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鬼の影
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長徳元年(995年)、平安京。
朱雀大路は桜の花びらに覆われ、貴族たちの牛車が優雅に行き交う。
東の禁裏では一条天皇が、藤原道長の補佐を受けながら政を執っていた。世は太平の極みに見えたが、夜の帳が下りる頃になると、都の空気は変わった。
闇に紛れて、何かが動く。
若い貴族の娘たちが、次々と消えた。
最初は、池田の中納言の三女・小姫君だった。十五歳の春、賀茂川のほとりで花見の宴の最中、忽然と姿を消した。次は、藤原北家の公卿の娘。続いて、平家の若き姫。一月で十人を超え、噂は京中に広がった。
「神隠しだ」
「鬼の仕業に違いない」
人々は戸を固く閉ざし、夜道を歩かぬようになった。帝は不安に駆られ、陰陽寮を召した。
安倍晴明――当代随一の陰陽師。
白髪交じりの髪を束ね、青い袍を纏った老練な男が、禁裏の広間に控えた。晴明は、呪符を広げた。
「西北の方角、大江の深奥に、鬼神の気配あり」
符は赤く燃え上がり、煙が渦を巻いた。
「その鬼の名は、酒呑童子。都の姫君たちをさらっては、鉄の御所で酒池肉林を繰り広げております」
帝は顔を青ざめさせた。
「何ゆえに我が都を狙う?」
晴明は静かに答えた。
「鬼は人の業を映す鏡。都の繁栄と退廃が、鬼を呼び寄せたのでしょう。姫君たちの美しさと脆さが、鬼の欲望を煽った……」
帝は震える声で命じた。
「源氏の棟梁、源頼光を召せ。鬼を討て」
源頼光――摂津守、源満仲の長男。三十五歳。
武勇に優れ、藤原道長の信任も厚い。顔立ちは端正で、目は鋭く、常に落ち着きを失わぬ男だった。頼光は、帝の勅命を受け、即座に四天王を召集した。
渡辺綱(わたなべのつな)――頼光の最側近。羅生門で鬼の腕を斬ったという剛の者。
坂田公時(さかたのきんとき)――通称金太郎。足柄山で育ち、熊を相撲で倒すほどの怪力。
碓井貞光(うすいさだみつ)――文武両道の知勇兼備。
卜部季武(うらべすえたけ)――弓の名手で、冷静沈着。
そして、
藤原保昌(ふじわらのやすまさ)――頼光の盟友。歌と酒に通じ、戦場でも冷静。
六人は、帝の御前で誓いを立てた。
「鬼を討ち、姫君たちを救い、京の安寧を取り戻さん」
しかし、鬼の住む大江山は険しく、道は知れぬ。頼光はまず祈念をする事に決めた。
一行は、京を離れ、石清水八幡宮へ。八幡大菩薩の神前に額を付け、武具を清め、願を立てた。
次に住吉大社へ。海の神に道中無事を祈り、さらに熊野権現へ。山の神々に加護を求めた。
三つの霊場で、三人の翁が現れた。
白髪の翁は八幡の化身、黒髪の翁は住吉、赤ら顔の翁は熊野。翁たちは、頼光に小さな酒壺を授けた。
「これを神便鬼毒酒という。神には甘露の薬、鬼には猛毒となる。慎重に使い、鬼を酔わせよ」
頼光は深く礼をし、壺を笈に納めた。一行は山伏の姿に変装した。頭に笠を被り、白い法衣を纏い、錫杖を携え、京の西北へ向かった。
道中、鬼の気配を感じた。
夜の森で、赤い目が光る。川辺で、人骨が散らばる。姫君たちの血を搾った酒の匂いが、風に乗って漂う。
頼光は静かに言った。
「鬼は我らを待っている。だが、我らは鬼を騙し、斬つ」
渡辺綱は太刀の柄を握りしめ、頷いた。
「鬼に横道なし。だが我らは人間。横道を以て、正道を成す」
坂田公時は豪快に笑った。
「酒なら任せろ! 鬼より飲めるぜ!」
一行は笑い声を抑え、険しい山道を登り続けた。やがて、大江山の麓に鉄の築地が見える。鉄の門が聳え、鬼の番兵が睨みを利かせていた。
頼光は深呼吸をし、錫杖を鳴らした。
「おお、山伏の修行者なり。鬼神の御住まいと聞き、酒を分けてもらいたく参った」
門の鬼は疑いの目を向けたが、頼光の落ち着いた声に、わずかに動揺した。
「頭領に伝えてみよう……」
門が開き、一行は鉄の御所へと導かれた。そこには場に不釣り合いな美少年がいる。赤い衣を纏い、笑みを浮かべ、
「おお、珍しい客だ。都から源頼光が我を討ちに来ると聞いたが……まさか、そなたらではあるまいな?」
頼光は穏やかに答えた。
「我らはただの山伏。酒呑童子殿の噂を聞き、酒を飲みたくて参ったまで」
美少年はは高らかに笑った。
「面白い! 我が酒呑童子である。所望ならば、盛大な宴を催そうではないか」
鬼の宴が始まる。
姫君たちの血を搾った赤い酒、屍肉の刺身。頼光たちは顔色一つ変えず、共に飲み、共に食らった。鬼の信頼を得るために。
酒呑童子は酔うと、饒舌になった。
「我は越後の生まれ。寺で修行していたが、娘どもの怨念に焼かれ、鬼となった。伊吹、比叡を追われ、ここに落ち着いた。人間は愚かだ……美しいものを欲し、壊し、泣く。そして大層醜く、面白い」
頼光は静かに酒壺を取り出し、神便鬼毒酒を注いだ。
「これぞ、霊山で授かった秘酒。どうぞ」
鬼たちは疑わず、毒酒を飲み干した。
――体が重くなり、目が霞み、鬼たちは次々と眠りに落ちた。
深夜、鬼どもが毒酒で眠っているところへ、笈から鎧と太刀を取り出し、酒呑童子の寝所へ忍び込んだ。鬼の姿で熟睡する酒呑童子。
頼光は無言で髭切(童子切安綱)を抜き、一閃。
童子の首が転がった。だが――生首は宙を舞い、頼光の兜に噛みついた!
「鬼に横道なきものを……卑怯者め!」
頼光は慌てて兜を重ね、四天王の兜もかぶせ、辛うじて逃れた。他の鬼たちも、次々と討たれていく。
茨木童子は渡辺綱に斬られ、星熊童子は坂田公時に、金熊童子は碓井貞光に―ー。
姫君たちは救われ、鉄の御所は炎に包まれた。一行は首級を携え、京へ凱旋した。
帝は喜び、頼光を褒め称えた。
酒呑童子の首は、宇治の平等院宝蔵に納められたが、夜の山には今も酒の香りが漂い、誰かが嘲笑う声が聞こえる。
鬼は死なず、ただ人の業を醜さを、静かに見つめ続けているのかもしれない。
朱雀大路は桜の花びらに覆われ、貴族たちの牛車が優雅に行き交う。
東の禁裏では一条天皇が、藤原道長の補佐を受けながら政を執っていた。世は太平の極みに見えたが、夜の帳が下りる頃になると、都の空気は変わった。
闇に紛れて、何かが動く。
若い貴族の娘たちが、次々と消えた。
最初は、池田の中納言の三女・小姫君だった。十五歳の春、賀茂川のほとりで花見の宴の最中、忽然と姿を消した。次は、藤原北家の公卿の娘。続いて、平家の若き姫。一月で十人を超え、噂は京中に広がった。
「神隠しだ」
「鬼の仕業に違いない」
人々は戸を固く閉ざし、夜道を歩かぬようになった。帝は不安に駆られ、陰陽寮を召した。
安倍晴明――当代随一の陰陽師。
白髪交じりの髪を束ね、青い袍を纏った老練な男が、禁裏の広間に控えた。晴明は、呪符を広げた。
「西北の方角、大江の深奥に、鬼神の気配あり」
符は赤く燃え上がり、煙が渦を巻いた。
「その鬼の名は、酒呑童子。都の姫君たちをさらっては、鉄の御所で酒池肉林を繰り広げております」
帝は顔を青ざめさせた。
「何ゆえに我が都を狙う?」
晴明は静かに答えた。
「鬼は人の業を映す鏡。都の繁栄と退廃が、鬼を呼び寄せたのでしょう。姫君たちの美しさと脆さが、鬼の欲望を煽った……」
帝は震える声で命じた。
「源氏の棟梁、源頼光を召せ。鬼を討て」
源頼光――摂津守、源満仲の長男。三十五歳。
武勇に優れ、藤原道長の信任も厚い。顔立ちは端正で、目は鋭く、常に落ち着きを失わぬ男だった。頼光は、帝の勅命を受け、即座に四天王を召集した。
渡辺綱(わたなべのつな)――頼光の最側近。羅生門で鬼の腕を斬ったという剛の者。
坂田公時(さかたのきんとき)――通称金太郎。足柄山で育ち、熊を相撲で倒すほどの怪力。
碓井貞光(うすいさだみつ)――文武両道の知勇兼備。
卜部季武(うらべすえたけ)――弓の名手で、冷静沈着。
そして、
藤原保昌(ふじわらのやすまさ)――頼光の盟友。歌と酒に通じ、戦場でも冷静。
六人は、帝の御前で誓いを立てた。
「鬼を討ち、姫君たちを救い、京の安寧を取り戻さん」
しかし、鬼の住む大江山は険しく、道は知れぬ。頼光はまず祈念をする事に決めた。
一行は、京を離れ、石清水八幡宮へ。八幡大菩薩の神前に額を付け、武具を清め、願を立てた。
次に住吉大社へ。海の神に道中無事を祈り、さらに熊野権現へ。山の神々に加護を求めた。
三つの霊場で、三人の翁が現れた。
白髪の翁は八幡の化身、黒髪の翁は住吉、赤ら顔の翁は熊野。翁たちは、頼光に小さな酒壺を授けた。
「これを神便鬼毒酒という。神には甘露の薬、鬼には猛毒となる。慎重に使い、鬼を酔わせよ」
頼光は深く礼をし、壺を笈に納めた。一行は山伏の姿に変装した。頭に笠を被り、白い法衣を纏い、錫杖を携え、京の西北へ向かった。
道中、鬼の気配を感じた。
夜の森で、赤い目が光る。川辺で、人骨が散らばる。姫君たちの血を搾った酒の匂いが、風に乗って漂う。
頼光は静かに言った。
「鬼は我らを待っている。だが、我らは鬼を騙し、斬つ」
渡辺綱は太刀の柄を握りしめ、頷いた。
「鬼に横道なし。だが我らは人間。横道を以て、正道を成す」
坂田公時は豪快に笑った。
「酒なら任せろ! 鬼より飲めるぜ!」
一行は笑い声を抑え、険しい山道を登り続けた。やがて、大江山の麓に鉄の築地が見える。鉄の門が聳え、鬼の番兵が睨みを利かせていた。
頼光は深呼吸をし、錫杖を鳴らした。
「おお、山伏の修行者なり。鬼神の御住まいと聞き、酒を分けてもらいたく参った」
門の鬼は疑いの目を向けたが、頼光の落ち着いた声に、わずかに動揺した。
「頭領に伝えてみよう……」
門が開き、一行は鉄の御所へと導かれた。そこには場に不釣り合いな美少年がいる。赤い衣を纏い、笑みを浮かべ、
「おお、珍しい客だ。都から源頼光が我を討ちに来ると聞いたが……まさか、そなたらではあるまいな?」
頼光は穏やかに答えた。
「我らはただの山伏。酒呑童子殿の噂を聞き、酒を飲みたくて参ったまで」
美少年はは高らかに笑った。
「面白い! 我が酒呑童子である。所望ならば、盛大な宴を催そうではないか」
鬼の宴が始まる。
姫君たちの血を搾った赤い酒、屍肉の刺身。頼光たちは顔色一つ変えず、共に飲み、共に食らった。鬼の信頼を得るために。
酒呑童子は酔うと、饒舌になった。
「我は越後の生まれ。寺で修行していたが、娘どもの怨念に焼かれ、鬼となった。伊吹、比叡を追われ、ここに落ち着いた。人間は愚かだ……美しいものを欲し、壊し、泣く。そして大層醜く、面白い」
頼光は静かに酒壺を取り出し、神便鬼毒酒を注いだ。
「これぞ、霊山で授かった秘酒。どうぞ」
鬼たちは疑わず、毒酒を飲み干した。
――体が重くなり、目が霞み、鬼たちは次々と眠りに落ちた。
深夜、鬼どもが毒酒で眠っているところへ、笈から鎧と太刀を取り出し、酒呑童子の寝所へ忍び込んだ。鬼の姿で熟睡する酒呑童子。
頼光は無言で髭切(童子切安綱)を抜き、一閃。
童子の首が転がった。だが――生首は宙を舞い、頼光の兜に噛みついた!
「鬼に横道なきものを……卑怯者め!」
頼光は慌てて兜を重ね、四天王の兜もかぶせ、辛うじて逃れた。他の鬼たちも、次々と討たれていく。
茨木童子は渡辺綱に斬られ、星熊童子は坂田公時に、金熊童子は碓井貞光に―ー。
姫君たちは救われ、鉄の御所は炎に包まれた。一行は首級を携え、京へ凱旋した。
帝は喜び、頼光を褒め称えた。
酒呑童子の首は、宇治の平等院宝蔵に納められたが、夜の山には今も酒の香りが漂い、誰かが嘲笑う声が聞こえる。
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