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第二章
第19話
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美空は教室を出ると廊下を抜け行く。当然、校舎の中は授業中で誰も人がいない。静かな廊下を一人全速力で駆け抜けて、屋上への階段を走り抜けた。
「……くやしいっ!」
屋上へたどり着くと、身を投げようと思った柵に体当たりするようにしがみついて、そしてこらえきれなくなった涙が頬をどんどんと伝って行った。柵をガシャンと掴んで揺する。そのまま、倒れるようにしてしゃがみこんだ。
潤んだ視界を瞬きでいくらきれいにしても、すぐさまに世界がぼやける。袖口でごしごしぬぐっても、堰を切ったように出てきた感情が収まらない。
声にならなくて嗚咽をかみ殺し、握りしめた手が真っ白になるほどに柵を掴んだ。本当のことを言われて、美空は何一つ言い返せなかった。
「私だって、私の方が……いい子なんかやめたい!」
うざいなんて、言われなくても分かっている。急に外見が変わって評判がよくなったと同時に、美空の突然の変化を快く思わない子も中にはいる。目立たなければ、いつもの地味で大人しい委員長でいればそうではなかったのかもしれないが、それだけ逆に悪目立ちをしたのだ。
美空は、ずいぶんと前から自分の意見を言うことができなくなっていた。
いい子にしていれば怒られないで済んだ。態度と成績を良くしていれば先生から褒められた。愛想笑いをして、当たり障りのないことを返事していれば、友達と衝突せずに済んだ。
そうやって生きていたことの何が悪いのだ。それは、美空が精いっぱい身につけてきた処世術であっただけのこと。
そしてそれは、地味で大人しい見た目とキャラクターとリンクしていた。イコールで結ばれなくなった瞬間に、その方程式が破綻したのだ。
「どうしろっていうの、今さら!」
本当は誰にも心を開けず、孤独で苦しくて、死んでしまっても誰も苦しんだり悲しんだりしないと思ったから、美空は人生にあの時絶望したのだった。
その絶望は薄らいだ。なのに、別の苦しみや怒りや感情がやってくるとは。こんなにも、生きることが難しくて苦しいとは。誰も教えてくれなかった、と美空は涙とともにぐっと奥歯を噛んだ。
「いい子にしていなきゃ、生きて行けなかっただけなのに……!」
否定しないでよ、とつぶやいた声は声にならず、ずるずるとその場に崩れるようにして涙を流した。
いい子にしたかったわけじゃなくて、そうしなきゃならなかっただけだ。それを今さら否定されたら、自分自身を否定されているのと同じことだった。美空は悔しくて、血がにじむのではないかと思うほどに、下唇を噛みしめた。
「――美空くん!」
その声が聞こえてきたとき、美空は一瞬落ち着きかけていた心臓が、もう一度跳ね上がった。それは、苦しさとか悲しみとかで跳ねたのではなく、安堵で跳ねたのだった。
「美空くん、どうしたの? おいで、僕が話を聞こう」
美空は振り返って、そこに佇んで優しい顔をしている神様――夕に向かって手を伸ばす。ぐしゃぐしゃになった顔面を見られたくなかったが、それよりも早くその手の温もりに甘えたい気持ちが押し殺せなかった。
美空の手をしっかりと夕が掴み、そして引っ張りながら美空を抱きしめた。夕の低い体温に包まれながら、その柔らかさと身体が触れあう安堵感に、美空はたまらなくなって強くしがみ付く。
「先輩……!」
「うん、僕はここにいるよ。大丈夫、美空くんの側にいつでもいるから」
美空はうなずきながら、ぎゅっと夕のシャツを掴む。涙が夕のシャツを濡らしたが、そんなことを気にせずに、夕は美空の頭を優しく撫でる。
「大丈夫、美空くん」
抱きしめられて、夕の胸に泣きじゃくっているうちに、夕の心音の心地良さに気持ちが落ち着いてきた。頭や背中をゆっくりと撫でる夕の手は優しく、美空は泣いた目がしくしくと痛むのを感じながら、ぎゅっと瞼を閉じた。
「美空くん、ずっと側にいるから。なんでも、僕には話して。僕は、君だけの神様なんだから」
美空は、優しい声と温もりに、胸が締め付けられるのを感じていた。抱きしめられると、穏やかさ以上の何かを感じる。そのうちに、ドキドキと自分の心拍数が上がってきたときに、夕の隣で歩きたいという気持ちの意味が理解できた。
(……私、先輩のこと、好きなんだきっと)
優しくしてもらったから、神様だから。
理由は何でもいいけれども、美空が夕を好きになることは不自然なことではなかった。憧れの先輩に名前を憶えていてもらっただけでも嬉しいのに、さらに気にかけてもらって、こうして二人だけの特別な時間を共有して、美空の気持ちはすっかり夕に染まっていた。
こうして抱きしめたもらえる特権をすでに得ているのに、なんて贅沢なんだろうと美空は思う。
好きな人がいると素直に言えたら、まゆはあんな態度をとらなかっただろうか。
そんなことを美空は考えながら、夕ともっと時間を過ごしたい、友達にもちゃんと自信を持って意見を言いたいと思った。夕の制服を掴みながら、泣いて重たくなった瞼を瞬かせながら、それは確実に美空の願いへと変わって行く。
「……くやしいっ!」
屋上へたどり着くと、身を投げようと思った柵に体当たりするようにしがみついて、そしてこらえきれなくなった涙が頬をどんどんと伝って行った。柵をガシャンと掴んで揺する。そのまま、倒れるようにしてしゃがみこんだ。
潤んだ視界を瞬きでいくらきれいにしても、すぐさまに世界がぼやける。袖口でごしごしぬぐっても、堰を切ったように出てきた感情が収まらない。
声にならなくて嗚咽をかみ殺し、握りしめた手が真っ白になるほどに柵を掴んだ。本当のことを言われて、美空は何一つ言い返せなかった。
「私だって、私の方が……いい子なんかやめたい!」
うざいなんて、言われなくても分かっている。急に外見が変わって評判がよくなったと同時に、美空の突然の変化を快く思わない子も中にはいる。目立たなければ、いつもの地味で大人しい委員長でいればそうではなかったのかもしれないが、それだけ逆に悪目立ちをしたのだ。
美空は、ずいぶんと前から自分の意見を言うことができなくなっていた。
いい子にしていれば怒られないで済んだ。態度と成績を良くしていれば先生から褒められた。愛想笑いをして、当たり障りのないことを返事していれば、友達と衝突せずに済んだ。
そうやって生きていたことの何が悪いのだ。それは、美空が精いっぱい身につけてきた処世術であっただけのこと。
そしてそれは、地味で大人しい見た目とキャラクターとリンクしていた。イコールで結ばれなくなった瞬間に、その方程式が破綻したのだ。
「どうしろっていうの、今さら!」
本当は誰にも心を開けず、孤独で苦しくて、死んでしまっても誰も苦しんだり悲しんだりしないと思ったから、美空は人生にあの時絶望したのだった。
その絶望は薄らいだ。なのに、別の苦しみや怒りや感情がやってくるとは。こんなにも、生きることが難しくて苦しいとは。誰も教えてくれなかった、と美空は涙とともにぐっと奥歯を噛んだ。
「いい子にしていなきゃ、生きて行けなかっただけなのに……!」
否定しないでよ、とつぶやいた声は声にならず、ずるずるとその場に崩れるようにして涙を流した。
いい子にしたかったわけじゃなくて、そうしなきゃならなかっただけだ。それを今さら否定されたら、自分自身を否定されているのと同じことだった。美空は悔しくて、血がにじむのではないかと思うほどに、下唇を噛みしめた。
「――美空くん!」
その声が聞こえてきたとき、美空は一瞬落ち着きかけていた心臓が、もう一度跳ね上がった。それは、苦しさとか悲しみとかで跳ねたのではなく、安堵で跳ねたのだった。
「美空くん、どうしたの? おいで、僕が話を聞こう」
美空は振り返って、そこに佇んで優しい顔をしている神様――夕に向かって手を伸ばす。ぐしゃぐしゃになった顔面を見られたくなかったが、それよりも早くその手の温もりに甘えたい気持ちが押し殺せなかった。
美空の手をしっかりと夕が掴み、そして引っ張りながら美空を抱きしめた。夕の低い体温に包まれながら、その柔らかさと身体が触れあう安堵感に、美空はたまらなくなって強くしがみ付く。
「先輩……!」
「うん、僕はここにいるよ。大丈夫、美空くんの側にいつでもいるから」
美空はうなずきながら、ぎゅっと夕のシャツを掴む。涙が夕のシャツを濡らしたが、そんなことを気にせずに、夕は美空の頭を優しく撫でる。
「大丈夫、美空くん」
抱きしめられて、夕の胸に泣きじゃくっているうちに、夕の心音の心地良さに気持ちが落ち着いてきた。頭や背中をゆっくりと撫でる夕の手は優しく、美空は泣いた目がしくしくと痛むのを感じながら、ぎゅっと瞼を閉じた。
「美空くん、ずっと側にいるから。なんでも、僕には話して。僕は、君だけの神様なんだから」
美空は、優しい声と温もりに、胸が締め付けられるのを感じていた。抱きしめられると、穏やかさ以上の何かを感じる。そのうちに、ドキドキと自分の心拍数が上がってきたときに、夕の隣で歩きたいという気持ちの意味が理解できた。
(……私、先輩のこと、好きなんだきっと)
優しくしてもらったから、神様だから。
理由は何でもいいけれども、美空が夕を好きになることは不自然なことではなかった。憧れの先輩に名前を憶えていてもらっただけでも嬉しいのに、さらに気にかけてもらって、こうして二人だけの特別な時間を共有して、美空の気持ちはすっかり夕に染まっていた。
こうして抱きしめたもらえる特権をすでに得ているのに、なんて贅沢なんだろうと美空は思う。
好きな人がいると素直に言えたら、まゆはあんな態度をとらなかっただろうか。
そんなことを美空は考えながら、夕ともっと時間を過ごしたい、友達にもちゃんと自信を持って意見を言いたいと思った。夕の制服を掴みながら、泣いて重たくなった瞼を瞬かせながら、それは確実に美空の願いへと変わって行く。
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