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第四章
第八十七話:憐憫の情
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「お待ちください。
その者は根津門前町の裏長屋に住むおりょうと虎太郎ですか」
長十郎は思わず口にしていた。
「さよう、なぜ大道寺殿が二人の名前を知っているのですか」
目付がうさん臭そうな目で見てくる。
最初からその目付の事が気に喰わなかった長十郎は、一切の手心を加えずに全力の殺気を叩きつけた。
小才だけで目付になった、ろくに武芸の心得のない目付は、事もあろうに泡を吹き大小便を漏らして卒倒してしまった。
「小原殿」
評定の場は大混乱となった。
前代未聞の大失態だった。
このままでは評定が中止しされるかと思われた時。
「お騒ぎめさるな、方々。
三方ヶ原の故事をお忘れか。
この程度の粗相で慌てるなど、東照神君に笑われますぞ」
やんわりと、だがとても厳しい目で田沼意次が騒ぐ幕閣をたしなめた。
上座で黙って聞いていた徳川家治の目が厳しくなっている事に気がつき、騒いでいた者たちは慌てて居住まいをただした。
「小原殿は急病のようじゃ。
屋敷に送って差し上げよ」
田沼意次がそう言うと、茶坊主たちが慌てて小原を部屋から連れ出した。
「さて、大道寺殿は立石の妻子をご存じで、処刑にも反対のようにお見受けするが、くわしく話していただけるかな」
田沼意次が水を向けるように話した。
「おりょう殿は、大納言様を弑逆した犯人を捜している時に、ひとかたならぬお世話になった大恩人でございます。
そのような方を殺すと言われて、黙っているのは武士として恥でございます。
まして目付の要職に在りながら、水谷と立石の悪行を見逃していた者に、犯人捜しを手伝ってくれた恩人を処刑すると言われて、黙っている事などできません。
方々はいかに思われますか」
長十郎は殺気の籠った眼で全員を睨みつけた。
何もしてこなかった自覚のある者たちは、とても目を見ることができなかった。
特に一橋家を取り締まるべきだった大目付と、水谷と立石を取り締まらなかった目付は、顔を伏せ目を背けるしかなかった。
「大道寺殿は二人の処刑には反対という事ですな」
評定の場の雰囲気が、処刑容認から反対に転じたのを確認した田沼意次が、長十郎に最後の確認をした。
「反対でございます。
私が反対なのはもちろんですが、大納言様がご存命ならば絶対に反対されました。
清廉潔白で慈愛の心を持たれた大納言様なら、絶対に反対されました。
某には、あの世に行った時に大納言様に顔向けできないような事はできません。
それくらいならこの手で一橋の首を取り、二人を連れてこの世の果てまで逃げてごらんに入れます。
そのために屍山血河を作ろうとも、一切後悔はいたしません」
長十郎は評定の場にいる者たちに殺すぞと殺気を飛ばした。
「よくぞ申した、長十郎。
そなたが大納言に忠誠を尽くして役目を辞してまで調べていてくれなければ、そもそも大逆を犯した者を見つける事すらできなかった。
その時の恩人を処刑するなど、本末転倒もはなはだしい。
余がそんな決定をくだしたら、天下に大恥をさらしてしまう事になっていた。
感謝しているぞ、長十郎」
「過分なお褒めの言葉、恐縮いたします」
「それにな、余もあの世で大納言には叱れるのは嫌だからな。
あの世に行くときには、胸を張り笑って大納言や貞次郎に会いたい」
「はっ、恐れながら某も、あの世で大納言様にお仕えする時には、胸を張ってお仕えしたいと思っております」
「おっほん。
りょうと虎太郎を処刑しないとは決まったが、処罰をするかしないかまでは決まっておらん。
だがこの件に関しては、役目を辞してまで探索を続けてきた大道寺殿に一任すべきであろう。
方々はいかに思われるか」
その者は根津門前町の裏長屋に住むおりょうと虎太郎ですか」
長十郎は思わず口にしていた。
「さよう、なぜ大道寺殿が二人の名前を知っているのですか」
目付がうさん臭そうな目で見てくる。
最初からその目付の事が気に喰わなかった長十郎は、一切の手心を加えずに全力の殺気を叩きつけた。
小才だけで目付になった、ろくに武芸の心得のない目付は、事もあろうに泡を吹き大小便を漏らして卒倒してしまった。
「小原殿」
評定の場は大混乱となった。
前代未聞の大失態だった。
このままでは評定が中止しされるかと思われた時。
「お騒ぎめさるな、方々。
三方ヶ原の故事をお忘れか。
この程度の粗相で慌てるなど、東照神君に笑われますぞ」
やんわりと、だがとても厳しい目で田沼意次が騒ぐ幕閣をたしなめた。
上座で黙って聞いていた徳川家治の目が厳しくなっている事に気がつき、騒いでいた者たちは慌てて居住まいをただした。
「小原殿は急病のようじゃ。
屋敷に送って差し上げよ」
田沼意次がそう言うと、茶坊主たちが慌てて小原を部屋から連れ出した。
「さて、大道寺殿は立石の妻子をご存じで、処刑にも反対のようにお見受けするが、くわしく話していただけるかな」
田沼意次が水を向けるように話した。
「おりょう殿は、大納言様を弑逆した犯人を捜している時に、ひとかたならぬお世話になった大恩人でございます。
そのような方を殺すと言われて、黙っているのは武士として恥でございます。
まして目付の要職に在りながら、水谷と立石の悪行を見逃していた者に、犯人捜しを手伝ってくれた恩人を処刑すると言われて、黙っている事などできません。
方々はいかに思われますか」
長十郎は殺気の籠った眼で全員を睨みつけた。
何もしてこなかった自覚のある者たちは、とても目を見ることができなかった。
特に一橋家を取り締まるべきだった大目付と、水谷と立石を取り締まらなかった目付は、顔を伏せ目を背けるしかなかった。
「大道寺殿は二人の処刑には反対という事ですな」
評定の場の雰囲気が、処刑容認から反対に転じたのを確認した田沼意次が、長十郎に最後の確認をした。
「反対でございます。
私が反対なのはもちろんですが、大納言様がご存命ならば絶対に反対されました。
清廉潔白で慈愛の心を持たれた大納言様なら、絶対に反対されました。
某には、あの世に行った時に大納言様に顔向けできないような事はできません。
それくらいならこの手で一橋の首を取り、二人を連れてこの世の果てまで逃げてごらんに入れます。
そのために屍山血河を作ろうとも、一切後悔はいたしません」
長十郎は評定の場にいる者たちに殺すぞと殺気を飛ばした。
「よくぞ申した、長十郎。
そなたが大納言に忠誠を尽くして役目を辞してまで調べていてくれなければ、そもそも大逆を犯した者を見つける事すらできなかった。
その時の恩人を処刑するなど、本末転倒もはなはだしい。
余がそんな決定をくだしたら、天下に大恥をさらしてしまう事になっていた。
感謝しているぞ、長十郎」
「過分なお褒めの言葉、恐縮いたします」
「それにな、余もあの世で大納言には叱れるのは嫌だからな。
あの世に行くときには、胸を張り笑って大納言や貞次郎に会いたい」
「はっ、恐れながら某も、あの世で大納言様にお仕えする時には、胸を張ってお仕えしたいと思っております」
「おっほん。
りょうと虎太郎を処刑しないとは決まったが、処罰をするかしないかまでは決まっておらん。
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