あはれの継続

宮島永劫

文字の大きさ
10 / 17

平成十八年 雷山入山

しおりを挟む
 一年のうちで日の出から日の入りまでの時間が最も長い夏至の頃とはいえ午前三時はさすがに暗かった。一台のワゴン車が雷山神社の鳥居の前に止まった。その中から五人の男が出てきた。各自の荷物を下ろすとワゴン車はすぐに去っていった。降車した五人は登山ウェアに身を包み、容量が四十リットルほどのリュックを背負っていた。そして、全員マスクをしていた。最新の高そうなカメラを持っている人間が二人いた。雷山神社の鳥居をくぐり、雷山神社に向かって行くと石段の前に立入禁止の札が掛けられたロープが張られていた。五人はきつく張られたロープの合間を縫って入って行った。ここまでで五人は二つ罪を犯している。一つは鳥居の前で一礼しなかったこと、二つは立入禁止なのに入ったこと。雷様が許すわけがない。


  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡

差出人:akitsugu.tanuma.ky@ebmsm.jp
宛先:munenori.yagyu@〇△.pref.jp
件名:雷山入山の過去の記録

柳生様

 お世話になっております。江戸文化博物館の田沼です。

 題記の通り、雷山の入山について調査したところ、以下の事実が分かりましたので取り急ぎメールで報告いたします。
 我が母校・城南大学で文化人類学・民俗学で教鞭を執る折口おりぐちくに教授に話を伺ったところ、
「奈良県桜井市の大神おおみわ神社の三輪みわやま神体しんたいのように、雷山も雷山神社の御神体なので入山が規制されているのは仕方がないことである。明治五年(1872年)に明治政府により修験道廃止令が出されたこともあって、その時から立入禁止にしていると考えられる。それ以前は山へもって厳しい修行することで悟りを得ることを目的とするためならば入山を許可していたかもしれない。山伏に関係のある寺院に問い合わせてみなさい」
と教えてもらいました。そこで、厳しい修行を行うことで有名な寺を調べ、問い合わせたところ、ぼうれいなどの僧侶は雷山に入山し、苦行を積んだとの記録が残っていました。
 このように昔は修業であれば雷山の入山を許可していました。よって、雷山山頂までの登山道は残されていると思います。
 麓にある雷山神社は雷山を御神体としているため本殿はありません。航空写真で見ると拝殿と思われる建物があります。その脇に雷山に向かう登山道があると思われます。
 ちなみに、この拝殿の中に美術品の一部が残されていると思われます。

 ご参考まで。

以上

  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡

差出人:munenori.yagyu@〇△.pref.jp
宛先:akitsugu.tanuma.ky@ebmsm.jp
件名:Re: 雷山入山の過去の記録

田沼様

 お世話になっております。柳生です。

 メール有難う御座います。大変興味深く読みました。
 雷山調査の準備を進めたいと思います。

 今後ともご協力のほどよろしくお願いいたします。

以上

  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡
 
差出人:akitsugu.tanuma.ky@ebmsm.jp
宛先:munenori.yagyu@〇△.pref.jp
件名:Re: Re: 雷山入山の過去の記録

柳生様

 お世話になっております。江戸文化博物館の田沼です。
 
 本メールの内容は、美術鑑定士である私の知人によって極秘に教えてもらったものです。柳沢知事を始め、誰にも教えないで下さい。

 もんという寺を耳にしたことがありましょう。全国に末寺を展開するやり手の寺院です。信者に仏教に関するテストを行い、点数に対してポイントを付与し、あるポイントに達すると人気声優が声を当てた美男美女の仏が彼氏彼女認定するというアニメのシステムがゲーム感覚に似て受けているのでしょう。
 そんな加文寺から所蔵する文化財を鑑定して欲しいと依頼を受けた私の知人は加文寺に行って宝物を納める宝蔵館に入りました。その中には信者を増やすため、その時代の優秀な仏師に彫らせた阿弥陀如来像や千手観音像、四天王像など奈良や京都にある仏像に似た仏像がたくさんありました。しかし、同僚に言わせると、
 量じゃないだな、質、高いクオリティが必要
 なんか違う、勘違いしている
 文化財として認定されるにはいろいろ欠ける
 模倣は模倣
とのことでした。その他に極秘文書を保管するでんの箱がありました。箱の数は歴代の大僧正の人数分ありました。知人が気になって手にしたのはとりわけ厳重に紐で縛られた箱でした。立ち合いの僧侶に確認を求めたところ、その僧侶も気になっていたのか、二人だけの秘密としてその中身を確認することにしました。その中には、天皇家へのびを売るための作戦を書いた資料や信者を増やすためのねずみこうの詳しい資料など物欲にまみれた文書が入っていました。その中に山田村にあった山田藩の押印がある証文がありました。加文寺の末寺を建てるために山田村に入った僧侶が火気厳禁にも関わらず雷山神社境内で焚き火をし、そのうえ御神酒を盗んだという大失態が記載されていました。怒った山田藩の役人は二度と山田藩に関わるなと約束させました。その証文に宮本恒一郎の名前がありました。今の山田村の村長と同じ名前です。江戸時代中期の寛政六年(1794年)のことです。さらに、この話が誰かに知られることがあれば江戸幕府に報告すると約束させています。盗みを働く僧侶がいた、それも御神酒おみきという神への捧げものを盗んだという事実は、厳しいことで有名な『寛政の改革』を行った松平定信を怒らせるには十分で、格下げは免れられないでしょう。
 その場に立ち会った僧侶は知人に、
「加文寺の末寺を建てるのにあたり、『反社会的組織がある』『他の宗教団体がある』など面倒な土地には近づかないようにするための極秘ファイルがあり、その中に最初の方に山田村がありました。地図を見ても分からないよう小さな山村に何故と思っていたのですが、御神酒の盗みですか。はぁ、恥ずかしい。だめだ、こりゃ」
と言って顔を赤らめました。

 以上のように昔から雷山には、その山岳信仰の聖地として誰もが食指を動かしていたようです。しかし、どうやら宮本家によってことごとく追い返されているようです。

 ご参考まで。

以上

  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡

差出人:munenori.yagyu@〇△.pref.jp
宛先:akitsugu.tanuma.ky@ebmsm.jp
件名:Re: Re: Re: 雷山入山の過去の記録

田沼様

 お世話になっております。柳生です。

 メール有難う御座います。大変興味深く読みました。
 その内容より昔から、山田村はよそ者を追い払っていたようですね。
 さらに雷山調査の準備を進めたいと思います。

 今後ともご協力のほどよろしくお願いいたします。

以上

  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡  ⚡


 張られたロープを物ともせずくぐり抜け先頭を歩いていくのは登山家・とり耀三ようぞうだ。ヨレヨレの帽子から覗く深く刻まれた皴と日に焼けた顔が山男であることを物語っていた。鳥居は登山者たちに一目置かれる存在だった。祖父と父が登山家という名門に生まれ、小学三年生で富士山に登頂したことは新聞と雑誌で取り上げられた。難易度が最も高いつるぎだけは勿論のこと、登頂が難しいとされる日本の山はすべて制覇していた。好きな北岳のある山梨県巨摩こま郡に居を構えていたが、合併で平成十五年四月一日に南アルプス市となってからは、
「アルプスに住むことになった。アルプスの親父ハイジィと呼んでくれ」
と痛い親父ギャグを山男特有の大声で放ち、周囲にドン引きされていた。そこそこ有名なのに人は好んで集まっては来なかった。それは性格に問題があったからだ。本人は理路整然と話しているらしいのだが全てダメ出しなのだ。例えば、
「腕を見せなさい。ふむ、あなたは北岳に登るべきではない。日頃、鍛えてないのだから。見るからにだらしなさそうだ」
「私が行程を決めました。効率よく登れますよ。もし、私のペースに合わせられないのならば辞退して下さい」
「頼まれなきゃ、こんなつまらぬ山、登っていない」
などだ。いちいち気にさわることを言うのだ。登山道で同伴者がつまずいてこけようものなら、
「なにやってんだ!」
と怒る。他のみんなは、
「大丈夫?」
と心配するのだが、鳥居だけは気遣いが一切できないのだ。そういうことが度重なって、鳥居の周りからは人が去っていった。
 鳥居は国内の名峰では飽き足らず、海外の山々に挑戦したいのだがスポンサーがなかなか付かない。若い頃は祖父や父親の資金でエベレストやマッターホルンなど世界でも有数の名峰を登頂したが、年老いた父は国内専門となった今、自分で資金を稼がなければならなかった。そんな時に〇△県知事の秘書・柳生宗則やぎゅうむねのり、TVディレクター・みず正邦まさくにから雷山登山の話が転がった。
「雷山、知らんな。聞いたことがない」
鳥居は雷山を確認するために地図を開くと二千メートル程度で周囲に険しい山はなかった。ただし、雷山の等高線は密で急勾配であることが分かった。普段から難所を好む鳥居にとっては魅力的だった。
 登山ルートは分かっていないため手探りになる
 悪路かもしれない
と気掛かりなことはあるが、鳥居にとって一番気になるのは報酬で、それは申し分なかった。ただし、絶対他言しないことが条件だった。
「黙ってりゃいいんだろ」
金に目がくらんだ鳥居は柳生と水野の提案をすぐ承諾した。

 鳥居の後に続くのは、TVディレクター・水野正邦のアシスタントカメラマンの大塩英一郎おおしおえいいちろうだ。大学ではワンダーフォーゲル部に所属し、部長を務めたこともある若き登山家だ。登山ウェアは流行りのメーカー・モンペトラックで揃えていた。爽やかな蛍光グリーンの防水アウターにハーフパンツとレギンス、目に鮮やかなライトブルーのリュックに日焼けした目鼻立ちのはっきりした顔と細マッチョの容姿は人目を引き付けた。大塩は季節によって変わる山の美しさに魅せられて山岳写真家に弟子入りし、カメラの技術を磨いた。修行を積む大塩は特別番組で水野が製作した白神山地や知床半島の映像を見た。その映像は大塩の心を射止めた。
「心が洗われるようだ。水野さんのように美しくてダイナミックな映像を撮ってみたい」
と思った途端、水野のもとで働けるよう動いた。ワンダーフォーゲル部の伝手を頼り、なんとか弟子入りを果たした。大塩はまだ若く、水野の本性を知らなかった。水野にわれるまま今回の登山に同行した。
 前を行く鳥居のことは雑誌などで読んで知っていた。鳥居の祖父の登山日記は出版されており、味わい深い文章で学生時代の愛読書だった。そんな凄い人の孫と一緒に山に登れる、と今回の同行を喜んでいた。しかし、いきなり立入禁止のロープを引っ張り、
「ちぇっ、面倒なことしやがって」
と舌打ちし、何の躊躇ためらいもなくズカズカと入って行く姿に驚きとともに幻滅した。山の愛する者としてはマナーを守るのが原則だ。
 水野さんと鳥居さんとご一緒できる
この喜びが大塩を油断させた。今回の撮影内容を把握していなかった。
「私も分からないことが多いんだ。私の代わりに美しい映像を撮って欲しいんだ」
と言って水野は詳細は教えてくれなかった。それより、水野と一緒に、それも水野の代わりに映像を撮るという大役を任されて有頂天になっていた。まさか立入禁止区域とは知らなかった。マスクをしなければならないのはこれが理由か。俺はとんでもないことに巻き込まれたのではないか・・・。

 大塩の後ろを歩くのは、もう一人のカメラマンのあとりょうすけだ。水野とは付き合いが長い。水野と同年代の跡部は大学で映像研に所属していた。そこで磨いた映像の編集には定評があり、水野の片腕的存在だった。派手で社交的な水野と違い、跡部は根っからの口下手、自己肯定感が低く、見た目も性格を表したかのように地味だった。映像を売り込むために大企業のビルに行くときも作業着を着ていくためメンテナンスに来た作業員と間違われるほどだった。登山ブームで昨今はカラフルな登山ウェアが出回っているのに跡部は上着が黒、ズボンは灰色と前を行く大塩と真逆の装いだった。
 大自然の映像を撮って編集するのが好きだが人と話すことが苦手な跡部にとって水野は必要だった。言葉を巧みに操ることが得意で世渡り上手な水野、寡黙な職人の跡部、二人は切っても切れない仲にいつしかなっていた。誰も見たことがない景色を自分の手でダイナミックに編集するのは楽しかった。今回は映像が全くない雷山山系だ、気分が上がる。たとえ立入禁止区域であろうとも。いや、立入禁止だから余計に燃える。

 跡部の後に続くのはTVディレクターの水野正邦だ。都会派を自称する水野は、雑誌『山と谷間』の先月号の登山ウェア特集記事の最初のページのモデルと一緒の登山ウェアで身を包んでいた。全て今シーズンの新作だった。今回の行程は極秘ミッションだが映像に映り込むこともあろうかとめかし込んでいた。若い大塩に荷物を持たせたから比較的軽装だった。身軽にしたのは映像になるものを探すためだった。雷山山系は人が踏み入れていないと聞く。珍しい植物や雷山山系にのみの固有種があるかもしれぬ。そうなれば、一番に映像化した私の名声はとどろくであろう。私の映像がニュースで流れるのだ。何としても貴重なものを探さなければ。

 五人目、最後は〇△県知事の秘書・柳生宗則だ。柳生の装いは可もなく不可もなく、秘書という地味な職業らしく地味目の定番だった。同じく地味な跡部と違うのは体格が良く、知的なイケメンであることだった。柳生は登山の経験は少ないもののスポーツ万能で、剣道の段位は五段だ。学生時代はその雄姿を見るために試合に駆けつける女性ファンがいたほどだった。華やかな学生時代と打って変わって、今の柳生は陰の人間に徹していた。平成二十三年の選挙において〇△県知事という公職を得て表舞台に立つためにその足場を固めていた。今回の役目は目付である。目付とは見張ることを仕事とする役職で、今回は鳥居、水野、跡部、大塩が余計なことをしないよう見張ることが仕事だった。柳生は山田村のことを知って以来、気に掛かって仕方がなかった。国の政治に翻弄されることがない。宮本家による長い自治、金銭的に裕福ではないが、他の自治体に見られない不思議な豊かさを感じる。生活保護受給世帯がなく、就業率が高い。国民年金では加入者を三種類に分けているが、年収百三十万円未満の第三号被保険者がいないのだ。第三号被保険者は自身で保険料を納めなくてもよい主婦・主夫が対象だが、山田村にはその主婦・主夫がいない、みんな稼いでいるのだ。田舎ゆえ農業従事者が多いので第一号被保険者が多い。東京や大阪など都会に比べ、年収は低いものの女性が自立していることを表していた。かっこいい宮本村長が、
「働きましょう」
「稼ぎましょう」
「自立しましょう」
とお願いしているのだろう。宮本村長にお願いされたら、普通の人はその通りの行動をするだろう。職の斡旋もしてくれるのだろう。それに引き換え、金遣いの荒い柳沢知事はとんでもなく醜い。上司とはいえ、関わりたくない。顔も見たくないし、声も聞きたくない。
 宮本家はこの雷山山系の地主だ。この中に何かを隠している。田沼がよだれを垂らして欲しがるエロい浮世絵や『鳥獣戯画』などの珍しい写本、そして山田村を維持するための『よそ者を入れない』というからりだ。それを暴いてやる! 極秘の行動の中に柳生の心は熱かった。

 百段ある石段を登りきると現れたのは、暗闇でも分かる白砂とその先に佇む雷山神社拝殿だった。大塩はその荘厳さに思わず溜息を付いた。切妻きりづまつくりで、屋根は檜皮ひわだかれており、支える柱はとても太かった。拝殿を囲う木々は何百年も前に植えられたようで太く、拝殿を守っているかのようだった。感嘆した後に疑問が大塩の脳内を巡った。
 こんな立派な神社が立入禁止とはなぜ?
後ろにいた水野に聞いてみようと振り向くと、水野、跡部、柳生はまだマスクをしていた。水野は立ち止まらず先頭を行く鳥居に続くよう指で指示した。
 こんな真っ暗なのにまだマスク? 夜間の監視が可能な赤外線LEDカメラが設置されているのを恐れているんだろうけど、そこまで恐れる理由はなんだ?
山で『立入禁止』の札が掲げられていることは多い。防犯カメラの設置は松茸など高級食材が採れるところではたまに見かける。大塩は立入禁止区域に踏み込むことにいい気分はしなかったが映像を撮るだけで何も盗むことはないので後ろの三人ほどカメラを恐れていなかった。水野にたてく勇気はなかったし、この中で一番下っ端だし、何か恐ろしい気がしたので、疑念を振り払い、前を行く鳥居を追った。
 先頭を行く鳥居は根っからの登山者らしく勘が働く。地図はないが登山道と思われるところを見つけては進んでいく。立入禁止、登った人がいない未踏の山と聞いてワクワクしていた鳥居は拍子抜けだった。登山道は迷子になりようがないほどしっかり整備されていたからだ。これは、つまらない山ではないか、と疑い始めていた。しかし、
 まぁ、雷山に登ったという記録がないんだから一番に登頂してみたいよな、たんまり報酬が貰えるんだし
という気持ちが鳥居の足を速めさせた。
 つまらない山かもしれない
鳥居と同じことを水野も感じていた。未踏の山、手付かずの自然と表現されていても昔からマタギなど地元の猟師が通る道や獣道は存在する。別に道があっても驚かないのだが、柳生に先に言われていたほど神聖さを感じなかった。拝殿は日常的に整備されているようだったし、登山道は行く手を邪魔するような草や木はないし、折れた枝さえ落ちていない。
 珍しい植物なんて無いのではないか?
 それどころか外来種があちこちに生えているのではないか?
と危惧していた。極秘行動と柳生から釘を刺されていたからワクワクしていたが、どんどん気落ちしていくのが分かった。私が欲しい映像はきれいに整備された登山道ではない。一人だったら戻るところだが、目付の柳生が後ろにいる。仕方がない、足の速い鳥居に遅れを取らないよう付いていくので必死だった。テンション低めの登山、
「金が絡まなかったらやってられない」
とぶつぶつ呟きつつ足を進めた。
 跡部も水野と同じ思いだった。目新しさがない。ごくごく一般の登山道だ。荒れているかもしれないと言われていたのに幼稚園児でも歩けるような簡単な遊歩道のようだ。なんだ、こりゃ。金が絡まなかったらやってられない。私が作りたいのは観光用の映像ではない。誰も見たことない、美しく、荘厳な景色だ。遊歩道なんて邪魔だ。それにしても鳥居さんのペースは速いな、さっさと済ませたいんだろうな、こんな下らぬ仕事。跡部は黙って足を進めた。
 一番、拍子抜けしていたのは柳生だった。長いこと立入禁止にしているから来訪者を拒む仕掛けがしてあるのかと思いきや、歩きやすい整備された登山道は、
 どうぞ、皆さん、遊びに来てください
と誘っているかのようだった。石段前の立入禁止のロープ以外、人の入山を拒むような仕掛けは一切なかった。誰かが専属で管理している、そうでないとこんなに整備できない。山田村の住人には開放しているのか? いくら大人しい村民とはいえ、雷山に登ったとなったらネットなどで話題になるはずだ。きっと村民も入れていないのだろう。なんのためにこんなに整備されているのだ? 不思議に思いながらも黙々と歩いた。普段の柳生は怯えることは皆無だが、なんとなく背後から忍び寄られているような、こっそり見られているような気配を感じていた。
「私が怯えているとはな。ふふふ、確かにここは魔の山だ」
柳生も登山は久しぶり、先頭を行く鳥居のペースは速い。置いて行かれぬように一歩一歩、先へ進んだ。

 辺りはずいぶん明るくなった。雷山神社拝殿から二時間以上、休むことなくぶっ通しで進んでいた。先頭を行く鳥居は誰よりも山を愛し、誰よりも登山のために体を鍛え、誰よりもたくさん山に登った。今では山に登った回数は横に並ぶ者は同年代ではいなかった。登山家としては優秀なのだが、あくまで単独行動の時だ。隊列を組んで登山することに慣れていない。同行者を思いやる気持ちがない。今回は、荷物が少ないから余計にペースが速かった。つまらない登山道などさっさと終わらせたかったこともある。頭の中は雷山登頂しかなかった。
「鳥居さん、一度休憩を取りましょう」
後ろから柳生が大声をあげた。同行者を全く察することなく歩みを止めない鳥居を唯一止まらせる事が出来るのはパトロンの柳生だけだった。鳥居の後ろを必死で喰らいついていた大塩が鳥居の横に急いで立つ。
「鳥居さん、休憩ですって」
聞こえぬふりをしていた鳥居もこれには観念した。仕方なく柳生たちのいるところまで戻る。鳥居にとって戻るという行為は屈辱だった。目的の雷山が見えているのに足を止めないといけないなんて最悪だった。
「日頃からもっと鍛えておけよな」
鳥居の呟きは大塩に聞こえた。鳥居の祖父が書いた著作物に感銘を受けて、鳥居の祖父の目指した山に行ったこともある大塩は、今回の撮影に鳥居が同行するのを知って喜びに溢れた。しかし、
 鳥居氏の孫ときたら・・・
大塩は幻滅した。高校、大学とワンダーフォーゲル部に所属し、部長になったことがある大塩にとって、鳥居の他人に全く気を配らず、単独行動のように進むのは気に食わないし、腹立たしかった。
 柳生、水野、跡部は座ってペットボトルのスポーツ飲料で喉を潤していた。大塩もカメラを下ろし、一息を付いた。鳥居は立ったままだ、腰に手を当て柳生を見下している。イライラしているのが一目で分かった。
「柳生さん。思っていた以上に簡単な山道ですね」
「えぇ、そうですね」
柳生は何事もないかのようにすんなり答える。冷たい柳生の顔立ちと冷静な対応に鳥居もそれ以上は口にしなかった。跡部は何も言わずに黙っているが、水野はイライラを隠していない。誰の許可も取らず、タバコをくゆらした。唾を吐き、吸殻をその場に捨てた。これらの一連の行為による大塩の幻滅は表現できないほどだった。
 美しい映像から自然をこよなく愛する人だと思っていたのに、山でタバコを吸い、それを捨てるなんて・・・。
 水野さんと鳥居さんを人選したのはこの人だ・・・
大塩は何事もなかったように横で休む柳生を繁々と眺めた。広い肩幅とスリムな体は強い人間であることを示していた。それよりも、他の人とは明らかに違う雰囲気が気に掛かった。水野や鳥居は目的のために手段を選ばぬ狡猾さを見て取れるが、柳生はもっと大きなものを狙っているような気がした。
 こんな山なら一人でも登れるのに
大塩は柳生が鳥居を呼んだ理由を考える。
 今回の目的は聞いていないけど、立入禁止区域だから普通の人だったら躊躇ちゅうちょするだろう。でも鳥居さんは全然気にしていない。立入禁止と知ってむしろ大喜びだ。鳥居さんは登山者としての経験値は誰よりも多い。地図のないところでも勘が働くのだろう。鳥居さんを利用して柳生さんは何かを探している。そして企んでいる。雷山の映像は建前たてまえだ、もっと大きなものを得ようとしている。あぁ、失敗した、今回の登山、もっと話を聞いておけば良かった。鳥居さんと水野さんの名前に負けてしまった・・・。
 大塩がいぶかる横で、
「鳥居さん、単独行動ではありません。集団行動なので後ろを振り返るようにして下さい」
目付役の柳生が注意する。水野の不機嫌を汲み取った注意だった。
「はいはい、分かりました」
「はい、は一回でよろしい」
鳥居は柳生の言葉に黙り込んだ。水野はニヤニヤしている。
 あぁ、なんて仲の悪い人たちなんだろう・・・
大塩は大好きな登山なのにちっとも楽しめないことを嘆いた。憧れていた鳥居も水野も残念な人間だったことを恨んだ。
「それでは出発しましょう」
柳生の言葉に、鳥居は雷山を目指した。やっぱりペースが速い。
「鳥居さん!」
後方から柳生が注意する。鳥居は立ち止まった。そして、ゆっくり歩き始めた。

 歩いては休みを繰り返して、太陽が真上にある正午に雷山の岩肌を触れるところにやってきた。その岩肌に沿って登山道を歩く。その登山道は狭く、右手で岩肌を触れながら歩いた。左手は触れるものがなく眼下は谷底だった。さすがの鳥居もゆっくり進んだ。五人とも緊張していた。雷山が修行の山であることがよく分かった。とても厳しいところだ。鳥居が途中で止まった。
「ここで登山道が終わっている!」
「そうですか。分かりました。先ほど通った空き地まで少し戻りましょう」
柳生の掛け声とともに五人はいったん狭いながらも五人が座って休憩できる空き地に戻った。柳生が鳥居に聞く。
「鳥居さん、どうなっていましたか?」
「道が突然なくなっていました。崖崩れと思われます」
鳥居は恐れるどころか嬉しそうに話す。本当の登山家だ、未踏の地に入ることが格別の喜びだ。近年、登頂したという記録がない雷山に心が躍っていた。鳥居は岩肌を触り、上を眺め全体を確認した。そして、少し先へ進んで行った。
「ここが登りやすそうだ」
鳥居はリュックを下ろすとその中からロープやくさびを取り出し、腰に装着して登り始めた。四人が停留しているところから少し先の岩をよじ登り始めた。
「鳥居さん!」
大塩は思わず声を上げた。
「細かい石が落ちている。足を置いた時にできたのだろう。楔を打ったような形跡もあるぞ!」
うきうきしながら鳥居は手足を置く場所を探りながら頂上を目指す。大塩は鳥居の登っていくのを見上げていた。柳生、水野、跡部は空き地から一歩も動かなかった。ここほど難易度の高い山を相手したことがなかったから。まずは鳥居に登らせよう。そして、雷山の価値を確かめさせよう。美味しいところを頂ければそれでいい。
 大塩はカメラを持って登るのは諦めた。鳥居の姿を目で追うのが精一杯だった。鳥居はほかの四人のことはもう頭になかった。雷山の頂上へ行くことしか考えてなかった。本当に難しいが、それが余計に鳥居の心を燃え上がらせた。ゆっくりながら地道にコツコツ一歩一歩登っていく。大塩はその姿に驚嘆した。危険を顧みない、頂上へまっしぐら、この人は真の登山家だ、と。
 鳥居の姿がどんどん四人から遠ざかっていく。それ以上、先にに行くと鳥居の姿が見えなくなりそうだった。
「鳥居さーん」
大塩が叫ぶ。鳥居は振り向きもせず、先に進んだ。その姿が大塩の視線から消えるや否や、
「ぎゃーっ!」
という叫びと岩が崩れる音が響き渡った。
「鳥居さーん!」
鳥居は谷底へ一直線に落ちていった。
「あぁ・・・」
大塩はその場でへたり込んだ。山の事故、よくあることだ。自分も登山家、難易度の高い山では滑落したと思われる動物の骨が落ちているのを見た。よくあること、でも、今、目の前で起きるなんて。
 水野、跡部は体を寄せていた。鳥居の悲鳴、大塩の叫ぶ声、岩の崩れる音、何かが落ちていくときの特別な音、それらの音は転落事故が起こったことを瞬時に理解させた。
「あぁ、大変なことになった・・・」
恐怖で二人は立てなかった。そんな二人に対し、腕組みして大塩の戻ってくるのを待っていた柳生は、
「ちっ」
と舌打ちした。
 足をガクガクさせながらも岩肌を伝って柳生たちのところまで戻ってきた大塩の顔は蒼白だった。
「鳥居さんが、鳥居さんが、落ちました! あぁ・・・」
大塩は震える手でリュックの側面のファスナーを開ける。
「警察に連絡しなきゃ」
震える手で携帯電話を取り出した。
「圏外です。通話不能です」
大塩が見上げると、そこには冷酷な目で見下す柳生がいた。
「あぁ・・・」
大塩は幻滅した。涙がとめどなく流れた。しかし、大塩はワンダーフォーゲル部の部長になった人物、難易度の高い山に挑戦し、事故が起こった場合の素早い判断を養ってきた。泣いてばかりいられない、しっかりせねば。
「戻りましょう。早く! ここは危険です。避難して通話可能なところに早く戻りましょう!」
柳生だけでなく、水野、跡部にも声をかける。そう、こんな動転している時こそ声を掛けて踏ん張らねば。二次被害を防がねば。足が震えている、油断すれば自分も谷底行きだ。
「早く、頑張って下さい。水野さん、跡部さん、ゆっくりでいいですから戻ってください。落ち着いて!」
大塩はへたり込む二人を励ます。
「何かあったんですか?」
大塩は凍りついた。
「何があったって? 柳生さん?」
大塩は柳生に食ってかかる。
「今、鳥居さんの悲鳴が聞こえなかったんですか?」
「えぇ、何も聞こえませんでしたよ」
大塩は愕然とした。柳生の言っていることが分からない。
「鳥居さんが落ちたんですよ! 分からないんですか?」
「えぇ、私は見てませんから。ねぇ、水野さん、跡部さん」
柳生は恐怖で動けない水野と跡部を見下す。水野は怯えながらも柳生の言っていることを理解した。
「えぇ、私も柳生さんと同じく何も見てないし、聞いていません」
声を裏返しながらも水野は柳生に同意した。
「水野さんも私と同じですか。跡部さんはどうですか?」
跡部は泣いていた。普段、仕事にしか興味がない寡黙で無表情な人間だが、今は違った。死の恐怖に包まれていた。
「跡部さん? どうなんですか?」
柳生の追い打ちに頭を大きく縦に振り、
「何も見てません! 何も聞いていません!」
と声を限り叫んだ。
「ほら、水野さんも跡部さんも何も見てない、聞いてないとおっしゃっていますよ。私もなにがなんだかさっぱり分かりません」
柳生は無表情で大塩に言い放つ。
「あぁ、柳生さん。あんたって人は!」
「ほぉ、私がなんでしょう?」
「人でなしっ!」
大塩は怒りにかまけて柳生に言い放つ。水野、跡部は何が何だか分からなかった。どうすればよいか分からず、抱き合っていた。
「人でなしですか・・・、ふぅん」
柳生は鳥居の事故のことが全く知らないかのように平常を装う。柳生は水野と跡部の方に体を向ける。
「水野さん、跡部さん、私は人でなしなので分からないのですが、何もしていないのに大塩さんは警察に連絡するようです。どう思いますか?」
水野は鳥居の事故があったばかりとはいえ、自分の今の立場を考えるほど頭が冴えていた。
 俺が聴収される。ここは立ち入り禁止だし、大きな金が絡んでいる。下手すりゃお縄頂戴だ。やばい!
水野は今置かれている状況が警察沙汰になることを悟った。大塩が通報するのはまずい。柳生が怖い。
「何かあったんですか? 大塩君?」
柳生の目を気にしつつ、大塩に何事もなかったように声を掛けた。
「大塩君、何があったのかい?」
事情を咄嗟に理解した跡部も水野に倣った。ただし、その目から涙が零れていた。大塩は愕然とした。この三人は自分の私利私欲のために鳥居さんの事故をなかったことにしようと企んでいる。
「この人でなし! どいて下さい。私が今から走って電話が掛けられるところに行って警察を呼びます」
大塩は柳生を睨む。大塩の叫びに柳生は動じない。
「私は見てなかったのですよ。何があったか分かりません。警察を呼んでも話すことはありませんよ。それより大塩君、あなたは鳥居さんと一緒に先に行きましたよね。もしかして、君が鳥居さんを落としたんですか?」
「はぁっ?」
大塩は驚いた。
「柳生さん、何言っているんですか? 私が鳥居さんを落としたって?」
大塩は訴えながらも、凄まじい恐怖と怒りが襲ってきた。鳥居さんの一番近くにいたのは俺で、鳥居さんを最後に見たのも俺だ。柳生さんは俺にこの事故を擦り付けようとしている。
「柳生さん、どいて下さい」
大塩は柳生を睨む。
「どくことなんてできませんよ、こんな狭いところ」
四人のいた場所は細い登山道、横は断崖絶壁、強い風が吹こうものなら谷底へいっきに落ちてしまってもおかしくない。
 二人の男が細い山道で対峙する。正午を過ぎた後はだんだん風が強くなる。谷底からの風は冷たく厳しい。
「柳生さん、今回の雷山の調査は柳生さんの陰謀だ。雷山が立入禁止ゆえ、無鉄砲で世間知らずな鳥居さんを利用した。鳥居さんはこの調査にはうってつけだ。鳥居さんは根っからの登山家、登頂してない山があればすぐに登ろうとする。鳥居さんはエベレストをもう一度登りたがっていたから金が必要だった。立入禁止なんてところは各地の山にたくさんあるから鳥居さんなら気にもしないでしょう。あなたの〇△県知事秘書という肩書と軍資金に鳥居さんはまんまと引っ掛かり事故にあった」
「ほぉ、それで」
大塩の怒りにも柳生は笑みを浮かべる。
「俺はあんたを許さない。そこをどけっ!」
「だ・か・ら、どけませんよ、こんな狭いところ」
柳生は一歩も引かない。
「大塩君、物分かりが悪いですねぇ」
柳生は百戦錬磨、脅しが聞かない。若造の戯言たわごととしか思っていない。
「私は事故があったとは思っていないんですよ。鳥居さんが落ちたところを見ていないんでね。今頃、山頂でのんびりしているんじゃないですかね。登って様子を見てきて下さいよ」
柳生は一歩前に出た。また一歩、じりじりと大塩に迫る。大塩はひるむ。柳生が詰め寄るとその分だけ後ろに下がった。柳生に躊躇ためらいはない。一歩一歩前に進む姿は獲物を狙う獅子そのものだった。大塩は獅子に目標とされた獲物、おびえている、震えが止まらない。
「やめろ、やめてくれ!」
先程の怒る大塩はとうに失せていた。命乞いするに弱きものに変わっていた。
「あなたも今回、まだ見ぬ雷山の景色に憧れてきたんでしょう。ほら、鳥居さんの後を追って登ってみて下さいよ」
大塩は首を振る。リュックもない。装備もない。エキスパートの鳥居さんだって落ちた恐ろしい山、無理だ。
「さぁ!」
柳生は手に折り畳み式のナイフを持っていた。きらりと光る刃先、どんどん大塩は追い詰められていく。そして・・・、
「ぎゃあぁぁぁ」
いつの間にか登山道が切れていたところに至っていた。柳生のナイフに気を取られて後方を確認できなかった大塩は途切れた登山道から落ちていった。
「物分かりが悪すぎる」
柳生はナイフを折り畳むとポケットに入れた。
 柳生は何事もなかったように水野と跡部のところに戻った。
「大塩さんはどうやら鳥居さんの後を追って山に入ったようですよ」
水野と跡部は震えあがった。先ほどの悲鳴は大塩だ。鳥居だけでなく大塩もいなくなった。大塩の場合は目の前にいる柳生に落とされた、殺された。
「山の天気は変わりやすい。鳥居さんや大塩さんのような登山家ではないので私は戻りますよ。お二人はどうなさいますか?」
何事もなかったように振る舞う柳生が怖かった。歯向かえば殺される。柳生は殺すことを何とも思っていない。
「私も戻りたいです」
「戻らせてください」
二人は柳生に嘆願した。
「おやおや、こんなところに忘れ物が」
柳生は鳥居と大塩のリュックから飲み物と食料を取り出す。
「飲み物と食料は分けてもらいましょう」
柳生は何事もなかったように水野と跡部に渡す。水野と跡部は何も言わず受け取る。そのリュックと大塩の持ってきたカメラを並べると蹴飛ばし、崖の下に落とした。
「うっ」
水野と跡部は声を失った。
「跡部さん、あなたの持っているのはなんでしょう」
跡部は手にしたカメラを柳生に渡す。
「これには私たちの姿は映っているのですか?」
跡部は怖くて下を向いていた。映り込んでいることを察した柳生は手渡されたカメラを投げ捨てた。水野も跡部も映像は何より大切にしていたが、それは命あってのことだ。二人は自分が柳生に亡きものにされぬことを良しとした。
「さぁ、行きましょう。お二人とも、何事もなかったんですよ」
跡部は四つん這いになって細い崖道を戻っていった。水野も同じようにノロノロと戻っていった。
「ちっ、腰抜けたちが」
柳生は進みの遅い跡部にイライラしながらも水野の後を歩いた。水野は最初から極秘の行動だと分かっていたし、跡部は水野のこしぎんちゃくで水野の言いなりだ。こいつらは警察に通報することはないだろう。
 細い崖道が終わり安全な場所に着くと、水野と跡部は抱き合って泣いた。
「水野さん、跡部さん、行きと同じようにマスクをして下さい。思ったよりも整備されています。隠しカメラがあるかもしれません」
二人は怯えた。バレたら大変だ。ポケットからマスクを取り出した。二人は柳生の言いなりだった。
「この山は雷山という名の通りで雷雲が湧きます。夕立が来ます。急いでここを離れましょう」
柳生の言葉は優しかったが、水野と跡部には恐ろしい殺人鬼の命令にしか聞こえなかった。二人はリュックを背負うと来た道を戻り始めた。帰りは案内人の鳥居がいない。行きは鳥居の経験豊かさが暗闇でも難なく歩めた。しかし、鳥居はいない。大塩に至っては殺された。とにかく明るいうちに行けるところまでいかねば、柳生に殺される、そんな思いが二人を足早にさせた。
 そんな恐怖に怯える二人とは違い、柳生は二人を無事に帰すことを考えていた。自分一人の方が歩くペースを考えなくていいから楽だし、自分一人なら今回のことは誰にも言わず墓場に持って行く自信があった。しかし、バレた時に水野に罪を擦り付けるつもりだった。どこに隠しカメラが設置されているか分からぬ。多分、どこかには映り込んでいるだろう。宮本村長に何か言われるかもしれぬ。そんな時、水野と腰巾着がいた方が良い。水野は過去に立入禁止区域にズカズカと遠慮なく入り、自然を踏み荒らしているから、今回の雷山調査の罪を擦り付けるのには持ってこいだ。二人ともバカで、単純で、臆病で、金に目がなく、保身主義だから警察にわざわざ通報することはなく、黙っているだろう。二人とも私に勝てるような人間ではない。宮本村長は事を荒立てたくない人だからこれ以上何もなければ通報することもないだろう。山田村が新聞沙汰になるようなことは嫌がるだろう。有戸の時も山田村の名前はニュースで出てこなかった。
 午後三時を過ぎると雲が湧いてくる。夏の夕立だ。三人はできるだけ雷山から離れるよう急いだ。夕立にあって濡れると体力の消耗が激しい。ただでさえ精神的に参っているのに、これ以上の負担は避けたかった。雷山と名前が付くほどだから頻繁に雷が落ちるのだろう。今日は生贄が二人だ。お喜びか、それともお怒りか。しばらく進むと背後の雷山から雷鳴が聞こえてきた。水野と跡部は怖くて泣いている。信仰対象の雷山が怒っているかのように聞こえたから。
 柳生は歩きながら頭を巡らせていた。雷山は宮本家が立入禁止にしてから久しいので荒れ放題と思っていた。しかし、生い茂る雑草や行く手を阻む木の枝は全くなく、雷山に至るまで整備されていた。どういうことだ? 立入禁止と警告しながら歩きやすいよう山道を整備している。一本道で整備されているから迷うことなく雷山まで行ってしまう。
 もしかして、悪い奴を雷山におびき寄せる手段か? 
立入禁止と分かっていて入るのは企みがある悪い奴だ。立入禁止としているのは山の所有者の宮本村長、昔から名士として名高い。所有者が村長だから警察も簡単には寄り付かないだろう。どこかに浮世絵コレクションが隠されているとも言われている。これに関しては有戸や田沼にそそのかされた感もあるが、喉から手が出るほど魅力あるものなのだろう。浮世絵に魅せられた有戸はここに来て消されている。
 もしかして、欲の深いものが犯罪に手を染めるように仕組まれている?
私が今回、手を出してしまった。最悪だ。
 仲間同士がりあうように仕組まれているのか?
 それなら私は罠にかかったのか?
山田村の自治が気になったこと、合併がうまくいかないこと、美術品に興味が湧いてきたこと、雷山山系を自然遺産登録したいこと、これらが柳生を焦らせた。欲が出たら見事に引っかかってしまった。何百年もかけて作ったとんでもない仕掛けだ。一つは欲深きものを山田村に入れないという仕掛け、もう一つは侵入したものには罪を犯させて自滅させるという仕掛け。

 悪者の逃げ足は速い。夜の九時に雷山神社の境内の近くまで来た。
「止まってください」
柳生に水野と跡部は言いなりだ。立ち止まるとへなへなと座り込んだ。
「予想よりも早く着きました。約束の待ち合わせ時間には三時間ほどあります。ここで休憩しましょう」
二人は言い返す気力もない。リュックに横たわると寝落ちした。今回の任務は極秘のため、人が寝静まった日付が変わる時間に雷山神社を通過することにしていた。夜九時は三人が動き回るのにはまだ早かった。
 柳生も疲れ果てていたが目が冴えていた。興奮して妙に頭が働いた。歩いているときは水野と跡部を鼓舞していたし、自分がしっかりせねばという責任感から雷山神社に辿りつくことで頭がいっぱいだった。ところが、足を止めると思考が変わるようだ。要らぬことが頭を巡る。
「いかんな・・・」
深呼吸をしてリュックを開ける。持ってきた栄養剤は全てなくなっていた。足のもたつく二人に分け与えてしまったからだ。食料は勿論のこと飲み物も暗くなる前になくなっていた。雷山の登山道は給水できるような水場がなかった。三時間の辛抱とはいえ辛かった。
「そういえば、田沼の手紙に、拝殿の御神酒を盗んだ僧侶がいた、と書いてあったな。加文寺の僧侶だったな・・・」
今、その気持ちが分かる。喉が渇いた。もう少し先には雷山神社、整備されているのだから御神酒があるだろう。供え物のお菓子もあるだろう。見たら盗ってしまうだろうな・・・。
 天を仰ぐ、木々の間から見える夜空、星が降って来そうだ。歩いているときは何ともなかったのに、何だろう、このもどかしく、腹立たしい気持ち・・・。鳥居が勝手に登って落ちたのが悪いんだ、勝手な行動しやがって。雷山を舐めてかかるからいけないんだ。登山道が途中で切れているところで止めておけば良かったんだ。大塩もとんでもない奴だ。私に、
「人でなし」
と言いやがって。なんで私が罪を犯さねばならないんだ。いや、違う。私は登るように勧めただけだ。鳥居を見てきてくれとお願いしただけだ。その時にたまたまナイフを持っていただけだ。大塩が勝手に恐れて後退あとずさりして、登山道の途絶えたところから落ちたんだ。事故だ、事故なんだ・・・。
 事故と自分に言い聞かせても柳生の目から涙が流れた。事故じゃないことは分かっていたから。ずっと昔からここに入ったものは罪を犯すように仕組まれているんだ。そして、自滅するようになっているんだ。とんでもないところだ・・・。涙が止まらない。悔しい、私がまんまと引っ掛かった。私が犯罪に手を染めてしまった。罪を犯したものになってしまった。普段は冷酷冷淡、無表情で知られている柳生だが今夜は違った。そのうち嗚咽が止まらなくなった。幼いころから優秀で知られていた。学校では常にトップだった。剣道の大会では何度も優勝した。政治家の名門・柳生家に生まれ、明るい未来が待っていた。祖父と同じように〇△県知事を経て、参議院議員の席を得るはずだった。祖父や父の威光で選挙には勝てる。何もしなくても議員になれたんだ。今は祖父が参議院議員、父が議員秘書をしており、自分は地方自治を学ぶため〇△県知事秘書として修業中の身だった。無理しなくて良かったんだ。それなのに山田村の自治に、美術品に、自然に惑わされ釣られてしまった。
 雷山のどこかに美術品を隠している
 手付かずの自然が残っている
なんて宮本村長が言いふらすわけがない。どこかの欲深き人間の推測で、噂だ。私が気になったのは山田村の延々と続く自治の絡繰りだ。何が何でも自分たちで自治しようとする政治体制だ。歳入が少なくても山田村の財政は健全だ。雑誌でも市町村別財政力ランキング300には必ず入るのに山田村についての記事はない。きっと取材を断っているのだろう。私は大きな企業もなく、特別な産業もなく、原子力関係の施設もないのに豊かでいられる理由が知りたかったのだ。今以上のことを求めない理由を知りたかったのだ。それなのに私はいつの間にか美術品、自然にも目が眩んでしまった。山田村の絡繰りを追っているうちに欲が出た。私のように山田村の持つ秘密、謎を追い求めてしまう輩が従来から後を絶たないのだろう。それを逆手にとって陥れるのだ、犯罪者になるように仕立て上げるんだ・・・。
 今回のことはきっと宮本村長にはバレる。どこかには高精度カメラが設置されていて、そこに残る映像は行きと帰りで人数が違うんだから。行きは五人だったのに、帰りは三人しかいないんだ・・・。宮本村長が気付かないわけがない。顔はバレていないはずだ。帽子は深く被っていたし、マスクもしていた。うっ、鳥居と大塩はマスクを外しがちだったな・・・。今日のことは鳥居には極秘と約束させたし、大塩には行き先を伝えてないんだから知られることはない、大丈夫なはずだ。二人の家族が届け出を出したら捜査が入る・・・。もし、鳥居が何か書き残していたら私も聴収されるんだろうな。大丈夫、何もしていないのだから、大丈夫。ちょっと立入禁止区域に入っただけだ。水野が警察に責め立てられたらどうなるんだろう。跡部はビビッて話してしまうんではないか? そうならぬようしらを切らせる方法を考えねば。丁寧に教えねばならんな。ちっ、面倒だな。もし、バレたら祖父にも父にも及ぶのか・・・。あぁ、どうしよう・・・。
 柳生にとって初めて体験する敗北だった。それも完敗だった。事を荒立ててはならない、大人しくしなくてはならない。宮本村長に怒られないようにしなければ・・・。大塩の怒りに震える顔、命乞いをする顔が蘇ってくる。頭から離れない。
「人でなし」
この言葉は一生付きまとうのか? あぁ、人生が狂った。

 雷様は欲深きものを許さなかった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...