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挿話 帰巣本能
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久しぶりの山田村の空はとても澄んで美しい、東京のくすんだ空とは違う。空気がひんやりして心地よかった。時恵は二歳になる女の子を抱いて村役場にやってきた。後ろには五歳の男の子と時恵の母親がいる。
「時恵さん、お久しぶりです」
山田村役人の宮本啓一郎が対応する。太い上がり眉、鋭い目つきと長い睫毛、ちょっと強面だが、爽やかな笑顔で時恵を迎えた。宮本は何も言わず転入の手続きをする。
「東京の□◇区に連絡しますね。しばらくお待ちください」
宮本は奥の席で電話を掛ける。どこからともなくおばあちゃんがやってきて五歳の男の子にお煎餅を渡した。
「ありがとう」
男の子の声に時恵の母親は微笑む。この村の人はいつも優しい。
「時恵さん、□◇区と連絡が取れ、確認できました。では、ご面倒ですが〇△市の警察署生活課に行って下さい。山田村は〇△市の警察署の管轄区域なのでね。住所の秘匿にはどうしてもやらなきゃなんないんです。大変なこととは知っておりますが、時恵さん、ここはなんとか踏ん張ってください」
時恵は涙を流す。新たな住所が知られると危害を受けるおそれがある。配偶者からの暴力により転入してきた場合、住所を秘匿して配偶者に住民票を閲覧させない、または交付しないようにするDV等支援措置を受けられる。ただし、この措置を受けるためには警察へ行って状況を話さなければならない。
「時恵さん、一緒に乗っていくかい?」
いつの間にか山田村の自警団の団長・大岡健士郎が後ろに立っていた。大岡は一八五センチと大柄で自警団の真っ黒の制服が良く似合う。男の子の方を見る。
「君の名前はなんていうの?」
「翔太だよ」
「いい名前だね」
大岡はすっと翔太を抱き上げた。父親の愛を受けていない翔太にとって大柄な大岡の懐は温かく豊かで、翔太は思わず笑顔になった。
「そんな恐れ多いです。大丈夫です。自分たちで行きます」
時恵と時恵の母は慌てる。
「大岡さん、お願いします」
宮本が笑いながら追い打ちをかける。
「ほら、宮本さんに言われたから行くしかありません。こんな面倒なことはちゃちゃっと終えましょう!」
大岡は翔太を抱いたまま駐車場へ向かった。時恵と時恵の母は素早く宮本に挨拶をして大岡の後を追った。
大岡が車のドアを開ける。そこにはチャイルド・シートが二つ設置されていた。大岡はそれに子どもを乗せることに馴れていた。
「翔太君、行くよ」
大岡は掛け声とともにアクセルを踏んだ。五人を乗せた車は〇△市に向かって行った。
東京で暮らしているとき、時恵は常に怯えていた。夫が悪いことが分かっていても言い返さなかった。言い返したら何百倍にもなって返ってくるからだった。夫は『自分の稼いだ金は自分の金』とい考えの持ち主だったから生活費を渡さず、毎日のように夜の街に出かけていた。繰り返される罵声にエネルギーを吸い取られていく。何かにつけて怒られ、暴言を吐かれると脳が傷つき、考える力が失われ、生きる気力がどんどん奪われていく。子どものために我慢し続けていたが、最近は泣き叫ぶ翔太に手を挙げることが増えた。止める時恵に対し、『躾だ』と言い張った。翔太の不安そうな言動と体の痣を見た保育所の保育士が家庭内暴力を察知し、児童相談所に通報した。すぐに時恵に児童相談所の職員から連絡が入った。児童相談所の職員と面会し、事情を話したところ、
「翔太君の安全を最優先にしましょう」
「お母さん、お金があるなら家を出ましょう」
「実家を頼れませんか」
と提案された。翔太君の安全を最優先、この言葉が時恵に家を出ることを決意させた。
「明日、近くの警察に行って事情を話して下さい。そして、□◇区役所にも行って下さい。どちらも事情が分かっている担当者がいます」
児童相談所の職員に言われた通り、翌日、警察、および□◇区役所に行った。どちらもこの種の対応には慣れていて、担当者は寄り添うように手続きを進めた。その後、時恵はパート先に寄って上司に退職希望を伝えた。事情を理解した上司は了承してくれた。
退職日が決定すると郵便局に転居届を出した。そして、〇△市にはない銀行の解約の手続きを進めた。思ったよりお金があってホッとした。家では夫に気付かれぬよう涙を流しながら転居に必要な書類に目を通した。
□◇区役所に行って転出届を出す際に夫の怒りの顔が浮かんで住所秘匿を繰り返しお願いした。そして、子どもと着の身着のまま、東京の家を飛び出してきた。
「時恵さん、懐かしいでしょう。ずっとこの道を通って高校に行っていましたね」
そうだ、この道を毎日通ってきた。何気なく見てきた景色は全く変わっていない。何もない山田村を退屈に思い、東京の大学に進学した。授業料も山田村に援助してもらったのに、
「つまらない田舎」
と蔑んでいた。東京の華やかな光、エンターティメントに憧れ、山田村を後にしたのに、傷つき疲れ切って戻ってきた。
「山田村は変わんないでしょ。それがいいんですよ」
あぁ、思い出す。たまに大岡さんもバスを運転してくれていた。宮本さんもだ。忘れていた。〇△市の高校への通学バス、無料だった。ずっとずっと支援してもらっている。つまらない景色と思っていたのに、山道の緑が新鮮で眩しい。他の市町村に行く唯一の道、二度と通らないと思っていたのに・・・。
〇△市は県庁所在地ゆえ賑やかだった。市の真ん中にある警察署の駐車場に入る。警備員は大岡に深々と頭を下げる。大岡は軽く会釈をした。時恵は思った、大岡さんは警察の関係者かしら、とても偉い人なのかしら、と。五人は玄関に向かう。入り口の前には芝生の広場があった。
「翔太君は私とここで待っていようか」
大岡は翔太を抱き上げた。翔太は嬉しかった。東京にいるとき、パパは怒ってばかり、ママは下を向いて泣いてばかり、小さな妹も泣いてママを独り占めする。翔太は誰にも甘えられなかった。大岡の懐は大きく暖かかった。
「時恵さん、ここは踏ん張りどころです」
大岡の応援に時恵は頷く。娘を抱いた時恵と時恵の母は会釈をして警察署三階にある生活課に向かった。
緑が広がる広場でも翔太は大岡から離れなかった。大岡は広場の真ん中の芝生に腰を下ろした。
「翔太君も座ろうよ」
「ううん、汚すと叱られちゃう」
大岡は翔太を自分の太ももに乗せた。かわいそうに、何をしても怒られてきたんだな。
「そっか、大変だったね」
大岡は翔太の頭を撫でる。
「汚したら叱られるなんてことはもうないんだよ。汚したって気にしなくていいんだよ。だって山田村に来たんだもの」
「ホント?」
「ホントさ」
「大人は嘘を付くよ」
「そうだね、大人は嘘を付くね」
大岡は翔太の言葉を否定しない。翔太に必要なのは優しく受け入れることだ。
「翔太君、大変だったね。翔太君のママも大変だったね」
「うん。ママ、いつもパパにぶたれてた」
あぁ・・・、この親子を助けてあげなければ。
「翔太君もぶたれたかい?」
翔太の目から涙が溢れてきた。大岡はぎゅっと抱きしめた。そしてそのまま寝転がった。
「翔太君、空は青くて広いな」
「うん、広いね」
「もう大丈夫だよ、安心して。こんなにお空は広いんだもの。大丈夫さ」
「お空が広いと大丈夫なの?」
「広いお空には太陽があるだろう。昔の人は太陽をお天道様と呼んだんだ、親しみを込めてね。お天道様が見てくれているさ。翔太君がいい子だってことも知ってるさ」
「そうなの?」
「その上、山田村には雷様がいるんだ。とっても強いよ。悪い人は逃げて行っちゃうさ」
「ホント?」
「ホントさ。だから安心してね」
翔太はお天道様や雷様は分からなかったが、大岡がいるだけで安心だった。
しばらくして時恵たちが戻ってきた。
「緊張しましたが、担当者が優しい人で良かったです。質問を受け、これまであったことを話し、聞き取って頂きました」
「それは良かった。村役場に戻る前にショッピングセンターに行きましょう。子どもたちに必要なものを買いましょう」
「そんな、大岡さん」
「翔太君、妹ちゃんに必要な物を教えてよ」
大岡は翔太を抱いて駐車場に向かった。時恵は泣きながら後を追った。
ショッピングセンターではオムツや着替えなど子どもたちに必要な物を買い揃えた。十一時半を過ぎていたのでフードコートで軽く食事をすることにした。
「翔太君、何を食べたい?」
「ラーメン!」
「私も食べたいと思ってたよ」
大岡と翔太は並ぶ。時恵たちもその後ろに並ぶ。各自選ぶと、大岡があっという間に会計を終えた。
「すみません。後で払います」
「あー、いくらだったか分かんないです。今日は翔太君と仲良くなったということで遠慮なく食べて下さい。なっ、翔太君」
「大岡さん、ありがとう!」
「いいってことよ!」
二人は手を合わせ、
「頂きます」
と言うと食べ始めた。時恵はドキドキした、みんなが大岡を見ている。大岡は目立つ、逞しくてその上、自警団の服装だ、とてもかっこいい。夫となんと違うことか。翔太はあって間もないのに懐いている。恥ずかしいけど嬉しかった。翔太の屈託なく笑う顔、久しぶりだ。買い物が楽しいなんてずっと忘れていた。
村役場では宮本が待っていた。
「時恵さん、ご苦労様でした。それでは手続きを進めますね」
時恵は無事終わったことにホッとした。
「いったんはご実家で過ごすということでいいですか?」
「はい」
時恵と時恵の母は同時に返事をした。
「時恵さん、山田村は女性に自立してもらう政策をとっていますので、身の回りが整い次第、山田村の紹介する場所で働いて頂きたいです。もちろん子どもたちを預ける保育所は村で用意します。時恵さんのお母さんもずっと働いて下さっています」
「はい。私も働きます。よろしくお願いします」
「分かりました。では、明日またここに来てください。今日はたくさんのことをなさったのでお疲れでしょう」
「はい。何から何まで有難う御座います」
「どういたしまして」
宮本の爽やかな笑顔に時恵はドキンとした。なんて素敵なんだろう。宮本さんと大岡さん、こんな優しくてかっこいい人、東京にいなかった。交差点では肩がぶつかりそうなほど人が多いのに二人のような素敵な人はいない。
「良かったですね」
「ママ、良かったね」
大岡と翔太が笑っていた。あぁ、嬉しくて泣くなんて何年ぶりだろう。
「さぁ、行きましょう。家まで送りますよ」
大岡が翔太を抱いたまま、玄関に向かって歩いていく。断る暇もなかった。時恵は宮本の方に向かって頭を下げると急いで大岡の後を追った。村役場にいた人の口元は綻んでいた、大岡さん相変わらずいい人だ、と。
時恵の母の家に着く。大岡はショッピングセンターで買ったオムツや下着などを家の中にテキパキと運び込む。その作業はあっという間に終わった。
「有難う御座います」
時恵は何度もお礼を言った。
「いいんですよ。では」
大岡は玄関を出ようとした。翔太が飛びつく。
「おぅ、どうした?」
翔太は目に涙を溜めていた。大岡は翔太を抱き上げ、外に出る。
「翔太君、見てごらん。あれが雷山だ。あそこに雷様がいる。悪い奴をやっつけてくれる。いい子を助けてくれる。きっと大丈夫だ」
「うん」
「翔太君がお母さんと妹ちゃんを助けるんだぞ」
「うん」
時恵も二人の後ろで雷山を見た。小さい頃からずっと拝んできた雷山だ。
嘘をつくもの
欲深きもの
盗みとるもの
あさましきもの
は雷様に必ずお仕置きされるとおじいちゃんとおばあちゃんに教えられた。あぁ、懐かしい。この村は平和だ、雷様がいるから悪い事が出来ない。
そういえば、小学校、中学校の放課後、有無を言わさず駆り出されて村中を走らされた。名目は『健康第一』だった。先頭は必ず生徒全員に回ってきた。そして、一番後ろに大きな大人がいた。あぁ、大岡さんと宮本さんだ。ずっと見ていてくれたんだ。ずっと一緒にいてくれたんだ。
戻ってきて良かった。子どもたちのために頑張らねば。きっと大丈夫、優しい人に支えられて生きていける。
「時恵さん、お久しぶりです」
山田村役人の宮本啓一郎が対応する。太い上がり眉、鋭い目つきと長い睫毛、ちょっと強面だが、爽やかな笑顔で時恵を迎えた。宮本は何も言わず転入の手続きをする。
「東京の□◇区に連絡しますね。しばらくお待ちください」
宮本は奥の席で電話を掛ける。どこからともなくおばあちゃんがやってきて五歳の男の子にお煎餅を渡した。
「ありがとう」
男の子の声に時恵の母親は微笑む。この村の人はいつも優しい。
「時恵さん、□◇区と連絡が取れ、確認できました。では、ご面倒ですが〇△市の警察署生活課に行って下さい。山田村は〇△市の警察署の管轄区域なのでね。住所の秘匿にはどうしてもやらなきゃなんないんです。大変なこととは知っておりますが、時恵さん、ここはなんとか踏ん張ってください」
時恵は涙を流す。新たな住所が知られると危害を受けるおそれがある。配偶者からの暴力により転入してきた場合、住所を秘匿して配偶者に住民票を閲覧させない、または交付しないようにするDV等支援措置を受けられる。ただし、この措置を受けるためには警察へ行って状況を話さなければならない。
「時恵さん、一緒に乗っていくかい?」
いつの間にか山田村の自警団の団長・大岡健士郎が後ろに立っていた。大岡は一八五センチと大柄で自警団の真っ黒の制服が良く似合う。男の子の方を見る。
「君の名前はなんていうの?」
「翔太だよ」
「いい名前だね」
大岡はすっと翔太を抱き上げた。父親の愛を受けていない翔太にとって大柄な大岡の懐は温かく豊かで、翔太は思わず笑顔になった。
「そんな恐れ多いです。大丈夫です。自分たちで行きます」
時恵と時恵の母は慌てる。
「大岡さん、お願いします」
宮本が笑いながら追い打ちをかける。
「ほら、宮本さんに言われたから行くしかありません。こんな面倒なことはちゃちゃっと終えましょう!」
大岡は翔太を抱いたまま駐車場へ向かった。時恵と時恵の母は素早く宮本に挨拶をして大岡の後を追った。
大岡が車のドアを開ける。そこにはチャイルド・シートが二つ設置されていた。大岡はそれに子どもを乗せることに馴れていた。
「翔太君、行くよ」
大岡は掛け声とともにアクセルを踏んだ。五人を乗せた車は〇△市に向かって行った。
東京で暮らしているとき、時恵は常に怯えていた。夫が悪いことが分かっていても言い返さなかった。言い返したら何百倍にもなって返ってくるからだった。夫は『自分の稼いだ金は自分の金』とい考えの持ち主だったから生活費を渡さず、毎日のように夜の街に出かけていた。繰り返される罵声にエネルギーを吸い取られていく。何かにつけて怒られ、暴言を吐かれると脳が傷つき、考える力が失われ、生きる気力がどんどん奪われていく。子どものために我慢し続けていたが、最近は泣き叫ぶ翔太に手を挙げることが増えた。止める時恵に対し、『躾だ』と言い張った。翔太の不安そうな言動と体の痣を見た保育所の保育士が家庭内暴力を察知し、児童相談所に通報した。すぐに時恵に児童相談所の職員から連絡が入った。児童相談所の職員と面会し、事情を話したところ、
「翔太君の安全を最優先にしましょう」
「お母さん、お金があるなら家を出ましょう」
「実家を頼れませんか」
と提案された。翔太君の安全を最優先、この言葉が時恵に家を出ることを決意させた。
「明日、近くの警察に行って事情を話して下さい。そして、□◇区役所にも行って下さい。どちらも事情が分かっている担当者がいます」
児童相談所の職員に言われた通り、翌日、警察、および□◇区役所に行った。どちらもこの種の対応には慣れていて、担当者は寄り添うように手続きを進めた。その後、時恵はパート先に寄って上司に退職希望を伝えた。事情を理解した上司は了承してくれた。
退職日が決定すると郵便局に転居届を出した。そして、〇△市にはない銀行の解約の手続きを進めた。思ったよりお金があってホッとした。家では夫に気付かれぬよう涙を流しながら転居に必要な書類に目を通した。
□◇区役所に行って転出届を出す際に夫の怒りの顔が浮かんで住所秘匿を繰り返しお願いした。そして、子どもと着の身着のまま、東京の家を飛び出してきた。
「時恵さん、懐かしいでしょう。ずっとこの道を通って高校に行っていましたね」
そうだ、この道を毎日通ってきた。何気なく見てきた景色は全く変わっていない。何もない山田村を退屈に思い、東京の大学に進学した。授業料も山田村に援助してもらったのに、
「つまらない田舎」
と蔑んでいた。東京の華やかな光、エンターティメントに憧れ、山田村を後にしたのに、傷つき疲れ切って戻ってきた。
「山田村は変わんないでしょ。それがいいんですよ」
あぁ、思い出す。たまに大岡さんもバスを運転してくれていた。宮本さんもだ。忘れていた。〇△市の高校への通学バス、無料だった。ずっとずっと支援してもらっている。つまらない景色と思っていたのに、山道の緑が新鮮で眩しい。他の市町村に行く唯一の道、二度と通らないと思っていたのに・・・。
〇△市は県庁所在地ゆえ賑やかだった。市の真ん中にある警察署の駐車場に入る。警備員は大岡に深々と頭を下げる。大岡は軽く会釈をした。時恵は思った、大岡さんは警察の関係者かしら、とても偉い人なのかしら、と。五人は玄関に向かう。入り口の前には芝生の広場があった。
「翔太君は私とここで待っていようか」
大岡は翔太を抱き上げた。翔太は嬉しかった。東京にいるとき、パパは怒ってばかり、ママは下を向いて泣いてばかり、小さな妹も泣いてママを独り占めする。翔太は誰にも甘えられなかった。大岡の懐は大きく暖かかった。
「時恵さん、ここは踏ん張りどころです」
大岡の応援に時恵は頷く。娘を抱いた時恵と時恵の母は会釈をして警察署三階にある生活課に向かった。
緑が広がる広場でも翔太は大岡から離れなかった。大岡は広場の真ん中の芝生に腰を下ろした。
「翔太君も座ろうよ」
「ううん、汚すと叱られちゃう」
大岡は翔太を自分の太ももに乗せた。かわいそうに、何をしても怒られてきたんだな。
「そっか、大変だったね」
大岡は翔太の頭を撫でる。
「汚したら叱られるなんてことはもうないんだよ。汚したって気にしなくていいんだよ。だって山田村に来たんだもの」
「ホント?」
「ホントさ」
「大人は嘘を付くよ」
「そうだね、大人は嘘を付くね」
大岡は翔太の言葉を否定しない。翔太に必要なのは優しく受け入れることだ。
「翔太君、大変だったね。翔太君のママも大変だったね」
「うん。ママ、いつもパパにぶたれてた」
あぁ・・・、この親子を助けてあげなければ。
「翔太君もぶたれたかい?」
翔太の目から涙が溢れてきた。大岡はぎゅっと抱きしめた。そしてそのまま寝転がった。
「翔太君、空は青くて広いな」
「うん、広いね」
「もう大丈夫だよ、安心して。こんなにお空は広いんだもの。大丈夫さ」
「お空が広いと大丈夫なの?」
「広いお空には太陽があるだろう。昔の人は太陽をお天道様と呼んだんだ、親しみを込めてね。お天道様が見てくれているさ。翔太君がいい子だってことも知ってるさ」
「そうなの?」
「その上、山田村には雷様がいるんだ。とっても強いよ。悪い人は逃げて行っちゃうさ」
「ホント?」
「ホントさ。だから安心してね」
翔太はお天道様や雷様は分からなかったが、大岡がいるだけで安心だった。
しばらくして時恵たちが戻ってきた。
「緊張しましたが、担当者が優しい人で良かったです。質問を受け、これまであったことを話し、聞き取って頂きました」
「それは良かった。村役場に戻る前にショッピングセンターに行きましょう。子どもたちに必要なものを買いましょう」
「そんな、大岡さん」
「翔太君、妹ちゃんに必要な物を教えてよ」
大岡は翔太を抱いて駐車場に向かった。時恵は泣きながら後を追った。
ショッピングセンターではオムツや着替えなど子どもたちに必要な物を買い揃えた。十一時半を過ぎていたのでフードコートで軽く食事をすることにした。
「翔太君、何を食べたい?」
「ラーメン!」
「私も食べたいと思ってたよ」
大岡と翔太は並ぶ。時恵たちもその後ろに並ぶ。各自選ぶと、大岡があっという間に会計を終えた。
「すみません。後で払います」
「あー、いくらだったか分かんないです。今日は翔太君と仲良くなったということで遠慮なく食べて下さい。なっ、翔太君」
「大岡さん、ありがとう!」
「いいってことよ!」
二人は手を合わせ、
「頂きます」
と言うと食べ始めた。時恵はドキドキした、みんなが大岡を見ている。大岡は目立つ、逞しくてその上、自警団の服装だ、とてもかっこいい。夫となんと違うことか。翔太はあって間もないのに懐いている。恥ずかしいけど嬉しかった。翔太の屈託なく笑う顔、久しぶりだ。買い物が楽しいなんてずっと忘れていた。
村役場では宮本が待っていた。
「時恵さん、ご苦労様でした。それでは手続きを進めますね」
時恵は無事終わったことにホッとした。
「いったんはご実家で過ごすということでいいですか?」
「はい」
時恵と時恵の母は同時に返事をした。
「時恵さん、山田村は女性に自立してもらう政策をとっていますので、身の回りが整い次第、山田村の紹介する場所で働いて頂きたいです。もちろん子どもたちを預ける保育所は村で用意します。時恵さんのお母さんもずっと働いて下さっています」
「はい。私も働きます。よろしくお願いします」
「分かりました。では、明日またここに来てください。今日はたくさんのことをなさったのでお疲れでしょう」
「はい。何から何まで有難う御座います」
「どういたしまして」
宮本の爽やかな笑顔に時恵はドキンとした。なんて素敵なんだろう。宮本さんと大岡さん、こんな優しくてかっこいい人、東京にいなかった。交差点では肩がぶつかりそうなほど人が多いのに二人のような素敵な人はいない。
「良かったですね」
「ママ、良かったね」
大岡と翔太が笑っていた。あぁ、嬉しくて泣くなんて何年ぶりだろう。
「さぁ、行きましょう。家まで送りますよ」
大岡が翔太を抱いたまま、玄関に向かって歩いていく。断る暇もなかった。時恵は宮本の方に向かって頭を下げると急いで大岡の後を追った。村役場にいた人の口元は綻んでいた、大岡さん相変わらずいい人だ、と。
時恵の母の家に着く。大岡はショッピングセンターで買ったオムツや下着などを家の中にテキパキと運び込む。その作業はあっという間に終わった。
「有難う御座います」
時恵は何度もお礼を言った。
「いいんですよ。では」
大岡は玄関を出ようとした。翔太が飛びつく。
「おぅ、どうした?」
翔太は目に涙を溜めていた。大岡は翔太を抱き上げ、外に出る。
「翔太君、見てごらん。あれが雷山だ。あそこに雷様がいる。悪い奴をやっつけてくれる。いい子を助けてくれる。きっと大丈夫だ」
「うん」
「翔太君がお母さんと妹ちゃんを助けるんだぞ」
「うん」
時恵も二人の後ろで雷山を見た。小さい頃からずっと拝んできた雷山だ。
嘘をつくもの
欲深きもの
盗みとるもの
あさましきもの
は雷様に必ずお仕置きされるとおじいちゃんとおばあちゃんに教えられた。あぁ、懐かしい。この村は平和だ、雷様がいるから悪い事が出来ない。
そういえば、小学校、中学校の放課後、有無を言わさず駆り出されて村中を走らされた。名目は『健康第一』だった。先頭は必ず生徒全員に回ってきた。そして、一番後ろに大きな大人がいた。あぁ、大岡さんと宮本さんだ。ずっと見ていてくれたんだ。ずっと一緒にいてくれたんだ。
戻ってきて良かった。子どもたちのために頑張らねば。きっと大丈夫、優しい人に支えられて生きていける。
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