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第4章

第37話

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 帰宅するという師匠に、ほんの少し寂しいなと思いながら、万葉は軽めの朝食を胃へと投げ込む。師匠は朝はコーヒーと甘い物一かけらのようで、朝から食べられないんですと、困った顔をしていた。

「では万葉さん、お世話様でした。お引越しはいつでもいいですけど、早めだと僕も嬉しいです」

「……あ、はい。それはまた連絡します。師匠、甘やかしすぎじゃないですか、私のこと?」

 それに玄関の扉のドアノブを持っていた師匠は、うーんと考えて首をかしげる。二歩で万葉の元へと戻ってくると、万葉の頭をよしよしと撫でた。かと思うと、急に肩を引っ張って、耳元に近づいて来る。

「僕は本当は優しくないです……今すぐにでも、貴女の素肌に触れたいし、僕がどれだけ好きかを、貴女の体中に叩き込みたいですが。甘やかしていますよ……好きですからね、奥さん」

 ちゅっとほっぺたにキスをされて、万葉がビックリしていると、ニコニコと師匠が微笑んだ。

「万葉さんは、僕に甘やかされているくらいが丁度よさそうです。そうやって、可愛い反応も見られますし、まんざらでもない顔されると僕も嬉しいです」

 もう一度ドアノブに手をかけると、師匠は穏やかに口元を緩めた。

「僕だけに夢中でいて下さいね。後悔はさせませんから」

 では、と軽やかに手を振って去って行く姿を見送って、万葉はその場にぽかんと立ちすくんだまま、しばらくそうしていた。

「師匠って、本当に……」

(手練れのすけこましすぎる……)

 言われなくとも、万葉はすでに師匠に夢中だった。思い切りこの感情をぶつけても、師匠は怒らないだろうか。面倒くさく思わないだろうか、と少しは考えたのだが、マスターが言っていた寄りかかっても支えてくれる人という言葉を、信じてみようと思った。



 ***



 月初の出社で気が重たくなるのは、いつも首位争いをしている後輩の遠藤が、トップの座をそうやすやすと譲ってはくれないからだ。

 朝礼で先月のトップ賞を発表されて、いつも二位になってしまっている万葉は、毎月苦い思いをする。しかし、今月はその気持ちが薄らいだ。

 名前によるクレームは相変わらずあるけれども、実は自分の名字が今は田中であって、あんな素敵な人が旦那さんなのだと思うと、溜飲が下がる思いだ。師匠の笑顔を思い出して、発表中に顔を赤らめてしまった万葉は、部長に怪訝な顔をされたのだが、大丈夫ですと作り笑いでごまかした。

 師匠の影響力がすごいのか、結婚というものの影響力がすごいのかは分からないが、どちらにしても、万葉の心は落ち着いて安定していた。クレームが来たところで以前のようにイラっとしなくなったし、新海無しで対処できる回数が、前月は多かった。

(恋心、凄まじい……)

 心境の変化を感じながら、やっぱり引っ越しをしようとふと考える。安心してほしいと何回も言われたが、言葉だけで満足できないのが乙女心の面倒くさいところでもある。

 実際に一緒に住めば、もしかしたら捨てられてしまうのではないかという不安が和らぎ、そして師匠の事をもっと知ることができるのかもしれないと考えていた。

 のんびりとそんなことを考えていると、総務から呼び出しが来た。
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