蝉の虚言(そらごと)

椹木 游

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百度目の初恋

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 十一月の窓に吹き付ける強い秋風の音。

 空調の利きが悪い病室のベッドの上で私はじっとりと汗を含んで横たわっていた。
 身体を起こす理由も予定もない中で、空模様だけが唯一の変わり映えだった。

 私の目には、雨水を蓄えている灰色の空と枯れた花瓶が写っていた。

__こつこつこつ

 「入りますよ」

 扉越しに薄紫の細い花束を持つ白い服の人が私に声をかける。

 「どうぞ」

 開かれた扉から現れた、しっとりとした色白の肌に垂れる少し長めの黒い髪は私の心を動かした。

 「どこかでお会いしましたか?」

 「どうでしょうねえ」

 にやりと笑いながらも目を合わせないその人は、ゆっくりと窓の方へ歩いていく。
 私は眼前にぶら下がった餌に飛びつく寸前の魚のように目で追っていた。

 「今日は曇りですねえ」

 開きの悪い窓を力強く開けて風を入れる。
 涼しく吹く風が髪を揺らし、滲んだ汗が垣間見える。

 「あら?」

 花瓶を見やって呟いたその人は花束をそっと脇に置き、軽い花瓶を持って手洗い場に行く。こちらを向くように置かれた花は四本のネリネだった。

 「これでよし」

 花と同じようにほほ笑んだその人は溌剌はつらつとした発声で花瓶を置いた。そうして四本の花の上の方を持って、一度にすとんと挿した。
 はにかんだ横顔にじわじわと耳が熱くなる。

 「えーと、風が気持ちがいいですね」

 「外はすっかり秋めいていますねえ」

 うつむいたまま、乱れた髪を数束かき上げ、これ見よがしに耳をあらわにさせる。

 「でも、ここにも赤くなってるが、ありますねえ」

 その人は私のすぐ傍まで近づいて左の耳の淵を撫でる。
 長めのシャツの袖は、私の前髪をひと束だけさらっていった。

 「少し、近い……です」

 微笑むその人を視界の端に捉えつつも金縛りに遭ったように動けなかった。その様子を見てその人は無邪気に楽しんでいるようであった。

 「元気そうで、なによりです」

 「私は、すこぶる元気です」

 ふと、袖を伸ばして古びたブランド時計の文字盤を見るその人。

 「もうこんな時間」

 固まった身体はほどけて、その人の方を見る。

 「そんな……犬みたいに……おかしな人」

 吹き出したその人は息の間に言葉を無理やり入れながら喋る。


 「明日、来てくれますか?」


 「もちろん、明日もまた来るわ」


 そう言って私の頭を二、三回程ぽんとすると扉の方へと歩き始めた。
 扉を開けたところで、私の方を一度見た。子供のように小さく笑っている。

 「私の名前、知りたいでしょ」
 「はい、是非」

 悩む素振りをして片目を閉じる。
 今度はその目の反対側の手の人差し指で口を閉じた。

 「じゃあ明日教えてあげますね」

 その人は扉を開けて後ずさり、その笑みを絶やさずに扉を閉じた。
 
 私は想いを文字に残したくなり、置かれていたメモ用紙に思いを数文字につづる。
 私は重い身体を起こして、花瓶の下にその紙を敷いた。

 そして窓の隙間から水をこぼし、花も外へと落とした。
 私はそれに目もくれず窓を閉じた。


 窓のすぐ下には枯れかけた無数のネリネが落ちていた。
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