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137.山登りの遭難①(怖さレベル:★☆☆)

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(怖さレベル:★☆☆:微ホラー・ほんのり程度)

いやぁ、山はいいですよ。

四季折々に咲き乱れる花々。
せわしない日常を忘れられる解放感。
適度な運動による、ストレス発散。

わたしは、登山が好きでして。
今までいったい何度、いろいろな山に挑戦したことか。

今となってはいい歳したオジサンだし、
あんまりハードな山には登るな、とは家族に言われてましてねぇ。

だから、今では仲間たちを呼んで、
のんびりと複数人で登るようにしていますが、
まぁ、若い時には無茶なこともやってねぇ。

ひとりで高い山に挑戦して遭難しかけたり、
装備が甘くて凍えかけたり……
若気の至りを、ようやったもんですよ。

おっと、怖い話、でしたね。

今回お話しますのは、
そんな無謀なチャレンジをよくやっていたわたしが、
けっしてひとりで山に登らなくなった理由について、です。

あの頃はまだ定年前で、
年度初めから毎日仕事が忙しくってねぇ。

それまでは休みの日、定期的に行っていた山登りにも、
しばらく出かけられない日が続いていました。

人間、いくら趣味とはいえ――
いや、趣味だからこそ、ですかね。

大好きなものに触れられないと、
ストレスもどんどん溜まっていく一方で。

ようやく、仕事が落ち着き始めたのは、九月の半ば。

わたしは数日間の休みをとって――
いや、上司からもぎとって、登山に行くことにしたんです。

まぁ、今思えば、山に登るよりもまず、
体と心を休めておくべきだったんですが、
ただでさえ疲れていたところ、判断力もだだ下がっていたようで……。

あのときは、会社や上司に対するストレスを、
ぜんぶ山登りで発散してやる、というような、
荒い心情になっていたんですよね。

そして、いよいよ決行日。
わたしはひとり、とある名山にやってきていました。

ギリギリ、百名山には入らないものの、
登山家の間では人気があり、山好きなら一度は聞いたことのあるような山です。

標高は1400mもなく、
ひさびさの登山の慣らしにはちょうどいい、って思ったんですよ。

平日ゆえ、登山口の駐車場には数台しか車がありません。

わたしも離れたところへ車を停めてから荷物を下ろし、
登山届を山の入口に投函すると、
さっそく、山道へと足を踏み入れていきました。

(傾斜……キッツイな)

急斜面を上りつつ、わたしは内心焦りを覚えました。

以前も上がったことのある、このルート。

ゆえに、今回の装備も前回と同じでいいだろう、と
軽く考えていたのですが、思いの他、飲み物の減りが早いんです。

よくよく考えれば、当然なんですよね。

以前来たのは春先のまだ肌寒い季節でしたが、
今日は、まだ残暑のきびしい秋晴れの日。

オマケに、ここ最近は職場と家の往復だけの日々だったため、
体力自体が、ガタッと落ちていました。

(やばいな……登り切れるか……?)

目指していた休憩ポイントへは、予定通りであれば正午に到着するはず。
しかし、すでにはじめと比べ、一時間もの遅れが出ています。

(まぁ……遭難するような山じゃないし……とりあえず、
 昼まで登ることだけを目的にしよう)

山の地理と、今の時間を確認しつつ、
さらにペースを落として、ゆっくりと進むことにしました。

周囲を見回せば、どこまでも広がる木々。
上を見上げれば、木のこずえからこぼれる緑のライト。

澄んだ空気が、肺のなかにいっぱいに広がりました。

(これだ……これが最高なんだよなぁ)

葉っぱが風に揺れて、キラキラと美しく光っています。

ガラッ、と聞こえた物音に視線を向ければ、
まだ幼い、可愛らしい小鹿の姿もありました。

「おお……!」

めったに見られない、野生動物の姿です。

おもわずそっちに気を取られて、
刺激しないようにと、ゆっくり視線を固定して後ずさった時でした。

ボコッ

「……え、っ?」

右足に、浮遊感。

アッと下に目を向ければ、
ちょうどそこは、土が崩れている場所です。

そしてその下は、土の急斜面。

「うわっ……!?」

わたしは体勢を立て直すことができず、
そのまま足を滑らせて、急斜面をゴロゴロと転がり落ちてしまったんです。

「ぐっ……うぅっ……」

時間にしてみれば、たった数秒。

ようやく止まった場所で、わたしは左足をおさえてうずくまりました。

斜面を転がり落ちて、高所――
およそ3メートルほどの高さからふわっ、と大地に放り出された体は、
左足を下にして、地面にたたきつけられてしまったんです。

膝から下がジンジンとしびれて、
重い痛みが、心臓が脈打つたびに全身に回りました。

(コレは……折れた、か)

尋常ではない痛みです。

額にはあぶら汗がにじんで、
ふぅふぅと荒い息がこぼれました。

背負っていたリュックをなんとか目の前に下ろして、
わたしは緊急用に入れておいた痛み止めを、喉に流し込みました。

「そうだ……助けを……」

この足を動かして下山する、なんて、
とても不可能です。

私が祈るような気持ちで携帯電話を取り出すと、
幸い、電波は届いていました。

(助かった……!!)

低い山で遭難した情けなさはありましたが、
この際そんなこと言ってられません。

急いで連絡を入れれば、無事に話はできた――ものの、
残念な知らせも入ってきました。

なんでも、別で救助要請が入っているうえ、
そっちは生命危機の案件になっているため、
わたしの救助に時間がかかる、というのです。

もちろん心細かったし、
足の痛みもヒドいしで、すぐに迎えをよこしてほしかったですが、
人命の救助が優先されるのは、当然のこと。

私は承知して、通話を終えました。

「……はぁ」

とりあえず、私は大きな岩のところまで体を引きずって、
そこに背中を預けた後、ホッとひと息つきました。

(あー……マズいことになったなぁ)

連絡も負えて、あとは救助を待つばかり。
そうなると、いろいろな後悔が脳内を駆け巡りました。

いくら忙しい時期を過ぎたとはいえ、
足の骨折となれば、しばらく会社を休まざるを得ないでしょう。

同居している家族はもちろん、
離れている両親にも、さぞかし心配をかけることにもなります。

(痛ぇ……さっきより、マシにはなってきたけど……)

ようやく痛み止めが効いてきたらしく、
奥歯をかみしめていないと耐えられないほどの苦しみから、
少しだけ体が楽になってきました。

(栄養、入れとくか……)

リュックの中にしまっていた、いわゆる行動食と言われる
栄養ゼリーを飲み込んで、また深々とため息をつきました。
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