あはれの継続

宮島永劫

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平成十九年 山と谷間

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 東京都千代田区神田神保町にあるビルの一室、月刊雑誌『山と谷間』の編集室だ。山のように書類が積み重なった編集者の机が並ぶ。どの机にもお気に入りの山の写真や土産品が飾られている。窓際には打ち合わせ用のテーブルと椅子が置かれており、二人の男性が対座していた。
「長いこと見ないねぇ、鳥居さん」
編集長・あお康生こうせいが北岳の写真を見ながらカメラマン・花村はなむらくにに話しかけた。
 先程の打ち合わせで特集のタイトルを『しっかり計画! 日本アルプス縦走』に決めた。縦走ルートの最初を飾るのが南アルプスのしら三山さんざんの北岳、あいだけ農鳥岳のうとりだけだ。青江は北岳の写真を見ると鳥居耀三のことを思い出す。北岳の記事を書く時はコースを隈なく教えてもらった。鳥居はちょっとうるさいので苦手意識はあるが、山頂までの道程で分からないことは何でも答えてくれるし、自然や天候にも詳しいし、ネームバリューがあるから、特集に登場することが多かった。出版後の記事に、
「ずいぶん少ない」
とぶつぶつ文句を言われるが、
「すみません。写真をメインにしたんですよ」
「文字数が限られていて」
「鳥居さんの意見はごもっともですが、なんせ専門用語が多いので」
と謝り、お茶を濁していた。
「難しい人だったから、ご機嫌を取るのは大変だったよね」
青江は鳥居の愛した北岳の特集用の写真を眺める。
「でもさ、いないとね、不思議だよね、寂しいよね」
「そうですね・・・」
カメラの写りをいちいち注意されていたカメラマンの花村は天井を見上げる。登山家がいないこと、それは体調不良、怪我が思い浮かぶ。
「連絡は取っているんですか?」
花村は青江に聞く。
「去年の六月を最後に連絡が取れないんだ」
「警察が入ったという噂は噂ではなかった、ですよね?」
「あぁ、多分ね・・・。鳥居さんは独り身だからねぇ。近所の人が通報したのかねぇ。近所付き合いも苦手そうだから、郵便や配達などで大家さんが気付いたかな」
青江は鳥居を思い返す。
「山男だから世間には疎いからさ。山に入ったかなぁ・・・」
難しい山を好んでいた。危険個所も熟知していた。登山技術は高かったから誰も心配しなかった。孤高の人だった。鳥居がいなくなるとは思わなかった。
「鳥居さん、エベレストに登りたがっていたんだ。スポンサーを探してくれってお願いされていたんだ。雑誌の特集だけでは資金が全然足りないからね。スポンサーが付いたのかもしれないなぁ。去年の五月ごろ、北岳の特集記事のために聞きたいことや見たい資料があったから、南アルプス市の家を伺ったんだけど妙にご機嫌だったんだ」
「へぇ、あの難しい鳥居さんがご機嫌ねぇ」
青江の話に花村は驚いた。鳥居はいつも不機嫌だったからだ。鳥居は自分のペースに合わせられない人間がいると不機嫌になった。カメラマンの花村は写真を撮るため立ち止まることが多い。だから、
「遅い!」
「また撮るのか?」
「早くしろ!」
と常に怒られていた。ご機嫌な鳥居を花村は知らなかった。
「鳥居さんに、『嬉しそうですね。資金提供の話でもあるんですか?』って聞いたんだ。そしたら根が正直者だからさ、嬉しそうな顔で『へへへ、内緒内緒』って言うんだよ。だから、俺は鳥居さんにスポンサーが付いたと思ったんだ」
花村は驚いた、笑う鳥居なんて知らなかったから。
「代々登山家だから、おじいさんの時の北岳の資料を見せて欲しいとお願いしたら、自宅に誘われてね、行ったんだよ。まぁ、おじいさんは文筆家としても有名だからね。『アルプス徒然』は文潮文庫でもコンスタントに売れているいい本だ。そこに載っている写真や日記が残されていたよ。その時に机の上に置いてあったのが〇△県の地図だったんだ」
「〇△県って鳥居さんの好むような難しい山ってありましたっけ。高い山はほとんどなかったようなイメージですが」
鳥居のアルプス好きを知っていたから花村は〇△県と鳥居が結びつかなかった。
「そうだ、〇△県はいい山はあるが鳥居さんの好むような難しい山はないんだ、一つを除いて・・・」
「一つって?」
「雷山だ」
「あぁ、雷山・・・」
山雑誌の編集室だけあって、山には誰よりも詳しい人たちだ。
「誰も登ったことがない雷山ですね・・・」
「あぁ、そうだ」
花村は納得した。なだらかな山が続く中、ひときわ高い雷山、鳥居さんなら挑戦したくなるだろう。それも未踏だ。
「雷山は霊山で修行の山なんだ。明治の初めの廃仏毀釈によって修験道禁止令が出たときに明治政府の要請に従い立入禁止にしたらしいんだ。難しい山というのは昔から知られていて事故も多かったらしい。管理が難しいからって今も立入禁止なんだ」
「へぇ、なんでそんなこと知っているんですか?」
青江が淡々と雷山を話すのを不思議に思った花村は尋ねる。
「俺もさ、登ってみたくなったんだよ、昔」
編集長になるような人物、未踏の山と聞いたら行ってみたくなるのが登山家の宿命だ。青江は若かった時の山田村訪問の思い出を話し始めた。

 この編集部に入ってから十年、特集記事を任されたことがあったんだ。前の前の編集長に『今までにない記事を書いてみろ』って言われてさ。少し多めに金を貰ったから調子に乗ってさ、各地を巡ったのさ。伝説の山の特集を組みたくてね。伝説の山ってのは、例えば天狗伝説のある山で京都の鞍馬山や茨城県笠間市の愛宕山なんかが有名だ。平家の落人伝説が残る日光市や高山市などは登ってみたくなる山だけでなく観光が伴うから記事になりやすい。比較的整備されたところが多く、この編集部の人間なら一度は行ったことがあるだろう。このような知名度の高い山はネットでもすぐ検索できるし、うちの雑誌でも記事にしたことは過去に幾度とある。そりゃ、『いいところですよ、行ってみてください、楽しんで下さい』、と提案しているんだからね。ところが、今でもネットで検索しても詳しい情報が載っていない、そして誰もが入ったことがない雷山を調べたくなったんだ。うちも一九三〇年創刊で八十年以上の歴史があるが一度も登場していない。登山家なら知っている伝説の山・雷山だ。どこから見ても特別な山だ。雷山だけひときわ高く険しい。航空写真で見る岩肌は圧巻、クライマーなら触ってみたくなる。カメラマンの君なら俺の気持ちは分かるよね。あんな険しい山の岩肌と青空を撮ってみたいだろう。ゴツゴツした岩肌に可憐な花が咲いていたら感動するに決まっている。地図で見ても等高線が極めて密で険しいことが分かる。登山道の表記はもちろんない。雷山のすぐそばには川が流れているが名前がない。山田村の地図を見るうたかたかわと書いてある。それの源流だろう。
 あの時の俺は無鉄砲で怖いもの知らず、二十代で日本アルプスをすべて制覇した経験が『雷山にトライしてやる』なんて思わせたのさ。思い立ったが吉日、その日のうちに支度をして翌朝一番に山田村に向かったのさ。〇△市に着いてすぐレンタカーを借りたんだ。バスを調べても山田村には通勤通学時間しかバスが通ってないんだ。どうやら山田村が出資しているコミュニティバスらしく詳しい情報は調べられなかったんだ。旅費を多めに貰っていたからレンタカーを借りた方が早かったんだ。〇△市から山田村に行くには一本道で分かりやすい。〇△市の中心から十キロくらい山田村方面に向かうとのどかな田園風景が広がる。そこを過ぎると店はない、休憩する場所もない。自動販売機もない。見通しが悪いところにミラーがあるくらいで本当に何もないんだ。くねくねした山道を進むと懐かしい景色が広がっている。手が付けてないというか、そのままの自然が残っている感じだった。観光地によくある広告がないんだ。本当に地元の人だけのための山道だから懐かしく感じたんだろうなぁ。運転し始めて一時間くらいかな、山を抜ける手前に関所跡があった。この道を通って参勤交代に行ったのかと思うとなんとも感慨深かったよ。山田村には山田藩という小さな藩があったんだ。日光街道の杉並木のような感じで何百年も前に植林された杉が美しかったよ。そこを抜け、村役場のある中心部に向かって車を走らせたんだが目に入ってくる景色がどこも懐かしくてびっくりしたよ。整備された田園風景は昭和の初めのようだった。アスファルトが少なかったのに驚いたんだ。信号が無いし、横断歩道はないし、標識もないから妙にドキドキしたんだ。時速三十キロくらいでノロノロ運転したよ。美しい景色となんにもないことに驚かされっぱなしだったよ。商業や建築の規制をしているかもしれないな。よそから資本が入ったらきっとぶち壊しになるだろうな、あの懐かしい風景は。
 懐かしい風景ってのはスーパーなし、コンビニなし、というように買い物をする商業施設が全くないことなんだ。お金の動きがないんだ。風の音が聞こえるんだ。鳥のさえずりが聞こえるんだ。ほんとに何にもないんだ。地図にあった村役場に行くまでなんにもなかったんだ。村役場に行く途中、トイレ休憩できるところさえなかったんだ。
 農協の前の駐車場に軽トラがいっぱい止まっていたんだ。多分、農家の人のお昼だったんだ。地元の人に混じって村役場の横の農協でお茶、山菜おこわを買ったんだ。みんな水筒と弁当箱を持ってきていたんだ。よそ者は俺だけだったから山菜おこわは熊笹の葉にくるんでもらったんだ。お茶は水筒に入れてもらった。馴染みの人は前払いか後払いか分からないけどお金を払ってなかった。いやぁ、びっくりしたよ。お金を払わないシステムがあるとは驚きさ。店中を隈なく見たが土産のようなものは置いていなかった。日常で食べるものばかりだった。ただ、どれも美味しそうなんだ。不思議なほどに美味しそうなんだ。野菜は不揃いだし、かごにそのまま置いてあるだけなんだけど、買い占めたくなるような感じなんだ。朝採ってきたものがそのまま並んでいるんだ。今、思い出すと、あの村はプラスチックがないんだ。昔から使われている籠やざる、木箱に商品が並べられているんだ。みんな持ち帰り用の籠や布袋を持参していた。おばあちゃんたちが持っている竹細工の籠は懐かしい感じがしたよ。醤油の瓶を風呂敷で包むなんて妙にお洒落で、趣があって、気品を感じたさ。
 お腹が空いたから、見晴らしのいいところで昼飯にしようと思って外に出たんだけど、高い建物が無いし、自然豊かだし、町並みはきれいだからどこでも景色が良かった。どこからでも雷山が見えた。とりあえず駐車場の木陰で昼食にしたんだ。雷山に挑む前に腹ごしらえだ。雷山を調査するには村役場に行って聞くしかなかったからね。なんせ、今の山田村の公式ホームページには観光案内がない。地図もない。出産、教育、福祉など暮らしに必要な情報しか載せていないんだから。俺の若かったころはインターネットなんかなかったから、情報が何もなかったよ。それにしてもあの山菜おこわ美味しかったなぁ。忘れられないなぁ。大きな栗が入っていたよ、甘露煮かなぁ。しみじみ美味しいんだ。日頃、パンチの利いたケチャップやソース、香辛料に慣れているから素朴な味に驚いたよ。東京の外食は刺激が強すぎるとつくづく思ったよ。
 村役場に入ると受付がないんだ。玄関には役場の地図や案内板は無い。住民票や戸籍謄本を取るための書類もなければ記入する場所もない。ここは本当に村役場か? と疑ったほどだ。少し奥に入って行くと机に座り事務処理をしている人がいたが、君が想像するよりもはるかに少ない人数だよ。村役場なのにフロアに二人しかいないんだぜ。覗いても気づいてくれないし、なんとなくだけど、避けられているような感じがしたんだ。声をかけやすそうな女性はいないし、事務処理をしている男性は二人ともこちらを見ようとしないんだ。予め申し合わせたかのようだったよ。俺のようなよそ者に『関わってくんな』、というような感じだった。しょうがないから事務処理をしている男性に声を掛けたんだ。
「すみません」
その男性は俺を確認すると立ち上がった。すぐにやってきた。
「はい、なんでしょう」
俺は山で鍛えているから日本人男性の中で体格のいい方だが、その男性は俺よりもう一回り大きかったんだ。それに、見惚れるほどかっこいいんだ。切れ長の目に濃い眉、通った鼻筋、引き締まった口元、メンズモデルのようだった。ちょっと怖気づいてしまったが、気を取り直し、話しかけたんだ。
「雷山についてお伺いしたいんです」
「雷山は立入禁止なので見るだけでお願いします」
想定通りの回答だった。俺はすぐさま名刺を出した。山を専門とする記者だから話してもらえるだろうと意気込んでいた。
「取材は受け付けていません。写真の掲載も許可しません。雷山は所有者がいますが、いっさい許可をしておりません」
断られるのも予想通りだった。
「所有者を紹介して頂けませんか? 話だけでも聞かせてもらえませんか?」
「無理です。紹介できません」
俺は結構、見下ろすことが多いが、俺が見上げるのは久しぶりだった。目の前の大男は俺のお願いに微動だにしない。これ以上、食いついても何も出てこないことがすぐに分かった。
「では、地図をもらえませんか?」
「ありません」
嘘を付いているようには思えない。本当に何もなかった。それでも食らいつく。
「雷山神社を参拝したいんですが」
「雷山神社も立入禁止です。参道が崩れていますから。鳥居のところで参拝して下さい」
「昔は修業の場として僧が入山していたようですが、今は入山を許可しないんですか?」
「はい」
話がすぐに途切れる。愛想がない。見下される感じが耐えられなかった。
「雷山は登山者にとって憧れの山です。ぜひ、開放して欲しいんですよ」
「お断りします」
「なぜですか? こんな美しく神秘的な山、山好きの皆さんに開放してあげたらどうですか?」
「いえ、結構です」
「そこに山があるのに登れないのは酷ですよ」
「他の山でお願いします」
「あのような美しい山を見せたいと思わないんですか?」
「思いません」
「開放したら、各地から観光客がやってきますよ。山田村が潤いますよ」
大男は俺をじっと見る。沈黙だ。俺はその時『怖い』って思ったよ。大男を怒らせたんだよ。編集者の悪い癖が出たんだ。執拗なまでに熱意で攻める悪い癖がね。だって、雷山だぜ。誰もが気になる雷山だ。俺はこじ開けたかったんだ。
「お断りします」
冷たく言い放たれた。大男はじっと睨む。怒っている、本当に怒っている。当時の編集長は怖いし、鳥居さんも怖かったけど、桁が違う怖さだった。絶対許さないという気迫だった。俺は、
「すみませんでした」
と謝ったさ。男はそのまま俺を見下していた。俺はスゴスゴとその場を退散したんだ。あんな完敗は初めてだった。太刀打ちできないんだ、全く。雷山の立入禁止がずっと続いているのは大男がいるからだと納得したよ。
 きっと外から金を入れるより、変わらぬまま維持することを豊かと捉えているようなんだ。華々しさはないけど手作りの竹細工、美味しい食べ物は豊かさを感じたよ。プラスチックがないこと、標識がないこと、看板がないこと、見晴らしがいいことが豊かに思えたんだろうなぁ。登山を愛するものとして山に入ると自然の豊かさを体感するが、山田村は生活圏にありながら豊かな感じがしたんだ。いいとこだよ、きっと俺みたいなものは受け入れてもらえないけどさ。
 とりあえず、山田村を車で一周したんだ。小さな村だから半日もあれば十分なところだ。時速三十キロで走る農道はなんともすがすがしい気持ちになる。周囲が山で囲まれているから水が豊かなんだ。水路も整備されているんだ。ここの先祖は凄く頭のいい人だったんだよ。京都とか奈良とか市街地の美観の維持、伝統的建造物群の保存に取り組んでいるけど、山田村も同じだと思う。違うのは観光客の有無だ。雷山の登山は難易度が高そうだ。お気楽な観光客に面倒を起こされても困るんだろうな。
 ただ、俺たち登山家からすると雷山は見れば見るほど登りたくなる。本当に孤高の山なんだ。どこから見ても美しいんだ。霊山に相応ふさわしいよ、本当に。きっと鳥居さんも魅せられたさ。登りたくなって立入禁止を無視して踏み込んでいくさ。
 ゆっくり運転していると雷山神社の鳥居が見えてきた。その近くで車を止めたんだ。ちょうど地元のおばあちゃんがいて一礼していたからなんだ。俺もそれにならって一礼したんだ。民俗学者の宮本常一みやもとつねいちの『きょうおしえ』の中でお宮さんにお参りすると地元の人が心を開いてくれるって書いてあったからね。一礼が終わり会釈したら、会釈してくれたさ。なんとも上品なおばあちゃんだったよ。優しそうだった。
「雷山神社に行くんですか?」
って聞いたんだ。
「いや、ここまでですよ。雷山神社は立入禁止ですからね」
って言うんだ。地元の人も入れないところなんだと驚いたね。
「おばあちゃんは雷山に行ったことがありますか?」
「ありませんよ。雷様を邪魔しては申し訳ありませんからね」
「雷様がいるんですか?」
「はい、雷様はずっと昔から私らをいつも見守って下さっています。感謝しかありません。せめてご迷惑がかからないようにしているんですよ」
「雷山に行くことが迷惑になるんですか?」
「はい。昔から危険な山で住民に何かあれば雷様は悲しみます。雷様はお優しいですから、悲しみを増やさないようにするのがせめてもの恩返しと思っております」
おばあちゃんが雷様を信じている、それも深く。日本は八百万の神がいるが、山田村は雷様がオンリーワンだということがおばあちゃんの言葉から分かったよ。雷様がいるから入山しないんだ。上品なおばあちゃんは俺に微笑むとそのまま帰っていったんだ。残された俺は鳥居をくぐって雷山神社の石段のある所まで行ったんだ。太いロープが張られていたよ。立入禁止と書かれた大きな札が下げてあったよ。ずっと先までロープが張られていた。村役場で所有者がいると聞いているから入って行くには気が引けた。さすがに『山と谷間』という看板を背負ってきているし、おばあちゃんの言葉も気に掛かってやめておいたが、鳥居さんなら入って行くような気がしたよ。
 車のところに戻ると自警団の人がいたんだ。
「路上駐車は困ります」
といきなり言うんだ。村役場の役人と同じように今度もまた大男なんだ、俺よりも大きくて、その上、凛々しいんだ。真っ黒の警備服で厳ついんだ。目線は上、また見下されたんだ。
「すみません」
謝ったさ、こちらが悪いんだからね。ちょっと怖かったこともある。とても勝てそうにないんだ。
「山田村の道路は全て駐車禁止です。車を置くなら村役場の駐車場です。ただし、村役場と農協が閉まる十七時半には出てもらいます」
「えっ?」
「山田村の治安維持のためです。レンタカーでお見えになったようですが、この村は野宿を禁止していますのでお帰り下さい。ちなみに、山田村には宿泊施設はありません」
「えぇっ!」
「うちは小さな村で、何かあれば消防署も警察も〇△市に頼むことになります。そんなことがないように元から治安をよくしているのです。ご協力お願いします」
「・・・はい・・・」
大男に睨まれたらテント設置の許可なんてとてもお願いできなかったさ。大男が俺をじっと見ているから仕方なく車に乗り込む。車に乗っても大男は俺をじっと見ている。変な行動をしたら追跡されるような感じ、おびやかされているって感じかな。おばあちゃんの『雷様』ってのが頭に浮かんできたんだ。目の前の大男が雷様を守る守護神のようだった。東大寺とかの仁王様みたいだったさ。致し方なく山田村を後にしたんだ。
 二人の大男は、そりゃあ魅力的だったよ、男でも惚れるような逞しさだ。雷山が立入禁止なのは危険だけでなく、おばあちゃんのように本当に雷様を信じている住人や山田村を守ろうとする男たちがいるためだと思う。静かで平和で豊かなところをよそ者に壊されたくないんだろうな。所有者のもとに行ってお願いしても雷山は絶対入れてもらえないよ。所有者だけでなく住民が反対するだろうよ。きっと門前払いされてしまうさ。鳥居さんだったらこっそり入るんじゃないかな。でも、勝手に入ったら戻れないと思うよ、なんとなくだけどね。

 青江編集長の話が一段落すると、花村は鞄の中からアルバムを取り出した。
「これ、見て下さいよ。去年の春に白神山地に行って撮った写真なんですよ」
少し霧がかった美しいブナの森、岩場で周囲の様子をうかがうトウホクノウサギ、山の斜面を群れを成して歩くカモシカ、青と赤が混在する日の出直後の空と美しい山々、どれをとってもカメラマンの喜びが伝わる写真ばかりだった。
「いい写真だね」
青江はしみじみと眺める。青江には分かっていた。これらの美しい写真を撮った人物がいないことを。
「大塩君みたいなきっちりした人がどうしちゃったんだろうね」
「ホントですよ。彼は僕の大学のワンダーフォーゲル部の後輩です。極めて爽やかで愛嬌があって誰からも愛される人間だったのに・・・」
花村は後輩が突然いなくなったことを悲しんでいた。
「うちのワンダーフォーゲル部は昔から計画をしっかり立てることを部員に叩き込むから、予定が分からないまま山に入るなんてありえないんですよ。部長を務めた大塩君が誰にも告げず山に入るなんてありえませんよ」
青江は花村の持ってきた写真をぼんやり眺めながらあることを思い出した。
「白神山地は世界遺産のためにプロモーション映像がたくさん撮られたよね」
「そうです。その中でも気に入ったのがあって、大塩君はすぐに弟子入りしたんですよ。映像ディレクターの水野正邦さんって知っていますか?」
「あぁ、聞いたことはあるよ。やり手だよね。企業のイメージアップを図るコマーシャルを作って成功しているよね。例えば、せち保険とかなん組とか」
「土節保険って保険金を出し渋るのが日本一って言われてますよね」
「南場組は施工不良がバレやしないかとヒヤヒヤしているらしいんだ」
二人は顔を見合わせる。映像に大塩君は騙されたか・・・。
「その水野さんって人もいなくなったらしいんですよ。ただし、拠点を変えたってことで今はハワイにいるそうです」
「国外逃亡?」
青江は冗談っぽく言ったが、花村は黙っている。
「えっ? 本当に逃亡したのか?」
「噂ではそうらしいです。なんだかヤバい仕事に手を出したってことです。とても目立つ人だったので突然消えたことにみんな驚いたそうです。知り合いの映像ディレクターが『水野さんがキャンセルした仕事が回ってきた』と言ってたことがあって、それで知ったんですよ」
海千山千の青江だったが驚きを隠せなかった。
「おいおい、鳥居さん、大塩君、水野さん・・・、これって」
青江は花村を見つめる。花村は溜息を付く。
「水野さんの片腕として常に行動を共にしていた跡部さんって腕利きの映像編集者がいたんですけどね。その人もいなくなったんですよ」
「えっ?」
「水野さんはコマーシャルの仕事が多いんです。それは、企業に気に入られるように必ず綿密な打ち合わせを行っていたからです。いつも跡部さんを連れていました。企業のイメージを確実にするために打ち合わせに跡部さんを必ず出席させていたんです。跡部さんは打ち合わせで担当者の企業イメージを聞き取るとそれをうまい具合に取り込んだ映像を作るんです。とにかく編集がうまい。跡部さんあっての水野さんだとみんな思っていました。跡部さんは職人だから話下手だったんです。そして技術者特有の真面目な人だったんですよ。水野さんがハワイに行ってしまったのは跡部さんと仲違なかたがいしたのかと言われています。それとも・・・」
花村が言いにくそうだ。青江は身を乗り出し小声で囁く。
「大丈夫、誰にも言わないから。跡部さんも、か?」
花村は一瞬たじろいだ後、首を上下に振った。
「そうなんです、多分・・・、証拠はないけど、そう思えてしまうんです」
花村は必死で声のトーンを落としたが、隠していたことがせきを切ったように口から出てきた。
「跡部さんは去年の六月末に音信不通になりました。映像クリエーターの知り合いが、跡部さんに代々木にある映像関係の専門学校の講師を依頼していたんですよ。水野さんは有名だけど、実際の映像は跡部さんだからです。それに相場よりも低い講師料で引き受けてくれたからです。跡部さんは昨年の四月に知り合いから専門学校の話をいろいろ聞いていました。職人気質の技術屋だから新しい技術には目が無いし、知識も増やせるのでまんざらでもなかったようなんです。口数が少ないので技術でカバーしようと熱心に打ち合わせを重ねていたんです。そんな風にして二週間に一度の割合で打ち合わせをしていたんですが跡部さんが『夏至の頃は打ち合わせができない』と知り合いに言ってきたんです。知り合いが理由を聞くと、『言えない』と頑なに拒むんですよ。でも、『今まで映像になっていないところを撮影する』と含み笑いをしたんです。日本はそれなりに広いから映像になっていないところはいっぱいありますよ。七千近くある島なんてみんな映像化していないだろうし、富士山の樹海だって全ては分かっていないでしょう。映像になっていないところなんてどこでもあるのに、とその時は思ったのですが、水野さんと一緒に行くんだから次の自然遺産を狙っていると思ったんです」
花村は青江を見つめる。
「次の自然遺産、どこだろう・・・」
頭を巡らし、思い当たる。青江は愕然とする。
「まさか、雷山?」
花村は青江をじっと見つめる。
「確信はないんですが、目立つ水野さんが隠密行動をするなんて本当に珍しいんです。地元の人を最大限に利用して映像を撮る人ですから。そんな人が何も言わずに映像を撮りに行くなんて考えられません」
「大きな金が動いたか?」
「鳥居さんにはお金が必要だったんですよ。エベレストに行きたいんですからね。多少の無茶はする人でした。先ほど編集長が話してくれた鳥居さんの家の机に置いてあった〇△県の地図、そして、跡部さんの含み笑い、雷山に繫がっていると考えるのはおかしいでしょうか?」
「いや、おかしくない」
青江は驚きとともに納得した。
「雷山は霊山だ。長いこと誰も入っていない。整備された美しい町並みも残っている。その上、懐かしくとても豊かだ。それなのに映像化を許可していない。あそこに目を付ける人は多いはずだ。観光化を企むものがいそうだな」
青江と花村は目を合わせる。
「国家権力か?」
青江の質問に花村は頷く。
「そうですよ、大きな金が動く観光となれば陰にいるのは国の権力ですよ」
「〇△県といえば、『はっぴーうれぴーらんど』で大失敗しているが、柳沢知事は観光をアピールしているよな」
二人は納得した、勿論確信はないのだが。
「跡部さんに知り合いが電話を掛けても出ないし、メールをしても返信なし。困り果てて自宅を訪ねたらいなくなっていたんです。突如として消えてしまったんです。七月一日に打ち合わせを予定していたんですよ」
「そんなことってあるのかい、現実で」
「跡部さんは引っ越したようです。物静かで慎重な跡部さんが急に引っ越すなんてありえませんよ。誰かが強引に引き払ったとしか思えないですよ」
花村は興奮気味だった。
「水野さんはハワイに移動し、跡部さんは行方をくらました。推測でしかありませんが、鳥居さんに関わっているような気がします」
花村の仮説に青江は腕組みをしながら唸る。
「鳥居さん、大塩君、跡部さんがいなくなった・・・。こりゃ、ニュースにならなかったのかね?」
「その時は知りませんでしたからね。ニュースになっていたら、それこそ編集長がいち早く知っているでしょう」
「そうだな・・・」
青江は体内から湧き上がる震えを感じた。
「鳥居さんと大塩君は警察が捜索したんだろう。その時は山田村にも捜索が入ったのかい?」
青江の質問に花村は首を振る。
「鳥居さんの自宅の机に〇△県の地図が置いてあったとしても、それだけで山田村に要請はしないでしょう。普段の鳥居さんから推測するなら南アルプスの危険なところを捜索するでしょう。日常的に登っていましたから」
「そうだよな、山田村をわざわざ調べないよな」
青江は天井を眺める。
「二人の大男が鳥居さんや大塩君を陥れるとは思えないんだ。見かけは怖いが実直で何かあれば助けてくれそうだった。おばあちゃんと農協の人しか見ていないけれど事故には全く関わりなさそうだ。どの人も柔らかで穏やかな表情をしていた。東京の人と違ってストレスが少なそうだったよ。それにしてもあの山菜おこわ、美味しかったなぁ」
美味しいものは人柄が現れる。山田村の食べ物は美味しい。美味しい物を作る人は優しい。どう考えても山田村は犯罪と無関係だ。
「誰だ? 影で悪いことを画策したのは?」
青江は声には出したが、陰にいるのは分かっていた、〇△県だということを。花村も同じことを考えていた。
「花村、山田村は行かないほうがいいよ。あそこは写真を撮りたくなるから。でも、あそこは所有者がいて撮影を許可していない」
青江は花村のはやる気持ちを汲み取っていた。花村が後輩・大塩の行方を追いかけようとしていることを。
「花村、山田村は私たちのようなよそ者を歓迎しない。昔から危険な山と知られている。大塩君は何も知らなかったんだろうけど、よそ者はよそ者だ。雷様のお怒りに触れたんだろう」
「編集長!? 雷様を信じているんですか?」
花村は驚きを隠せなかった。
「あぁ、山に関する本の編集に携わって長いが、霊山としてあがめられている山には私のようなものでは理解できない何かがあると確信したよ。地元の人や修行する人は山に御座おわす神様に祈りを捧げている。若い頃は無暗に高い山を登って満足していたが、年を重ねるうちに山は登ればいいってもんじゃないと思ったさ」
青江は遠くを見る。山田村、雷山、美しい世界。
「雷は『神が鳴らすもの』が語源だ。雷山は神様が御座すのに相応しい場所だ。むやみやたらに踏み入れる場所じゃないんだよ。山田村から一歩も出たことがないようなおばあちゃんさえ登ってないんだ。誰も登っていないんだ。君は立派なカメラマンだ。だが、君がいくら立派だからといって雷様は許さないだろう」
花村は青江を覗き込む。
「どうしちゃったんですか? 編集長らしくないですよ」
花村は青江の恐れ方が尋常じゃないことを汲み取った。
「大丈夫、行きませんよ。行きません。安心して下さい」
青江は机に肘を付き、両手を組み、そこに目を当てる。泣いているのか?
「大塩君みたいにいなくならないでくれよ。事故の記事を掲載する私の身にもなってくれ」
山を愛するが故、頻繁に事故は起きる。特集記事も組まねばならない。そこには編集長の知り合いも含まれる。家族の悲しみにも触れねばならない。
「山に登りたい。その気持ちは止められないのは自分でも分かっている。でも、守らねばならないことがある。一つは登っていい山であること、二つ目は絶対戻ってくること、だ。雷山は二つとも当てはまらないんだ。行っちゃいけないんだ・・・」
青江は登山の喜びも知っているが悲しみも知っている。
「雷様を悲しませないのも山を愛する者の使命さ」
花村はモジモジしている。
「気になるか?」
青江は覗き込む。若い、大塩君のこともある。惹かれるか、魔の山。花村は顔を上げる。
「行きたくないと言ったら嘘になります。行ってみたい、鳥居さんの気持ちはよく分かります。惹かれますよね、どうしても」
青江は眉をひそめる。
「行ったとしても私のように大男に阻まれてくれ。こっそり入ってはいかん。絶対にだ」
「はいはい。分かりました」
「はい、は一度でいい」
「はい」
アルバムを鞄にしまうと、花村は笑いながら出ていった。

 花村は二度と編集室に現れなかった。



宮本常一、「家郷の訓」、岩波書店
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