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解説
首取とは
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ここで首を取る理由を考えてみたい、軍事的に考えて、敵を確実に討ち取った証拠として、どの敵を討ち取ったかという確認として、切断した頭部という物は最も確実である。そしてそれは主君に対しての、最も確実な手柄の証である。つまり証拠としての首・「首級(しるし)」なのだ。
そして首にも色々な価値があった。
討ち取った首にも評価の違いがあり、全ての首に等しい価値が在るわけではない。
まずは討ち取った相手の貴賤で違いがでてくる。当然のことなのだが、身分が高かったり、重要な将の首は価値が高いが、雑兵の首はあまり価値はない、そういう雑兵の首を「平首・数首」と言う。
身元の明らかな有名な将の首でなら評価は簡単だ、だがそれ以外にも幾つかの評価基準がある。
「兜首」と言われる兜を被っている首がその1つだ。兜を被る事を許された身分の高い者の証拠になるのだ、だから兜を着けた首は当然評価が高くなる首なのだ。だから刈り取った首は兜の緒を締めたまま、兜と一緒に持ち帰る。
だがここで「作首」と言う偽装工作が行われる事がある、その辺の「平首」に、適当な兜を着せて手柄を偽り褒美を貰おうとする行為だ。
だが当時の日本には偽装を難しくする風習があった、それは当時の身分ある男性が鉄漿(かね)(お歯黒の事)を塗っていた事だ、塗っていない者は青葉者と低く評価される。だがここでも偽装工作が行われ、討ち取った青葉者の首に、鉄漿を塗って「作首」をするのだ。
次に戦況によっても首の評価に差が出てくる。「平首」であっても1番首・2番首は評価されるのだが、敵が逃げ出したのを追撃して取る首は「追首」といって最も評価が低くなる。設楽ヶ原で武田軍が逃げ出したところを追って狩りった首の評価などは低いのだ。
つまり首の評価が違う以上、重くてかさばる首を沢山持つわけにはいかない、首実検してもらえない・評価されない・褒賞基準にならない、そんな「平首」は棄てられることになる。これを「捨首」という。自負心のある武士にとってこれは屈辱だろう、互いに名乗りを上げて戦えば「捨首」にされる可能性は低くなる、後述する首供養をしてもらえる可能性も、遺族の下に返して貰える可能性も高くなる。
武士の中には取った首の数を競う者もいた、首を数多く取る事を誇りにし、質を問わず首取り合戦をする武士は、一定の量の首を取るごとに首供養の法要を行ったのだ、首取り合戦をしないまでも、取った首が多い方が武士として箔が付くし、主を変えねばならぬ時に評価される可能性もある。
なにより武士にとっては首を1つも取らないのは恥である、最低限自分が働いた証拠にはなる、「平首」でもとりあえず首があれば逃げ隠れしていなかった証拠になる。
だから先にも書いたように偽装が行われる。
病気で動けぬ敗残兵の首を取る「病首」
死体から切り取る「川流首・死首・冷首」
手柄を横取りをする為に、他人が討ち取った首を盗んだり、味方殺して首を奪う事まである「奪首」
最低の奴なら非戦闘員の女子供を殺して首にする者もいる。
一方評価する側に都合がある、首を奪う時間を惜しむような速攻の時は首取を禁止する。また「平首」大量に持ち込まれては、手柄を評価する側としては褒賞や時間がかかりすぎる。そこで価値の低い首に対して足きりをしてしまい、在る程度価値のある首だけ首実検をする事があった。
その反面、多く敵の首を取る事を評価すれば、それだけ士気があがり、果敢に敵に挑ませる効果がある、だから積極的に多くの首を取る様に煽る武将もいた。信玄や政宗が根切りを行った際に、首の数が多いほど後々の威圧効果があっただろう。
参考『刀と首取り』p.194~195
先にも書いたが、大将が首を取る事を禁止する場合がある。
迅速さを要求される戦闘局面では、首取りをしている余裕のない状況がある。先にも書いた速攻に加え、奇襲や撹乱を仕掛けている時や、逆に退却戦をしている時などだ。そんな時に、首取りや取ってきた首に対応している時間はない。物見(偵察)の時も、敵との交戦は極力避けないといけない、特別な理由が無ければ首取りはしない。
また首取りに熱中していては前面戦力が低下するから、首を討ち捨てて行くよう命令が下る事がる。特に夜戦では奇襲撹乱が目的の上、暗闇では確かな証人も得難い。引き上げのタイミングも肝要なので、撤退の合図があれば敵と斬り結んでいようとも、速やかに退却しなければならない。敵の大将以外の首は打ち捨てにするのは普通で、1人2人の首にこだわることは出来ない。
手柄は首取りだけでは無いが、兵隊達に取って最も身近な手柄が首取りなのだ。一方で大将の目的は首取りではない。大将と兵隊達の目的意識の違いをの埋めることが出来れば戦闘力は向上する。最初から首を取っても評価しない事が徹底出来ていれば、その時間を短縮する事が出来て、首取の隙を見せる事もなくなり、戦闘に専念できる。
参考『考証戦国武家事典』
そして首にも色々な価値があった。
討ち取った首にも評価の違いがあり、全ての首に等しい価値が在るわけではない。
まずは討ち取った相手の貴賤で違いがでてくる。当然のことなのだが、身分が高かったり、重要な将の首は価値が高いが、雑兵の首はあまり価値はない、そういう雑兵の首を「平首・数首」と言う。
身元の明らかな有名な将の首でなら評価は簡単だ、だがそれ以外にも幾つかの評価基準がある。
「兜首」と言われる兜を被っている首がその1つだ。兜を被る事を許された身分の高い者の証拠になるのだ、だから兜を着けた首は当然評価が高くなる首なのだ。だから刈り取った首は兜の緒を締めたまま、兜と一緒に持ち帰る。
だがここで「作首」と言う偽装工作が行われる事がある、その辺の「平首」に、適当な兜を着せて手柄を偽り褒美を貰おうとする行為だ。
だが当時の日本には偽装を難しくする風習があった、それは当時の身分ある男性が鉄漿(かね)(お歯黒の事)を塗っていた事だ、塗っていない者は青葉者と低く評価される。だがここでも偽装工作が行われ、討ち取った青葉者の首に、鉄漿を塗って「作首」をするのだ。
次に戦況によっても首の評価に差が出てくる。「平首」であっても1番首・2番首は評価されるのだが、敵が逃げ出したのを追撃して取る首は「追首」といって最も評価が低くなる。設楽ヶ原で武田軍が逃げ出したところを追って狩りった首の評価などは低いのだ。
つまり首の評価が違う以上、重くてかさばる首を沢山持つわけにはいかない、首実検してもらえない・評価されない・褒賞基準にならない、そんな「平首」は棄てられることになる。これを「捨首」という。自負心のある武士にとってこれは屈辱だろう、互いに名乗りを上げて戦えば「捨首」にされる可能性は低くなる、後述する首供養をしてもらえる可能性も、遺族の下に返して貰える可能性も高くなる。
武士の中には取った首の数を競う者もいた、首を数多く取る事を誇りにし、質を問わず首取り合戦をする武士は、一定の量の首を取るごとに首供養の法要を行ったのだ、首取り合戦をしないまでも、取った首が多い方が武士として箔が付くし、主を変えねばならぬ時に評価される可能性もある。
なにより武士にとっては首を1つも取らないのは恥である、最低限自分が働いた証拠にはなる、「平首」でもとりあえず首があれば逃げ隠れしていなかった証拠になる。
だから先にも書いたように偽装が行われる。
病気で動けぬ敗残兵の首を取る「病首」
死体から切り取る「川流首・死首・冷首」
手柄を横取りをする為に、他人が討ち取った首を盗んだり、味方殺して首を奪う事まである「奪首」
最低の奴なら非戦闘員の女子供を殺して首にする者もいる。
一方評価する側に都合がある、首を奪う時間を惜しむような速攻の時は首取を禁止する。また「平首」大量に持ち込まれては、手柄を評価する側としては褒賞や時間がかかりすぎる。そこで価値の低い首に対して足きりをしてしまい、在る程度価値のある首だけ首実検をする事があった。
その反面、多く敵の首を取る事を評価すれば、それだけ士気があがり、果敢に敵に挑ませる効果がある、だから積極的に多くの首を取る様に煽る武将もいた。信玄や政宗が根切りを行った際に、首の数が多いほど後々の威圧効果があっただろう。
参考『刀と首取り』p.194~195
先にも書いたが、大将が首を取る事を禁止する場合がある。
迅速さを要求される戦闘局面では、首取りをしている余裕のない状況がある。先にも書いた速攻に加え、奇襲や撹乱を仕掛けている時や、逆に退却戦をしている時などだ。そんな時に、首取りや取ってきた首に対応している時間はない。物見(偵察)の時も、敵との交戦は極力避けないといけない、特別な理由が無ければ首取りはしない。
また首取りに熱中していては前面戦力が低下するから、首を討ち捨てて行くよう命令が下る事がる。特に夜戦では奇襲撹乱が目的の上、暗闇では確かな証人も得難い。引き上げのタイミングも肝要なので、撤退の合図があれば敵と斬り結んでいようとも、速やかに退却しなければならない。敵の大将以外の首は打ち捨てにするのは普通で、1人2人の首にこだわることは出来ない。
手柄は首取りだけでは無いが、兵隊達に取って最も身近な手柄が首取りなのだ。一方で大将の目的は首取りではない。大将と兵隊達の目的意識の違いをの埋めることが出来れば戦闘力は向上する。最初から首を取っても評価しない事が徹底出来ていれば、その時間を短縮する事が出来て、首取の隙を見せる事もなくなり、戦闘に専念できる。
参考『考証戦国武家事典』
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