2 / 2
後編
しおりを挟む
◇◆
「高橋と言います。佐々木先生、会えて嬉しいです。俺、先生の授業取っているんですよ。先生の講義での話し方、シンプルで分かりやすくて良いですよね。先生の黒でまとめたコーディネート、素敵です。今日はよろしくお願いします」
佐々木の屋敷に入ってきた高橋は、迎えた佐々木に向かって被っていた紺色の作業帽を取り、満面の笑顔で挨拶をした。その様子を見ていた小林は、突然佐々木の太鼓持ちになった高橋を見て大学では佐々木、佐々木と呼び捨てにしていたくせに……と面食らっていた。
佐々木の方を見ると、メロン牛乳を飲んでいた朝のだるだる黒コーディネートではなく、
普段とは違う黒コーディネートに着替えていて、シャツにネクタイ、カーディガンにかちっとめのパンツを履いて、黒のトレンチコートを腕にかけ、黒の書類かばんまで手に持っていた。
細い黒縁の眼鏡をかけていて、黒いマスクをつけている。髪型も朝のボサボサとは違いサイドを流し耳にかけ小綺麗にスタイリングされていて、
え、なんでと小林は二度見した。
「ああ、どうも高橋くんだっけ?小林くん、ちょっと大学まで行ってくるね。あと、よろしくね」
佐々木はスリッパから黒い革靴に履き替え、家から出かけるようだった。
小林は、てっきり高橋にも朝言っていたペンの話をしたり、手脚をバタバタさせたりしながら何かしらうざい絡み方を佐々木がしてくれるのではないかと思っていたので、何も波風が立たない振る舞いに驚いて、佐々木にペン、ペンと小声でささやいていた。
「何?ペンって?あ、ちゃんと持ってるよ」
佐々木はペンはかばんに入っていると、黒いかばんを指差して言った。そうじゃなくて、と小林は高橋の後ろで何やらアピールをしていた。
それから、佐々木がまだ眼鏡をかけていることに気付いた。
「先生、眼鏡、コンタクトに変え忘れてますよ」
「ああ、いいの。僕は外では眼鏡だから。家ではコンタクトだよ」
「えっ、普通逆じゃないですか?」
「家の中でまで眼鏡って鼻に眼鏡のアレが当たるのがうっとおしいじゃん。アレ、うっとおしい、あっ!頭から吊り下げる眼鏡ってどうだろ」
鼻にアレが当たるのがうっとおしいって書いておこうと言いながら、佐々木はかばんをゴソゴソやり自分のスマホを探していた。
「眼鏡、いいじゃないですか、ねえ?先生。よくお似合いですよ」
高橋はそうにこやかに佐々木に話しかけた。佐々木はスマホのアプリに何やらメモをしているようだ。
小林は先生、何をメモしたんだろう。帰ったら、見せてくれるかなと思いながら佐々木を見ていた。
「それにしても、また来たの男なんだ?」
佐々木はスマホをかばんにしまうと、高橋の方をチラッと見た。
「本当は三木さんって言う女性がここに来る予定だったんですけど」
「あっ、三木さん」
高橋の口から知っている女性の名前が出たので小林は驚いた。
三木さんは前回のクソガキ家庭に派遣された時に小林と一緒に組んだコンビの女性だ。
素早い判断とあざやかな片づけのテクニックに定評があり、クソガキが油性ペンで壁に落書きをしようとするのを両手と肩を使い素早くブロックして未然に防いでいたのを小林は思い出していた。
「三木さん、この大きな屋敷を怖がってですねー、シフト変わってくれって言われちゃいまして。それで俺が代わりに来たんですけどー。佐々木先生、ここ何かあったのですよね?心中、とか?」
「……怖がって、って?」
高橋が笑いながらそう言うと、佐々木は不思議そうに高橋に問いかけた。
「ちょっと、おい、高橋」
「コウモリ男の屋敷には何か出るって噂ですし、女性にはちょっと怖いかもですねー。あはは」
高橋は手をお化けだかの手のように下げた仕草をして楽しそうに笑ったままだったが、小林は慌てて高橋の紺色のエプロンを後ろから引っ張った。
「ちょ、やめろって」
「ん?何の事?コウモリ男?……あ、そろそろ行かなきゃ。じゃね、高橋くんもよろしく」
怪訝そうな顔をしていた佐々木は腕時計を見た後、慌ただしく屋敷を出ていったのだった。
佐々木が屋敷を出た後、高橋は身につけていたニコふきふき社の紺色エプロンを外しながら、佐々木行った?と小林に話しかけた。
あっ、高橋エプロン外してる、と小林はじろりと高橋を睨んだ。
掃除をするために二人は佐々木の部屋に入った。
前日だいぶ要らなそうなものを片付けたはずの部屋は、また要らなそうなものが増えていて、片付ける前の部屋に戻りつつあり小林はげんなりとしていた。
「このバイトきっついよなー。前やった引越し業者のバイト並みにきついよ」
高橋はそう言いながら比較的楽そうな書類をシュレッダーにかける作業をしていて、小林はまた高橋をじろりと見ながら、引越し業者のように家具を動かし素早く掃除機をかけていた。
「この屋敷、思ったよりでかいしびびったわー。マジ何か出そー」
うんうん、と小林はうなずいた。
「お前土曜までだっけ?ここ」
「うん、高橋は?」
「俺?俺はここは今日だけ。その後週末から違う現場」
えっ、と小林は持っていた花瓶を落としそうになって慌てて持ち直した。
「小林は次どの現場行くの」
「俺は春休み終わったら、このバイトやめようかなって」
「あー、まあ、きっついしなあ。うんうん。分かるよ」
高橋ははたきを持って棚の埃をポンポンと払い始めた。
小林はちょっとは持てよなと、高橋を睨みながら移動させた家具を重そうに元に戻していた。
佐々木は大学から帰ってきて、朝のだるだる黒佐々木服に着替えていた。眼鏡は外していたので、おそらくコンタクトに変えたのであろう。
だるだる服にはなっていたが、やはり高橋には軽く普通に挨拶をして、すぐいつもの佐々木の作業部屋にこもってしまった。
高橋は先生、ゆったりしたスタイルのシルエットも良いですね、裸眼も光を湛えた切れ長の瞳がよく見えて素敵です、と相変わらずおべっかを使っていて、調子いいんだからと小林は高橋をジト目で見ていた。
◇◆
小林が夕食の用意をしていると、佐々木が台所へやってきて、朝と同じように冷蔵庫を開けメロン牛乳をコップに注いでいた。
「あっ、先生、もうすぐ夕食できますからメロン牛乳なんか飲まないで下さい」
「いいの、メロン牛乳は空腹の胃の粘膜を守ってくれると思うから、きっと」
あんな甘いもの飲んで、また夕食を残されたら、と小林は佐々木をジト目で見ていた。
小林が作った夕食をテーブルに並べたり、使ったシンクを拭いたりしていると、メロン牛乳を飲み終えた佐々木が口を開いた。
「そういやさ、朝の怖がる、とかコウモリ男、とか何だったの?」
今日の朝、玄関付近で高橋が来る予定だった三木さんが屋敷を怖がっていたと無邪気に伝えたことを佐々木は覚えていた。
「あ、う」
どう言っていいものか小林が悩んでいると、何か言われているの、ここ?と佐々木が助け舟を出した。
「ここの、大きな屋敷に一人で住んで、いつも真っ黒な格好をしている先生、コウモリ男ってあだ名が……」
「ついてるの?」
「はい」
「もしかして、僕がそれを知って気にするとか思って言わなかったの?」
「あ、う……」
小林はテーブルの端を何回も拭きながら目を伏せた。
「俺も、吸血鬼の末裔だって噂しちゃったから……すみません」
「初日の、何か言ってたやつ?」
「はい」
小林は返事をしながら、二人しかいないのに食卓のテーブルにコップを4つ置いてしまった。
「言わなきゃわかんないのに、あはは。別にいいよ、なんてことない。今まで気付かなかったけど。大学ではあまり付き合いがないからかなあ?」
笑いながら佐々木はテーブルに小林が置いたコップを2つ食器棚に戻していた。
「君も高橋くんみたいに普通に言えばいいのに。小林くん、変な子だねえ」
「変なのは先生でしょう」
「うんうん、二人とも変ってことで。まあいいや、食べよっと」
そう言って佐々木が食卓の椅子に座ったので、小林もならって椅子に座った。
「ね、ね、ところで高橋くんってさ、凄く背が高かったね!かっこいいんじゃない?!」
「その休み時間の女子高生みたいな喋り方やめてもらえます?」
佐々木が手を洗うのを忘れたと言ってすぐ席を立ち、洗ってきた後に何を思い出したのか、少し興奮した面持ちで小林に話しかけた。
「ふふ、君の方は背が低めだね?僕より低いんじゃない?」
「悪かったですね、低くて」
小林は朝はこんなテンションじゃなかったのになあ、先生と思いながら嫌々返事をした。
「そういや、食事二人分?高橋くんは?」
佐々木は食卓と二つのコップを指差し小林にたずねた。
「もう帰りましたよ、デートがあるって言って。担当の俺が居るからいいかなと」
「へー、いいね。小林くんはデートの予定はないの?」
「ないです」
「えー、かわいそー!」
「高橋くん、明日は何時ごろに来るの?」
「来ないみたいですよ。ヘルプは一日だけだったみたいで」
「えー、明日からはまた小林くん一人なの?つまんなーい!代わりに誰か来る?」
「今の所はまだそういうのは聞いてませんね。なんせ人手が足りなくて」
「じゃあまだ小林くんがこの家一人で担当するの?えー!かわいそー!」
うわー、なぐりたい……と小林は思ったが依頼主を殴るわけにもいかないのでこぶしを握り目を閉じて静かに耐えていたのだった。
「高橋、高橋っていうわりには今日あまり高橋に話しかけていませんでしたね?」
「高橋くんは初対面で、僕は人見知りだもの。生きてる人間と住むのは嫌だって言ったでしょ。必要以上のことは話したくないし」
「高橋は先生の授業受けてたって言ってましたよ」
「ああ、言っていたね。覚えてないや。そもそも生徒の顔、僕見てないし。まあ、今はマスクしているのもあるけど」
確かに、自分も大学ではマスクもあって人の顔をよく覚えてないかもなあ、高橋も会った時分からなかったし、と小林は思い出していた。
「俺も初対面だったでしょう?でも初日から、先生……」
「ああ、君?君はなんか変だからいいんだよ。君、変だよね。ふふ、あらいぐまみたい」
「あらいぐま?」
小林は特にアライグマには似ていない、茶髪の短髪にピアスをつけて中肉中背、黒くつぶらな瞳ではなくどちらかというと細く吊り目で人相はあまり良くはない。
しいていえば手脚が短めの所が似ているか。
佐々木が言っていることがわからないまま、食卓を見た小林はからしを忘れたと言って席を立ち、そばにある冷蔵庫を開けに行った。
「犬とか、猫とかが部屋にいると落ち着くし、居ても気にならないでしょ。そんな感じかな。あらいぐまが冷蔵庫を開けてる、とか可愛くない?」
「エプロンの刺繍見ました?!」
小林はエプロンのポケットにあるニコふきふき社公式キャラクターのアライグマみたいなものの刺繍を手で隠すと、佐々木はバレたかとちょっと舌を出した。
「あらいぐまって、そんな可愛い動物じゃないみたいですけど、結構凶暴」
「へえ、そうなの?君も?」
佐々木は箸を手に持って、小林の方に向け口角を上げた。
「指し箸は行儀が悪いです」
「今だって、律儀に食卓についてさ、高橋くんみたいに適当なことを言って帰ったらいいのに。変だね」
「食べて帰ったほうが帰宅後に食事を用意しなくてすむし、食費が浮くからですよ」
小林は、冷蔵庫から出してきた練りからしが入った小さな容器を食卓の真ん中に置いた。
「ふーん。食費を浮かせたいなら、そこらにあるもの何でも持って帰っていいよ。僕みたいなのと食事をするの、嫌でしょ」
「嫌ですね」
間髪入れずに小林はそう言い放ち、また席に座った。
「まあ、仕事なんで」
「仕事かあ、ちょっと寂しいね。僕はこうして小林くんとご飯を食べるの、結構楽しみなんだけどな」
えっ、とそう言われて小林が焦った表情を見せると、佐々木はいたずらっぽい笑顔を浮かべて小林を見ていた。
「なーんて、僕も夕食後の食器を洗って欲しいだけだよ。君いつもちゃんと後片付けをして帰ってくれるんだもの。あはは、その顔!」
小林は佐々木へのストレスでだんだん頭がズキズキしてくるのを感じていた。
「これ、美味しいね、何かの揚げたやつ。また鶏肉かと思ったからちょっとかじるだけで止めようとしたけど違うみたい」
ラディッシュ、きゅうり、パセリが添えられた皿に乗っていた何かのカツを箸で持ち上げて、佐々木はそれを眺めていた。
「豚肉です。豚肉の薄切りに砂糖をまぜた味噌を塗って重ねて、大葉を挟んで衣をつけて揚げてます。野菜も食べてくださいよ」
「豚肉もあんまり得意じゃないけど、美味しいかも。きゅうりとこの緑のは要らない。食べて」
「俺は味変にこのからしをつけますけど、先生には辛いですよね、やめておきますか」
小林は佐々木の残したきゅうりとパセリを食べながら、食卓の真ん中の練りがらしの容器を取った。
「ちょっと子供扱いしないでよ。ここにおいて」
佐々木は野菜がなくなり豚肉のカツだけになった皿を指差していた。
そのあとカツにからしをつけて食べると、辛いと言って顔を歪めていた。
「ロールパンにしてって言ったのに、ご飯じゃん。なんか白くないし」
「腹持ちがいいかなって、麦ご飯にしました。今のはくせが少ないけど、コーンを混ぜました。コーンが甘いので、食べられると思いますよ」
佐々木は文句を言いながらもコーンご飯を口に運んでいた。
「コーン甘いね。ちょっと、量が多いかな。半分食べて」
「大した量はないですよ。ちゃんと食べてください。顔、青白いんですから先生は」
「色白なんだよ、僕は。昔と違って今は色白がトレンドなの!」
ぶつくさと言いながらも、佐々木がコーンご飯を食べ進めているのを見て小林は飲み物をつぎ足そうと席を立った。
「これさー、これ、緑の」
佐々木の方は、食卓の上の緑色でクルトンが浮いたポタージュスープをスプーンでかき混ぜていた。
「ほうれん草です」
佐々木のコップに飲み物を足しながら、小林は野菜嫌いの佐々木にほうれん草のポタージュのことを何か文句でも言われるかと身構えていると、
意外にも、佐々木はほうれん草のポタージュを普通に飲んでいた。
「ほうれん草なの?スープも缶詰とか、レトルトとか、冷凍とか今色々あるじゃん。そういうの買ってきたらいいのにさ、小林くん、葉っぱ買ってきてミキサーに入れているんだもの。びっくりしちゃった」
「別に、材料をミキサーにかけたものを鍋で煮るだけですよ、特別なことはしてません」
小林は再び席につき、自分の目の前にあるほうれん草のポタージュを飲んでまあまあかなと頷いていた。
「緑だしさ、残そうと思ったのね。青臭そうだし、これ。でも飲んでみたら、飲めたんだ。生クリームとか、チーズとかが入っているのかなあ。分からないけど、青臭くなかった」
「そういえば入れましたね、材料で」
佐々木がスープの皿をスプーンで叩いたり、スプーンを小林の方に向けたりしていたので、小林はまた顔をしかめていた。先生、行儀が悪い。
「あ!ポタージュ、残ったので冷凍しておきましたから、朝にでも温めて食べてください」
「僕、朝はあんまり食べないんだけどー。知ってるでしょ?コーヒーとか、メロン牛乳とか」
「もったいないから、食べておいてください」
小林は夕食を食べ終え、自分が使った食器を片付けようとシンクの方へと食器を運んだ。 佐々木はまだダラダラと食べている。
何か片付けられる食器がないか、食卓の佐々木の食器を見に行ったとき、
「君、やっぱり変な子だね」
と、佐々木は小林を見上げて笑った。
◇◆
次の日は土曜日だった。思ったより一週間長かったな、と思いながら小林は佐々木の大きな屋敷の前に立っている。
次にここにくる人、屋敷は結構広いし、苦労するぞと次の人のためにアドバイスを書き置きしておきたい気分になった。
依頼主は、あんなのだし。自分は今日で担当は終わりだから、いいけど。
ふと、先生の部屋がまた散らかるのではないかと気になった。
小林が来ることをやめても、すぐまた誰かしら家事作業員などがきて佐々木の部屋を片付けるだろう。恋人が来て片付けるのかもしれない。
そういえば先生は恋人がいるのだろうか?
先生を黙らせるような恋人とは、どんな人なんだろう?
小林はそんなことを考えている自分に気付いて、どうでもいいと頭を振った。
そうこうしているうちに屋敷の台所について、朝の食器の洗い物をしながら、
先生、朝に昨日のスープを飲んでくれたのかなと小林は思っていた。
「小林くん、やっぱり早い。来てた、来てた!」
「はい、俺はいますが」
「君じゃなくて、メッセージが来てたんだ」
いつの間にか台所の入り口に佐々木が立っていて、片手にスマホを持って、何やら騒いでいる。
「来てたって?あ、お返事がどうとかって……」
前に佐々木がアイデアを送っていた企業からの返信が来ないと、落ち込んでいた出来事があったのを小林は思い出した。
「あの企業からのお返事は、まだ来ない」
佐々木は寂しそうに下を向いてから、でも! とパッと上を向いて両手をあげ、右手に持ったスマホを振っていた。
「僕さ、ライフワークって言っていたでしょ、アイディアのこと」
はい、と小林は頷く。
「あのアイディア、パソコンでまとめていたじゃない?それ、メールとか、投稿フォームでも送っているんだけどさ」
「SNSとか、ブログとかにも載せてるの」
そんなに自己顕示欲が、と小林はなんとも言えない表情を浮かべた。
「ブログを、朝起きて更新しようと思って見たら、メッセージが来ていたんだ。知らない人から。『面白いですね』って一言、来てたんだよ」
佐々木はそう言って、持っていた自分のスマホを小林に見るように押しつけた。
小林が渡されたスマホの画面を見ると、『おさかなさんの研究室』というタイトルのブログのいつか聞いた裏が鏡のスリッパのアイディアの記事が表示されていた。
先生、おさかなさんってハンドルネームなのかと小林は必死に笑いが出るのを堪えた。
画面をスクロールしていくと、スリッパの記事のメッセージ欄に、確かにおさかなさん、初めましてと言う件名で、『面白いですね』とメッセージが投稿されていた。
「誰か知らない人が、面白いって、言ってくれたんだ」
そう言って佐々木は小林に向かって微笑んだ。
寝起きのボサボサ頭なのに、その笑顔があまりにも嬉しそうで、小林はしばらく見惚れてしまっていた。
おべっか使いの高橋じゃないけど、先生、笑顔だけは素敵だなと小林は思った。
見惚れてしまった事に気付いて、下を向いて、よかったですねと小林はつぶやいた。
「僕のアイディアを面白いって言う人が何人も増えたら、企業からのお返事も来るような気がしない?」
佐々木は興奮した口調で、小林の洗い物をしていて濡れている手を構わず両手で握って、ぶんぶんと振った。小林は濡れてるのに、と顔をしかめた。
よほど嬉しかったのか、佐々木はまだ小林の手をぎゅうぎゅうと握ってくる。
「そうですね、メッセージが増えるといいですね。ところでいつまで握っているんですか、手。セクハラで訴えますよ、100%勝てますからね」
無表情で小林が言うと、佐々木はパッと小林の手をはなした。はなした後、なんか濡れてると自分の両手を見つめていた。
「そうだ、ダウンとかもう着ないからさ、物置部屋まで行って片付けてくれない?代わりに春っぽい服、何か持ってきて欲しいんだ」
佐々木は濡れた手を洗いながら、小林にそう言った。
「物置部屋ですか?」
「そう、そこのクローゼットに服とかが置いてあるんだよ。この台所を出て右に曲がりずーっと真っ直ぐにいった行き止まりの所にあるからさ、ちょっと歩くけど、ごめんね」
普段は何かを頼むとき佐々木は謝ったりしないのに、よほど機嫌がいいのかなと小林は思っていた。
「服、古いのも結構あるからさ、古そうなやつは持って帰ってもいいよ」
「嫌ですよ、先生のお下がりなんて。いくら俺が貧乏大学生だからって、そんなほどこしは受けません」
「ふふ、そう。じゃあ悪いけど、よろしくね」
◇◆
佐々木が謝っていた意味がわかった。かなり歩いてもなかなか物置部屋らしき部屋に辿り着かない。廊下を歩き、小さな中庭を抜けて、また廊下に入った。真っ直ぐではない。
なんでこの家、中庭があるんだよと、ダウンやコートを抱えた小林は息を荒げて立ち止まった。
再び歩き出し、廊下をまた突き進むと、上も下も、床も壁も真っ黒な廊下に入った。
今は朝のはずなのに、廊下には窓がないのかほとんど光は入ってこない。
なぜか廊下が二つに分かれていて、左の方の道の壁に張り紙が三枚してあった。
周りが黒いので、張り紙が白くボーと浮かび上がるように見えるから嫌でも目に入る。
『こっちは近道だけど行ってはダメ』
『近道!!行くな!!』
『きけん!近道です。右から行ってね』
「近道なのか」
小林は一人張り紙を読んでいた。見た目によらず疑うことをあまりしない男であった。
近道、と言うならこっちに行ってみよう。
小林が右からではなく張り紙の貼ってある左から歩いていくと、扉に『物置部屋』と木で出来たらしきプレートがかけられている部屋が見えてきた。
向こう側にまだ廊下が続いていて、行き止まりではなかったが、『物置部屋』と言う名前なのだからここなのであろう。
小林は部屋に入り、クローゼットや衣装ケースなどを開け、持ってきたダウンやコートをしまっていた。
部屋を見回すと、かなりの量の色々な服があった。形や素材はさまざまな服であったが、色は黒ばかりだった。
意外にも、ハイブランドのものが多々あった。小林でもタグを見たら分かるくらいメジャーなものだ。
ほどこしは受けない、と佐々木に行った事を小林は後悔していた。しかし今更、服をくださいと言うのも小さなプライドが邪魔をする。
たくさんの黒色の中に、一つ灰色を見つけた。グレーなら小林が好きな色だ。珍しい、どんな服だろうとワクワクしてそのグレーのものを広げるとそれは服ではなく、のれんのような布だった。
小林は丁寧にそれを折り畳んで衣装ケースに戻したのだった。
適当に春っぽい感じの服を持ってきた袋に詰め込んで、小林は佐々木の部屋に帰ることにした。
物置部屋を出ると、あれ、どっちから来たっけ、と来た方向が分からなくなった。
上も下も、壁も床も黒色で、似たようなランプ型照明が壁に続いている。ランプ型照明も点いていたりいなかったりで、薄暗い。目印も無かった。
「まあ、歩いていけばどこかしらには着くだろう」
家の中だから、と歩き出したが、黒い廊下ばかりでなかなか部屋らしきものが見当たらない。そうだ、目印はあった。中庭だ。
しかし、中庭はまだ通っていない。
小林は服の入った袋をねずみ小僧のように抱えて、キョロキョロとあたりを見回した。朝のはずなのに静まり返ってなんの物音もしない。
タイミング悪く、頭の中で高橋が言っていた『まじ何か出そー』と言う言葉がひびいていた。
小林はねずみ小僧のまま早足になって黒い廊下を駆け抜けた。
あの廊下の先の曲がり角から、何かが今現れたら。
駆け抜けた先で何かにぶつかった。
「ぎゃあ」
やっぱりと目を瞑り、小林は手脚をばたつかせた。
「どうしたの?遅いから迎えに来たよ」
小林が目を開けると、そこには佐々木がいて、小林が驚いて放り投げた服の入った袋を眺めていた。
「もしかして、張り紙の貼ってある廊下から行った?」
「……ち、近道と書いてあったので」
「あっちから行くと何故かみんな迷うんだよね、ここ。壁も周りも黒くてわかりづらいのかな?だから張り紙を貼っておいたの、三枚、見たよね?」
「はい……」
「行くな、って言うとさ、人間って禁止したことをやりたがるよね。ふふ、書いとこう」
佐々木は、自分のスマホを取り出しまた何やらメモを打ち込もうとして、小林が佐々木の腕にしがみついている事に気付いた。
「それで、いつまで僕の腕を掴んでいるの?」
佐々木は小林に向かって朝の仕返しとばかりにニヤリと口角を上げながら言うと、小林は慌てて佐々木の腕から両手をはなした。
小林が放り投げて放置された服の袋をまた持とうとした時、佐々木が小林の手を取った。
「あれ、少しふるえているね」
「く、暗い所がちょっと……」
自分でも気付かなかったが、小林の手が少しだけふるえていた。
「ぶつかった時変な声出してたけど、怖かったのか。君、気の強そうな顔しているから、まさか怖がるとは思わなかった」
「ここ、暗いよね。光が入らないし、あらかじめ言っておいたらよかったね、ごめんね」
佐々木は小林の手を握り、小林の顔を覗き込むようにして謝っていた。
さっきあざ笑っていたと思ったら、こちらを気遣うような顔をしてくれる、ころころ表情が変わる人だなと小林は佐々木の顔を見ていた。
必然的に目が合った。
「何よ、僕の顔に何かついてる?あ、また顔が白いとか何とか言う気でしょ」
「先生、今日はよく謝って、気味悪いなあって」
「僕だって謝ることくらいするよ?!」
佐々木は小林の手を握ったまま腕を振って抗議をした。
「先生、手」
小林が佐々木を睨むと、佐々木はまたパッと手をはなしたのだった。
◇◆
佐々木と一緒に物置部屋から帰ってきて、服の入った袋を佐々木の部屋に置き、小林が佐々木を見ると、佐々木はすぐ机の上のノートパソコンに向かっていて、
これくらい片付けてくれてもいいのにと思いながら、佐々木の服をクローゼットにかけたり引き出しに仕舞ったりしている。
この後は洗濯、風呂掃除、トイレ掃除、帰りには会社にも寄らなきゃと、小林は忙しく脳を回転させていた。
「先生、ニッコリお試しプランをご利用、ありがとうございました。午後からは俺、会社に行かないといけないんで」
「それ、お試しプラン、今期間延長の申し込みをしたよ。ニッコリお試しプラン、延長するとニッコリプランになるんだね。へえ、君知ってた?」
「ええ、まあ、そこの作業員なんで」
家事代行サービス、先生、延長したんだと小林は慌ただしく部屋を歩きながら返事をした。
「ワクワクプランとか、ピカピカプランとかもあるのか。ニッコリプランとワクワクプラン、何が違うのだろうね?
わ!ピカピカプランってさ、住み込みって書いてあるよ。作業員が住み込みで家事するプランなんだって、きゃあ!」
佐々木はノートパソコンの画面を見ながら、何やら騒いでいる。
画面には、にこふきふき社のホームページが表示されていた。
小林はそれを無視して、佐々木の部屋に洗濯をする衣類がないかを探していた。これはクリーニング、これは洗濯機行き……など。
「延長の申し込みのところに、君の名前を書いておいたよ、小林太郎って。希望するなら、指名できるんだってさ。
別に来るの誰でもいいんだけど、君、指名されなさそうだしね?可哀想じゃん、だからね。どう、嬉しい?」
「えっ、俺ですか?」
「うん」
小林は驚いて洗濯機へと持っていくかごに入れるはずだった佐々木のシャツを手から落としてしまった。
小林は、春休み明けにはニコふきふき社のバイトの登録をやめようと思っていたからだ。
「先生、俺、春休み終わったらこのバイトやめ……」
その時、机の脇にすっかり放置されていたはずの小さな箱の器械が、ブーンと音を立てた。
「あー、ごめん、この箱の音で聞こえなかった!電源消し忘れていたよ。何か言おうとしてた?」
「え、あ……」
「小林くん、今度来る時、あれ作ってよ!フレンチトースト。あれなら好きだよ。たまごと砂糖を多めにしてさ」
佐々木は椅子を回転させて振り返り、小林を見て笑顔になった。
「えっと……」
小林が佐々木の顔を見て下を向くと、佐々木は小さな箱を軽く叩き、ん、と首を傾げて小林を見つめている。
「……わかりました。たまご、砂糖が多めですね」
小林はそう答えて洗濯物が入ったかごを抱えて歩き出し、心の中で時給が高いからだと言い訳をした。
この仕事を続けるとしたら、春休み明けは毎日は無理だし、さすがに誰か人は来るだろうから、何日くらい出られるだろうなあ。先生、部屋を汚さないといいけど。
そんなことを考えながら、小林は佐々木の部屋を出て、長い廊下を抜けて洗濯機の置いてある洗面所にたどり着いた。
そして洗濯機に洗濯物を入れて、全自動洗いのスイッチを入れた。
――たまごはいいけど、砂糖は減らさないとなあ。先生、ほっといたら甘いのばかり食べるから。
洗濯機がまわっている間、小林は洗濯機に手をついて、佐々木に頼まれたフレンチトーストのことを考えていたのだった。
「高橋と言います。佐々木先生、会えて嬉しいです。俺、先生の授業取っているんですよ。先生の講義での話し方、シンプルで分かりやすくて良いですよね。先生の黒でまとめたコーディネート、素敵です。今日はよろしくお願いします」
佐々木の屋敷に入ってきた高橋は、迎えた佐々木に向かって被っていた紺色の作業帽を取り、満面の笑顔で挨拶をした。その様子を見ていた小林は、突然佐々木の太鼓持ちになった高橋を見て大学では佐々木、佐々木と呼び捨てにしていたくせに……と面食らっていた。
佐々木の方を見ると、メロン牛乳を飲んでいた朝のだるだる黒コーディネートではなく、
普段とは違う黒コーディネートに着替えていて、シャツにネクタイ、カーディガンにかちっとめのパンツを履いて、黒のトレンチコートを腕にかけ、黒の書類かばんまで手に持っていた。
細い黒縁の眼鏡をかけていて、黒いマスクをつけている。髪型も朝のボサボサとは違いサイドを流し耳にかけ小綺麗にスタイリングされていて、
え、なんでと小林は二度見した。
「ああ、どうも高橋くんだっけ?小林くん、ちょっと大学まで行ってくるね。あと、よろしくね」
佐々木はスリッパから黒い革靴に履き替え、家から出かけるようだった。
小林は、てっきり高橋にも朝言っていたペンの話をしたり、手脚をバタバタさせたりしながら何かしらうざい絡み方を佐々木がしてくれるのではないかと思っていたので、何も波風が立たない振る舞いに驚いて、佐々木にペン、ペンと小声でささやいていた。
「何?ペンって?あ、ちゃんと持ってるよ」
佐々木はペンはかばんに入っていると、黒いかばんを指差して言った。そうじゃなくて、と小林は高橋の後ろで何やらアピールをしていた。
それから、佐々木がまだ眼鏡をかけていることに気付いた。
「先生、眼鏡、コンタクトに変え忘れてますよ」
「ああ、いいの。僕は外では眼鏡だから。家ではコンタクトだよ」
「えっ、普通逆じゃないですか?」
「家の中でまで眼鏡って鼻に眼鏡のアレが当たるのがうっとおしいじゃん。アレ、うっとおしい、あっ!頭から吊り下げる眼鏡ってどうだろ」
鼻にアレが当たるのがうっとおしいって書いておこうと言いながら、佐々木はかばんをゴソゴソやり自分のスマホを探していた。
「眼鏡、いいじゃないですか、ねえ?先生。よくお似合いですよ」
高橋はそうにこやかに佐々木に話しかけた。佐々木はスマホのアプリに何やらメモをしているようだ。
小林は先生、何をメモしたんだろう。帰ったら、見せてくれるかなと思いながら佐々木を見ていた。
「それにしても、また来たの男なんだ?」
佐々木はスマホをかばんにしまうと、高橋の方をチラッと見た。
「本当は三木さんって言う女性がここに来る予定だったんですけど」
「あっ、三木さん」
高橋の口から知っている女性の名前が出たので小林は驚いた。
三木さんは前回のクソガキ家庭に派遣された時に小林と一緒に組んだコンビの女性だ。
素早い判断とあざやかな片づけのテクニックに定評があり、クソガキが油性ペンで壁に落書きをしようとするのを両手と肩を使い素早くブロックして未然に防いでいたのを小林は思い出していた。
「三木さん、この大きな屋敷を怖がってですねー、シフト変わってくれって言われちゃいまして。それで俺が代わりに来たんですけどー。佐々木先生、ここ何かあったのですよね?心中、とか?」
「……怖がって、って?」
高橋が笑いながらそう言うと、佐々木は不思議そうに高橋に問いかけた。
「ちょっと、おい、高橋」
「コウモリ男の屋敷には何か出るって噂ですし、女性にはちょっと怖いかもですねー。あはは」
高橋は手をお化けだかの手のように下げた仕草をして楽しそうに笑ったままだったが、小林は慌てて高橋の紺色のエプロンを後ろから引っ張った。
「ちょ、やめろって」
「ん?何の事?コウモリ男?……あ、そろそろ行かなきゃ。じゃね、高橋くんもよろしく」
怪訝そうな顔をしていた佐々木は腕時計を見た後、慌ただしく屋敷を出ていったのだった。
佐々木が屋敷を出た後、高橋は身につけていたニコふきふき社の紺色エプロンを外しながら、佐々木行った?と小林に話しかけた。
あっ、高橋エプロン外してる、と小林はじろりと高橋を睨んだ。
掃除をするために二人は佐々木の部屋に入った。
前日だいぶ要らなそうなものを片付けたはずの部屋は、また要らなそうなものが増えていて、片付ける前の部屋に戻りつつあり小林はげんなりとしていた。
「このバイトきっついよなー。前やった引越し業者のバイト並みにきついよ」
高橋はそう言いながら比較的楽そうな書類をシュレッダーにかける作業をしていて、小林はまた高橋をじろりと見ながら、引越し業者のように家具を動かし素早く掃除機をかけていた。
「この屋敷、思ったよりでかいしびびったわー。マジ何か出そー」
うんうん、と小林はうなずいた。
「お前土曜までだっけ?ここ」
「うん、高橋は?」
「俺?俺はここは今日だけ。その後週末から違う現場」
えっ、と小林は持っていた花瓶を落としそうになって慌てて持ち直した。
「小林は次どの現場行くの」
「俺は春休み終わったら、このバイトやめようかなって」
「あー、まあ、きっついしなあ。うんうん。分かるよ」
高橋ははたきを持って棚の埃をポンポンと払い始めた。
小林はちょっとは持てよなと、高橋を睨みながら移動させた家具を重そうに元に戻していた。
佐々木は大学から帰ってきて、朝のだるだる黒佐々木服に着替えていた。眼鏡は外していたので、おそらくコンタクトに変えたのであろう。
だるだる服にはなっていたが、やはり高橋には軽く普通に挨拶をして、すぐいつもの佐々木の作業部屋にこもってしまった。
高橋は先生、ゆったりしたスタイルのシルエットも良いですね、裸眼も光を湛えた切れ長の瞳がよく見えて素敵です、と相変わらずおべっかを使っていて、調子いいんだからと小林は高橋をジト目で見ていた。
◇◆
小林が夕食の用意をしていると、佐々木が台所へやってきて、朝と同じように冷蔵庫を開けメロン牛乳をコップに注いでいた。
「あっ、先生、もうすぐ夕食できますからメロン牛乳なんか飲まないで下さい」
「いいの、メロン牛乳は空腹の胃の粘膜を守ってくれると思うから、きっと」
あんな甘いもの飲んで、また夕食を残されたら、と小林は佐々木をジト目で見ていた。
小林が作った夕食をテーブルに並べたり、使ったシンクを拭いたりしていると、メロン牛乳を飲み終えた佐々木が口を開いた。
「そういやさ、朝の怖がる、とかコウモリ男、とか何だったの?」
今日の朝、玄関付近で高橋が来る予定だった三木さんが屋敷を怖がっていたと無邪気に伝えたことを佐々木は覚えていた。
「あ、う」
どう言っていいものか小林が悩んでいると、何か言われているの、ここ?と佐々木が助け舟を出した。
「ここの、大きな屋敷に一人で住んで、いつも真っ黒な格好をしている先生、コウモリ男ってあだ名が……」
「ついてるの?」
「はい」
「もしかして、僕がそれを知って気にするとか思って言わなかったの?」
「あ、う……」
小林はテーブルの端を何回も拭きながら目を伏せた。
「俺も、吸血鬼の末裔だって噂しちゃったから……すみません」
「初日の、何か言ってたやつ?」
「はい」
小林は返事をしながら、二人しかいないのに食卓のテーブルにコップを4つ置いてしまった。
「言わなきゃわかんないのに、あはは。別にいいよ、なんてことない。今まで気付かなかったけど。大学ではあまり付き合いがないからかなあ?」
笑いながら佐々木はテーブルに小林が置いたコップを2つ食器棚に戻していた。
「君も高橋くんみたいに普通に言えばいいのに。小林くん、変な子だねえ」
「変なのは先生でしょう」
「うんうん、二人とも変ってことで。まあいいや、食べよっと」
そう言って佐々木が食卓の椅子に座ったので、小林もならって椅子に座った。
「ね、ね、ところで高橋くんってさ、凄く背が高かったね!かっこいいんじゃない?!」
「その休み時間の女子高生みたいな喋り方やめてもらえます?」
佐々木が手を洗うのを忘れたと言ってすぐ席を立ち、洗ってきた後に何を思い出したのか、少し興奮した面持ちで小林に話しかけた。
「ふふ、君の方は背が低めだね?僕より低いんじゃない?」
「悪かったですね、低くて」
小林は朝はこんなテンションじゃなかったのになあ、先生と思いながら嫌々返事をした。
「そういや、食事二人分?高橋くんは?」
佐々木は食卓と二つのコップを指差し小林にたずねた。
「もう帰りましたよ、デートがあるって言って。担当の俺が居るからいいかなと」
「へー、いいね。小林くんはデートの予定はないの?」
「ないです」
「えー、かわいそー!」
「高橋くん、明日は何時ごろに来るの?」
「来ないみたいですよ。ヘルプは一日だけだったみたいで」
「えー、明日からはまた小林くん一人なの?つまんなーい!代わりに誰か来る?」
「今の所はまだそういうのは聞いてませんね。なんせ人手が足りなくて」
「じゃあまだ小林くんがこの家一人で担当するの?えー!かわいそー!」
うわー、なぐりたい……と小林は思ったが依頼主を殴るわけにもいかないのでこぶしを握り目を閉じて静かに耐えていたのだった。
「高橋、高橋っていうわりには今日あまり高橋に話しかけていませんでしたね?」
「高橋くんは初対面で、僕は人見知りだもの。生きてる人間と住むのは嫌だって言ったでしょ。必要以上のことは話したくないし」
「高橋は先生の授業受けてたって言ってましたよ」
「ああ、言っていたね。覚えてないや。そもそも生徒の顔、僕見てないし。まあ、今はマスクしているのもあるけど」
確かに、自分も大学ではマスクもあって人の顔をよく覚えてないかもなあ、高橋も会った時分からなかったし、と小林は思い出していた。
「俺も初対面だったでしょう?でも初日から、先生……」
「ああ、君?君はなんか変だからいいんだよ。君、変だよね。ふふ、あらいぐまみたい」
「あらいぐま?」
小林は特にアライグマには似ていない、茶髪の短髪にピアスをつけて中肉中背、黒くつぶらな瞳ではなくどちらかというと細く吊り目で人相はあまり良くはない。
しいていえば手脚が短めの所が似ているか。
佐々木が言っていることがわからないまま、食卓を見た小林はからしを忘れたと言って席を立ち、そばにある冷蔵庫を開けに行った。
「犬とか、猫とかが部屋にいると落ち着くし、居ても気にならないでしょ。そんな感じかな。あらいぐまが冷蔵庫を開けてる、とか可愛くない?」
「エプロンの刺繍見ました?!」
小林はエプロンのポケットにあるニコふきふき社公式キャラクターのアライグマみたいなものの刺繍を手で隠すと、佐々木はバレたかとちょっと舌を出した。
「あらいぐまって、そんな可愛い動物じゃないみたいですけど、結構凶暴」
「へえ、そうなの?君も?」
佐々木は箸を手に持って、小林の方に向け口角を上げた。
「指し箸は行儀が悪いです」
「今だって、律儀に食卓についてさ、高橋くんみたいに適当なことを言って帰ったらいいのに。変だね」
「食べて帰ったほうが帰宅後に食事を用意しなくてすむし、食費が浮くからですよ」
小林は、冷蔵庫から出してきた練りからしが入った小さな容器を食卓の真ん中に置いた。
「ふーん。食費を浮かせたいなら、そこらにあるもの何でも持って帰っていいよ。僕みたいなのと食事をするの、嫌でしょ」
「嫌ですね」
間髪入れずに小林はそう言い放ち、また席に座った。
「まあ、仕事なんで」
「仕事かあ、ちょっと寂しいね。僕はこうして小林くんとご飯を食べるの、結構楽しみなんだけどな」
えっ、とそう言われて小林が焦った表情を見せると、佐々木はいたずらっぽい笑顔を浮かべて小林を見ていた。
「なーんて、僕も夕食後の食器を洗って欲しいだけだよ。君いつもちゃんと後片付けをして帰ってくれるんだもの。あはは、その顔!」
小林は佐々木へのストレスでだんだん頭がズキズキしてくるのを感じていた。
「これ、美味しいね、何かの揚げたやつ。また鶏肉かと思ったからちょっとかじるだけで止めようとしたけど違うみたい」
ラディッシュ、きゅうり、パセリが添えられた皿に乗っていた何かのカツを箸で持ち上げて、佐々木はそれを眺めていた。
「豚肉です。豚肉の薄切りに砂糖をまぜた味噌を塗って重ねて、大葉を挟んで衣をつけて揚げてます。野菜も食べてくださいよ」
「豚肉もあんまり得意じゃないけど、美味しいかも。きゅうりとこの緑のは要らない。食べて」
「俺は味変にこのからしをつけますけど、先生には辛いですよね、やめておきますか」
小林は佐々木の残したきゅうりとパセリを食べながら、食卓の真ん中の練りがらしの容器を取った。
「ちょっと子供扱いしないでよ。ここにおいて」
佐々木は野菜がなくなり豚肉のカツだけになった皿を指差していた。
そのあとカツにからしをつけて食べると、辛いと言って顔を歪めていた。
「ロールパンにしてって言ったのに、ご飯じゃん。なんか白くないし」
「腹持ちがいいかなって、麦ご飯にしました。今のはくせが少ないけど、コーンを混ぜました。コーンが甘いので、食べられると思いますよ」
佐々木は文句を言いながらもコーンご飯を口に運んでいた。
「コーン甘いね。ちょっと、量が多いかな。半分食べて」
「大した量はないですよ。ちゃんと食べてください。顔、青白いんですから先生は」
「色白なんだよ、僕は。昔と違って今は色白がトレンドなの!」
ぶつくさと言いながらも、佐々木がコーンご飯を食べ進めているのを見て小林は飲み物をつぎ足そうと席を立った。
「これさー、これ、緑の」
佐々木の方は、食卓の上の緑色でクルトンが浮いたポタージュスープをスプーンでかき混ぜていた。
「ほうれん草です」
佐々木のコップに飲み物を足しながら、小林は野菜嫌いの佐々木にほうれん草のポタージュのことを何か文句でも言われるかと身構えていると、
意外にも、佐々木はほうれん草のポタージュを普通に飲んでいた。
「ほうれん草なの?スープも缶詰とか、レトルトとか、冷凍とか今色々あるじゃん。そういうの買ってきたらいいのにさ、小林くん、葉っぱ買ってきてミキサーに入れているんだもの。びっくりしちゃった」
「別に、材料をミキサーにかけたものを鍋で煮るだけですよ、特別なことはしてません」
小林は再び席につき、自分の目の前にあるほうれん草のポタージュを飲んでまあまあかなと頷いていた。
「緑だしさ、残そうと思ったのね。青臭そうだし、これ。でも飲んでみたら、飲めたんだ。生クリームとか、チーズとかが入っているのかなあ。分からないけど、青臭くなかった」
「そういえば入れましたね、材料で」
佐々木がスープの皿をスプーンで叩いたり、スプーンを小林の方に向けたりしていたので、小林はまた顔をしかめていた。先生、行儀が悪い。
「あ!ポタージュ、残ったので冷凍しておきましたから、朝にでも温めて食べてください」
「僕、朝はあんまり食べないんだけどー。知ってるでしょ?コーヒーとか、メロン牛乳とか」
「もったいないから、食べておいてください」
小林は夕食を食べ終え、自分が使った食器を片付けようとシンクの方へと食器を運んだ。 佐々木はまだダラダラと食べている。
何か片付けられる食器がないか、食卓の佐々木の食器を見に行ったとき、
「君、やっぱり変な子だね」
と、佐々木は小林を見上げて笑った。
◇◆
次の日は土曜日だった。思ったより一週間長かったな、と思いながら小林は佐々木の大きな屋敷の前に立っている。
次にここにくる人、屋敷は結構広いし、苦労するぞと次の人のためにアドバイスを書き置きしておきたい気分になった。
依頼主は、あんなのだし。自分は今日で担当は終わりだから、いいけど。
ふと、先生の部屋がまた散らかるのではないかと気になった。
小林が来ることをやめても、すぐまた誰かしら家事作業員などがきて佐々木の部屋を片付けるだろう。恋人が来て片付けるのかもしれない。
そういえば先生は恋人がいるのだろうか?
先生を黙らせるような恋人とは、どんな人なんだろう?
小林はそんなことを考えている自分に気付いて、どうでもいいと頭を振った。
そうこうしているうちに屋敷の台所について、朝の食器の洗い物をしながら、
先生、朝に昨日のスープを飲んでくれたのかなと小林は思っていた。
「小林くん、やっぱり早い。来てた、来てた!」
「はい、俺はいますが」
「君じゃなくて、メッセージが来てたんだ」
いつの間にか台所の入り口に佐々木が立っていて、片手にスマホを持って、何やら騒いでいる。
「来てたって?あ、お返事がどうとかって……」
前に佐々木がアイデアを送っていた企業からの返信が来ないと、落ち込んでいた出来事があったのを小林は思い出した。
「あの企業からのお返事は、まだ来ない」
佐々木は寂しそうに下を向いてから、でも! とパッと上を向いて両手をあげ、右手に持ったスマホを振っていた。
「僕さ、ライフワークって言っていたでしょ、アイディアのこと」
はい、と小林は頷く。
「あのアイディア、パソコンでまとめていたじゃない?それ、メールとか、投稿フォームでも送っているんだけどさ」
「SNSとか、ブログとかにも載せてるの」
そんなに自己顕示欲が、と小林はなんとも言えない表情を浮かべた。
「ブログを、朝起きて更新しようと思って見たら、メッセージが来ていたんだ。知らない人から。『面白いですね』って一言、来てたんだよ」
佐々木はそう言って、持っていた自分のスマホを小林に見るように押しつけた。
小林が渡されたスマホの画面を見ると、『おさかなさんの研究室』というタイトルのブログのいつか聞いた裏が鏡のスリッパのアイディアの記事が表示されていた。
先生、おさかなさんってハンドルネームなのかと小林は必死に笑いが出るのを堪えた。
画面をスクロールしていくと、スリッパの記事のメッセージ欄に、確かにおさかなさん、初めましてと言う件名で、『面白いですね』とメッセージが投稿されていた。
「誰か知らない人が、面白いって、言ってくれたんだ」
そう言って佐々木は小林に向かって微笑んだ。
寝起きのボサボサ頭なのに、その笑顔があまりにも嬉しそうで、小林はしばらく見惚れてしまっていた。
おべっか使いの高橋じゃないけど、先生、笑顔だけは素敵だなと小林は思った。
見惚れてしまった事に気付いて、下を向いて、よかったですねと小林はつぶやいた。
「僕のアイディアを面白いって言う人が何人も増えたら、企業からのお返事も来るような気がしない?」
佐々木は興奮した口調で、小林の洗い物をしていて濡れている手を構わず両手で握って、ぶんぶんと振った。小林は濡れてるのに、と顔をしかめた。
よほど嬉しかったのか、佐々木はまだ小林の手をぎゅうぎゅうと握ってくる。
「そうですね、メッセージが増えるといいですね。ところでいつまで握っているんですか、手。セクハラで訴えますよ、100%勝てますからね」
無表情で小林が言うと、佐々木はパッと小林の手をはなした。はなした後、なんか濡れてると自分の両手を見つめていた。
「そうだ、ダウンとかもう着ないからさ、物置部屋まで行って片付けてくれない?代わりに春っぽい服、何か持ってきて欲しいんだ」
佐々木は濡れた手を洗いながら、小林にそう言った。
「物置部屋ですか?」
「そう、そこのクローゼットに服とかが置いてあるんだよ。この台所を出て右に曲がりずーっと真っ直ぐにいった行き止まりの所にあるからさ、ちょっと歩くけど、ごめんね」
普段は何かを頼むとき佐々木は謝ったりしないのに、よほど機嫌がいいのかなと小林は思っていた。
「服、古いのも結構あるからさ、古そうなやつは持って帰ってもいいよ」
「嫌ですよ、先生のお下がりなんて。いくら俺が貧乏大学生だからって、そんなほどこしは受けません」
「ふふ、そう。じゃあ悪いけど、よろしくね」
◇◆
佐々木が謝っていた意味がわかった。かなり歩いてもなかなか物置部屋らしき部屋に辿り着かない。廊下を歩き、小さな中庭を抜けて、また廊下に入った。真っ直ぐではない。
なんでこの家、中庭があるんだよと、ダウンやコートを抱えた小林は息を荒げて立ち止まった。
再び歩き出し、廊下をまた突き進むと、上も下も、床も壁も真っ黒な廊下に入った。
今は朝のはずなのに、廊下には窓がないのかほとんど光は入ってこない。
なぜか廊下が二つに分かれていて、左の方の道の壁に張り紙が三枚してあった。
周りが黒いので、張り紙が白くボーと浮かび上がるように見えるから嫌でも目に入る。
『こっちは近道だけど行ってはダメ』
『近道!!行くな!!』
『きけん!近道です。右から行ってね』
「近道なのか」
小林は一人張り紙を読んでいた。見た目によらず疑うことをあまりしない男であった。
近道、と言うならこっちに行ってみよう。
小林が右からではなく張り紙の貼ってある左から歩いていくと、扉に『物置部屋』と木で出来たらしきプレートがかけられている部屋が見えてきた。
向こう側にまだ廊下が続いていて、行き止まりではなかったが、『物置部屋』と言う名前なのだからここなのであろう。
小林は部屋に入り、クローゼットや衣装ケースなどを開け、持ってきたダウンやコートをしまっていた。
部屋を見回すと、かなりの量の色々な服があった。形や素材はさまざまな服であったが、色は黒ばかりだった。
意外にも、ハイブランドのものが多々あった。小林でもタグを見たら分かるくらいメジャーなものだ。
ほどこしは受けない、と佐々木に行った事を小林は後悔していた。しかし今更、服をくださいと言うのも小さなプライドが邪魔をする。
たくさんの黒色の中に、一つ灰色を見つけた。グレーなら小林が好きな色だ。珍しい、どんな服だろうとワクワクしてそのグレーのものを広げるとそれは服ではなく、のれんのような布だった。
小林は丁寧にそれを折り畳んで衣装ケースに戻したのだった。
適当に春っぽい感じの服を持ってきた袋に詰め込んで、小林は佐々木の部屋に帰ることにした。
物置部屋を出ると、あれ、どっちから来たっけ、と来た方向が分からなくなった。
上も下も、壁も床も黒色で、似たようなランプ型照明が壁に続いている。ランプ型照明も点いていたりいなかったりで、薄暗い。目印も無かった。
「まあ、歩いていけばどこかしらには着くだろう」
家の中だから、と歩き出したが、黒い廊下ばかりでなかなか部屋らしきものが見当たらない。そうだ、目印はあった。中庭だ。
しかし、中庭はまだ通っていない。
小林は服の入った袋をねずみ小僧のように抱えて、キョロキョロとあたりを見回した。朝のはずなのに静まり返ってなんの物音もしない。
タイミング悪く、頭の中で高橋が言っていた『まじ何か出そー』と言う言葉がひびいていた。
小林はねずみ小僧のまま早足になって黒い廊下を駆け抜けた。
あの廊下の先の曲がり角から、何かが今現れたら。
駆け抜けた先で何かにぶつかった。
「ぎゃあ」
やっぱりと目を瞑り、小林は手脚をばたつかせた。
「どうしたの?遅いから迎えに来たよ」
小林が目を開けると、そこには佐々木がいて、小林が驚いて放り投げた服の入った袋を眺めていた。
「もしかして、張り紙の貼ってある廊下から行った?」
「……ち、近道と書いてあったので」
「あっちから行くと何故かみんな迷うんだよね、ここ。壁も周りも黒くてわかりづらいのかな?だから張り紙を貼っておいたの、三枚、見たよね?」
「はい……」
「行くな、って言うとさ、人間って禁止したことをやりたがるよね。ふふ、書いとこう」
佐々木は、自分のスマホを取り出しまた何やらメモを打ち込もうとして、小林が佐々木の腕にしがみついている事に気付いた。
「それで、いつまで僕の腕を掴んでいるの?」
佐々木は小林に向かって朝の仕返しとばかりにニヤリと口角を上げながら言うと、小林は慌てて佐々木の腕から両手をはなした。
小林が放り投げて放置された服の袋をまた持とうとした時、佐々木が小林の手を取った。
「あれ、少しふるえているね」
「く、暗い所がちょっと……」
自分でも気付かなかったが、小林の手が少しだけふるえていた。
「ぶつかった時変な声出してたけど、怖かったのか。君、気の強そうな顔しているから、まさか怖がるとは思わなかった」
「ここ、暗いよね。光が入らないし、あらかじめ言っておいたらよかったね、ごめんね」
佐々木は小林の手を握り、小林の顔を覗き込むようにして謝っていた。
さっきあざ笑っていたと思ったら、こちらを気遣うような顔をしてくれる、ころころ表情が変わる人だなと小林は佐々木の顔を見ていた。
必然的に目が合った。
「何よ、僕の顔に何かついてる?あ、また顔が白いとか何とか言う気でしょ」
「先生、今日はよく謝って、気味悪いなあって」
「僕だって謝ることくらいするよ?!」
佐々木は小林の手を握ったまま腕を振って抗議をした。
「先生、手」
小林が佐々木を睨むと、佐々木はまたパッと手をはなしたのだった。
◇◆
佐々木と一緒に物置部屋から帰ってきて、服の入った袋を佐々木の部屋に置き、小林が佐々木を見ると、佐々木はすぐ机の上のノートパソコンに向かっていて、
これくらい片付けてくれてもいいのにと思いながら、佐々木の服をクローゼットにかけたり引き出しに仕舞ったりしている。
この後は洗濯、風呂掃除、トイレ掃除、帰りには会社にも寄らなきゃと、小林は忙しく脳を回転させていた。
「先生、ニッコリお試しプランをご利用、ありがとうございました。午後からは俺、会社に行かないといけないんで」
「それ、お試しプラン、今期間延長の申し込みをしたよ。ニッコリお試しプラン、延長するとニッコリプランになるんだね。へえ、君知ってた?」
「ええ、まあ、そこの作業員なんで」
家事代行サービス、先生、延長したんだと小林は慌ただしく部屋を歩きながら返事をした。
「ワクワクプランとか、ピカピカプランとかもあるのか。ニッコリプランとワクワクプラン、何が違うのだろうね?
わ!ピカピカプランってさ、住み込みって書いてあるよ。作業員が住み込みで家事するプランなんだって、きゃあ!」
佐々木はノートパソコンの画面を見ながら、何やら騒いでいる。
画面には、にこふきふき社のホームページが表示されていた。
小林はそれを無視して、佐々木の部屋に洗濯をする衣類がないかを探していた。これはクリーニング、これは洗濯機行き……など。
「延長の申し込みのところに、君の名前を書いておいたよ、小林太郎って。希望するなら、指名できるんだってさ。
別に来るの誰でもいいんだけど、君、指名されなさそうだしね?可哀想じゃん、だからね。どう、嬉しい?」
「えっ、俺ですか?」
「うん」
小林は驚いて洗濯機へと持っていくかごに入れるはずだった佐々木のシャツを手から落としてしまった。
小林は、春休み明けにはニコふきふき社のバイトの登録をやめようと思っていたからだ。
「先生、俺、春休み終わったらこのバイトやめ……」
その時、机の脇にすっかり放置されていたはずの小さな箱の器械が、ブーンと音を立てた。
「あー、ごめん、この箱の音で聞こえなかった!電源消し忘れていたよ。何か言おうとしてた?」
「え、あ……」
「小林くん、今度来る時、あれ作ってよ!フレンチトースト。あれなら好きだよ。たまごと砂糖を多めにしてさ」
佐々木は椅子を回転させて振り返り、小林を見て笑顔になった。
「えっと……」
小林が佐々木の顔を見て下を向くと、佐々木は小さな箱を軽く叩き、ん、と首を傾げて小林を見つめている。
「……わかりました。たまご、砂糖が多めですね」
小林はそう答えて洗濯物が入ったかごを抱えて歩き出し、心の中で時給が高いからだと言い訳をした。
この仕事を続けるとしたら、春休み明けは毎日は無理だし、さすがに誰か人は来るだろうから、何日くらい出られるだろうなあ。先生、部屋を汚さないといいけど。
そんなことを考えながら、小林は佐々木の部屋を出て、長い廊下を抜けて洗濯機の置いてある洗面所にたどり着いた。
そして洗濯機に洗濯物を入れて、全自動洗いのスイッチを入れた。
――たまごはいいけど、砂糖は減らさないとなあ。先生、ほっといたら甘いのばかり食べるから。
洗濯機がまわっている間、小林は洗濯機に手をついて、佐々木に頼まれたフレンチトーストのことを考えていたのだった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
陛下の前で婚約破棄!………でも実は……(笑)
ミクリ21
BL
陛下を祝う誕生パーティーにて。
僕の婚約者のセレンが、僕に婚約破棄だと言い出した。
隣には、婚約者の僕ではなく元平民少女のアイルがいる。
僕を断罪するセレンに、僕は涙を流す。
でも、実はこれには訳がある。
知らないのは、アイルだけ………。
さぁ、楽しい楽しい劇の始まりさ〜♪
春を拒む【完結】
璃々丸
BL
日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。
「ケイト君を解放してあげてください!」
大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。
ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。
環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』
そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。
オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。
不定期更新になります。
推しのために自分磨きしていたら、いつの間にか婚約者!
木月月
BL
異世界転生したモブが、前世の推し(アプリゲームの攻略対象者)の幼馴染な側近候補に同担拒否されたので、ファンとして自分磨きしたら推しの婚約者にされる話。
この話は小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる