女将軍 井伊直虎

克全

文字の大きさ
上 下
5 / 119
解説

大和国衆敵味方表

しおりを挟む
「大和国四家」
筒井順昭、越智家栄、箸尾高春、十市遠勝の四家。

筒井順政・筒井順興の次男
     1550年、兄筒井順昭が急死すると、その息子である筒井順慶を後見
     1562年「教興寺の戦い」では三好家勢に敗退
     松永久秀率が大和国に侵攻すると、領国を追われて逃亡先の堺で病死
筒井順吉・筒井順昭の嫡男
筒井順慶・筒井順昭の次男・官途は官符衆徒・別名筒井藤政・陽舜房順慶
      1550年興福寺官符衆徒・大和国守護代の病没により筒井家の家督を相続
      1559年松永久秀が大和国に侵入すると、大和国から落延びた
      三好家の内紛を利用して、三好三人衆と結び松永久秀に対抗した
筒井城之介・筒井順昭の三男。
福住宗職・福住城主・筒井家老職・官途は紀伊守・別名福須美宗職
福住順弘・筒井順興の次男・福住宗職の養子・室は筒井順昭の娘
福住慶之・福住順弘の次男・筒井順慶の養子・別名筒井定慶
福住順斎・福住順弘の三男・筒井順慶の養子・官途は紀伊守
福住慶之・福住順弘の四男。筒井順慶の養子。官途は紀伊守
慈明寺左門・慈明寺城主・筒井家臣筆頭格
      高市郡興福寺別院慈明寺を任された興福寺六方衆辰巳方の堂衆
      興福寺六方衆の上位職である「北面」に任じられた有力僧兵
      慈明寺の住持は代々が左門を名乗って高市郡における筒井家派の中心的存在
      筒井順興は三男筒井順国を慈明寺家に養子入りさせて連携を強
慈明寺順国・筒井順興の三男・慈明寺左門の養子・別名筒井順国。室は筒井順昭の娘。
      畝傍山の西麓に壮大な伽藍を構えた興福寺子院の慈明寺の住持
      寺を城館となした。筒井順慶を支え、幾度の没落にも見捨てずに護り通した。
      兄筒井順昭の娘を娶り、後に筒井順慶の養嗣子となった筒井定次が生まる。
      筒井順昭の病没後は、枝連衆とともに影武者黙阿弥を立てて筒井順昭の死を秘す
筒井定次・慈明寺順国の男。筒井順慶の養子。官途は伊賀守。通称藤四郎
筒井紀伊守・筒井城之介の男
筒井新兵衛・筒井順慶の男・母は南石蛸助の娘
小林春賀・小林城主・筒井家枝連衆の山田順春の縁戚。
片岡春利・北葛城郡片岡城主・通称新介・室は筒井順興の娘
     興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり・筒井家の枝連衆
丹後庄舜英房・筒井順慶家臣・筒井家枝連衆・興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり
       筒井家党の中堅勢力
近内善右衛門・宇智郡居伝城主・宇野家の庶家・「郡内一揆」で連判状に署名
苣原伊賀守英秀・苣原城主・興福寺官符衆徒衆のひとり・筒井順慶の馬廻衆
苣原英順・苣原英秀の家臣・官途は伊賀守
片岡春之・片岡春利の男・通称弥太郎
新木丹後守・新木城主・筒井家の被官
安堵甚五郎・東安堵館主・筒井順慶の被官 
安堵甚三郎・安堵甚五郎の男・筒井順慶の被官
今市四郎・今市城主・筒井順興家臣。
岸田忠氏・筒井家臣・官途は伯耆守
喜多興能・北村城主・官途は石見守・筒井家に奉行衆
喜多信濃守・喜多興能の男
菅田助隆・山辺郡小城城主・枝連衆には菅田戌亥家・菅田南家、揃って筒井党。
     興福寺一乗院門跡坊人で衆徒に連なって菅田下荘下司職などを請負う
多田延実・貝那木山城主・通称次郎。筒井順慶を支援
多田常胤・多田延実の男
辰市宮内・辰市城主・辰市神社の神官・親筒井家
龍田為定・生駒郡龍田城主・筒井順慶家臣・興福寺一乗院跡坊人で衆徒のひとり 
田中善助・田中城主・筒井家臣。
豊井権助・山辺郡豊井城主・興福寺一乗院門跡坊人のひとり・筒井に属す
楢原遠治・楢原城主・興福寺大乗院方の国民・3万石を領した 
楢原光之・楢原遠治の男。筒井順昭に仕えた。
楢原俊久・楢原光之の男。官途は周防守。筒井順昭、筒井順慶の二代に仕えた
八条藤政・筒井順昭家臣・筒井家老職・福住宗職と共に筒井順昭に仕えた。
島信勝・生駒郡椿井城主。
島清興・筒井家臣・官途は左近・松倉右近重信とともに「筒井の右近左近」と称される。
島政勝・島清興の男・通称新吉 
島友勝・島清興の次男・通称吉次郎 
島清正・島清興の四男 
松倉政秀・添上郡横田館主・通称弥七郎。島清興、森好之と共に筒井家の三家老
松倉重信・松倉政秀の次男・通称権左衛門・官途は右近大夫
     島清興と並んで筒井家の両翼「右近左近」と称された
和田喜右衛門・松倉重政家臣・松倉重政の弟が養子入り和田喜右衛門を称した。
森好之・筒井順興家臣・官途は志摩守・室は筒井順興の娘
    島清興、松倉重信と並んで「筒井家の三家老」森本城に7千石を領した。
森好高・森好之の男・官途は縫殿助・通称九兵衛。室は松倉重信の娘
森好久・森好高の従兄弟・官途は隼人佐・通称傳助。室は小泉四郎左衛門秀元の妹
森家臣団・森好武・森好頼
飯田基直・筒井順興家臣。
飯田頼直・基直の男・官途は出羽守・室は筒井順興の娘。
     松永久秀の筒井家乗っ取りの提案を拒否したため筒井順昭の信頼を獲得
飯田直宗・頼直の男・室は飯田基次の娘・父の弟飯田基次の婿・寄騎衆と合わせて2万石
番條懐盛・高市郡北ノ(番條)城主・興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり・筒井に属す
番條懐慶・番條懐盛の男・通称五郎 
稗田兵蔵・稗田城主・筒井順慶家臣
細井戸左近・北葛城郡細井戸城・通称三郎・一乗院門跡坊人で衆徒のひとり筒井家党
藤原道順・藤原城主・古市党の寄騎衆として筒井家との対立を続けた
     古市澄胤の衰退にともなって、筒井順興に属した。
井戸良弘・添上郡井戸城主・井戸覚弘の男・官途は若狭守・通称才助・室は筒井順慶の姉
     1560年、畠山高政に属したため松永久秀の攻撃を辰市城に受け開城
井戸覚弘・井戸良弘の男・官途は若狭守・通称十郎・祖父と同名
三ヶ谷肥後守・山辺郡三ヶ谷城主・大乗院門跡坊人で国民・筒井家に属す
       都祁地域の小倉家寄騎衆。
横井則定・横井城主・長井家臣・筒井家に属した
横田治部・横田平城主。横田和爾下神社の神官として春日神人のひとり。筒井家の寄騎衆

山田順貞・添下郡山田城主・別名山田道安・武将画家。筒井家枝連衆
     山田順貞の妹は筒井順昭に嫁して大方殿と呼ばれ、後の筒井順慶を生んだ
山田順清・山田順貞の男・室は筒井順昭の娘(筒井大方殿)・筒井順慶の妹を室
     1万石を領す・筒井順慶の与力衆
山田順智・山田順清の男 
山田宗意・山田家枝連衆・分家筋として本家をよく補佐した。
別所宗久・辺郡別所城主・官途は対馬守・山田家の庶家。

布施行政・葛下郡布施城主・興福寺一乗院国民のひとり・2万2千石・安芸守
     平田荘の荘官より成長した有力国人・大和国国人一揆の国判衆十二氏
     西山内においては楢原家と並ぶ筒井家党の雄
布施行盛・布施国行の男・通称左京進・室は筒井順昭の娘
布施行忠・布施行盛の男・
布施行国・布施行忠の男・通称弥七
笛堂善五郎・笛堂城主・布施行政の枝連衆。
花内式部・北花内城主・布施行政家臣。
今中行宜・布施行盛家臣。
道穂五郎・北道穂館主・布施家臣

小泉秀元・小泉城主・興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり
     枝連衆が他国の興福寺荘園の荘官などに任じられた
     天文年間、筒井順昭に降り、小泉秀元は筒井順昭の姪婿となった。
小泉重順・小泉秀元の男。通称四郎左衛門。筒井家麾下十七人衆組頭を勤める
     小泉、鳥見、三碓の三個所2000石を領した。 
小泉重元・小泉重順の養子・筒井順慶の命により小泉尾崎家の小泉重元が跡を継ぐ 
小泉四郎・小泉重元の男・小泉四郎は筒井順慶に重用される
小南政祐・小泉秀元家臣・官途は甲斐守・興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり
小南甲斐守・小南政祐の男 

万歳則盛・葛下郡万歳平城・興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり
     枝連衆に万歳南・万歳北・万歳西、家臣として岡崎・奥・田中
万歳則定・万歳則盛の男・
     松永久秀が大和国に侵攻すると一度は降るが、まもなく筒井順慶に帰属
竹村八郎・万歳則盛家臣・家老職。
西田井則秀・西田井城主・万歳家枝連衆・万歳郷における所領は万歳家に次いで二番目
北角善三郎・乾城主。北角家は万歳戌亥家とも称され万歳則盛の枝連衆
      万歳城の北西に位置していたために北角家と称した。

越智家栄・高市郡高取城主・越智家教の男。
越智家頼・越智家教の次男。
越智家広・越智家栄の男・子がなく細川晴元の男を養子としたが夭折した
越智家増・越智家栄の次男・官途は伊予守・別名楢原家益
越智家高・越智家増の男・越智家広の養子・官途は民部少輔。別名楢原家高。
     1569年、越智家惣領職を相続した
     1571年、叔父越智家広の家臣市尾深介に謀殺された。
越智家秀・越智家増の次男
飯高永祐・飯高城主・興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり・越智家被官
稲屋戸景光・戸毛城主・越智家広家臣

岡政行・岡城主・越智家広家臣・官途は周防守・別名岡国高
    興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり
    1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆の国判衆十二家
    松永久秀が大和国に侵攻するとこれに属した。逢坂内記・逢坂山城主・岡政行家臣
岡崎則遠・鈴山城主・岡政行家臣
岡野因幡守・狐井館主・岡政行家臣・家老職
磯壁則定・磯壁城主・岡政行家臣。
鎌田藤兵衛・鎌田館主・岡政行家臣

「筒井順慶と手を切り、松永久秀と手を組んだ国衆」
十市遠治・十市郡十市城主。十市遠相の次男。通称新次郎
     興福寺大乗院領の荘官として国判衆のひとり。
十市遠忠・十市遠治の男。室は筒井順興の娘
     大和国十市郡、城上郡、山辺郡に勢力を持ち、馬上六十騎を率いた。
     木沢長政と結ぶ筒井順昭と連年抗争を続けた。
     1540年、筒井順昭と和睦し、有力な家臣となった。
十市遠勝・1545年、父十市遠忠の病没により十市家の家督を相続
     1559年、松永久秀が大和国に侵攻すると久秀に降った
     1565年、筒井順慶は三好三人衆と結んで松永久秀と敵対した
十市遠長・十市遠忠の次男。官途は常陸介
十市藤政・十市遠勝の婿養子・通称は次郎・室は十市遠勝の娘(おなへ)
大木重介・十市遠勝家臣
河合清長・十市遠勝家臣・官途は権兵衛尉・別名川合長左衞門正冬
吉川喜蔵・生駒郡吉川館主・十市忠之家臣
木原弥九郎・木原城主・十市遠勝家枝連衆。
大仏供政忠・大福城主・十市家臣・松永久秀に属す
多聞院英俊・興福寺多聞院主・十市盛眼の男 
田原本春覚・田原本城主・十市家臣・大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。
八田遠勝・八田城主。大乗院門跡坊人で国民ひとり。
     春日若宮祭礼には長谷川党の一員として参列
     十市遠清の弟十市遠勝を養子に迎えて枝連衆に加わった
     十市家が国民であったために八田家も国民に転じた。
竹田周防守・城下郡竹田城主・長谷川党・法貴寺家や八田家の寄騎衆
藤井広英・城上郡藤井城主・十市家臣

「筒井順慶を見限り松永久秀に付いた国衆」
箸尾為政・北葛城郡箸尾城主。箸尾為高の男。通称次郎
      1546年大和国の支配権を巡って筒井順昭と争った
      薪能に参加したところを筒井順昭の宿坊で謀殺された
      箸尾為政を謀殺した筒井順昭は、越智家広の貝吹城を攻めた
      さらに十市遠忠の城をせめ陥落させた。
      1547年箸尾城も破却された。
箸尾高春・箸尾為高の次男・官途は宮内少輔・別名箸尾為綱・室は筒井順昭の娘
赤部友春・北葛城郡赤部城主・通称笠衛門・箸尾高春の娘婿となって箸尾家枝連衆
石見太兵衛・城下郡石見城主・箸尾高春家臣
木村盛秀・箸尾為政家臣
百済将監・広瀬郡百済城主・箸尾高春家臣。
金剛寺覚淳・広瀬郡金剛寺城主・箸尾為政家臣
      近隣の富本家、佐味家、唐院家らと共に箸尾為政家枝連衆
      興福寺一乗院門跡坊人で国民に列した。
唐院秀満・広瀬郡唐院城主・箸尾高春家臣・松永久秀に属す
唐古与三郎・広瀬郡唐古城主・箸尾高春家臣
      枝連衆の唐古東家および唐古南家は長谷川党に属す

高田当次郎・高田城主

  「東山内衆」
 大和国の「東山内衆」とは、興福寺および春日神社の支配領域で、「国中衆」とは地域称であった。興福寺や春日神社の被官となって衆徒、国民に列していた武士たちの身分称。

 「西山内衆」
 大和国の「西山内衆」とは、興福寺および春日神社の支配領域で、「国中衆」とは地域称であった。興福寺や春日神社の被官となって衆徒、国民に列していた武士たちの身分称。
矢田丘陵の西地域。

 「興福寺六方衆」
 奈良興福寺の僧兵。

 「興福寺門徒衆」
 南都六宗、法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺のひとつ。藤原鎌足と藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原家の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。奈良法師と称された多数の僧兵を抱え大和一国を治める実力を持つに至った。戦国時代は織田信長と同盟を結びながら、勢力を維持し続けた。宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄なども有名。

 「妙楽寺門徒衆」

 多武峰勢力。藤原家の寺院でありながら宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけて度々領地などを巡り争論を繰り広げ、多武峯妙楽寺側の十市遠勝、越智家栄は興福寺側の楢原遠治、布施行政らの軍勢と小競り合いを繰り返していた。1506年、赤沢朝経軍に対する大和国人一揆(十市遠勝、箸尾高春、越智家栄)の抵抗戦した。1559年、松永久秀に対する十市家の抵抗戦といった「多武峰の戦い」と戦乱は絶えることがなかった。1585年、羽柴秀吉により郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。1590年、帰山を許された。

 「金峯山寺門徒衆」
 金峯山寺の僧兵衆。修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに分かれ、本山派は天台宗系で、園城寺の円珍を開祖とした。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派の聖護院。当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。中世の金峯山寺は山上、山下に多くの子院をもち、多くの僧兵、その勢力は南都北嶺にも劣らないといわれた。


秋篠藤賀・秋篠城主・興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり・南山城衆とも婚姻関係を結ぶ
     1545年興福寺から「上鳥見二名庄外護職」に補任された。
秋津守信・秋津城主
浅井忠行・広瀬郡細井戸城主。官途は右近。室は箸尾城主為重の娘
飯貝左吉・吉野郡飯貝城主・本善寺の徒衆のひとり
     吉野真宗教団における在地の有力者として本善寺を支援
一乗院尊政・興福寺一乗院門跡・近衛前久の男・大僧正・法務・興福寺別当・准三宮
櫟原勝三郎・高市郡椿木城主・興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり
宇野有治・宇智郡宇野城・大和守源頼親を祖とする大和源家の庶家
     もとは摂関家の侍臣として京都に在住したが、宇智郡に所領を得て土着
宇野知治・宇野有治の男。1558年「郡内一揆」において連判状に署名
梅本正武・吉野郡上山(大林)城主・小路村の石高159石
栄山実・宇智郡栄山城主・通称弥三郎・栄山寺を領主とする栄山荘が本拠
    栄山寺別当職を壟断する
    二見光重の配下として河内国に出陣
    「郡内一揆」において連判状に署名
大岡頼尹・宇智郡大岡山城主・「郡内一揆」において連判状に署名

小川弘光・吉野郡小川城主・小川家は、藤原弘重を祖とする在地土豪
     吉野丹生神社の神職
     後に興福寺大乗院門跡で衆徒のひとりで、代官職などを請け負う
     龍門庄の所有を巡って多武峰勢力と争う
     龍門庄と引き換えに宇陀郡四郷(大熊、平尾、片岡、下片岡)を獲得
小川弘茂・小川弘光の男
     1532年、秋山国堅らの呼びかけに応じて「宇陀郡内一揆」の盟約に参陣
     一揆は宇太水分神社の神前で神誓が行われた。
     領主間の利害調整、農民支配の協同を図り、宇陀郡内における秩序を守る
     宇陀郡国衆達は北畠家の支配を受けるも、自立領主体制づくりを目指す
小川家臣団・北室弘覚、鷲賀弘元。
森野図書・小川弘茂家臣。小川家の家臣として宇陀郡の小川家領を任された

興留出雲守・興留城主・法隆寺散郷で興福寺一乗院門跡領の興留荘の荘官を管理する
奥田主税助忠高・吉野郡高畑城主・小山八郎右衛門の男・奥田兼重の養子・通称八郎右衛門
奥田忠次・奥田忠高の男
小倉政実・小倉北城主・春日若宮願主人を巡って柳生宗厳と争った
乙木徳兵衛・山辺郡乙木城主・衆徒福智堂家の縁戚・布留郷神人衆のひとり
戒場勘右衛門・宇陀郡戒場城主・榛原地域の北部の大乗院門跡領の戒場の豪族
戒重範宗・戒場勘右衛門の男・官途は遠江守
     松永久秀が大和国侵攻すると、それに属して越智広家や多武峰と戦った
勝原宗秀・山辺郡勝原城主・都祁方面に進出して小山戸春俊と戦った
     長谷寺衆徒の介入を受ける・奥田忠高の寄騎衆となった
吉備市助・吉備城主・大乗院門跡坊人で国民のひとり
     春日若宮祭礼では長谷川党に属して願主人を勤めた
     松永久秀に属す
窪城順貞・窪之庄城主・興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり
     筒井順慶に属す 
窪田内記・上窪田城主・筒井党に属す筒
窪美作守・水涌城主・染田天神講に参加した山内衆のひとりで国津神社の神官
     筒井順興と古市澄胤および越智家広の抗争期には両勢力のはざまで揺れ動く
     和睦が成ると再び来迎寺檀家衆の盟約に参加した。
倶尸羅俊種・倶尸羅城主・興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり
      大和国国人一揆・国判衆十二家
小柳源助・磯城郡小柳城主・東大寺の僧兵。
小山戸春俊・小山戸城主。
坂合部頼家・宇智郡坂合部山城・紀伊国隅田党の一員
坂合部頼重 
坂上尊忠・北田原城主・鷹山藤政の叔父
指柳浄光・山辺郡指柳城主・布留郷神人衆のひとり
佐羅気三郎・蛇穴館主・楢原家臣
慈恩寺左衛門・城上郡慈恩寺城主・上通道(上ツ道)衆のひとり
       1517年初瀬街道筋の長谷寺領諸郷へ侵犯し伊勢国司北畠家や長谷寺と争う
島野市兵衛・宇智郡島野城主・二見光重の配下として河内国に出陣した
      「郡内一揆」で連判状に署名した。
     1560年、三好康長の属して河内国で戦った。
下田友夏・下田城主・下田の鋳物業の発展を背景にして成長した豪族衆。
上総甚助・山辺郡上総城主・興福寺大乗院門跡領であったが一乗院門跡寄人のひとり
     布留郷神人衆に属しつつも井戸家に仕えて、段銭賦課などを行った。 
秦楽寺伊斎・城下郡秦楽寺城主・秦楽寺八郎の男。神楽寺の僧兵を出自とする地侍
      春日若宮祭礼流鏑馬頭役を勤める願主人のひとり
      松永久秀に属す
秦楽寺左衛門・秦楽寺伊斎の男。
菅生平助・山辺郡菅生城主・畑城主奥田忠高に仕えた。
助命宗政・山辺郡助命城主・興福寺の国民にひとり。
蔵堂長兵衛・城下郡蔵堂城主・興福寺大乗院門跡の被官
      浄福寺住持を勤めてもとは遊行上人空也光勝の門人のひとり
曽歩々々清繁・生駒郡上庄南城主・興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。
大乗院尋憲(1529~1586)二条尹房の男
     法相宗・興福寺大乗院門跡・興福寺別当・大僧正
立野信久・平群郡立野城主・興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。
立野良信・山田順貞の次男。
超昇寺信次・超昇寺城主・超昇寺の僧・興福寺大乗院の衆徒ひとり
      松永久秀に降伏し属す
鞆田重順・鞆田城主。古市家臣。都祁水分神社の神主職にあった在地土豪
     大乗院門跡坊人で国民であった
     山内七庄(鞆田、無山、小山戸、藺生、水涌、南殿、向淵、針)の代官 
鞆田重純・鞆田重順の男 
中井正吉・法隆寺番匠(宮大工)・通称孫太夫 
中井正清・中井正吉の男・官途は大和守・通称藤右衛門
長柄休斎・山辺郡長柄城主・興福寺大乗院門跡坊人・衆徒に列する
永原与次郎・永原城主・大和武士団においては散在党に属す 
中坊盛祐・筒井家臣・中坊秀友の男・官途は讃岐守
中坊秀国・中坊盛祐の男・和田惟政を討取る寸前で和田惟政の家臣恩地小太郎に討たれた。
中坊秀祐・中坊盛祐の次男・官途は飛騨守
仁興英勝・山辺郡仁興城主・筒井順賢に属した。
野原頼勢・宇智郡野原城主・「郡内一揆」で連判状に署名
丹生文右衛門・丹生城主・丹生神社の神主職を務めた。
吐山光政・都祁城主・松永久秀に属す
     興福寺衆徒筆頭にして水分宮神職の鞆田家
     来迎寺大檀乙として多田荘より進出を目論む多田家
     そして吐山家の三大勢力が鼎立した
吐山七郎・吐山光政家臣 
吐田遠光・吐田城主・興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり・大和武士団では葛上党
     大和国国人一揆・国判衆十二氏
吐田遠隆・吐田遠光の男  
持田藤七郎・小殿城主・吐田家臣
室遠光・室城主・吐田家枝連衆
広瀬左近・広瀬郡広瀬館主・広瀬神社の神官職
深川宗重・下深川城主・興福寺大乗院領上深川荘の代官
福智堂宗閑・山辺郡福智堂城主・興福寺大乗院門跡坊人・衆徒のひとり
二見左衛門大夫・宇智郡合部山城主・宇智郡豊井荘の二見郷を本拠とした豪族衆 
二見光重・二見左衛門大夫の男・官途は左京亮
古市公胤・古市城主・古市澄胤の次男・松永久秀に従った
法貴寺丹波守・城下郡法貴寺城主・法貴寺党・法貴寺の住職
       興福寺大乗院門跡寄所荘園を管轄
宝来春竹・宝来ノ城主・興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり 
堀内市之助・吉野郡龍王城主・秋津家とは縁戚関係にあった
箕輪宗慶・山辺郡箕輪城主。
水間春澄・山辺郡水間城主・山田家寄騎衆・春日若宮祭礼にも戌亥脇党 
矢田伊豆守・矢田城主・興福寺一乗院門跡で衆徒のひとり
楊本範尭・式上郡楊本城主・楊本範遠の男・反松永久秀 
山本外記・宇陀郡深野城主・北畠晴具家臣 
山陵春興・山陵城主・興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。
結崎半蔵・磯城郡西結崎城主・延喜式内社糸井神社の神人。
吉井常弘・生駒郡立野城。吉井家、松岡家、上田家、東家、戌亥家等の庶家を輩出 
吉田義辰・北葛城郡川合城主・松永久秀勢と戦った。
米谷宗慶・米谷城主
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

幕府海軍戦艦大和

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:0

札束艦隊

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:276pt お気に入り:261

艨艟の凱歌―高速戦艦『大和』―

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:42pt お気に入り:67

帝国海軍の憂鬱。

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:3

飽食戦線

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:2

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:1

処理中です...