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第一章

第7話

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(先輩と一緒に学校をさぼって、海まで行った……)

 嘘みたいで、夢みたいで、気がつけば夢かと思ってしまうのだが、現実だった。その証拠に、海沿いの町で立ち寄ったコンビニで購入した飲物のレシートが、きっちりと取っておいてある。

(嘘じゃない、夢じゃない)

 それはつい二日前のことで、浜辺の近くの岩場に座り込んで、二人で何気ない会話をしながら、ずっと流れていく雲と打ち寄せる波を見つめた。

 こんなにも世界が美しいと思った瞬間に、美空の目から涙が出てきて、それを夕が見ないふりをしてくれたのを、美空は知っている。でも、あまりのも美空が泣くものだから、夕は最後は穏やかにほほ笑んで美空の手をぎゅっと握ってくれたのだ。

 幸せだと、美空は思った。苦しいことも、死のうとしていたことも、全てを波音と手の冷たい温もりが流してしまう。たかだか海に来ただけで、感動して言葉が出なかった。鳥かごから出された鳥のように、美空は今やっと、自分自身の意志を感じていた。

 遠浅の海岸では遊んでいる人たちもちらほらいて、それを見つめながらただただぼうっと過ごした。ぽつぽつとたまにおしゃべりをしては、黙って波の音を聞く。社員を何枚か取って、打ち寄せる波の動画も収めた。

 靴を抜いで、靴下も脱いで、海に足だけをつけてみた。ひんやりと冷たかったが、心地良かった。夕も同じように靴を脱いで、スラックスの裾を捲し上げて、海水に浸かっていた。

 美空が振り返ると、にっこりと笑いながらそこに夕が立っていた。後ろに見える入道雲と青い空を背にして、くっきりと浮かび上がるその神様のシルエットが、ただただ美しかったのを覚えている。

 そんな何でもないことが、かけがえのない時間のように感じたのは、きっと神様の魔法にかかったせいなのだと美空は思っていた。

 夕方まで波打ち際で話をしたり、ヤドカリを見つめたり、貝を拾ったりして過ごした。そうしていて、気がついたときにはお腹がペコペコになっていた。

 自分の町まで帰ってきて、帰宅したときには両親に何か言われるのではないかとビクビクしたのだが、幸いにも気づかれていないようで、美空はほっと一息ついたのだった。

 波の音は、今も目を閉じれば耳の奥で聞こえるかのようだ。砂浜で拾った、小さな貝とシーグラスを持ち帰って、小瓶に入れて机に飾った。これは、棺桶に入れてもらおうと、美空は決めている。

 それを見つめる度に、苦しいような気持がせり上がってくる。

(また、行きたい。先輩と……)

 やりたいことを叶えるということで、こんなにも気持ちが満たされるというのを美空は初めて知った。まだ夢の中にいるような気がして、ぼうっとできる時は、あの海の光景を瞼の裏にちらつかせながら、一人で思いをはせていた。

「そうだ。次のお願い、何にしよう」

 次のお願いができたら会うという約束をした美空は、早く夕に会いたい気持ちと、次にやりたいことを考えるのに少しだけ時間を要した。

 一度決壊したダムからは、びっくりするくらいに水が流れ出てしまうように、美空のできなかったことをやったという満足感は、次の欲求をもっと深くもたらした。

 やりたいことが叶う達成感と感動のすばらしさは、先日の海だけでも十分にさえ思えてしまった。それほどに、満たされたのだった。それを夕に帰り際に伝えると、爽やかな声音で、欲張りになっていいんだよと言われた。だから、美空はほんの少しだけやりたいことに貪欲になりつつある。

 欲張って来なかった分、欲張ってごらんと言われた。美空は、贅沢な気持ちになる。神様に、夕にそんな風に言われて、心はさらに満たされた。ノートを開いて真っ白なページを凝視しながら、湧き上がってくるやりたいことのうち、夕と一緒に叶えたいことを頭の中で選別していく。

「欲張ってもいいなら……一つじゃなくて、もう少し書いてみようかな」

 叶ったお願いが書いてあるページには、その日付とその日の感想を日記のように書き込んだ。夕と海へ行き、楽しかったことが忘れられない。あの日、屋上から飛び降りようとした空虚ですさんだ気持ちは、ほろほろと崩れ去っていき、それの方が今や幻だったとしか思えない。

「時間は、有限だもの。楽しい思い出と経験……うーん、意外と悩むものなのね」

 本当はやってみたかったことは、小さい時は、溢れんばかりだった。いつからだろうか、夢を見なくなったのはと美空は思い出そうとする。

 小学生で将来の夢を課題で書いた時、美空はお花屋さんになりたいと思っていた。お花屋さんは無理だよと言われたのはそのすぐ後で、お花の知識が無いとだめ、立ち仕事で冷えるから美空には厳しい、ラッピングだってするのだから手先が器用じゃないといけないんだと、散々言われて心が折れたのを思い出した。

 思わず、苦々しい気持ちが込み上げてくる。心の中が、じんわりと黒い靄に覆われるような、そんな気分だった。

「そんな思い出と一緒に死んじゃうのは嫌だ」

 美空は、踏みにじられたあの時の夢を思いながら、苦しくて嗚咽を堪えた。喉には、あの時言い出せなかった言葉が絡みついている。

 まだやってもいないのに、鼻から頭ごなしに決めつけないでよ。そう言えたら、どんなに楽だっただろうか。結局言えないまま、優等生になって反抗もせず、そしてそれは積もり積もって、自分の命を絶つことを考えるまでに至った。

 ドリームキラーは間近にいる。常識という名の権力を振りかざして、親という立場を利用して、心配という名の盾と矛と共に、攻め入ってくる。

 純粋に夢を見ることができなくなってしまう原因は、両親の影響もきっとある。それだけではないにしても、少なからずはあるのだ。美空の場合は、それが顕著だったように感じた。

 美空は苦いものが口の中ににまで広がってくるのを感じて、慌てて海辺で拾った貝などを入れた小瓶を取り出して、握りしめると瞼を閉じてあの海の光景を思い出す。

 自分がなんて小さい存在で、そして隣にいる夕があまりにも美しい笑顔で、美空はそれを想うだけで心が落ち着いた。

 しばらくそうして呼吸を整えていると、ふと思い浮かんだことがある。なんで、こんな簡単なことを思いつかなかったのかと思うほど、あっけなくお願いごとが決まった。

〈放課後、遊びに行きたい〉

 授業が終わったらすぐに帰るように両親に言われている美空は、ノートにその願いを書き込んだ。

 なんて小さいお願いだろうと、我ながら小心者すぎて笑えたが、きっと夕は真剣に向き合ってくれる。そう確信できた。
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