよお」
彼女一人では対抗できないことを知ってか、トドロキが最初に発したその言葉は、弄ぶような嘲笑を含んでいた。
トドロキは桜の細い体を、両腕で鷲掴みしてベッドに押し付ける。
桜も抵抗しようとするが、押し付けられて身動きをとることができない。疲れが出て力が弱まってきたところで、トドロキは片腕を背中から外して、彼女のズボンに手をかけた。ゴム紐の寝間着はその手を押しとどめる力もなく、いとも簡単に桜の下着を露わにする。トドロキはいつの間にか、下半身をむき出しにしていた。芋虫のような形をした黒いトドロキのそれは、血管が浮き出るほどに怒張していた。
トドロキは無造作に彼女の下をまさぐると、下着を投げ捨てて屹立した自分のものを当てる。間を置かずに来る裂けるような痛み。
「お母さん、助けて……。真矢……」
股間から血が流れた。
トドロキが部屋を出て、彼女の家から車で去っていったのは、恐ろしい瞬間からたっぷり1時間が過ぎようとしている時分だった。
桜はしばらくの間、ベットから起き上がることができなかった。自分の身の上に起きたことを理解しようとするのに精一杯で、頭がうまく働かなかった。なぜだか自分の意志とは無関係に涙が頬を伝う。
この事は母には言ってはいけないと思った。母にすべてを話すのはとても怖かった。それが正しい道なのは頭では分かっていたがとてもそんな気にはなれない。
桜はまず自身の体の血を拭き取った。それから自らの体液とトドロキの精液のこびりついた異様な匂いのするシーツを丸めてベッドの下に押し込む。触るのも汚らわしく出来ることなら今すぐに捨ててしまいたかった。男特有の汗の籠もった部屋の空気を変える為に窓は全開にしておく。
ひとまずの作業が終わっても、自分の体がどうなってしまうのかが不安で、トドロキがもう一度やってくるのが怖くてこの夜は眠れなかった。
次の日桜は、学校をさぼって図書館へ出かけた。自分の身に何が起こったのかをちゃんと調べなければと思ったのだ。
「中学生」「性行為」「強姦」まずは様々な本を収集した。
本に載っている様々な事例から、桜の体験に当てはまるものがたくさん見つかった。それらの本を読んで分かったことは、自分がトドロキにレイプをされたこと、妊娠は恐らくしていないこと、幸い自分に後遺症はなく子宮も無事であることである。
もちろんこれは警察に言うべきことなのだろう。だが桜は自分が男にレイプされた可哀そうな女となるのが怖かった。
世の中には中学生だろうと彼氏とセックスしてる子なんて大勢いる、だから私もその一人だと思えばいいんだ。桜はそうやって自分の身に起きたことを許容した。これからトドロキにさえ会わなければいいんだ。トドロキにさえ近づかなければ。
そう自分では納得しても、実際に母にも誰にも相談できないのは辛いことでもあった。
本当は真矢には言いたかった。自分に何が起こったのか、私はどうしたらいいのか、とりとめもないことを喚いて吐露したかった。
けれども桜は、真矢の前で自分がそんな姿を晒すことはどうしてもできなかった。真矢とは週に1回会っていたが、桜は明るい姿を取り繕って、トドロキに出会う前と変わらない様子を心掛けるようにしていた。男は2週に一回程度しか家には来なかったが、いつでもすぐ後ろにトドロキがいるのではないかという強迫観念が桜を掴んで離さない。
「トドロキが居るときは家には帰らない」母にはそう伝えた。
「どうして?」と問われて、「胸を触られた」と答える。
すると母は、「ただの冗談でしょう、気にしすぎよ」とさも大したことではないかのように言った。桜には母の態度から、安定した生活を失いたくないという彼女の願望が見え隠れしているようにしか見えなかった。やはりどうしても、桜は母に全てを話すことはできなかった。
それから桜の生活は大きく変わってしまった。トドロキが家に来た日は恐ろしくて家に帰ることができない。桜は真夜中に町を取り留めもなく歩いたり、コンビニで雑誌を立ち読みしたりして時間を潰し、朝方にようやく帰宅した。寝不足のまま学校に通い、授業中に寝ることが増えた。
「桜、最近顔色悪くないか?」
ある日いつもの神社の下で、真矢にそんな心配をされた。
「えーそんなことないよ、大体こんなもんだって」
すでに日は暮れて、路上は冷たくなり始めていた。桜はその闇を払うように、できるだけ明るい口調で言った。
「俺見たんだけど一昨日の夜さ、桜すげー遅い時間にコンビニにいなかった?」
一昨日はトドロキが家に来た日で、確かに桜はコンビニで長らく時間を潰していた。でもどうしてそれを真矢が。
「えっ、いや……」うまい言い訳が思いつかない。
狼狽が伝わったのだろうか。真矢はいきなり桜の手首を掴んできた。
「桜、前にお母さんの彼氏がいやな奴とか言ってたよな?胸を触られたとか。まだ何か困ってることがあるなら教えてくれないか?」
真矢の眼差しは真剣だった。桜はその剣幕に1歩後ずさりする。
なぜだか体が震えていた。どうして私は震えているのだろう。真矢が怖いのだろうか、いやそんなことはない。真矢のことは一番信頼している。そう、だからこそ真矢に自分の闇が暴かれてしまうのが、そうして真矢が自分から離れてしまうのが怖いのだ。
「平気だよ!あの人はただのプラモデル好きのおっさんだから。最初に会った時もなんか水中で使う銃とかを大切にしててバカみたいだったんだから!それより真矢もどうしてそんな所にいたの?」
桜は反射的に話の矛先をそらし、真矢の手を払った。
「俺は親と喧嘩したんだ。勉強しろってばっかり口煩くて、絵を描いてるだけで文句言ってくるし本当にめんどくさい」
真矢は口を尖らせている。
「そうなんだ」自分が振った話だが、桜は自らの悩みがあまりに周囲と異質なことを再認識して真矢にある種の嫉妬を覚えた。
「私も、もうすぐ家を出るから」冗談ではなく本当に。
真矢が困惑してしまいそうだから後半の言葉は飲み込んだ。
「もう少し我慢しようぜ、お互いに」
「うん」
真矢は頭の後ろで手を組んだ。少しでも私に気楽さを与えようとしている。真矢はとても優しい、それはわかっている。
だが桜は、これ以上今の生活を我慢するなんて絶対にできなかった。
時折、思い起こすような強い記憶はこのくらいのものだ。その後の誰にも頼ることができない逃避行などはいくら辛かろうと、トドロキに怯えずに済むだけマシだった。
過去を想起すると、結局今はそれほど悪くはないような気分になる。
家には二度と帰れない。今更後には引けないのだ。どんなに辛いことでも乗り越えてやる。私にはそれができるんだ。
そうやって自分を励まして日々を生きて、いつの間にか桜が家を飛び出した日から1年が経とうとしていた。
面接を受けたときは年齢を偽って高校生として登録したのだが、いざ入ってみると高校生だけでなく中学生も在籍していたので、桜は『ワカバ』の名で登録し、そのまま中学生として勤務することにした。
オーナーはごく普通の人だった。絵画集めが趣味という金持ちの陽気なおじさんで、桜からすれば普通過ぎることが逆に怖かった。
店は繁華街の裏路地にあり、付近の建物は居酒屋か、バーか、スピリチュアルな怪しいお店が多かった。フェルナは一見するとそんなスピリチュアルなお店の一つで、この付近の店の中では小ぎれいに見える方であった。だが桜が店内で行う仕事といえば、占いでも相談でも何でもない、ひたすら男の相手である。始める前は、風俗なんてものは勤めさえすれば何とかなるものだと勝手に思っていたが、やってみるとそう甘いものではなかった。
まず客がなかなかつかない。フェルナでたくさん稼いでいる子は、ほとんど羽振りのいい常連さんがついている。彼女たちは過剰ともいえるほどの愛嬌を振りまき、自らが率先してサービスを行った。だから追加でお金を貰えたり、そうでなくとも次の指名を取り付けている。そんな戦いの場であるから、顔がいいわけでもなく愛想もよくない桜に客がつかないのは当然のことなのかもしれない。顔があまりよくない子の中には、本番をオッケーにしている子もいた。本番オッケーの子にはお客さんに分かるように顔写真にさりげなくマークが入るようになっているので、オッケーにすれば一定のお客さんは間違いなくつくのだが、桜はどうしても本番はやりたくなかった。桜は本番をやることが汚らわしいことだという考えを持っているわけではなかったが、本番をやってお金を稼ぐことは「私」である必要性が感じられなかった。女なら誰もが使える最後の手段に出ることは、自分が自分であることを裏切ることになる。というのは建前で、男性に対する極めて恐ろしい記憶のため、桜に性行為の拒絶反応があることが大きかった。
本番なしでどうにかしてお金を稼ぐために、桜は自分の性格を偽って極めて明るく振舞った。どんなに気持ちの悪い客にも、どんなに気色の悪い注文にも、桜はなるべく笑顔で答えた。今まで紡いできた「桜」の記憶を、その際はそっと胸の奥にしまい込んだ。
家はオーナーの知り合いの怪しい不動産の男から借りた。オーナーは好きにはなれない人物だが、基本的には桜に親切にしてくれた。家を借りたときも、絵師に頼んで部屋に巨大な壁画を描いてもらったことを上機嫌に語っていた。桜に借りることができたのは一番安い六畳一間の汚い部屋だけだったが、気にもしなかった。夏になると蒸し暑くて眩暈がしそうになったが、桜は扇風機一台買わずにできる限り出費を節約して、お金をため続けた。
一人きりで働き続ける日々のなかで、桜はたまに両親のことを考えることがある。
実の父親は自堕落な男だった。酒を飲み、ろくに働きもしない。母親はそんな父を周囲に隠していた。あたかも普通のサラリーマンであるかのように近所には風評していた。幼いころの桜は無精な父の姿を隠すことが不思議でたまらなかった。一度なぜ嘘を言うのかを母に尋ねると、みっともないからだと言われた。あんたも絶対友達に言っちゃだめだよ、と。桜の母は、世間体というものを過剰なまでに気にしている節があった。だが真面目な家庭という風体を装うことにも限界が訪れる。
桜が小学校4年生の時に両親は離婚した。桜は母に引き取られたが、父は多額の借金を抱えていたようで、桜の養育費を払うどころではなかった。家は母の両親が援助して買ったものであったから引っ越しはせずに済んだが、貯蓄は減る一方なので、間もなく母は水商売を始めるようになった。ほぼ毎日夜8時に家を出て、朝方まで帰ってこない。当時桜は母が何をしているのかあまり分かっていなかったが、以前にもまして母の疲労の色が濃くなっていることだけはよく分かった。母と一緒にご飯を食べることがなくなった。普段の生活で母と話すことが極端に少なくなった。桜の中で、母が自分にとってどういう存在なのかがどんどん分からなくなってゆく。そしてある時、疲れ切った顔で家に帰ってきた母から、桜は忘れられぬ言葉を聞いてしまう。
「今日の男も子連れは嫌だってよ、まったく。あんたがいるとなんでも不自由だねえ」
母はこの時かなり酔っていたし、おぼつかない話を聞くに、今日の男は相当いい男だったらしい。しかしだからこそ桜は母の台詞には本音を感じてしまった。
ああ、私はいらない子供なんだ。はっきりそう感じた記憶。何物にも揺るがぬ圧倒的な虚無感だった。自分がモノを見る目で酔った母を見下ろしていた光景が、今でもフィルムのように彼女の網膜に焼き付いている。
この日から約1年半後、母はようやくスーパーを経営する年上の男とお付き合いを始めることになった。
「あんたのお父さんと違って、よく働く、お金もたっぷり持っている素晴らしい人だ」
母はこんな風にその男のことを自慢した。しかし桜は母の言葉はお金のことにしか触れていないから、本当にその男が本当の素晴らしい人なのか疑いを持っていた。
それでもともかく我が家が貧乏から脱出できるのは嬉しいことだし、母がこれまでのように過酷に働かなくて済むようになるなら別にいいなと思っていた。ところが、それが都合の良すぎる考えだったことがすぐ後に分かる。あの男が初めて家に来た時の事を思い出すと、今でも桜は震えが止まらない。
奴は少し太った大柄の、人のよさそうな人物だった。
「桜、トドロキさんが来たわよ。挨拶しなさい」
母は玄関から桜に声をかける。
「は、はじめまして。皆川桜です」
すぐに玄関へ出て、戸惑いながら挨拶をする。ジャージ姿で大きなカバンを背負ったトドロキは、口を大きく開いてよく通る声で言った。
「お、君が桜ちゃんか。可愛い子だねえ。今何年生?」
「中学1年生です」
「今が一番楽しい時期だねえ。いいねえ」
何がおかしいのかトドロキは、はっはっはと大きな笑い声を立てた。
桜はどうしていいのかわからず戸惑った顔を浮かべる。
「ちょっと愛想の悪い子だけど根はいい子なのよ」
見かねた母は咎めるような顔で、もっと笑顔にしてなさい、と無言の合図を送ってくる。
仕方なく桜は引きつった笑みを浮かべた。
その後トドロキと母と桜は三人で夕食を囲むことになった。
「いやー、やっぱり陽子さんの作るハンバーグは一味違いますな。はっはっは」
トドロキは終始上機嫌だった。
「トドロキさん、その大きな鞄には何が入ってるの?」
トドロキが鞄を開けようとしたとき母が尋ねた。
「ああこれは」トドロキが60㎝はありそうな大きな物体を出す。
「ソビエト連邦が1960年代に開発した、水中戦のための特殊な銃のプラモデルなんだ。僕はプラモデルが好きでねえ」
「へえ、格好いいですね!」
母が白々しい大げさなリアクションをとる。
二人の会話はどうもかみ合っておらず桜はトドロキにまだ心を許せていなかったが、またこれから母の手作り料理が食べられるようになるならトドロキと暮らすのも悪くはないと思っていた。
その晩夜遅くまで酒を飲みかわす母とトドロキを置いて、桜は一人自室に戻る。早めにお風呂を済ませて、寝る前に本を読んでいた。
いつものように今日という一日が終わるはずであった。
十二時を過ぎたころであっただろうか。そろそろ桜が本格的に眠気を感じてきたところで、突然ガチャと音を立てて何者かが部屋に入ってきた。
その大きな影はトドロキだった。トドロキは晩御飯を一緒に食べた時とは違って無表情に、じっと桜の方を見つめてきた。
「何ですか……」声にならないくらい細い言葉が出た。とてつもなく悪い予感がする。
トドロキは無言のまま桜の部屋に身を滑らせてゆっくりドアノブを締めると、そのまま桜に向かって体ごと倒れこんできた。
「嫌っ!」汗とアルコールの混じった身体の臭いがひどく気持ち悪い。桜の全身から拒否反応が出ていた。
「はいはい、おじさんは怖くないからー。大人しくしろよお」
彼女一人では対抗できないことを知ってか、トドロキが最初に発したその言葉は、弄ぶような嘲笑を含んでいた。
トドロキは桜の細い体を、両腕で鷲掴みしてベッドに押し付ける。
桜も抵抗しようとするが、押し付けられて身動きをとることができない。疲れが出て力が弱まってきたところで、トドロキは片腕を背中から外して、彼女のズボンに手をかけた。ゴム紐の寝間着はその手を押しとどめる力もなく、いとも簡単に桜の下着を露わにする。トドロキはいつの間にか、下半身をむき出しにしていた。芋虫のような形をした黒いトドロキのそれは、血管が浮き出るほどに怒張していた。
トドロキは無造作に彼女の下をまさぐると、下着を投げ捨てて屹立した自分のものを当てる。間を置かずに来る裂けるような痛み。
「お母さん、助けて……。真矢……」
股間から血が流れた。
トドロキが部屋を出て、彼女の家から車で去っていったのは、恐ろしい瞬間からたっぷり1時間が過ぎようとしている時分だった。
桜はしばらくの間、ベットから起き上がることができなかった。自分の身の上に起きたことを理解しようとするのに精一杯で、頭がうまく働かなかった。なぜだか自分の意志とは無関係に涙が頬を伝う。
この事は母には言ってはいけないと思った。母にすべてを話すのはとても怖かった。それが正しい道なのは頭では分かっていたがとてもそんな気にはなれない。
桜はまず自身の体の血を拭き取った。それから自らの体液とトドロキの精液のこびりついた異様な匂いのするシーツを丸めてベッドの下に押し込む。触るのも汚らわしく出来ることなら今すぐに捨ててしまいたかった。男特有の汗の籠もった部屋の空気を変える為に窓は全開にしておく。
ひとまずの作業が終わっても、自分の体がどうなってしまうのかが不安で、トドロキがもう一度やってくるのが怖くてこの夜は眠れなかった。
次の日桜は、学校をさぼって図書館へ出かけた。自分の身に何が起こったのかをちゃんと調べなければと思ったのだ。
「中学生」「性行為」「強姦」まずは様々な本を収集した。
本に載っている様々な事例から、桜の体験に当てはまるものがたくさん見つかった。それらの本を読んで分かったことは、自分がトドロキにレイプをされたこと、妊娠は恐らくしていないこと、幸い自分に後遺症はなく子宮も無事であることである。
もちろんこれは警察に言うべきことなのだろう。だが桜は自分が男にレイプされた可哀そうな女となるのが怖かった。
世の中には中学生だろうと彼氏とセックスしてる子なんて大勢いる、だから私もその一人だと思えばいいんだ。桜はそうやって自分の身に起きたことを許容した。これからトドロキにさえ会わなければいいんだ。トドロキにさえ近づかなければ。
そう自分では納得しても、実際に母にも誰にも相談できないのは辛いことでもあった。
本当は真矢には言いたかった。自分に何が起こったのか、私はどうしたらいいのか、とりとめもないことを喚いて吐露したかった。
けれども桜は、真矢の前で自分がそんな姿を晒すことはどうしてもできなかった。真矢とは週に1回会っていたが、桜は明るい姿を取り繕って、トドロキに出会う前と変わらない様子を心掛けるようにしていた。男は2週に一回程度しか家には来なかったが、いつでもすぐ後ろにトドロキがいるのではないかという強迫観念が桜を掴んで離さない。
「トドロキが居るときは家には帰らない」母にはそう伝えた。
「どうして?」と問われて、「胸を触られた」と答える。
すると母は、「ただの冗談でしょう、気にしすぎよ」とさも大したことではないかのように言った。桜には母の態度から、安定した生活を失いたくないという彼女の願望が見え隠れしているようにしか見えなかった。やはりどうしても、桜は母に全てを話すことはできなかった。
それから桜の生活は大きく変わってしまった。トドロキが家に来た日は恐ろしくて家に帰ることができない。桜は真夜中に町を取り留めもなく歩いたり、コンビニで雑誌を立ち読みしたりして時間を潰し、朝方にようやく帰宅した。寝不足のまま学校に通い、授業中に寝ることが増えた。
「桜、最近顔色悪くないか?」
ある日いつもの神社の下で、真矢にそんな心配をされた。
「えーそんなことないよ、大体こんなもんだって」
すでに日は暮れて、路上は冷たくなり始めていた。桜はその闇を払うように、できるだけ明るい口調で言った。
「俺見たんだけど一昨日の夜さ、桜すげー遅い時間にコンビニにいなかった?」
一昨日はトドロキが家に来た日で、確かに桜はコンビニで長らく時間を潰していた。でもどうしてそれを真矢が。
「えっ、いや……」うまい言い訳が思いつかない。
狼狽が伝わったのだろうか。真矢はいきなり桜の手首を掴んできた。
「桜、前にお母さんの彼氏がいやな奴とか言ってたよな?胸を触られたとか。まだ何か困ってることがあるなら教えてくれないか?」
真矢の眼差しは真剣だった。桜はその剣幕に1歩後ずさりする。
なぜだか体が震えていた。どうして私は震えているのだろう。真矢が怖いのだろうか、いやそんなことはない。真矢のことは一番信頼している。そう、だからこそ真矢に自分の闇が暴かれてしまうのが、そうして真矢が自分から離れてしまうのが怖いのだ。
「平気だよ!あの人はただのプラモデル好きのおっさんだから。最初に会った時もなんか水中で使う銃とかを大切にしててバカみたいだったんだから!それより真矢もどうしてそんな所にいたの?」
桜は反射的に話の矛先をそらし、真矢の手を払った。
「俺は親と喧嘩したんだ。勉強しろってばっかり口煩くて、絵を描いてるだけで文句言ってくるし本当にめんどくさい」
真矢は口を尖らせている。
「そうなんだ」自分が振った話だが、桜は自らの悩みがあまりに周囲と異質なことを再認識して真矢にある種の嫉妬を覚えた。
「私も、もうすぐ家を出るから」冗談ではなく本当に。
真矢が困惑してしまいそうだから後半の言葉は飲み込んだ。
「もう少し我慢しようぜ、お互いに」
「うん」
真矢は頭の後ろで手を組んだ。少しでも私に気楽さを与えようとしている。真矢はとても優しい、それはわかっている。
だが桜は、これ以上今の生活を我慢するなんて絶対にできなかった。
時折、思い起こすような強い記憶はこのくらいのものだ。その後の誰にも頼ることができない逃避行などはいくら辛かろうと、トドロキに怯えずに済むだけマシだった。
過去を想起すると、結局今はそれほど悪くはないような気分になる。
家には二度と帰れない。今更後には引けないのだ。どんなに辛いことでも乗り越えてやる。私にはそれができるんだ。
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