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第1章:出会い
第11話:宮川の水害
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柘植定之丞はこの前と同じように茶庵に案内された。
当主は檀家への応接に忙しいので、今回も隠居が接待をする事になる。
「お役目がお忙しいのにわざわざ足を運んでくださり、お礼の言葉もございません」
この言葉はお世辞でも嘘でもなく、本当に山田奉行所は忙しいのだ。
山田奉行所の最も大切な役目は伊勢神宮の監視だ。
戦国の宗教戦力は並の大名よりも強力だった。
日本人の三分の一を檀家とする伊勢神宮を野放しにはできない。
万が一にも幕府に敵対する事の無いように、厳しく見張らなければいけない。
伊勢神宮を監視して支配下に置くなら、式年遷宮の差配も役目になる。
二十一年に一度の事とはいえ、普段から準備しなければいけない。
それと伊勢神宮の神領である山田や志摩を治めなければいけないのだが、領民の数は並の遠国奉行と同じでも、参詣者の数が普段でも毎年四十万人前後もいる。
それがお陰参りの年になると、二百万も三百万人も押し寄せてくるのだ。
慶安の頃は宗教色が強く、行儀もよかったのだが、最近は旅の恥は掻き捨てというような連中も増え、治安の維持に奔走しなければならない。
更に他の遠国奉行所より気を使わなければいけない事がある。
領境が御三家の一つ紀州徳川家という事だ。
寛文七年十に伊勢神宮神領前山と紀州領佐八の境域争いは解決しているが、それで全ての争いが無くなったわけではない。
何よりも問題だったのは、神領内を流れている宮川だった。
宮川は日本一降水量が多いと言われる大台ケ原の水系なのだ。
その水量と川の勾配は、日本で一番の暴れ川を生んだと言える。
毎年のように起る水害の対策には、歴代奉行が頭を痛めてきた。
宮川両岸が上流から下流まで全て紀州領だったら、紀州流の河川工法で暴れ川を抑え込み、多くの灌漑農地を生み出した事だろう。
紀州藩は紀ノ川沿いの平野に延長二十七キロの小田井堰を築き、千百町もの広さを灌漑して農地としている。
同じく紀ノ川沿いの延長二十キロの藤崎井堰では、八百四十町もの広さを灌漑して農地としている。
現に紀州藩出身の八代将軍徳川吉宗は、紀州流工法で関東平野を沃野に変貌させているのだ。
だが、下流右岸に伊勢神宮の内宮と外宮がある宮川は、河川全域を計画的に紀州流河川工法を行う事ができなかった。
更に伊勢講の檀家と膨大な参詣客で観光地化された伊勢山田と周辺は、農地の灌漑を必要としていなかったのだ。
神領の周囲にある紀州藩領が、本家の領地ではなく付家老の領地であったことも、紀州藩が本気で動かなかった原因の一つだろう。
幕府の出先機関である奉行所が支配している宮川右岸と、紀州藩付家老久野家の治める田丸藩一万石の左岸では、大きな権力差があった。
そのため、田丸藩は宮川左岸に堤防を築けなくなった。
堤防を築いた事で伊勢神宮神領に被害を与えるような事になれば、幕府に弓を引いているも同然だった。
だから、山田奉行所が宮川右岸に堤防を築くのを指をくわえて眺めているしかなく、右岸堤防が年々整備されるほど宮川の氾濫が左岸に集中する事になった。
本来なら、宮川のデルタ地帯にある山田三方は低地で河川の氾濫を起こしやす。
現に全ての街道が山田の低地を避けて高台に通されている。
それが今では、洪積台地なので堅固で高台にあるはずの宮川左岸が、一部低地だけ毎年のように洪水の被害に遭っている。
これは、尾張徳川家が木曽川左岸に御囲堤を築き、右岸の輪中地帯を恐怖のどん底におとしめたのと同じだった。
「美濃の諸堤は御囲堤より低きこと三尺たるべし」と命じられてしまった影響で、江戸期を通じた御囲堤の破堤はたった二十回なのに対して、美濃側の破堤は三百回を超える酷い状況だったのだ。
権力者の身勝手ほど人々に被害を及ぼす者はない。
尾張徳川家は周囲の大名家を苦しめた。
紀伊徳川家の支藩は逆で、幕府によって苦しめられていた。
そのような状況が分かっていても、奉行所の役人ならば支配地を優先しなければいけない。
まだ季節は早春だが、梅雨や台風の前に堤防の整備をしなければいけない。
隠居は柘植定之丞の本来の役目が、堤防の修築に関する見習である事を知っていたので、多忙の中で新たな役目を押し付ける事になったのを詫びたのだった。
宮川の水害については、心優しい檜垣屋のゆうも密かに胸を痛めていた。
何故なら、僅かではあるが宮川右岸にも神領の飛び地があったからだ。
奉行所には、左岸も右岸も守れる堤防を築いて欲しいと心から願っていたのだ。
当主は檀家への応接に忙しいので、今回も隠居が接待をする事になる。
「お役目がお忙しいのにわざわざ足を運んでくださり、お礼の言葉もございません」
この言葉はお世辞でも嘘でもなく、本当に山田奉行所は忙しいのだ。
山田奉行所の最も大切な役目は伊勢神宮の監視だ。
戦国の宗教戦力は並の大名よりも強力だった。
日本人の三分の一を檀家とする伊勢神宮を野放しにはできない。
万が一にも幕府に敵対する事の無いように、厳しく見張らなければいけない。
伊勢神宮を監視して支配下に置くなら、式年遷宮の差配も役目になる。
二十一年に一度の事とはいえ、普段から準備しなければいけない。
それと伊勢神宮の神領である山田や志摩を治めなければいけないのだが、領民の数は並の遠国奉行と同じでも、参詣者の数が普段でも毎年四十万人前後もいる。
それがお陰参りの年になると、二百万も三百万人も押し寄せてくるのだ。
慶安の頃は宗教色が強く、行儀もよかったのだが、最近は旅の恥は掻き捨てというような連中も増え、治安の維持に奔走しなければならない。
更に他の遠国奉行所より気を使わなければいけない事がある。
領境が御三家の一つ紀州徳川家という事だ。
寛文七年十に伊勢神宮神領前山と紀州領佐八の境域争いは解決しているが、それで全ての争いが無くなったわけではない。
何よりも問題だったのは、神領内を流れている宮川だった。
宮川は日本一降水量が多いと言われる大台ケ原の水系なのだ。
その水量と川の勾配は、日本で一番の暴れ川を生んだと言える。
毎年のように起る水害の対策には、歴代奉行が頭を痛めてきた。
宮川両岸が上流から下流まで全て紀州領だったら、紀州流の河川工法で暴れ川を抑え込み、多くの灌漑農地を生み出した事だろう。
紀州藩は紀ノ川沿いの平野に延長二十七キロの小田井堰を築き、千百町もの広さを灌漑して農地としている。
同じく紀ノ川沿いの延長二十キロの藤崎井堰では、八百四十町もの広さを灌漑して農地としている。
現に紀州藩出身の八代将軍徳川吉宗は、紀州流工法で関東平野を沃野に変貌させているのだ。
だが、下流右岸に伊勢神宮の内宮と外宮がある宮川は、河川全域を計画的に紀州流河川工法を行う事ができなかった。
更に伊勢講の檀家と膨大な参詣客で観光地化された伊勢山田と周辺は、農地の灌漑を必要としていなかったのだ。
神領の周囲にある紀州藩領が、本家の領地ではなく付家老の領地であったことも、紀州藩が本気で動かなかった原因の一つだろう。
幕府の出先機関である奉行所が支配している宮川右岸と、紀州藩付家老久野家の治める田丸藩一万石の左岸では、大きな権力差があった。
そのため、田丸藩は宮川左岸に堤防を築けなくなった。
堤防を築いた事で伊勢神宮神領に被害を与えるような事になれば、幕府に弓を引いているも同然だった。
だから、山田奉行所が宮川右岸に堤防を築くのを指をくわえて眺めているしかなく、右岸堤防が年々整備されるほど宮川の氾濫が左岸に集中する事になった。
本来なら、宮川のデルタ地帯にある山田三方は低地で河川の氾濫を起こしやす。
現に全ての街道が山田の低地を避けて高台に通されている。
それが今では、洪積台地なので堅固で高台にあるはずの宮川左岸が、一部低地だけ毎年のように洪水の被害に遭っている。
これは、尾張徳川家が木曽川左岸に御囲堤を築き、右岸の輪中地帯を恐怖のどん底におとしめたのと同じだった。
「美濃の諸堤は御囲堤より低きこと三尺たるべし」と命じられてしまった影響で、江戸期を通じた御囲堤の破堤はたった二十回なのに対して、美濃側の破堤は三百回を超える酷い状況だったのだ。
権力者の身勝手ほど人々に被害を及ぼす者はない。
尾張徳川家は周囲の大名家を苦しめた。
紀伊徳川家の支藩は逆で、幕府によって苦しめられていた。
そのような状況が分かっていても、奉行所の役人ならば支配地を優先しなければいけない。
まだ季節は早春だが、梅雨や台風の前に堤防の整備をしなければいけない。
隠居は柘植定之丞の本来の役目が、堤防の修築に関する見習である事を知っていたので、多忙の中で新たな役目を押し付ける事になったのを詫びたのだった。
宮川の水害については、心優しい檜垣屋のゆうも密かに胸を痛めていた。
何故なら、僅かではあるが宮川右岸にも神領の飛び地があったからだ。
奉行所には、左岸も右岸も守れる堤防を築いて欲しいと心から願っていたのだ。
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