近江の轍

藤瀬 慶久

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初代 仁右衛門の章

第9話 喪失

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 1574年(天正2年) 春  美濃国厚見郡加納宿



「武田が岐阜城に攻めてくるって?」
「ええ。皆さんそういう噂で持ち切りですえ」
「…」
「怖いわぁ」
 そういって鈴は大助にしなだれかかった

 岐阜城下の加納の宿場
 飯盛女との情事の後の枕話の最中であった

「そうなれば岐阜の市も焼け野原になるかもしれんな」
「旦那さん。どうにか逃げられませんか?」
「一緒にか?」
「市場の皆さんも一緒にです。皆で今後のことを話し合った方がええのん違いますか?」
「ふむ」

(周囲の店の者がどう見ているか確認しておくか)
 そう思った時に鈴が覆いかぶさってきた
「怖いから、きゅっとしてて」
「ふふふ…」


 一刻後
 店に戻った大助は、小助と先ほど鈴から聞いた話を話し合っていた
「兄さん。そんな本当かどうかわからない話で大騒ぎしても…」
「武田が攻めてくるとなれば大騒ぎじゃないか。今から皆で逃げる算段をしておかないと」
 そう言って大助は飛び出し、往来の店々の主たちとそのことを話し始めた
(武田がどうこうよりも、うちの店の売上的に逃げ出さねばならんほどですよ…)
 小助は大助と共に岐阜城下へ入った時のことを思い出していた

 あの時は夢と希望にあふれていた
 兄と共に精一杯始末して商いに没頭した
 おかげで加納市のなかでもそれなりの地位に上ることができた
 だが今は…
 何がいけなかったのかと小助は深くため息をついた

 店の外を見回す
 この辺りもずいぶん様変わりした
 永禄の頃はこの市も柱に屋根だけの掘っ立て小屋に品物を置く棚だけの見世みせばかりだった
 だが信長の楽市楽座令の恩恵で定住者が増えたため、仮の見世から家屋の中に陳列棚を設けたみせが増えた

 呉服座の伊藤宗十郎が美濃・尾張の商人司に任じられ、段銭の貢納も始まっていた
 今はここで商売を成り立たせるには以前よりも一層始末してかからないと厳しい時代なのだ
 それなのに…
豊郷こきょうに帰りたい)
 最近の小助はしきりにそう思うようになっていた
 兄や甚左衛門・宗六と伝次郎の元で学んだ時代ころが無性に懐かしかった


 数日後

「武田は東美濃まで攻めてきてるっていうじゃないか。いつまでもここでぐずぐずしてたら店ごと全部略奪されるかもしれんぞ」
 大助は筋向いの店の主をしきりにそう口説いていた
「親切で言っているのがわからんのか!」
 店先だからか店主の迷惑そうな顔に思わず声を荒げる
「だから、今のうちにだな…ん?」
 不意に後ろから肩を叩かれ大助が振り返る
 武装した織田兵の姿がそこにあった



 1574年(天正2年) 春  美濃国厚見郡加納



「これは…」
 甚左衛門は言葉を失った
 町はずれの辻に罪状を書かれた札と共に、大助の首が晒されていた

 告     
 この者近江の商人と偽り、岐阜城下にて流言飛語を行う間者なり
 よって斬首に処するものなり


 新八の紹介とちえとの祝言の報告を兼ねて三人で岐阜城下の大助・小助を訪ねているところだった
 甚左衛門があわてて小助の店に向かうと、半ば放心状態の小助が店に座っていた
「小助ぇ!」
「甚左衛門さん…」
 顔だけをこちらに向けた小助の目は泣き腫らして赤くなっていた

「今こちらに来たところだ!何があった!」
「兄は騙されたんです。鈴とかいう飯盛女に」
「女!?そんなに溺れるような奴じゃなかっただろう?」
「兄は変わったんです。店が大きくなるにつれてどんどん始末を忘れて酒と女に遊ぶようになって…」
「そんな…」
 愕然とした
 大助は陽気な笑顔で厳しい始末をものともしない豪快な男だった
 なまじ成功したために驕ってしまったというのか…

「小助は罪に問われなかったのか?」
「お調べはありましたが、お咎めなしということで召し放たれました」
「これからどうする?うちに来るか?」
「ありがとう。でも故郷くにに帰ろうと思います
 兄がなる前から考えていたんです」
「そうか…」


 宿を取り、新八とちえと部屋に入ると、甚左衛門はじっと瞑目した
 辛そうな顔だった
 新八は気遣わしげに声をかける
「旦那様、お友達のことは残念でございました」
「新八。そうではないのだ」
「はぁ…」
「大助が死んだことは確かに悲しい。伝次郎さんの元で共に学んだ兄弟弟子のようなものだったからな
 だが、今はあの立て札のことを考えていた」
「立て札…でございますか?」
「そうだ 
 あの一文で、今後近江の商人を名乗るものはことごとく警戒の目で見られるだろう
 それは大助や私だけではない、近江の商人全ての問題になる
 信を得るのは大変な苦労が伴う。だが信を失うのは一瞬だ
 これからは皆が今まで以上に努力をしていかねば信を得られぬようになるだろう
 そう思うとな…」
「…」


 この以前から各地の間者が諜報の為織田領のあちこちに潜入していた
 行商という姿は間者の最もポピュラーな変装の一つだった



 1576年(天正4年) 春  近江国蒲生郡安土山



 伝次郎は信長より安土城の普請総奉行に任命された丹羽長秀と城下町である安土山下町の縄張りについて打ち合わせをしていた
「縄張りは羽柴筑前より連絡があると思うが、町割りは既存のものを活かすことになろう
 そこもとらには町の住み分けについて羽柴と打ち合わせを行ってくれ」
「かしこまりました。金森と同じく周辺の物資を集めることになりましょうか?」
「おそらくそうなろう。市場に関しては上様の肝いりになるはずであるから、一度上様とお話しされるがよろしかろう」
「はっ」


 三か月後
 勢威は衰えたりとはいえ、未だ織田・徳川領へ侵攻を繰り返していた武田勝頼を決定的に敗走させた長篠の戦いより戻った信長は、岐阜城にて伝次郎と対面していた
「面を上げい」
「はっ!」
 伝次郎は驚いていた
 私室にて近習・小姓も遠ざけての完全な密談の形だったからだ
「伝次郎。一つ相談がある」
「何なりと」
「馬の売買だが、安土に集約させたい。すまぬが馬の権はこちらへ寄こしてもらうぞ」
「…っ!!!」
 伝次郎は見てわかるほどに動転した

 織田家の伝馬役として七年の間、身を削るような献身を行ってきたつもりだ
 その挙句がこの仕打ちかと思わずにはいられなかった
 信長が幾分気まずそうに伝次郎を見る

「宗十郎が美濃・尾張の段銭の徴収を行っていることは知っておろう。物流を押さえねば荷抜けする者が後を絶たんと泣きついてきおった
 とはいえ、その方の献身も重々承知しておる。今更伊藤に馬の権を渡すとなればその方も心中穏やかならず では済むまい
 そこで馬の権を召し上げ、わしが一括して行うこととした
 馬の売買は安土に集約する故、その方には馬喰町の宰領を任せる
 野々川から安土山下へ移り住むが良い」
「………はっ」


 伝次郎には信長の話の半分も頭に入ってこなかった
 とうとう保内商人はその力を全て織田に奪われることになる
 伝馬の役を務めながら、不埒な商人共の粗悪品を買占め、商品の質を担保し続けたがそれもこれまで
 単純な商いだけではそのような資金力を得ることもできなくなる
 近江の市は粗悪品と高価な品であふれ、京や堺の豪商たちが次々と荷を売りに来るだろう
 近江周辺の民が蓄えた余剰はすべて京や堺といった大都市圏へ集約され、日ノ本は繁栄を極める都市部とその他の貧村の二極に分かれ、貧困にあえぐものが次々と現れることになる

 そのことが伝次郎の頭の中をぐるぐると回り続けた


 御前を下がるとすぐに配下に借りている甲賀衆の小頭三人を集めた
「もはやこれまでだ。これよりは監視ではなく、不埒な行いに及ぶ商人共を……殺せ」
「それは…良いのでございますか?」
「もはやそれしか手段がない。馬の権を取り上げられた」
「…」
「出入りの荷を押さえることができなければいくらでも我らの目をすり抜けてくるだろう…
 安土を中心に行え。上様はこれから安土に本拠を移される。私も安土山下町に居を移す」
「かしこまりました」
 そう言うと三人は音もなく出て行った
「信長……商いのことなど一つもわかっておらぬうつけであったか」
 伝次郎は一人呟いた

 伊藤に泣きつかれたなどと空々しい言い訳であろう
 軍事行動と経済収益を両立する馬を信長の直轄としたいだけだと思った
 現実は必ずしもそうとは限らないのだが、今の伝次郎はそのことを深く考える頭を失っていた


 目には比叡山の炎を映したあの狂気の光が宿っていた



 1577年(天正5年) 夏  近江国蒲生郡安土山下町



 定    安土山下町中
 一、当所中楽市として仰せ付けられるの上は、諸座諸役諸公事等悉く免許の事
 一、往還の商人、上街道を相留め、上下共当町に至り寄宿すべし、但し、荷物以下の付け下ろしにおいては荷主次第の事
 一、普請免除の事。但し、御陣御在京等、御留守去り難き時は、合力致すべき事
 一、伝馬免許の事
 一、火事の儀、付け火においては、其の亭主に科を懸くべからず。自火に至っては、糾明を遂げ、その身を追放すべし。但し事の体により、軽重あるべき事
 一、咎人の儀、借屋ならびに同家たるといえども、亭主その子細を知らず、口入に及ばざれば、亭主にその科あるべからず。犯過の輩に至っては、糾明を遂げ、罪過に処すべき事
 一、諸色買物の儀、たとい盗物たるといえども、買主これを知らざれば、罪科あるべからず。次に彼の盗賊人引き付けにおいては、古法に任せ、贓物ぞうもつ(蔵の物)返付すべき事
 一、分国中徳政これを行うといえども、当所中免除の事
 一、他国ならびに他所の族当所に罷り越し、有り付き候はば、先々より居住の者と同前。誰々の家来たるといえども、異儀あるべからず。もし給人(知行主)と号せども、臨時の課役停止の事
 一、喧嘩口論、ならびに国質・所質・押買・押売・宿の押借以下、一切停止の事
 一、町中に至り譴責使けんせきし、同打入等の儀、福富平左衛門尉、木村次郎座衛門尉両人に相届け、糾明の上をもって申し付くべき事
 一、町並み居住の輩においては、奉公人ならびに諸職人たるといえども、家並役免除の事。付けたり、仰せ付けられ、御扶持をもって居住の輩、ならびに召し仕えらる諸職人等は各別の事
 一、博労の儀、国中馬売買、悉く当所において仕るべき事

 右条々、もし違背の族あらば、速やかに厳科に処せらるべきものなり

 天正五年六月    (天下布武 朱印)


 伝次郎は馬鹿馬鹿しかった
 ・上下街道(中山道と朝鮮人街道)の通行をする際、必ず安土に一泊すること
 ・博労(荷馬)は安土でしか求められない
 これで安土で商売をしない者がいれば頭の中を疑う
 しかしながら、荷物の付け下ろし(商品を売り出すかどうか)は荷主次第とは…
 あくまで自発的に織田家から足を買い求めろと言っているようなものだ


 安土は織田政権の最終形と言われ、その都市法である安土山下町掟書においても実に十三条という豊富な条文を持つ
 しかし、この条文の豊富さからは信長の必死さが伝わってくる気がする
 当時の主要幹線道は中山道(上街道)だが、安土城は朝鮮人街道(下街道)沿いにある
 常楽寺の湊を取り込んだ一大物流拠点であるとはいえ、信長自身が天候に左右されにくい陸路での物流と軍事行動を重視した
 そのため築城前の安土は近江の辺鄙な村へと変わってしまっており、人の通行さえ稀なド田舎と言って差し支えない

 そこに人を集めるため、あの手この手で誘導をしているように見える
 博労と馬の売買を安土に限定したのもその為であろう
 あくまで強制はしないというスタンスは見ようによっては自由経済を尊重しているように見えるが、実際はそこに恣意的に商売を強いる思惑が見え隠れする
 ならばはっきりと周辺の商人達を強制移住させればいいように思うが、そこまでは反発が大きくて出来なかったのではないか
 そのジレンマが透けて見えるような気がする

 第一条にあるように、楽市と『仰せ付けた』以上は周辺の町に市場規模で遅れを取るような事は許されなかったのであろう


 安土城も完成し、城下町の様相も定まってきたころ
 不意に伝次郎の元を甚左衛門が訪れた


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