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第一章
第17話:逃避行
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巳之助な何度も何度も石を振るって丞兵衛の頭部を叩き潰した。
これまでの恨み辛みを一気に晴らす勢いだった。
「ひぃいいいいい!」
目の前で若旦那が撲殺されるのを見た宮後屋の手代は、抱きかかえていた得壱を放り出して逃げた。
恥も外聞もない見事な逃げっぷりだった。
「巳之助!
よく迎えに来てくれたね、巳之助!」
脇目も振らずに丞兵衛の頭に石をふるい続ける巳之助に鈴が声をかける。
「女将さん、ずっとお慕いしておりました。
お会いできるのを一日千秋の想いで待っておりました」
常軌を逸した巳之助は、一度何かに注意を向けると他の事が分からない。
それでも鈴の声には反応できた。
鈴と巳之助はその場でひしと抱き合った。
ただ普通に抱き合うだけならよかったのだが、2人にとっては長い間逢瀬を阻まれていたので、その場で獣欲を満たしかねない勢いだった。
巳之助は獣欲だけに囚われていたが、鈴には計算高い一面が残っていた。
このまま巳之助と逃げるにしても、金が必要だった。
そしてその金が巳之助に殺された丞兵衛の懐にあった。
「巳之助、その男に懐に山田羽書が10枚入っています。
この事が広まる前に、金に換えてしまうのです。
そのお金さえあれば、2人で江戸や京大阪に逃げる事もできます」
「はい女将さん、直ぐに換金してまいります」
「いえ、私が換金しますから、貴男はついてきなさい。
貴男では疑われてしまいます。
私なら疑われずに換金できます」
鈴は徐々に冷静になっていた。
巳之助と一緒に逃げられるとなり、色情狂となっていた部分が抑えられ、確実に逃げ延びる方法を考えるようになっていた。
惨めなのは得壱だった。
鈴からも巳之助からも全く無視されていた。
だがそのお陰で命拾いしたとも言える。
もし巳之助が得壱の事を思い出したら、その場で殺されていた。
鈴に思い出されていたら、死にたくなるくらい馬鹿にされていた。
その両方から逃れられたのだ。
それもこれも泥酔して意識が無くなっていたお陰だ。
少しでも正気が残っていたら、鈴に乞い縋っていただろう。
一緒に檜垣屋に戻ってくれと縋りついていただろう。
鈴は、最初は巳之助に山田羽書を換金しろと言う意味で話していた。
だが直ぐに自分が換金すると言いだした。
側で聞いていたら終始一貫していないのが分かる。
だが言っている本人も言われている巳之助も違和感を持っていた。
狂気に犯された2人には互いの過去の発言など気にならない。
ただ目の前にある事と気になった事にだけ取り組んでしまう。
2人は得壱の事など一顧だに値しないと言わんばかりに無視した。
実際には、視界に入っているのに理解できていないだけだった。
逃避行の資金を確保する事しか考えられなかった。
だが、その願いは叶えられなかった。
換金に訪れた羽書仲間の両替商に疑われてしまったからだ。
巳之助を両替商の外で待たせていても、鈴の評判が悪くなり過ぎていた。
「きぃいいいいい、檜垣屋の女将である私が信じられないと言うのかい?!」
「お前さんの醜聞は嫌になるほど聞かされているのですよ、鈴さん。
この山田に、お前さんの持ち込んだ羽書を換金するような店は一軒もない」
「きぃいいいいい、覚えておきな。
必ず報復してやるからね!」
鈴はそう言うと直ぐに両替商からでた。
自分の顔を知られていない、伊勢以外で換金しようと考えたからだ。
伊勢羽書を真似て、松坂、射和、丹生、白子、一身田等でも羽書が作られた。
それらを参考に藩札も発行されていた。
銀使いの西国では、重くかさばる丁銀より羽書が重宝された。
だが多くの発行元に信用が低かった事、幕府発行貨幣の流通が滞るなどの理由で、藩札などの発行が禁止された時代がある。
享保の改革で傾いてしまった諸藩の財政を助ける為に、条件付きで藩札が認められた時代もあったが、今では山田羽書以外は新規発行が禁止されている。
それくらい信用がある山田羽書だから、西日本ではよく使われている。
京大阪に行けば咎められずに換金できる可能性が高い。
いや、松阪まで行けば三井家が換金してくれる可能性があった。
それを当てにして、鈴が巳之助の手を取って夜道を駆けた。
このまま放っておけば、鈴と巳之助はそれなりの金を手に入れただろう。
その金を持って、手に手を取って駆け落ちしていたかもしれない。
だがそうはならなかった。
2人には優子と富徳が放った式神がついていたからだ。
2人が優子を傷つけないか常に見張っていた。
だから、2人の悪巧みは直ぐに優子と富徳に報告された。
優子は式神に放置を命じた。
2人が駆け落ちしてくれれば、それで構わないと思っていた。
祖父が父親を勘当した以上、もう他人だと割り切っていた。
だが富徳は放っておく事ができなかった。
情けない息子の得壱を勘当する決断はしたが、馬鹿な子ほど可愛いのだ。
得壱を裏切り追い詰めた鈴と巳之助を許せるはずがなかった。
富徳は多少悩んだ。
直接手を下して始末するべきか、奉行所にやらせるかを迷った。
迷った上で、奉行所に任せる決断をした。
自分が式神に命じて始末してしまったら、単なる死でしかない。
だが奉行所に捕らえさせたら、姦通罪で晒される事になる。
得壱は勘当して檜垣屋とは何の関係もないが、まだ鈴と離婚していないからだ。
しかも巳之助は宮後屋の若旦那を殺している。
10両以上の価値がある山田羽書を盗んでいる。
鈴は殺人と強盗に手を貸している。
2人が晒された上で極刑にされることは間違いない。
自分の手で殺すよりも苦しめる事ができると富徳は考えたのだ。
富徳は2人を苦しめる為に換金手段を封じる事にした。
式神を使って、丞兵衛が巳之助に殺されたと奉行所に知らせさせた。
三井家はもちろん、山田羽書を換金しそうな家全てに式神を送り、2人が丞兵衛を殺して山田羽書を奪ったと伝えさせた。
これで2人の始末はついたのだが、問題は得壱だった。
泥酔させたまま道に放り出しておいては死んでしまう。
得壱に見切りをつけた富徳は、心を鬼にして見殺しにする心算だった。
だが優子は見殺しにできなかった。
愚かで勇気も覇気もないが、それでも父親である。
姦婦の母親ほど憎しむ事ができなかった。
檜垣屋のために御師宿から追放する事まではできるが、見殺しにはできない。
ここで父親を見殺しにできる性格なら、そもそも体の不自由な者達を救おうと考えもしない。
だから優子は式神に得壱を介抱させた。
京大阪くらいまでは辿り着ける程度の路銀を握らせた。
それが優子の父親に対する最後の情だった。
優子も人の弱さが全くないわけではないのだ。
姦婦の母親が何かしでかさないか、最後まで見張る事ができても、愚かで弱いだけの父親が野垂れ死にする所までは見ていられない。
式神を付けて、最後まで面倒みる方法もあった。
死なない程度に金を与え続ける方法もあった。
だがそのどちらもできなかった。
一方富徳は息子の事を見捨てる覚悟をしていた。
いや、勘当を決意した時から見殺しにする覚悟をしていた。
息子に対する情が無いわけではないが、孫の優子の方が大切だった。
可愛さ余って憎さ百倍という言葉があるように、散々情けをかけていた息子が、目に入れても痛くないたった1人の孫に迷惑を掛けたのだ。
愛情が殺しても飽き足らない増悪に変化していた。
祖父と孫娘は互いに得壱を見張っている事を知りながら、何の相談もせずに黙って次の段階に向かった。
それが次の悪夢を呼ぶ事になるとも知らずに。
★★★★★★
「あいは舞台で舞うのが楽しい?
何も辛い事はないの?」
優子は今宵もあいと枕を並べている。
その日にあった事を話しながら眠るのが最近の日課だった。
優子にとってかけがえなの癒しの時だった。
あいにとってもとても大切な時間だった。
あいには自分にしか見えない魑魅魍魎の事を他の人に話す術がなかった。
だが優子は、話す事ができなくても分かってくれた。
手と表情を使った合図で意思の疎通ができていた。
伝えきれない想いは、魑魅魍魎が心に訴えてくれるのだ。
それに、優子が手ずから文字を教えてくれている。
あいは急速に文字を覚えていた。
徐々に筆談が出来るようになっていた。
文字を知る者が相手なら、筆談で意思の疎通ができるようになっていた。
あいの急激な成長は、新たに集まってきた体の不自由な者たちの希望だった。
いや、古参の体の不自由な者にとっても希望の星になった。
特別な巫女舞が踊れなくてもいいのだ。
お伊勢様の加護を得られない者でもいいのだ。
文字を覚えられたら、文字を知る者となら筆談が可能なのだと。
これまでの恨み辛みを一気に晴らす勢いだった。
「ひぃいいいいい!」
目の前で若旦那が撲殺されるのを見た宮後屋の手代は、抱きかかえていた得壱を放り出して逃げた。
恥も外聞もない見事な逃げっぷりだった。
「巳之助!
よく迎えに来てくれたね、巳之助!」
脇目も振らずに丞兵衛の頭に石をふるい続ける巳之助に鈴が声をかける。
「女将さん、ずっとお慕いしておりました。
お会いできるのを一日千秋の想いで待っておりました」
常軌を逸した巳之助は、一度何かに注意を向けると他の事が分からない。
それでも鈴の声には反応できた。
鈴と巳之助はその場でひしと抱き合った。
ただ普通に抱き合うだけならよかったのだが、2人にとっては長い間逢瀬を阻まれていたので、その場で獣欲を満たしかねない勢いだった。
巳之助は獣欲だけに囚われていたが、鈴には計算高い一面が残っていた。
このまま巳之助と逃げるにしても、金が必要だった。
そしてその金が巳之助に殺された丞兵衛の懐にあった。
「巳之助、その男に懐に山田羽書が10枚入っています。
この事が広まる前に、金に換えてしまうのです。
そのお金さえあれば、2人で江戸や京大阪に逃げる事もできます」
「はい女将さん、直ぐに換金してまいります」
「いえ、私が換金しますから、貴男はついてきなさい。
貴男では疑われてしまいます。
私なら疑われずに換金できます」
鈴は徐々に冷静になっていた。
巳之助と一緒に逃げられるとなり、色情狂となっていた部分が抑えられ、確実に逃げ延びる方法を考えるようになっていた。
惨めなのは得壱だった。
鈴からも巳之助からも全く無視されていた。
だがそのお陰で命拾いしたとも言える。
もし巳之助が得壱の事を思い出したら、その場で殺されていた。
鈴に思い出されていたら、死にたくなるくらい馬鹿にされていた。
その両方から逃れられたのだ。
それもこれも泥酔して意識が無くなっていたお陰だ。
少しでも正気が残っていたら、鈴に乞い縋っていただろう。
一緒に檜垣屋に戻ってくれと縋りついていただろう。
鈴は、最初は巳之助に山田羽書を換金しろと言う意味で話していた。
だが直ぐに自分が換金すると言いだした。
側で聞いていたら終始一貫していないのが分かる。
だが言っている本人も言われている巳之助も違和感を持っていた。
狂気に犯された2人には互いの過去の発言など気にならない。
ただ目の前にある事と気になった事にだけ取り組んでしまう。
2人は得壱の事など一顧だに値しないと言わんばかりに無視した。
実際には、視界に入っているのに理解できていないだけだった。
逃避行の資金を確保する事しか考えられなかった。
だが、その願いは叶えられなかった。
換金に訪れた羽書仲間の両替商に疑われてしまったからだ。
巳之助を両替商の外で待たせていても、鈴の評判が悪くなり過ぎていた。
「きぃいいいいい、檜垣屋の女将である私が信じられないと言うのかい?!」
「お前さんの醜聞は嫌になるほど聞かされているのですよ、鈴さん。
この山田に、お前さんの持ち込んだ羽書を換金するような店は一軒もない」
「きぃいいいいい、覚えておきな。
必ず報復してやるからね!」
鈴はそう言うと直ぐに両替商からでた。
自分の顔を知られていない、伊勢以外で換金しようと考えたからだ。
伊勢羽書を真似て、松坂、射和、丹生、白子、一身田等でも羽書が作られた。
それらを参考に藩札も発行されていた。
銀使いの西国では、重くかさばる丁銀より羽書が重宝された。
だが多くの発行元に信用が低かった事、幕府発行貨幣の流通が滞るなどの理由で、藩札などの発行が禁止された時代がある。
享保の改革で傾いてしまった諸藩の財政を助ける為に、条件付きで藩札が認められた時代もあったが、今では山田羽書以外は新規発行が禁止されている。
それくらい信用がある山田羽書だから、西日本ではよく使われている。
京大阪に行けば咎められずに換金できる可能性が高い。
いや、松阪まで行けば三井家が換金してくれる可能性があった。
それを当てにして、鈴が巳之助の手を取って夜道を駆けた。
このまま放っておけば、鈴と巳之助はそれなりの金を手に入れただろう。
その金を持って、手に手を取って駆け落ちしていたかもしれない。
だがそうはならなかった。
2人には優子と富徳が放った式神がついていたからだ。
2人が優子を傷つけないか常に見張っていた。
だから、2人の悪巧みは直ぐに優子と富徳に報告された。
優子は式神に放置を命じた。
2人が駆け落ちしてくれれば、それで構わないと思っていた。
祖父が父親を勘当した以上、もう他人だと割り切っていた。
だが富徳は放っておく事ができなかった。
情けない息子の得壱を勘当する決断はしたが、馬鹿な子ほど可愛いのだ。
得壱を裏切り追い詰めた鈴と巳之助を許せるはずがなかった。
富徳は多少悩んだ。
直接手を下して始末するべきか、奉行所にやらせるかを迷った。
迷った上で、奉行所に任せる決断をした。
自分が式神に命じて始末してしまったら、単なる死でしかない。
だが奉行所に捕らえさせたら、姦通罪で晒される事になる。
得壱は勘当して檜垣屋とは何の関係もないが、まだ鈴と離婚していないからだ。
しかも巳之助は宮後屋の若旦那を殺している。
10両以上の価値がある山田羽書を盗んでいる。
鈴は殺人と強盗に手を貸している。
2人が晒された上で極刑にされることは間違いない。
自分の手で殺すよりも苦しめる事ができると富徳は考えたのだ。
富徳は2人を苦しめる為に換金手段を封じる事にした。
式神を使って、丞兵衛が巳之助に殺されたと奉行所に知らせさせた。
三井家はもちろん、山田羽書を換金しそうな家全てに式神を送り、2人が丞兵衛を殺して山田羽書を奪ったと伝えさせた。
これで2人の始末はついたのだが、問題は得壱だった。
泥酔させたまま道に放り出しておいては死んでしまう。
得壱に見切りをつけた富徳は、心を鬼にして見殺しにする心算だった。
だが優子は見殺しにできなかった。
愚かで勇気も覇気もないが、それでも父親である。
姦婦の母親ほど憎しむ事ができなかった。
檜垣屋のために御師宿から追放する事まではできるが、見殺しにはできない。
ここで父親を見殺しにできる性格なら、そもそも体の不自由な者達を救おうと考えもしない。
だから優子は式神に得壱を介抱させた。
京大阪くらいまでは辿り着ける程度の路銀を握らせた。
それが優子の父親に対する最後の情だった。
優子も人の弱さが全くないわけではないのだ。
姦婦の母親が何かしでかさないか、最後まで見張る事ができても、愚かで弱いだけの父親が野垂れ死にする所までは見ていられない。
式神を付けて、最後まで面倒みる方法もあった。
死なない程度に金を与え続ける方法もあった。
だがそのどちらもできなかった。
一方富徳は息子の事を見捨てる覚悟をしていた。
いや、勘当を決意した時から見殺しにする覚悟をしていた。
息子に対する情が無いわけではないが、孫の優子の方が大切だった。
可愛さ余って憎さ百倍という言葉があるように、散々情けをかけていた息子が、目に入れても痛くないたった1人の孫に迷惑を掛けたのだ。
愛情が殺しても飽き足らない増悪に変化していた。
祖父と孫娘は互いに得壱を見張っている事を知りながら、何の相談もせずに黙って次の段階に向かった。
それが次の悪夢を呼ぶ事になるとも知らずに。
★★★★★★
「あいは舞台で舞うのが楽しい?
何も辛い事はないの?」
優子は今宵もあいと枕を並べている。
その日にあった事を話しながら眠るのが最近の日課だった。
優子にとってかけがえなの癒しの時だった。
あいにとってもとても大切な時間だった。
あいには自分にしか見えない魑魅魍魎の事を他の人に話す術がなかった。
だが優子は、話す事ができなくても分かってくれた。
手と表情を使った合図で意思の疎通ができていた。
伝えきれない想いは、魑魅魍魎が心に訴えてくれるのだ。
それに、優子が手ずから文字を教えてくれている。
あいは急速に文字を覚えていた。
徐々に筆談が出来るようになっていた。
文字を知る者が相手なら、筆談で意思の疎通ができるようになっていた。
あいの急激な成長は、新たに集まってきた体の不自由な者たちの希望だった。
いや、古参の体の不自由な者にとっても希望の星になった。
特別な巫女舞が踊れなくてもいいのだ。
お伊勢様の加護を得られない者でもいいのだ。
文字を覚えられたら、文字を知る者となら筆談が可能なのだと。
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