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外道丸
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天暦二年(948年)、越後国蒲原郡砂子塚の里。
冬の風が日本海から吹き荒れるこの地に、一つの小さな城砦があった。名を砂子塚城という。主は岩瀬俊綱という武士で、桓武天皇の末裔を遠く引く血筋を誇っていたが、実際は辺境の小領主に過ぎなかった。
妻は子宝に恵まれず、夫婦は長年祈りを重ねていた。戸隠山の九頭竜権現に願をかけ、ようやく懐妊したのは、俊綱が四十を過ぎてからのことだった。
胎内には十六ヶ月もの間、子は留まった。妻の腹は異様に膨らみ、夜毎に苦しげな呻きが聞こえた。里の産婆たちは
「これは鬼の子だ」
と囁き合ったが、俊綱はそれを叱りつけた。産声が上がったのは、雪の降りしきる丑三つ時。
生まれた子は、すでに歯が生え揃い、黒髪が肩まで伸び、目は鋭く輝いていた。泣き声は赤子とは思えぬほど低く、力強かった。
俊綱は喜びに震えながら、子を抱き上げた。
「外道丸……。外道を排し、正道を歩めという意味だ」
そう名付けたが、里の者たちは密かに「鬼っ子」と呼んだ。
外道丸は異常な速さで成長した。
一歳で歩き、二歳で言葉を話し、三歳で弓を引いた。体は逞しく、肌は白く、顔立ちはまるで絵に描いたような美しさだった。里の娘たちは、遠くからその姿を眺めては頰を赤らめ、夜毎に夢に見た。
しかし、その美しさとは裏腹に、気性は荒く、手のつけられない暴れん坊だった。
四歳の頃、遊び相手の少年を川に投げ込み、六歳の時には牛を片手で持ち上げて転がした。寺の鐘を叩き割り、村の神輿を壊した。
両親は恐れおののき、ついに決断した。
「この子を仏の道に導かねば、里が滅ぶ」
外道丸を、国上寺という古刹へ稚児として預けた。
国上寺は越後最古の霊場で、弥彦大神の神託により和銅二年(709年)に建立されたという。山深い境内には、苔むした石段と古木が立ち並び、朝夕の鐘の音が谷間に響いた。寺での日々は、外道丸を変えた――少なくとも、表面上は。
乱暴はぴたりと止み、朝は早く起きて掃除をし、昼は経を読み、夜は坐禅に励んだ。僧侶たちは驚いた。
「外道丸は生まれ変わった。仏の加護だ」
歳を重ねる毎に、美貌はますます磨かれ、十六歳を迎える頃には、稚児の装いをした外道丸の姿は、まるで天女の化身のようだった。
白い法衣に黒髪を結い、細い指で数珠を繰る姿は、里の娘たちを狂わせた。恋文が、雪のように届き始めた。
一通、二通……やがて葛籠|《つづら》一杯になるほど。中には、血で書かれたものもあった。
「外道丸様、あなたに会えぬなら、この世に生きる意味はありません」
それらを一切開かず、ただ黙々と修行を続ける。
「俗世の煩悩など、仏の道の敵だ」
そう自分に言い聞かせ、恋文の山を笈の奥に押し込んだ。しかし、娘たちの想いは、静かに燃え続けていた。
ある娘は、返事のないまま病に伏せ、狂い死にした。またある娘は、淵に身を投げ、自ら命を絶った。
噂は寺にも届き、僧侶たちは外道丸を遠ざけ始めた。
「外道丸、お前の美しさは毒だ。里の女どもを殺している」
思っても見ないことを言われ、初めて動揺した。
母が病に倒れたのも、その頃だった。母は最期に、息子の手を握って言葉をかける。
「外道丸……お前は美しい。だが、美しすぎるものは、皆を不幸にする。お前自身をも……」
母の死を機に、外道丸はさらに激しく修行に没頭したが、心の奥底で、何かが軋んでいた。
そして、ある嵐の夜。外道丸は、葛籠一杯の恋文を前にした。
「これを焼いてしまえば、すべて終わる」
そう決心し、火鉢に近づけ、葛籠の蓋を開けた。
――刹那、紫色の煙が噴き出した。煙は渦を巻き、外道丸の体を包み込んだ。それは、娘たちの怨念そのものだった。
「なぜ……なぜ私たちを見てくれぬ……」
「愛さぬなら、鬼になれ……鬼になって、苦しめ……」
煙は外道丸の額に「鬼」の字を刻み、目は血走り、牙が伸び、ぬばたまの黒髪は白髪に、肌は赤銅色に変わった。額の痛みで悲鳴を上げ、鏡井戸に駆け寄った。恐ろしい形相に変わった井戸水に映る自分の姿を見て、絶望し慟哭した。
「我は……もう、人にあらず……」
その夜、寺を飛び出した。
嵐の中、信州・戸隠の方角へ向かう。里の者たちは、後日、寺の稚児が鬼と化して逃げたと語り継いだ。
外道丸が慟哭した鏡井戸の傍らには、皮肉にも「縁切り地蔵」が立ち、恋の苦しみを断ち切りたい者たちが祈りを捧げているという。
一方、姿を消した外道丸は、山々を転々とした。
伊吹山、比叡山……神々や高僧に追い出され、どこにも居場所がなく彷徨う。やがて辿り着いたのは、丹波と丹後の境、大江山の深奥。そこで、彼は初めて安らぎを見出すことができた。
「ここなら人は来ぬが、鬼は来る」
鬼の眷属が外道丸の下に集まりはじめる。
茨木童子、星熊童子、金熊童子……名のある鬼だ。
彼らは外道丸を「酒呑童子」と呼ぶ。なぜなら、彼は酒を愛し、酒を飲みながら、人の業を嘲笑うようになったからだ。
「人間は弱い。脆い。美しいものを欲し、壊し、泣く……大層醜く、そして面白い」
鬼となった美少年は、自ら客を出迎え、夜には赤鬼の本性を現した。鉄の御所を築き、都から若い姫君をさらわせ、血を酒に変え、屍肉を肴に酒池肉林の日々を送っていた。
冬の風が日本海から吹き荒れるこの地に、一つの小さな城砦があった。名を砂子塚城という。主は岩瀬俊綱という武士で、桓武天皇の末裔を遠く引く血筋を誇っていたが、実際は辺境の小領主に過ぎなかった。
妻は子宝に恵まれず、夫婦は長年祈りを重ねていた。戸隠山の九頭竜権現に願をかけ、ようやく懐妊したのは、俊綱が四十を過ぎてからのことだった。
胎内には十六ヶ月もの間、子は留まった。妻の腹は異様に膨らみ、夜毎に苦しげな呻きが聞こえた。里の産婆たちは
「これは鬼の子だ」
と囁き合ったが、俊綱はそれを叱りつけた。産声が上がったのは、雪の降りしきる丑三つ時。
生まれた子は、すでに歯が生え揃い、黒髪が肩まで伸び、目は鋭く輝いていた。泣き声は赤子とは思えぬほど低く、力強かった。
俊綱は喜びに震えながら、子を抱き上げた。
「外道丸……。外道を排し、正道を歩めという意味だ」
そう名付けたが、里の者たちは密かに「鬼っ子」と呼んだ。
外道丸は異常な速さで成長した。
一歳で歩き、二歳で言葉を話し、三歳で弓を引いた。体は逞しく、肌は白く、顔立ちはまるで絵に描いたような美しさだった。里の娘たちは、遠くからその姿を眺めては頰を赤らめ、夜毎に夢に見た。
しかし、その美しさとは裏腹に、気性は荒く、手のつけられない暴れん坊だった。
四歳の頃、遊び相手の少年を川に投げ込み、六歳の時には牛を片手で持ち上げて転がした。寺の鐘を叩き割り、村の神輿を壊した。
両親は恐れおののき、ついに決断した。
「この子を仏の道に導かねば、里が滅ぶ」
外道丸を、国上寺という古刹へ稚児として預けた。
国上寺は越後最古の霊場で、弥彦大神の神託により和銅二年(709年)に建立されたという。山深い境内には、苔むした石段と古木が立ち並び、朝夕の鐘の音が谷間に響いた。寺での日々は、外道丸を変えた――少なくとも、表面上は。
乱暴はぴたりと止み、朝は早く起きて掃除をし、昼は経を読み、夜は坐禅に励んだ。僧侶たちは驚いた。
「外道丸は生まれ変わった。仏の加護だ」
歳を重ねる毎に、美貌はますます磨かれ、十六歳を迎える頃には、稚児の装いをした外道丸の姿は、まるで天女の化身のようだった。
白い法衣に黒髪を結い、細い指で数珠を繰る姿は、里の娘たちを狂わせた。恋文が、雪のように届き始めた。
一通、二通……やがて葛籠|《つづら》一杯になるほど。中には、血で書かれたものもあった。
「外道丸様、あなたに会えぬなら、この世に生きる意味はありません」
それらを一切開かず、ただ黙々と修行を続ける。
「俗世の煩悩など、仏の道の敵だ」
そう自分に言い聞かせ、恋文の山を笈の奥に押し込んだ。しかし、娘たちの想いは、静かに燃え続けていた。
ある娘は、返事のないまま病に伏せ、狂い死にした。またある娘は、淵に身を投げ、自ら命を絶った。
噂は寺にも届き、僧侶たちは外道丸を遠ざけ始めた。
「外道丸、お前の美しさは毒だ。里の女どもを殺している」
思っても見ないことを言われ、初めて動揺した。
母が病に倒れたのも、その頃だった。母は最期に、息子の手を握って言葉をかける。
「外道丸……お前は美しい。だが、美しすぎるものは、皆を不幸にする。お前自身をも……」
母の死を機に、外道丸はさらに激しく修行に没頭したが、心の奥底で、何かが軋んでいた。
そして、ある嵐の夜。外道丸は、葛籠一杯の恋文を前にした。
「これを焼いてしまえば、すべて終わる」
そう決心し、火鉢に近づけ、葛籠の蓋を開けた。
――刹那、紫色の煙が噴き出した。煙は渦を巻き、外道丸の体を包み込んだ。それは、娘たちの怨念そのものだった。
「なぜ……なぜ私たちを見てくれぬ……」
「愛さぬなら、鬼になれ……鬼になって、苦しめ……」
煙は外道丸の額に「鬼」の字を刻み、目は血走り、牙が伸び、ぬばたまの黒髪は白髪に、肌は赤銅色に変わった。額の痛みで悲鳴を上げ、鏡井戸に駆け寄った。恐ろしい形相に変わった井戸水に映る自分の姿を見て、絶望し慟哭した。
「我は……もう、人にあらず……」
その夜、寺を飛び出した。
嵐の中、信州・戸隠の方角へ向かう。里の者たちは、後日、寺の稚児が鬼と化して逃げたと語り継いだ。
外道丸が慟哭した鏡井戸の傍らには、皮肉にも「縁切り地蔵」が立ち、恋の苦しみを断ち切りたい者たちが祈りを捧げているという。
一方、姿を消した外道丸は、山々を転々とした。
伊吹山、比叡山……神々や高僧に追い出され、どこにも居場所がなく彷徨う。やがて辿り着いたのは、丹波と丹後の境、大江山の深奥。そこで、彼は初めて安らぎを見出すことができた。
「ここなら人は来ぬが、鬼は来る」
鬼の眷属が外道丸の下に集まりはじめる。
茨木童子、星熊童子、金熊童子……名のある鬼だ。
彼らは外道丸を「酒呑童子」と呼ぶ。なぜなら、彼は酒を愛し、酒を飲みながら、人の業を嘲笑うようになったからだ。
「人間は弱い。脆い。美しいものを欲し、壊し、泣く……大層醜く、そして面白い」
鬼となった美少年は、自ら客を出迎え、夜には赤鬼の本性を現した。鉄の御所を築き、都から若い姫君をさらわせ、血を酒に変え、屍肉を肴に酒池肉林の日々を送っていた。
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