壱人複名 船宿鯛仙捕物帳

克全

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第1章

第25話:幕閣の苦悩

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「不正を正そうとした者と、二度も不正を行った者達を、同列には扱えない!」

 陸奥国棚倉藩主で老中首座をつとめる松平侍従が厳しく言う。
 勝三郎と勘定奉行所の不正役方達をどうするか、幕閣内で論争になった。

「しかしながら喧嘩両成敗は、勝手な果し合いを防ぐためには必要な定めですぞ!」

 上野高崎藩主で老中の松平右京大夫が、勘定奉行所の石谷備後守清昌達が勘定奉行所の苦境を訴えたので、仕方なく肩を持った発言をする。

「勝三郎は徒目付組頭の子息だ、不正を見つけたら調べるのは当然の事だ。
 一家で一つの御役目を果たすのは、戦国の作法では当然の事だ」

 これまでは徳川家治将軍の信任が厚い松平武元と、徳川家治将軍の寵愛著しい田沼意次が考えをすり合わせれば、他の者は反論しなかった。

 だが今回は、来年の徳川家治将軍日光参詣を心配する勘定奉行所の石谷備後守が、安祥譜代の一部を味方につけて、役方達を軽い処分にするように粘った。

「しかしながら勝三郎は親子出仕していて、父親とは別に扶持を頂いております」

 松平右京大夫が弱気になったのに気付いた石谷備後守が必死で言い募る。

「だったら備後守殿は幕府の財貨を盗んだ者を見逃せと言うのか?
 やはり貴公も一緒になって不正をしていたのか?!」

 幕閣達も勘定奉行所の役方が大切な事はよくわかっている。
 番方が護衛をすれば、日光参詣が何の問題もなくできるとは思っていない。

「某は不正などやっておりません、そのような事を言っているのではありません。
 幕府として何を優先すべきか考えていただきたいと申しているのです。
 このままでは勘定奉行所が役目を果たせないと申しているのです」

 現に今も、百人以上の役方を親戚預けにした影響で、計算や記録が終わらずに積まれたままの書類が日々増えている。

 そんな現状に押されて、不正を行った役方達を十人扶持の支配勘定見習にまで降格して、元通り奉公させる案も勘定奉行を中心にでていた。

「それは御貴殿達が、勘定奉行が無能だと言う事であろう。
 そもそも不正を見抜けなかった、いや、見て見ぬ振りをしていたからこうなった。
 ちゃんと役目をこなせる者を取立てていれば、こんな事になっておらん」

 これまで黙って聞いていた南町奉行の牧野大隅守が、不正な筆算吟味で愚かな子弟を合格させてきた役方達が全ての元凶だと、厳しく言う。

「なんだと、我らの苦労も分からずに好き勝手申すな。
 不正で合格した無能は極一部で、大半は有能な者達だ。
 それに、無能が多過ぎて三日に一度しか登城しない番方とは違うのだ。
 役方は朝早くから夜遅くまで役目を果たしても各地からの報告が片付かないのだ」

 譜代旗本の中には、算盤勘定しかできない役方を馬鹿にしている者が多かった。
 牧野大隅守は勘定奉行所の役方達を馬鹿にしていなかったが、思い上がりが酷過ぎるとは思っていた。

「それは真っ当に役目を果たすのではなく、不正に刻を使っているからであろう!」

 安祥譜代の一部は石谷備後守の考えを理解したが、岡崎譜代や駿河譜代の大半が、勝三郎の肩を持って厳しい処分をすべしと言い出した。
 その無言の圧力を完全に無視する事は、幕政を主導するうえで不利になる。

「まだ申すか、これ以上申すなら刀にかけて許さんぞ!」

 何時の間にか勝三郎が下勘定所で口にした啖呵が広まっていた。
 町方の優秀な和算家を御家人の養子にすれば、不正役方を使わなくても大丈夫という考えが、名門譜代番方達の考えになっていた。

 名門譜代番方達から見れば、勘定奉行所の役方などは武士の内に入らない。
 味噌や大根の勘定など、役方の腰抜けにやらそうと平民にやらそうと変わらない。
 それくらい役方の奉公を馬鹿にしていたのだ

「待て、待て、その方らが果し合いを始めてどうする。
 我らは果し合いを認めるべきか、勝三郎を義父の目付組頭と一体と考えて役方を処罰するか、幕閣が独自の判断て役方を処罰するか、幕府として何が一番良いのか考えているのだ、争うために集まったのではない」

 田沼意次が石谷備後守と牧野大隅守の言い争いを止めた。

「「申し訳ございません」」

「町方の評判など気にする必要はないが、上様と幕府の威信は大切だ。
 武辺一辺倒の番方や町民には役方の大変さなど分からぬが、武家として卑怯憶病と思われるのだけは絶対に避けなければならない」

「「「「「確かに」」」」」

「町民以上に気をつけなければいけないのが番方達だ。
 上様と幕府の威信に傷をつけたと思わせたら、何かと邪魔をしてくる。
 上様の信任を得ているから押し通す事はできるが、隙を見せたら牙をむくぞ」

 何より若く純粋な徳川家基大納言が役方の不正に激怒していた。

「「「「「確かに」」」」」

 徳川家基は、即座に厳しい処分をしなかった幕閣への不満を口にしていた。

「そんな幕臣達が担ぎ上げるのは大納言様だ。
 今回のきっかけも、筆算吟味で不正をした者達を大納言様に訴えた者がいたから、大量の役方を処分しなければいけなくなったのだ」

 家基を溺愛する家治将軍の考えも、役方の厳罰に傾いてしまった。

「この度の騒動も大納言様を担いで大事にしようとするでしょう」

 石谷備後守がうんざりしたように言う。
 問題は、喧嘩両成敗の原則を守るのなら、勘定奉行所役方達に厳しい処分を下すのなら、勝三郎にも同じように厳しい処分を下さないといけない事だ。

「我らを追い落として老中に成り代わろうとする者達が、要職に就きたい者達が、大納言様を担ぐのは間違いない」

 田沼意次が困ったものだと言う表情で言う。
 幕閣が役方達の悪事を糾弾して処分すれば、勝三郎との喧嘩両成敗は成立しないのだが、既に一度不正役方達を降格処分にしているので、更に厳しい罰を与えたら、前回幕閣が下した処分が間違っていたことになる。

「そうなると、果し合いをさせる方が良いかもしれませんね」

 牧野大隅守が田沼意次に尋ねるように言う。
 新たに合格した者達が、鬼のように忙しい合間を縫って勘定奉行所の不正を探したら、次々と新たな不正の証拠はでてきたが、今回問題になっている役方全員の不正が見つかった訳ではなかった。

「大納言様に満足していただくには、その方が良いであろう。
 だがそれでは、我ら幕閣の裁きが間違っていたと認める事になる。
 少なくとも今勘定奉行をつとめている者を処分しなければいけなくなる。
 それだけでなく、不正を見つけられなかった勘定吟味役も処分しなければいけなくなり、今以上に勘定奉行所が混乱する」

 何より、不正を見つけられなかった勘定吟味役の責任問題となる。

「我ら幕閣が処分したうえで、大納言様が満足される果し合いをさせるしかないのではありませんか?」

 牧野大隅守が再度田沼意次に尋ねるように言う。
 それでなくても役方を務められる幕臣が激減するのに、勘定吟味役五人と吟味方改役十五人を同時に処分する余裕がなかった。

「某もそう思うが、順序立てが難しい。
 勝三郎の義父が徒目付組頭なのは先ほどの話にも出たが、その勝三郎に手向かったのを認めたら、目付に逆らっても許される事になってしまう。
 悪事を働いても果し合いに持ち込む事ができるとなれば、これまで以上に悪事を企む者が増える事になる」

「それでは大納言様が望まれる果し合いはやらせられませんな」
 
 牧野大隅守が心を定めたように言う。

「今後の事を考えれば、目付が役目に専念できるようにした方が良い。
 だが、最近の目付は武士は相見互いと言って厳しい処分をしなくなった。
 牢人を増やさないのも大切だが、時には厳罰も必要じゃ」

「侍従殿はそう思って勝三郎の義父を取立てられたのですな」

 牧野大隅守が田沼意次に確認するように聞く。

「我らがいる間は、幕府に巣食う鼠共を厳しく罰して幕臣を律する事ができる。
 だが、我らが去った後の事も考えておかなければならぬ」

「侍従殿、大納言様の信任を得るようにつとめる方が良いのではありませんか?」

 松平右京大夫が次代の事を考えて提案する。

「それも考えなかった訳ではありません。
 ですが残念な事に、大納言様の周りには愚か者が多いのです。
 何を申し上げても念じ曲げて伝えられてしまうのです」

「そうは申されても、諦めておられるわけではないでしょう?
 長谷川平蔵を西之丸書院番士にしたのも、諦めておられないからでしょう。
 幸いな事に、この度の中心にいる勝三郎を大納言様が気に入っておられる。
 勝三郎は侍従殿の手の者なのでしょう?
 武功を立てさせて大納言様の御側近くに送り込んではどうでしょう?」

 松平右京大夫が重ねて問う。

「某もそれは考えたのですが……目付に手向かいしても良いと思わせないようにしつつ、果し合いをさせるにはどうするべきか、思いつかぬのです」

「ならばこうしようではないか」

 老中首座の松平侍従が言った。
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